公使、地下で蛇を見る。
1、コスタゴン
オリーヴィアとスュンが都市国家に到着した日の夜遅く、在サミア・エルフ公使館の主コスタゴンは自分の執務室に籠って、昼間、人間の職員が持って来た書類の確認をしていた。
どうにか最後のページに目を通し終わり、確認印と朱肉を大きな机の引き出しに納め、どさりっ、と革張りの背もたれに身を預ける。
天を仰いで目を閉じ、目蓋の上から眼球を軽く揉んだ。
(まったくな)
無駄な魔力は使わない……エルフの行動規範に従い「明りの魔法」は最小限、机の上を照らす光量に抑えてある。
広い執務室に置かれた上等かつ実用的な調度品が、薄暗い魔法の光を受けてぼんやりと浮かび上がっていた。
暗い部屋の中で、少しのあいだ物思いに耽る。
(三千年に一度の大災厄が迫る時代に生きる者として、何より万物の霊長たるエルフ族一門として、世界を救うという重大な使命に身を捧げるつもりだったのだが……日々する事と言えば、夜遅くまで人間の作った書類の整理か)
コン、コン、と扉を叩く音が執務室に響いた。
「誰だ?」
「御者のヨハンです」
「……入れ」
一礼して入ってきたのは中肉中背の人間の男。二十五歳前後に見える。
公使コスタゴン専属の御者、ヨハン。
執務机の向かい側に立つ。
ペーターと同じ、感情の光を全く持たない瞳。
「博物館周辺の飲み屋を当たらせていた情報屋らが、今ほど報告を持ち帰って参りました」
「それで? どうだった」
「閣下のおっしゃる通り、一部の地域で噂が流れているのは確かなようです。『東館に展示してあるグリフォン像が動いたらしい』と」
「……そうか……」
「しかし、それ以上の確認は取れませんでした。噂の真偽……実際に古代の像が動いたのか、どうか……それは分かりませんでした」
「だろうな」
「もう一点、グリフォン像がらみで、お伝えすべき事があります」
閉じていた目を薄く開け、コスタゴンが鋭い視線を御者に向ける。
「何だ?」
「酒場で飲んでいた博物館の学芸員の話ですが……今日の夕方、突然ブルーシールド財団の者がやって来て、明日からしばらく東館を閉鎖すると言ったそうです」
「何?」
そこで初めて身を起こし、御者ヨハンと正対する。
「明日の正午をもって東館は閉鎖すると言っていました。表向きの理由は学術上の調査という話です」
それを聞いた公使が苦そうに奥歯を噛んだ。
「財団の連中め、さすがに目端が利く」
しかし次の瞬間ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「だが……まあ、良い。財団が動いたなら、その荒唐無稽な噂にもわざわざ調べるだけの価値が有るという事だな」
机の向かい側に立つヨハンを見上げる。
「他に報告は有るか」
「いいえ。以上です」
「わかった。以後この件はこちらで処理する。もう良い。下がれ」
一礼して、公使専属の御者は執務室を出て行った。
「潜冥蠍……空間の歪み……グリフォン像……大災厄……三千年周期」
暗い部屋の中で呟く。
突然、思い立ったように公使は立ち上がった。
執務室を横切って部屋の扉を開け、廊下へ出る。
等間隔に天井から蝋燭ランプが下がった廊下は、それなりに明るい。
扉の両側に立つ人間の剣士に対し、片手を振ってぞんざいに挨拶をして、廊下を階段の方へ歩いた。
階段を下りて、一階へ。
各階の廊下には、昼夜交代で人間の剣士を立たせてある。
敬礼をする一階の剣士の前を通り、階段の裏側へ回り込んだ。
警備の人間からは陰になって見えない。
扉が一つ。
エルフの住まう三階、四階のドアノブは全て純金製だが、人間の仕事場である一階と二階は有りふれた真鍮製だ。
当然、今コスタゴンの目の前にある扉にも真鍮のノブが付いている。
右手をかざす。触れるか触れないか、ぎりぎりの所まで手を近づける。
カチリ。
錠の外れる音がして、扉がゆっくりと開く。
扉の向こうには、暗い地下室へと続く階段。
公使の頭の上に、ポッ、と明かりが灯った。
中に入って一旦立ち止まり、扉を振り返る。
ひとりでにゆっくり扉が動き出して閉まった。
再びカチリ、という錠の音。
コスタゴンは地下室を見下ろし、自らの魔法に照らされた階段を一段ずつ降りて行った。
2、蛇
階段を降りきった所にも扉。
魔法を使って鍵を開け、地下室の中に入って閉める。
飾り気の無い棚がズラリと並んだ殺風景な部屋を、黴臭い空気を我慢しながら、奥へと進む。
入ってきた扉の反対側、地下室の一番奥の壁に、さらにもう一枚扉があった。
南館……エルフ公使館本館の地下は古い書類などを置く倉庫になっていた。昼間は人間の職員の出入りも許されている。
しかし、ここから先……この鋼鉄製の扉の向こう側へ入る事を許されているのは、公使館で唯一人、館の主、公使コスタゴンだけだ。
扉には取っ手が無かった。防錆処理を施した黒く重い鋼鉄製の扉。その真ん中からニュウッ、と出ているのは、不気味な怪物の首……その彫刻。
ちょうどコスタゴンの口の高さにあるガーゴイルの耳に顔を近づける。
もちろん、ぎりぎり触れない。
コスタゴンは怪物の耳に、なにやらぶつぶつと囁いた。
ごとりっ、と重い音がして、扉が徐々にスライドしていく。
横に開いた鋼鉄製の扉の向こうにあるのは……地下室の、さらにその地下へと続く階段だった。
公使は躊躇う事なく階段を降りて行く。
薄暗い魔法の光に照らされた階段を注意深く見れば、あるいは天井や壁に嵌められた石の色合いを見れば、それが地上の建物や最初に通った地下室とは別の時代の構造物であると分かる。
長い階段を降り切って、扉の無いアーチ状の穴を潜る。
穴の向こうには巨大な空間が広がっていた。
控えめに発動させた魔法の明かりでは、向こう側の壁も、天井も、暗闇に溶け込んでよく見えない。
地下の大空間。
その真ん中に「蛇」が居た。
生きた蛇ではない。
金属で出来た、見上げるほど大きな蛇の像だ。
地下聖堂の真ん中に安置されたその大蛇の像に、コスタゴンはゆっくりと近づいて行く。
鎌首を持ち上げ今にも飛びかからんばかりに入口を睨みつける巨大な蛇。
下から照らす魔法の光を受けて、磨いた金属の瞳に不気味な色が揺れる。
体表に整然と並んだ鱗を見れば、この像が何らかの金属で出来ている事は分かる。
では、それは何という金属なのか? あるいは合金なのか? このような色と質感を持つ物質をコスタゴンは見た事が無かった。
冷たく湿気た地下の空気を吸いながら、公使は半時間以上も蛇の像を見上げ続けた。
突然、どきり、と心臓が跳ねた。
(いま……たしかに……)
動いた?
反射的に、一歩、後ずさった。
もう一度、鈍く光る金属の瞳を見上げる。
(本当に、動いたのか?)
分からない。
改めて見れば、像は先ほどと少しも変わらないように見える。
しかし、あの瞬間、確かに動いたように見えた。
動いた量は極僅か……数値に直せば数セ・レテムか、そのくらいだ。もっと少ないかもしれない。
正確に計測でもしない限り、動く前と動いた後で違いを指摘できる者は居ないだろう。
その瞬間を目の当たりにしたコスタゴンでさえ、今となっては、どこがどう動いたのかを説明する事は不可能だった。
(しかし、僅かだが、ほんの僅かだが、この像は動いた。
……確かに、動いた)
恐怖と、そして静かな興奮が、体の底から湧き上がった。