学芸員マルタン、夢を見る。
3、グリフォンの像
テオ・フルスとライムント・グリュンブラット、二人の剣士が去って一時間ほど経った頃。
学芸員マルタン・ルネットが籠る東館資料室に、先程とは別の夜警たちが来て、毛布を置いて行った。
テオ・フルスとか言うあの剣士が、別の班と交代するとき持たせて寄こしたのだろう。
ありがたい事だ。
学芸員ルネットの体力もそろそろ限界に来た頃だった。頭が回らず、仕事の効率が極端に落ちている。
(ちょうど良い。ここらで仮眠を取ることにするか)
財団が東館を閉鎖するのは明日の正午。
最悪、それまでに書類をまとめ上げれば良い。
事情が事情だ。上司も許してくれるだろう。
ルネットは持って来た蝋燭ランタンに火を入れ、部屋の明かりを吹き消すと、資料室からホールへ出た。
巨大な怪物の像を見上げる。
「先ほどの若い夜警、妙なことを言っていたな。『怪物が動き出す』とか、なんとか」
月光を反射する怪物の瞳をしばらくジッと見つめる。
「まさか、ね」
小さく一つ溜息を吐き、若い学芸員はホールの外へ出た。
渡り廊下の真ん中にあるベンチに寝そべり、ランタンを消して毛布に包まる。
深夜の博物館。真っ暗な廊下。
疲れ切った学芸員の脳は、十数える間に、深い眠りへと沈んで行った。
4、夢の中の少女
どれくらい眠っていたのだろうか。
閉じた目蓋越しに青白い光を感じる。
うっすらと目を開けた。
枕元に少女が立っていた。八歳か九歳。幼い少女だ。
ジッとこちらを見ている。
真っ暗な筈の廊下。なぜか少女の周りだけボンヤリと明るい。
この娘、どこかで見た事があるぞ……マルタンは思った。
そうだ……二、三日前、グリフォン像の下で……
たしか、資料を片付けようと箱に入れ、東館の資料室へ向かった時だ。
東館大ホールには、若いカップル、老夫婦、それに一人で見学に来ている若者が数人ほどいて、大きなグリフォン像を見上げていた。
毎日通っている博物館職員にとっては、どうという事もない有り触れた光景だ。
怪物の足元を通り過ぎ、資料室の扉まであと数歩という時、突然、幼い女の子の声がホール中に響き渡った。
「あっ、今、動いた!」
思わず、ホールの方を振り返る。
八、九歳くらいの少女が、怪物の顔を指さしていた。
「いま、この像、動いた!」
もう一度、女の子が叫んだ。
その場にいた大人たちがざわめき出し、グリフォン像の頭を見上げる。
「ああ! 本当だ! さっきと微妙に首の角度が違う!」若いカップルの女が叫んだ。
「ええ? 本当かよ? 気のせいじゃないのか?」恋人の男が不審そうに言った。
「嘘じゃないって。ぜったいに動いた。あの嘴の向き、絶対さっきと違うよ」
「どこが、どう違うんだ? 俺には同じようにしか……」
「違うって。今から説明するから良く聞いてよ……」
馬鹿馬鹿しい……マルタンは思った。
金属で出来た像が動くわけないだろう。
興味を失って、資料室へ向かおうとした時……気づいた。
少女が何処にも居ない事に。
グリフォン像を見上げている大人たちは、発端となった少女がこの東ホールから姿を消している事に気づいていない。
迷子……かな?
あの年齢から考えて、博物館に一人で来たとは思えなかった。
保護者と逸れたのでなければ良いが。
そう心配しつつ資料室に向かったマルタンだったが、用事を終えて部屋を出るころには、もう、少女の事は忘れてしまっていた。
……あの時の、少女だ……
暗い廊下のベンチに横たわって、ぼんやりと光る少女の顔を見上げながらマルタンは思った。
……君は、いったい何者だ?
声にならない問いを少女に投げかける。
少女は微笑むばかりで答えない。
再び眠気がマルタンを襲い、彼の意識は暗闇の中へ沈んで行った。
次に目覚めた時には、朝になっていた。
渡り廊下の天窓から太陽の光が落ち、遠くで小鳥の鳴く声が聞こえる。
「……夢……だったのか?」
起き上がってベンチの上に座る。
足元に落ちた毛布を拾い上げた。
「生々しいというか……ずいぶん実感のある夢だったな。まあ、でも、少女の体は光らないし、そもそも真夜中の博物館に女の子がいる訳ない、か」
立ち上がって、うーん、と背筋を伸ばし、便所へ向かった。
用を足し、洗面所で顔を洗う。
何時くらいだろうか?
まだ職員は誰も出勤してこない。
(早朝の博物館に居るのは、僕と夜勤明けの衛士だけか)
挨拶がてら毛布を返しに詰所へ行こうかとも思うが、財団への明け渡しが迫っている現状、少しでも時間が惜しかった。
(自分勝手だけど、改めて挨拶に行くことにして、今日は残りの仕事を優先させてもらおう)
毛布と火の消えたランタンを持って東館へ向かう。
「ああ……腹へったな」
5、トシハル・イワミネ
結局、仕事は午前十一時近くまで掛かってしまった。
午前中いっぱい、この件に専念する許可は取ってある。事情が事情だけに上司も二つ返事だった。
「ふうっ、東館閉鎖のギリギリ一時間前……何とか間に合った」
作成した書類の束を小脇に抱え、資料室を出て鍵を掛ける。
鍵をポケットに仕舞いながら振り返ると、同期のトシハル・イワミネが予備塾の生徒たちを相手に講釈をたれている所だった。
「……という訳で、今から百年前ブルーシールド調査隊は、この歴史的な大発見をもって……」
生徒たちは、皆お揃いの洒落た制服に身を包んでる。
男子ばかり。
センス良く整えられた髪。磨き上げられた靴。上から下まで身なりに一部の隙も無い。
例外なく。全員。
(金持ち坊ちゃま御用達の、全寮制男子予備塾の生徒たちか……)
そう言えば、社会見学の予定が職員掲示板に貼ってあった。
(今日だったのか)
徹夜明けのボンヤリした頭で学生の集団を眺めているうちに、同僚イワミネの講釈が終わった。
「それでは、今からしばらくの間、自由時間とします。ただし、この東館と南館以外の場所へは行かないように。十一時半になったら、南館エントランス・ホールに集合する事」
引率の教師らしき大柄な中年の女性が言うと、少年たちは思い思いに散って行った。
「よう、徹夜明けか? ひでぇ顔だな」
気が付いたら横にイワミネが立っていた。自称、古代ニホン人の血を受け継ぐ家系だとか。
「相変わらず、学生相手に講釈するのが上手いな」
マルタンが言う。
「引っ込み思案の僕には、とても真似ができない」
「別に難しくはないだろう? 要は気の持ち方ひとつだ。で、仕上がったのか?」
「ああ、何とか。地獄だったよ。いくら財団とはいえ、こんな非道い無理押しは、これで最後にして欲しいね」
「そりゃ、ご苦労さんでした」
「ところで、今の……例の全寮制男子予備塾の生徒たちだろ? 入学金も授業料も目ん玉飛び出るほど高いって話の……」
「そう。凄い連中だろ? 見るからに金持ちのボンボン様って感じでさ。あの制服、上着だけでも俺らの給料二ヶ月分は飛ぶぜ。まあ、でも、全寮制予備塾っていうのは、どうなんだろうね……たった十歳で親元を離れて男ばっかり田舎で寄宿生活の青春ってのも、可哀そうっちゃ、可哀そうだよな」
「十歳で予備塾に入れるなら、それだけで幸せな事なんだ……全寮制だろうと、なかろうと」
マルタンが沈んだ声でボソリと言った。
同僚のイワミネが、急に暗くなったマルタンの顔を見て驚く。
「子供の頃、近所に仲の良い女の子が住んでいて、よく遊んだ」
顔を下に向け、マルタン・ルネットが続けた。
「十歳の誕生日、見知らぬ女に連れられて遠くの都市国家へ奉公に行っちまったよ。貧しい地区で生まれ育ったからさ。そんな話は周りにゴロゴロしていた。もっと非道い話も」
「そ、そうなのか……苦労してんだな、お前も」
突然、聞き覚えのある声が東館ホールに響いた。
「あっ、今、動いた!」
驚いてマルタンが顔を上げる。
いつの間にか、あの少女がグリフォンの足元に立って怪物の顔を指さしていた。
「いま、この像、動いた!」
ホール内で勝手気ままに駄弁っていた少年たちが一斉に顔を上げ、少女が指さすグリフォンの頭を見る。
引率の女教師までが、怪物の顔をまじまじと見つめていた。
「おい、今、動いたんじゃないか?」
少年が、別の少年に話しかける。
「まさか」
「いや、動いたよ。確かに動いた。よく見ると、さっきと首の角度が違う」
「そうかな? 僕にはそうは見えないけど……」
ホールのあちこちで、少年たちが議論を始めた。
女教師も片目をつぶったり、指で三角を作って翳してみたりしている。
「あのお嬢ちゃん何時からホールに居たんだ? 俺、気付かなかったけど」
学芸員トシハル・イワミネが同期のマルタン・ルネットに言う。
「それに両親は何処だよ? まさか迷子じゃないだろうな?」
マルタンは同僚の言葉を全く聞いていなかった。
(あの少女だ……数日前、このホールに立っていた少女……昨日の夜、夢に出てきた少女……)
その時、少年たちの視線が今度は一斉にホール入口に注がれた。
一瞬ホール全体が、しん、と静まり返る。
振り向いた女教師が口に手を当てて「ひっ」と驚きの声を上げた。
少年たちの視線を追って、マルタンとイワミネも入口に目を向ける。
「おい、ありゃあ……」
イワミネが驚いて呟いた。
「ああ……エルフだ……」
二人組の、エルフの、女たち。
片方は背の高い緑のエルフ。
もう片方はダーク・エルフの少女だった。
腰から剣を下げている。
剣女だ……ダーク・エルフの、剣女。