トマト
旅の途中、道に迷って途方に暮れていると、西の商人に声をかけられた。長いローブを頭から被り、嗄れた声の持ち主だった。
現在地を訊きたかったが、まともに取り合ってもらえない。
「へへ、にいちゃんよ、トマト買ってくれよ、トマトよお」
どうやら現在地が知りたければ、トマトを買えと言われているらしい。
「いくらですか?」
「へへ、ひゃくえんよ、トマトよお」
百円か。仕方ない。僕はポケットから百円玉を取り出して商人に渡す。
商人は百円玉を受け取ってローブにしまうと、それと引き換えにトマトを一つ取り出した。
僕はトマトを手に入れる。
なかなかずしりと重い。かなり身が詰まっているようだ。これはいい味のトマトかもしれない。
「それで、現在地を教えてほしいのですが」
「へへ、にいちゃんよ、トマトをもう一つ買わねえか、トマトをよお」
僕の質問はまたも無視された。
「買いませんよ。一つで十分です。さあ、現在地を教えてください」
「へへ、にいちゃんよ、じゃあトマトって、意外と固いって、知ってた、かあ?」
知るか。
それにトマトが固いわけないだろ。
「じゃあよ、じゃあよう、ちょっとそのトマト、踏んづけてみなよ、ちょっとだけ、で、いいからよう」
「なんでせっかく買ったトマトを踏みつけなくちゃいけないんですか」
「いいから、いいからよう、ちょっとやってみな、よう」
くそっ。なんだなんだこいつ。
まあいい。食べ物を粗末にしたくないが、いずれにせよ、こんな変な奴から買ったトマトなんか食う気がしない。目の前で思い切り踏み潰してやる。
僕はトマトを道の上に置いて思い切り踏みつける。
ぐちゃ。
そんな感触が足の裏に広がるだろうと思っていたが、違った。
固い。トマトが固い。まるで石を踏んでいるようだ。踏みつけている僕の足が痛い。
石だ。
僕は石になったトマトを持ち上げる。手触りもザラザラしたものに変わっている。
トマトが石になってしまった。赤い石。
「へへ、どうよ、にいちゃん、トマト、もう一つ、買わねえ、か?」
商人は得意げな顔ですり寄ってくる。なんだか無性に腹が立つ。
「買いません」
「そんなこと言わずによ、もう一個、買ってくれ、よう」
「買いません。しつこいですよ」
「なあ、にいちゃん、よう」
「買わん。どっか行け」
「なあ、よう」
「……」
「なあ、なあ」
「買わないって言ってんだろ!」
僕は持っていた石で商人を殴りつける。
商人の頭がへこむ。
血を流して商人は倒れる。
しまった。ついカッとなって石で人の頭を殴ってしまった。
どうしよう。このままでは僕は人殺しになってしまう。
……。
…………。
……いや、違う。
僕は石で人を殴ったんじゃない。トマトで殴ったんだ。トマトで殴られて人が死ぬわけない。
そうだ。これはトマトだ。
僕の手の中で石はトマトに変わる。
商人は倒れたまま動かない。
しかしトマトで殴られて人が死ぬわけがない。
商人の陥没した頭から中身が見えている。
トマトだ。
そうか。商人の頭はトマトだったのか。だからトマトで殴ってへこんだのか。
僕は商人に馬乗りになって頭をガンガン殴る。トマトなら構わない。商人の頭は原型がわからないくらい粉々になる。
遠くの方からパトカーのサイレンが聞こえてくる。
……僕か。いや、僕が殴っているのはトマトだ。
平気平気。
と思っていたら捕まった。職務質問とかじゃない。がっちり手錠をかけられた。
なぜ。道端でトマトを粉々にしていたら罪になるのだろうか。
「派手にやったね、きみ」
肩幅の広い、筋肉質な警察官が僕に声をかける。
「あの、僕はなんで捕まったんですか」
「え。だってきみ、これやったんでしょ? ダメだよ。今更とぼけようったって。ちゃんと目撃者もいるんだから無駄だよ」
「そうじゃなくて。トマトを殴って逮捕されるんですか?」
「そりゃそうだよ。捕まるよ。条例違反だよ。知らなかったの?」
知らなかった。
ここではトマトを殴ったら逮捕されるらしい。どうしよう。
「弁護士を呼んでください」
「へ?」
「いいから、弁護士を呼んでください」
「いや、そりゃ無理だよ」
「無理なんですか?」
「ああ、まあ無理じゃないけど。今ここで呼ぶのは無理だよ。きみ逮捕されちゃってるし。とりあえず署に行って、落ち着いてからいろいろ話そう。な?」
な? じゃない。
冗談じゃないぞ。トマトを殴ったくらいで逮捕されるなんて。
しかしどうしよう。逃げようにも、僕は手錠をかけられているし……。
そうこうしている間に僕はパトカーの後部座席に押し込まれる。
僕の右隣に肩幅の広い警察官。左隣に手足がひょろひょろ細い警察官が座る。それから運転席にもう一人若い警察官が乗り込んでパトカーは発進する。
しかし、くそ、本当にどうしよう。このままではマズいぞ。まさかトマト一つでこうなるなんて。恐ろしい。正直トマトを見くびっていた。
くそ。どうしてこうなった。
……トマトか。
トマト。
あ、そうかトマトか。
わかった。
僕の手錠はトマトだ。
僕は腕に力を込める。何とはなしに手錠は砕けた。
「おい、きみ、何やってんの」
異変に気がついた肩幅の広い警察官が僕を取り押さえようとする。
うるさい。お前もトマトだ。
僕は筋肉質な彼の体を突き破る。呻き声を上げて肩幅の広い警察官は動かなくなる。
「おい! 何してる! 動くな!」
振り返るとひょろひょろ手足の警察官が僕に銃を突きつけていた。
構うもんか。
乾いた発砲音が車内に響く。
僕の額に小さなトマトが当たる。そんな銃効きやしない。
僕は後部座席の上に立つ。
細い警察官の制止を振り切りパトカーの屋根を突き破る。これもトマトだ。
僕はパトカーの屋根に上る。風が速い。しがみついていられず、あっという間に僕は吹き飛ばされた。
道路に投げ出された拍子に僕の両足は折れる。でも痛みはない。僕の足もトマトだ。
よく見れば道路もトマトだ。
空に浮かんでいる雲もトマトだ。
よくわからない。
よくわからないけどほとんどトマトだ。
僕は這いつくばって道路から歩道へ逃れる。
手を見ると指がなかった。さっき警察官やパトカーを突き破った時に砕けたらしい。なるほど、僕の指もトマトだったわけだ。
夕日が地平線の向こうへ沈んでいく。
でもよく見たらあれは夕日じゃない。トマトだ。かなりデカい。巨大なトマトが地平線に沈んでいく。
僕はなんとか近くの公園に辿り着く。ブランコと砂場とジャングルジムだけの小さな公園だ。僕はベンチに這い上がる。
違う。ベンチじゃない。トマトだ。僕はトマトの上にいる。
ブランコもトマトだ。砂場も。ジャングルジムも。
みんなトマトだ。
僕は自分の手を見つめる。
そういえばこれもトマトだった。僕の手じゃない。これはトマト。
足もトマト。手もトマト。
僕はどこまでトマトなんだ。
ああ。頭が柔らかい。
くそ。頭もトマトだ。
全部トマト。全部。
全部石になれ。トマトになんかなりたくない。固くていい。固くていいから。トマトは嫌だ。石がいい。
石になれ。石になれ。
トマトじゃなくて石になれ。
石になりたい。
……。
…………。
……柔らかい。
くそ。腐ってる。
だから僕はトマト。