夜警と学芸員、深夜の資料室で話す。
1、グリフォン
重厚な木の扉を開け、渡り廊下からホールの中へ入る。
ホールの空間いっぱいに翼を広げた巨大な怪物の像に圧倒された。
天窓から射す薄暗い月の光を浴びて、金属の体がボンヤリと光っていた。
首を伸ばし、天井越しに空の一点を見つめる鋭い鷲の眼差し。
しかし作り物の怪物がホールの天井を突き破り大空へ舞い上がる日は、永遠に来ない……筈だ。
「凄いですよね。これ。何度見ても、感動する」
テオ・フルスの隣に立ったライムントが怪物を見上げて呟く。
「でも、見る度に不思議に思う事があるんですけど……どうやって建物の中に入れたんですかね」
確かに、東館には、人間が出入りする通用口こそあれ、これほど巨大な物体を搬入するための入口は見当たらない。
「外から、入れたんじゃねぇよ」
先輩剣士が言った。
「まず最初に台座をこしらえて、その上に像を載せ、それから周囲に建物を造って行ったのさ」
「へええ、そうか、像を設置するのが先で、建物のほうが後なのか。なるほど。さすが、読書家のフルスさんですね。ついでに、もう一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「発掘現場からここまで、どうやって持って来たんですか? 城壁内は建物も密集しているし」
「車輪がいくつも付いた専用の台車を造らせて、それを何頭もの機械馬に曳かせて来たんだと。現場からこの都市まで、場所によっちゃ土を均して道を作ってまでしてな。それから、どうやって城壁内に入れたか、だが……
この博物館の立地をよく考えてみろ。ここは何処にある?」
「何処って……都市国家の東の端……て、まさか!」
「そう。その『まさか』だ。城壁の外まで運んて来た段階で壁の一部を破壊して像を中へ入れ、再度、石を積み上げて修復した。莫大な労力と経費だ。役人やら都市国家の権力者たちへの説得工作に使った金も、半端じゃ無ぇだろうな。壁を破壊して作り直している間は、周囲に兵隊を配置して警備に当たらせただろうから、その人件費だって馬鹿にならねぇ。その全てを、当時のブルーシールド商会が出した」
「すげぇな。そんな大それた事を考えたってのがまず凄いし、莫大な経費をかけて、実行に移して……」
「とんでも無ぇ組織だよ。ブルーシールドってのは、よ。さあ、無駄口はこれ位にして、早く見回って詰所に帰ろう」
テオ・フルスはホール全体を見渡した。
北側の壁に、明かりの漏れている場所があった。
ホールに付随する資料室の扉が少しだけ開いていた。明かりは資料室の中から扉の隙間を通して漏れている様だった。
(学芸員さん、まだ残業してたのか。ご苦労な事だ)
「フルスさんっ」
突然、ライムントが叫んだ。
驚いて振り向く。
若い剣士が、ランタンを上に掲げてグリフォンの像に光を当てている。
「像が……像が……」
驚きで目が大きく開いていた。
「ああ? 像がどうしたって……」
つられてテオ・フルスも怪物を見上げる。
怪物が……ぶるりっ、と、一回……確実に……震えた。
さすがのテオも声が出なかった。
(まさ、か、怪物が……造り物の怪物が……動いた?)
「フルスさん、み、見ましたよね? い、今、動きましたよね? まったく、何て夜だ。少女の幽霊に、化け猫……お次は、生きているグリフォン像と来た」
ライムントがぶつぶつ呟いている。
(生きて……いる? この巨大なグリフォンが、生きている、だと?)
気が付いたら、ランタンを持ち上げている左腕の筋肉が痺れ始めていた。
一体、どれくらいの時間、こうして怪物の像を見上げていたのか。自分でも分からなかった。
明かりを下す。
同時に、隣に立っていたライムントも一気に全身を脱力させ、ランタンを持った腕を下した。
これから、どうしたら良いんですか? とでも言いたそうに、情けない顔をこちらに向ける。
もう一度、像を見上げた。
いつもと変わらない、翼を広げ天を見上げるグリフォンが居た。
「おい、ライムント……お前ぇ」
視線は怪物を見上げたまま、テオ・フルスが年下の剣士に言った。
「お前ぇ、このグリフォン像が真夜中に動いたって、証明できるか?」
「ええ? 何言ってるんですか、フルスさん? たった今、フルスさんだって見たじゃありませんか」
「だから、それを昼間の連中に……博物館の職員や市の上層部に証明できるか、って聞いてんだ」
言われてライムントがもう一度、怪物の像を見上げた。
「そ、そりゃあ」
「無理だよな? 今のグリフォン像は俺らが入ってくる前と寸分違わぬ姿勢に戻っている。少なくとも俺には、そう見える」
「……そうですね。あの動いた瞬間を目の当たりにしていないと、無理でしょうね……説明するのも、信じろって言うのも」
「だったらさ……黙っていろよ。報告書にも書くな」
「良いんですか? こんな重大な事を」
「良いんだよ。さっきも言っただろう? 下手な事書いたら、頭ん中を疑われて、次の勤務査定に響く。最悪、首だ」
明かりの漏れる資料室を見る。
「お前ぇは、予定通りホールの見回りをしろ。おれは資料室で残業している学芸員……ルネットさんの様子を見てくる」
残業申請書に書いてあった名前を思い出しながらテオが言った。
それを聞いた若い剣士が、今夜、何度目かの泣きを入れる。
「ええ? 俺一人で見回りしろって言うんですか? ずるいですよフルスさん、いっしょに見回りしてくださいよ。頼みますよ……」
ライムントの泣き言を背中で聞き流して、テオ・フルスは資料室に向かった。
2、マルタン・ルネット
半開きの扉から中を覗くと、机の上で必死に書き物をしている男の背中が見えた。
改めてノックをする。
「はい、どうぞ」
返事を聞いて、扉を開け、中に入る。
博物館中に何か所もある資料室の中で、この東館資料室は二番目に小さい。
狭い室内に天井ギリギリの高さの棚が何本も並んでいた。棚には本やら、手書きの資料やら、出土品を入れた小箱がぎっしり詰めこまれていた。
部屋の隅に小さな書き物机が一つ。
ランプの下、机に山と積まれた資料の間で、必死に何かを書く一人の男。
「夜間警備のテオ・フルスです」
声を聞き、机の男がペンを置いた。
振り返ってこちらを見る。
二十代後半、ひょっとした三十歳を超えているかもしれない。
中肉中背。面長に丸い眼鏡。
七三に分けた髪と言い、こざっぱりとした服と言い、いかにもインテリ公務員といった感じの男だった。
目の下に隈。疲れが顔に滲んでいる。
「定時の見回りに来ました」
言いながら、ふと、思いつく。
「こちらに……この資料室に、猫が忍び込んで来ませんでしたか?」
まさかとは思ったが、念のため聞いてみる。
「猫? 猫がいるのですか? 館内に」
やはり、見ていないか。
しかし机に向かって書き物に集中していたとなれば、気付かなかったという可能性もある。
「どうやら紛れ込んだらしいのです。念のため、資料室を見せて頂いても良いですか」
「どうぞ、ご自由に」
ランタンを片手に、棚と棚のあいだの狭い通路を見て回る。
(やはり、居ない、か)
それほど期待していなかったので、落胆もしなかった。
机の所まで戻ると、学芸員マルタン・ルネットが心底疲れたといった感じで自分の項を揉んでいた。
「猫は居ましたか?」
項の次に肩を揉みながらルネットが尋ねる。
「いいえ。どうやら、ここでは、なかったようだ」
「大変そうですね。夜警という仕事も」
「慣れれば、そうでもありませんよ。それに大変と言ったら、どんな仕事だって楽じゃないでしょう。学芸員の仕事など私には勤まりそうにない。私の場合は夜だけ働いていれば良いが……昼間働いた上に、こうして夜遅くまで残業とは」
「今夜は特別ですよ。ブルーシールド財団が夕方突然、東館を閉鎖するなんて言いださなければ。しかも東館資料室も同時に閉鎖、資料持ち出しは一切禁止、再開が何時になるかも分からないという。まったく連中は何を考えているのだ? 理解に苦しむ」
そこでマルタン・ルネットが気づく。
「ああ、そう言えば、この博物館の警備を委託されているのは、ブルーシールド系列の剣士団でしたね。じゃあ、あなたも……」
「お察しの通り、傘下のコバルド剣士団所属です」
「す、すいません。別にブルーシールド商会を貶めるつもりは……」
「良いですよ。気にしなくても。自分の技術を一番高く買ってくれる場所を選んだだけだ。唯それだけです。剣士団にも、剣士団を傘下に収める商会にも、別に恩は感じていません」
「そうですか……本当は私の方こそブルーシールド財団に恩を感じるべきなんです。財団奨学金の返済免除枠でアカデメイアを卒業しましたから。家が裕福じゃなかったから、あれが無かったらアカデメイアに入る事も、今の仕事に就く事も出来なかったでしょう。財団さまさま、という訳です」
「ほう。そりゃ優秀だ。今のあなたが在るのは、あなた自身の努力の賜物でしょう。財団は規則に従って粛々と相手を選んだに過ぎない……それより、博物館側は断れなかったんですか? 今回の件は、誰がどう見たって財団の横暴でしょう」
「財団に恩を感じているのは、博物館もいっしょなんですよ。頭が上がらないと言っても良い。そもそも東館の主展示物であるグリフォン像は、百年前、財団の前身であるブル-シールド商会・学芸振興部が全額出資した発掘調査団によって発見されたものなんだ。今でも書類上は、あのグリフォン像は財団の所有物です。我々は財団から無期限で像を預かって、管理を任されているに過ぎない……この東館の建物も商会の全額寄付によって建てられたものだ……おまけに今でも毎年多大な寄付を頂戴しているとなれば、多少の無理は通さざるを得ないというのが、本当の所だと思います」
「古代のロマンも結局は金、か。世知辛いですね」
その時、資料室の扉を叩く音がした。
ライムントだった。
「東館ホールの見回り、終わりました。いやぁ……怖かったあ。いつまた、あの怪物が動き出すかと思うと……」
「怪物? 動き出す?」
学芸員マルタン・ルネットが不審そうにライムントを見た。
「ごほん、ごほ、ごほ」
テオが、わざとらしく咳をして見せる。
その話は止めろというライムントへの合図だ。
「と、とこでルネットさん……」
何とか誤魔化そうと、テオは話題を変えた。
「何時まで残業する予定ですか」
「いや、この調子だと朝日が昇るまでに帰れるか、どうか。徹夜も覚悟しています。どうしても眠くなったら、廊下のベンチで寝ます。暗い廊下で動くものがあっても、ナイフで刺さないで下さいよ。僕は寝相が悪いから」
「廊下のベンチでですか? そりゃ、体に悪い。夜はまだ冷えます。次の巡回担当に毛布を持って来させましょう」
「すみません。恩に着ます」
「これ以上、仕事の邪魔をするわけにもいかない。われわれはこれで失礼します。それでは」
二人の夜警はホールへ出て資料室の扉を閉めた。
「まったく、ひやひやしたぞ。さっきも言っただろう、おかしな発言で頭ん中疑われたら、次の勤務査定に響く。最悪、首になっちまう、って。言葉には気を付けろ」
「すいません」
二人の剣士はもう一度、怪物の像を見上げた。
「これ、さっき本当に動いたんでしょうね? こうしてみると確かに常時もと変わらないグリフォン像だ。あれは、月の光が見せた幻とかじゃあ……」
「二人同時に同じ幻を見るか、ってんだ。とにかく忘れろ。猫が光った事も、この像の事もな。さあ、行くぞ」