上ってゆく階段、風が揺らす梢、部活の喧騒、放課後でワンランク上がった開放的な騒々しさ。
音楽室からは、ピアノの音が一つだけ響いてきた。そして、それに合わせての発声。音の共鳴を確かめて、音程を合わせている。
彩に気付かれない様に、慎重にドアノブを回して音を立てないようにそっと扉を開く。
この音楽室は、入り口のドアの横に準備室があるため、ピアノのある教壇からはドアの近くのごく僅かな空間が死角になっている。そこの壁に背中を預けて、聞き耳を立てた。
「んんっ、……アー」
何度か音取りをした後、彩は歌いだす。
女声の中では低めの音域に入るアルトの歌声が、空気を揺らす。喉とかじゃなく、彼女自身が一つの音の全てを発しているようで、距離なんてお構い無しにその振動が俺にも届く。
あまり音楽は詳しくないが、幼い頃から聞き続けている彼女の歌は、才能があるのだと思っていた。
響いてくるのは、高校に入ってから、彼女が最も気に入りよく歌っている曲。
賛美歌の一種で、悪いがタイトルは覚えていない。
ただ――、少しだけ、切ないメロディーだと思った。
静かに最後の一音をこの世界に響かせて、唇はゆっくりと閉じられる。
けれど、その余韻は、まだ大気に残っている気がして、しばらくの間、静寂に耳を傾けていた。
だけど「いつから!」と、先に現実に立ち戻った彼女が叫んでしまい、急に何だか気がそがれてしまう。
「主語をつけろ。まあ、いつからここにいたのかという問いだとすると、曲前の音取りからになるな」
少しだけ含み笑いを浮かべて、歩み寄りながら俺は答えた。
急に静かになった室内に響く、自分の足音を煩く感じた。
「って何冷静に答えてるの! 恥ずかしいじゃん! 盗み聞きしないでよ」
バタバタと手を振り回しながら講義する彩から、さっきの凛とした姿は想像出来ない。
「前は、『じっと見られていると集注出来ない』って言ったのに、面倒なやつだ」
「だからって! ってそういう意味で言ったんじゃないし」
ひとしきり暴れてから「んで? 何しに来たの」と、渋い顔のまま問いかけて、彩は椅子に座った。
その前の席に座って、椅子を逆にして正面に陣取る。
「ああ、推薦どうするのか聞いて来いって言われた」
「……素直でいいんだけど、さりげなく聞くべきだったと思わない?」
視線を逸らしながら、非難交じりで露骨に面白く無さそうな顔をしている。
「俺とお前の仲だ、気にするな」
「どんな仲よ、まったく」
突込みを入れながら、それでもまだ表情が硬い。
彩に合わせて窓の外を見れば、台風の過ぎ去った後の強い風が梢を強く揺さぶり、緑の葉が空に舞う。だけどその音は見えるよりずっと弱くて、遥か遠くから聞こえ来る気がして、この空間が切り取られた様な気がする。
音響効果を考え、防音もしているこの壁のせいなのだろうけど。
「窓開けるのは、よした方がいいよな」
「うん、湿度とかでピアノも傷んじゃう」
無音って訳じゃないけど、近くに聞こえるのはお互いの音だけで、その静けさに耳を傾けていた。
嫌な沈黙じゃない。
発せられた言葉じゃなくて、聞こえない何かを介し、無言の会話が続いていた。
どれくらいそうしていたのか定かではないけど、ゆっくりとまた変化を始めた周囲の空気に「ま、俺としては、家族ぐるみの付き合いのあるお前の両親の頼みは、断り難いって事だ」と、辺りを揺らした。
「うー、意地悪」
言いながら机に突っ伏したから、長い髪が机の上に広がる。
ポンと、その頭に手を乗せた。
「ねぇ、どうしたらいいと思う?」
「知らん」
間髪居れずにそう返す。
「即答? 酷いよ!」
勢い良く起き上がった頭に、添えていた右手が弾かれた。
「選ぶのは自分でしろよ、そこには口を出したくない」
「そうかもしれないけど……」
返す言葉は弱々しく、グジグジと何か呟いている最後のほうは聞き取れない。
「ただ、推薦受けて音大へ行っても、普通に受験して進学しても、それ以外でも、きちんと選んだのだったら、俺は支持する」
たっぷりと俺の瞳を覗き込んでから「そっか」と、彩は言った。
「拓真も同じ大学に行かない?」
「行かないし、行けない。音楽は特にセンスが有る訳じゃ無いからな」
「もう、優しくないなー」
「俺にだって、やりたい事はある」
「……それもそうだね」
残念そうなその表情が、少し苦しい。
中途半端に同じ時間を過ごしていたから、些細な部分を無視できなくて。
そして、多分彼女が欲している言葉は、ずっと前から分かっているのだと思う。
「彩」
立ち上がり、ピアノへと向かう背中に呼びかけた。
「ん?」
「彩が自分で選んだら俺は、支持する。だから」
「さっきも聞いたよ」
つまらなそうに振り返る彼女。
「話の腰を折るな……多分どうしたって、また会えるから心配するな」
一瞬、凄くきょとんとした顔をしてから、ほころんでいく表情。
「あら、珍しい。あんたでも、たまにはそんな風に根拠無く嬉しい事言うんだ?」
「根拠はあるさ、何年お前の歌を聴いてきたと思っている」
そして、一度言葉を区切って息を吸ってから「ちゃんと聴こえているから、伝わっているから」と、続けた。
「届くかな?」
「理論上は空気って媒体があるから、天文学的に頑張れば地球の裏側にだって届くぞ」
「あはは、何それ。私の歌は何なのよ」
気持ちのいい笑顔の彩は、ピアノに触れてゆっくりと話し始めた。
「オペラの曲なんだけどね、褪せそうになる想いを引き止めようとするって意味の歌詞で、自分の想いを必死で捕まえようとしている。そんな所が好きだけど、嫌いな曲」
「誰かの前で歌うのは、今回が初めて?」
「うん」
初めて見せる、大人びた表情に目を奪われる。
一礼してから大気を震わせるのは、深く切ない響き。
瞳を閉じて、その歌を聴く事に集中しながら思う。
どんな言葉も、永遠に響くことなんか無いのだと。
気軽に信じていた『ずっと』なんて幻想は、もう自分たちは持っていないのだと。
歌っている彩の顔は真剣で美しく、歌い終えてからの照れながら笑う表情は可愛らしい。
「どうだった?」
「良いんじゃないか」
「なんか、随分なげやりな意見」
不満を隠さずに、ジト目で睨んでくる。
「技術的な事なんか知らないんだから、無茶言うなよ」
苦笑いで逃げながら、振り回す彩の手をつかむ。
触れ合う瞬間――。
長い時間を一緒にすごし過ぎたからか、近くにいると嬉しいよりも切なさが勝ってしまっていた。
「選ぶことによって、変わる事は無いよね」
ふざけあっていた笑みが引いて、真っ直ぐに彩はそう告げた。
「ん?」
「自分達からは、何も」
その意味する所を理解して、俺は「そうだな」と、短く答えた。
「今日はどうする?」
「んー、吹奏楽と合唱は今日は市民ホールでの練習で空いているから、ギリギリまでは居ようかな」
その答えを聞いて、机と椅子を正して鞄を広げる。
「そうか」
「って、なにしてんのよ」
いぶかしげに、取り出したテキストを覗き込む彩。
「何って……」
あんまりな顔をしているものだから、少し悩んで「勉強」と、答えた。
「ここで?」
「受験生だからな」
「……ま、いいけどね。ただ、もう少し空気読むとか、気遣うとか」
拗ねてしまった彩。
「その方が集中出来る」
そう言ったら、首を傾げている。
少し曖昧過ぎたのかもしれない。
「彩の声を聞いていたほうが、な」
途端に、めまぐるしくその表情が変わっていく。
「集中、しゅうちゅう、気が散っても知らないからね」
背中を向けてしまったその仕草が微笑ましい。
揺らめいて通り過ぎるのは、ピアノの音。
多分、そう遠くない『いつか』起こるこの時間のエンディングを、きっと正しくは理解していないと思う。
『ずっと』も『いつか』も上手く想像出来ないけれど、だから『今』をしっかりと聞き逃さないように。
響いてくる彼女の声を、止まらないその音を。
大切な一言は、その『いつか』が訪れるまで取っておこうと思うんだ――。 |