「ね、キスしたい」
「……ナニ言ってやがる、トートツに」
こいつは時々唐突に訳のわからないことを言う。いい加減長い付き合いなのでその辺は重々承知している。それに対する対処法もいい加減身に付いている。それでも対処に困る場合というのはあるわけで。
例えばこんな月の明るい空間であったりとか。
例えばこんな空気が気持ち良いときとか。
例えばそんな中で耳に心地の良い声が響いてたりしてるときとか。
例えばそんな中でこんなふうに本当に良い表情をしてじっと真直ぐに見つめてきたりしてるときとか。
「なんかね、あたしたちってタダレタカンケイらしいよ」
「…はあ?」
「恋人でもないのに一緒にいたりとか恋人でもないのに一緒にごはん食べてお酒飲んで夜明かししたりとか、恋人でもないのに家を行ったり来たりしたりとか、恋人いるのにベタベタしたりとか」
「…最後のはなんだよ、ベタベタって」
「あたしの言葉じゃないよ、言っとくけど。全部今日の昼言われたこと」
「…昼?」
「そ、わざわざ真昼間、うちの仕事場まで乗り込んできてね」
「……」
なんとなくわかった。その状況が。
わざと『誰が』とか『誰に』とか省いてのセリフ。
そんな喋り方をしているコイツが平素の表情ながら実はどのくらい腹の中が煮え繰り返っているのか、その具合まで。
「――で、思ったんだけどね」
「…」
にっこりと笑ってみせるその表情が、無意識に怖い。ので、あえて今は何も言わないでおく。とりあえずは出方を待つ。
「ヤだったのよ。そんなふうに言われるのが。そんな俗な言葉浴びせられるのがね」
「スマン」
「謝る人間が違う」
「…」
怖い。それは多分理性で感じるものじゃない。
多分、人間の原初の部分で感じているもの。
多分、人間にもほんの少し残っているのであろう、野性的な感覚。
「でね、ヤだったのよ。そうゆう俗な発想しかしない女が。だからね、ヤだったの。それがあなたの側にいるのが。でね、それで思ったの」
「……」
見上げてくる瞳に、視線を、言葉を、奪われる。
これは本能的な分野で中枢を甘く痺れさせる、ナニか。
「――あなたに、キスしたいなあ、て。キス、して欲しいなあって。すっごく」
月光に揺らめく水盤の如く。
自然と引き合わされたように触れた唇は麻酔のように心地好い痺れで。
その眼差しも、その声音も、その笑顔も、温もりも。
多分一生手放すことはできない。ふとそんな思いが一瞬心の片隅をよぎって、消える。
「キス、したい」
「…?」
「……………」
「珍しい。ユーワクにのってくるの?」
「のってきたくせに」
そもそも、ためらいはないのだ。触れ合うことに。
ブレーキをかけているのは別にモラルとか世間体とか後戻りできなくなる恐怖とかそんなもんじゃない。
ただ、触れ合わない場所にいるのが気楽なだけで、触れ合う関係は、多分面倒だから。色々と。だから、「触れたい」と思うなら、思ってしまったなら、お互いに。
そしたらそれが自然なのだ。――多分。
確証なんて何一つないけれど。
「――キス、しよ?」
やわらかい声、耳に心地好く、するりと脳内にもぐりこむ、響きの良さ。鼓膜をくすぐる大気の振動。
すこし見上げてくる表情は、まるで子どものように無邪気で、やわらかくて、純粋で、細められた瞳は月光にとろりと揺らめいて、甘い痺れで視線を虜にする。
肘に軽く触れるぬくもりが、そっと這い上がって、腰に、背中に、すべりこむ。
あったかいな
そんな思いがちらりと頭をよぎり。
ためらいなく、そのぬくもりに身を委ねた。
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