スュンとアラツグ、怪人を追い、天空を舞う。(後編)
1、アラツグ
「さっきから、あのバネ足野郎の両手が気になっていた」
怪人を追いかける箒の上で、アラツグがスュンに言う。
「あいつの手袋の甲には、小さな鏡が縫い付けられている。それが時々、太陽の光を反射してキラリッと光る。さっき、何故あんなものを装備しているのか、その理由が分かった……それから、なんで、こんなにも簡単に奴に追いつけるのか。確かに、直進飛行速度はスュンさんの方が速い。でも、それにしても、あまりに簡単に追いつきすぎる……何故か?」
「な、何故なの?」
「……奴が『誘っている』からなんだ。あの両手に付いた鏡で、後ろを飛んでいる俺たちの位置を確認して、そうとは気づかれないように、微妙に進路や速度を調節して『こちらが追いつきやすいように』飛んでいる。そして、もう少しで手が届くという近距離まで近づいたところで……急激な進路変更をしたり手持ちの武器を使う事で、また彼我の距離を稼ぐ」
「ほ……本当なのか? それは?」
「ガキの頃の『鬼ごっこ』と一緒です。あんまり楽に逃げ切れたり鬼が追いかけるのを諦めたりしたら、かえって面白くないから、逃げる側の子供は『お尻ぺんぺん』なんかで鬼を挑発して誘う。ぎりぎりまで近づいた所で、全力で走って鬼を引き離す……そうした方がスリルがあるから……奴も同じだ。これが奴の、鬼ごっこの楽しみ方なんだ」
「ば……馬鹿にされたものだ」
「……だから、その行動パターンを逆手にとって、今度はこっちが奴を誘導してやりましょう。スュンさんが、上手く『演技』をしてくれれば……速度や進路をそれと気付かれないように調整すれば、奴もそれに合わせて速度や進路を調整してくるはずだ。誘導されているように見せかけて、逆に奴を誘導する」
「でも……何のために……何処に誘導する?」
「あの、赤い屋根……そこだけ空中水路より高く突き出た赤い尖塔が見えるでしょう。おあつらえ向きに、水路の分岐点が近傍にある。もうすぐ奴は、その横を通過する。当然、俺たちも通過する……その時、気づかれないように微妙に速度を下げてください。そして出来る限り、塔の近くを通ってください。そこで俺は、塔に飛び移ります」
「飛び移る?」
「そう……その後、スュンさんは奴を誘導して、大きな円を描くような軌道で、もう一度塔に戻ってきてください。出来れば、塔の近くを通る水路のどれかを奴が潜るように仕向けてもらえれば、ありがたい」
何となく、アラツグのやろうとしている事がスュンにも見えてきた。
「まさか塔の近くを通る瞬間、バネ足男に飛び移るつもりか……失敗したら、落ちて死ぬぞ……」
「大丈夫。俺なら出来る。確実に」
「そ……そうか」
好きな男が自信を持って言うことに、まさか反対するわけにも行くまい……たとえ、彼自身の命が掛かっていたとしても……
「予想通り、奴が赤い塔のそばを通過しましたよ。頼みます」
「わかった」
速度を落として、塔の横ぎりぎりの進路を取る。
「スュンさん、速度を落とし過ぎだ。それじゃ、敵に感づかれてしまいます。俺なら大丈夫。もうちょっと上げてください」
(こっちの気も知らないで!)
言われた通り、速度を上げる。
赤い尖塔に接近……通過。
いきなり背中が軽くなって、大好きな男の感触が消える。
後方で、塔に何かがぶつかる音と「ぐえっ」という呻き声が聞こえたような気がした。
引き返して安否を確認したい衝動を必死に抑える。
彼なら大丈夫……自分に言い聞かせる。
「アラツグ・ブラッドファング……こんなにも私に心配させたこと、絶対に忘れないから! あとでたっぷりサービスしてもらうからな! 覚悟しなさい」
呟いて、前方の目標に意識を切り替えた。
徐々に……徐々に……距離を詰める。
少しだけ進路を左に振ってみた。
バネ足男が両手を目の高さまで挙げた。その手がキラリッと光ったような気がした。
次の瞬間、男の軌道が微妙に変わった……左に。
「なるほど……言われてみれば……」
進路を左に変えたスュンに対して、本気で逃げるつもりなら右に進路を取るはずだ。
それを同じ方向に旋回したという事は、やはり、誘っているのか。
スュンは、さらに左へ進路を振ってみた。
敵も左へ。
(間違いない……ならば、これで、どうだ)
スュンの頭上に斬撃魔法の光が出現する。
いつもの青白い光ではなくピンク色に近い輝き。青空の中で敵に発見されやすいように。
残光が長引くように調整する。実際の攻撃力には全く関係無いが、それで良い。斬撃は近い間合いで効果のある魔法。どの道この距離では、当たったとしても敵へのダメージは無いに等しい。
「行けっ」
ピンク色の三日月が、バネ足男に向かって走る。
……しかし、当たらず……男の右横を通過して空中で消えた。
驚いたバネ足男が、本能的に左旋回する。
誘導だとは気付かずに。
追う者と追われる者の進路は、しだいに左回りの巨大な円を描くようになっていた。
追われる側は、その事にまだ気づいていない。
そして、とうとう……正面に、さっきの赤い尖塔が見えた。
都市の空中をぐるりと大回りして、元の場所に戻ったのだ。
進路は良い。ちょうど尖塔近くを通る空中水路の一本と交差する形だ。
(あとは高度だ……)
スュンの頭の上に再びピンク色の輝き。
出来る限りアラツグの成功率が上がるよう、バネ足男の頭を押さえなければ。
(早すぎても駄目、遅すぎても駄目)
「今だっ」
男が高架水路を通過する数瞬前、その頭上を三日月形の光が走り抜ける。
あわてて高度を下げるバネ足男。
赤い尖塔の陰から飛び出した黒い影。
影は幅半レテムの水路の上をもの凄い速度で怪人に向かって走って来た。
バネ足男、高架水路の下を通過、その瞬間、黒い影……アラツグが跳んだ。
アラツグは怪人の「背びれ」にしがみ付く形で、その背中に「着地」。重みでバランスを崩したバネ足男もろとも、近くの五階建ての屋根に落ちた。
体を絡ませた二人の男が、屋根の上をもの凄い勢いで転がって行く。衝撃で赤瓦が割れる。バネ足男の背びれが壊れ、はじけ飛んだ。
背びれを掴んでいたアラツグの体がバネ足男から離れそうになるが、とっさに男の右足を両腕で抱え込む。
屋根を転がる速度が、やっと遅くなり……止まった。
アラツグは、左腕で怪人の右ふくらはぎを抱え、右手でそのつま先を持って全力で捻じった。
ごきりっ、という嫌な音がして、男の足首が壊れる。
悲鳴を上げるバネ足男。
「これで二度と跳べねぇな。ざまあ見ろ」
言いながら、アラツグは男に馬乗りになった。
その時、スュンが追いついて上空に定位した。
アラツグが、男の顎に掌底を叩き込む。
男は顎を砕かれ、白目を剥いて、完全に無力化された。
しかし同時に山高帽を押さえていた顎紐が切れ、ころころと帽子が屋根の斜面を転がり始める。
「帽子を!」
スュンが叫ぶ。
「え?」
箒をほとんど直角に降下させ、山高帽に右手を伸ばすスュン。
人差し指と中指で、かろうじて帽子の鍔を挟んだ。ほっ、と安堵する。
……しかし……
衝撃で留め金が壊れていたのだろうか……山高帽の脇腹にある蓋が外れ、中から透明な物体が転がり出てきた。
「クーピッドが!」
瓦の上をコロコロと水晶のクーピッド像が転がり落ちる。
立ち上がったアラツグが、屋根の斜面を駆け下りた……しかし、間に合わない。
五階建ての軒先から通りに落ちる水晶の像。
それを追って、まるで岸から川に飛び込むように通りへ飛び出すアラツグ。
右手で空中の像を掴み、左手で手近な窓の鉄柵を掴んで、ぶら下がる。
「あ、危っぶねえなぁ……」
ぶらぶらと揺れる足の下に、通りの石畳が見える。
野次馬たちが集まって、こちらを見上げている。その数は、あっという間に百人近くまで膨れ上がった。
助かった……と思った瞬間、がたんっ、という音がして、アラツグの体が数十セ・レテム下がった。
「え?」
見上げると、左手で掴んでいた鉄柵の、壁との接合部が外れかけて……外れた。
壁にはもう、掴めるものが無い。落ちる。
見上げると、スュンがこちらに向かって手を伸ばしている。目が合った。
アラツグもスュンに手を伸ばす。
届かない……
スュンの目に浮かぶ絶望の色。
……しかし……その時……
アラツグが右手に持っていた「水晶のクーピッド」がぼんやりと光りだした。
落下が、止まった。
アラツグの体がゆっくりと上昇していく。
空中で直立し、向かい合うアラツグとスュン。その間に水晶のクーピッドが浮かんでいる。
クーピッドの発動した力に導かれ、ゆっくりと二人の体が近づいていく。
そして、密着。
アラツグの胸に押し付けられたスュンの乳房の間に、クーピッドの像が挟まった。顔だけが、ぴょこんと乳房から出ている。
アラツグは、スュンの腋の下から背中に両手を回した。
スュンも、アラツグの首に両手を回す。
空中で抱き合い、見つめあう。
「男女の愛情を魔力に変換する……本当だったんだ……」
「何の話ですか?」
「何でもない。こっちの事……それより、これから何をすべきか、分かっているな? 前にも言ったけど、私は目を閉じるぞ? 恥ずかしいから。あとは、まかせた」
「が……頑張ります」
スュンは目を閉じる。真っ暗な中で……突然、唇に優しく触れられた。好きな男の唇の感触。
抱きしめるアラツグの腕に力がこもる。
「い……痛たたた……」
思わず唇を離して、スュンが呻いた。
「抱きしめる力を、もうちょっと緩めて。クーピッド像が、胸に当たって、痛い」
「あ、ああ、ごめん」
「当たっていると言えば……さっきから腿に何か『棒』のような物が当たっているんだけど?」
「それ、スュンさんのせいです。スュンさんの体を抱きしめていて、そうなったんだから……責任取ってください」
「ええ? 『責任取る』って、そういう時に使う言葉?」
「さあ」
「じゃあ、私も言わせてもらいます。あなたに抱きしめられて、体がめろめろのとろとろになっちゃてるんだけど、責任取ってくれる?」
「こ……今夜ですか」
「うん。今夜」
「分かりました。が……頑張ります」
もう一度、目を閉じる。また、唇に優しい感触。今度は、少し長く。
目を開けると、胸のクーピッド像の輝きが増していた。
「……ねぇ……」
「何ですか?」
「本物のクーピッドが来ちゃったら、どうする? 私のお腹に……」
「え……?」
さっきまで見つめあっていたアラツグの目が、いきなり泳ぎだした。
「あ、いや……まさか……最初の一回で、そんな……確率的に……そ、それに俺たち、まだ若いし……いや、そうなったら……もちろん、責任は、とりますけど……でも、できれば、もう少し人生経験を積んでからの方が……」
「なーんちゃってっ」
「え? じょ、冗談? あはは……なーんだ、冗談か……あはは」
(うわっ、とんでもなく言い訳の下手な男だな、こいつ)
しどろもどろになっている少年を見て、スュンは思った。
(でも、うろたえている感じ、けっこう可愛い。ほんの冗談のつもりだったけど、ちょっと苛めてやるか……ケッケッケッ)
「確率って言うけど……人間の女の体が、どうなっているか知らないけど……エルフの女はね、日によって確率が変わるのよ。一ヶ月周期で。自分の体だから分かるわ。今夜あたり、かなり確率高いな……そりゃ、もう、ほとんど完全、確実、っていうくらい。絶対当たっちゃう気がする」
「ええ? そ、そうなんですか? じゃ、じゃあ、今夜は止めときます? いや、別に出来ちゃうのが怖いとか、全然、そんな事ないですけど……えっと……」
(うはー、うろたえてる、うろたえてる……可愛ィィィ)
その時、男心を弄んだスュンに天罰が下った。
屋根の上を何かが転がって来て、軒先から地面に落ちて「カランッ」と音をさせた。
(え? 今の……箒?)
エルフの少女は、二人だけの甘い世界から、いきなり現実に戻された。
(そ……そういえば、さっき落ちていくアラツグの手を握ろうとして、無我夢中で、箒なんて、もう、どっちでも良くなって投げ捨てたような気が……)
突然、全身から嫌な汗が一気に噴き出す。
「スュンさん、そろそろ地面に降りませんか?」
そんな、スュンの気持ちを知ってか、知らずか、アラツグが呑気に言った。
密着していた体をいったん離す。そしてスュンの両肩を優しく掴んだ。
二人の体のちょうど中間、胸の高さで、クーピッドが光っている。その魔力でアラツグもスュンも空中に浮かび続ける。
「ここ、大通りの真上ですよ。さすがに、こんな空中で抱き合っていて、俺、だんだん恥ずかしくなってきましたよ。あっ、スュンさん、足元見てくださいよ。あんなに野次馬が集まってきている……」
恐怖でガタガタと体を震わせながら、無意識に下を見る。
数え切れないほどの人間が、スュンを見上げている。
……スュンのスカートの中を……
なぜか、スュンの耳に野次馬の声が聞こえてきた。
「おい、空中に人が浮かんでいるぞ」
「あ、本当だ……女の方はエルフだな。すげぇ、あれが噂の『エルフの浮遊魔法』か。俺初めて見たよ!」
「あれ? あのエルフ、スカートの下に何も履いてないんじゃないか?」
「ええ? そんな馬鹿な……あ、本当に何んも履いてねぇ!」
「お~い、みんなぁ~、こっち来て見ろよ! エルフの尻、丸見えだぜ!」
「あれが、エルフの女の尻か」
「さすがエルフ、良い尻してやがる! 俺のカーチャンのゆる尻とは大違いだぜ!」
「こうなると、尻だけじゃ、満足できねぇ……ぜひ『前の部分』も拝ましてもらいてぇが……スカートが邪魔で……」
その時、世界はスュンに残酷で、男たちには寛大だった。
突然、通りに風が吹き、突風は上昇気流となって下から上へ。
スュンのスカートが「ぶわっ」と一気に肩のあたりまで吹き上げられた。
鳴り響く、地上の男たちの歓声。
「うぁおおおっ! 見えたぁあああっ! エルフの……が、見えたぁあああー!」
「すげぇ、あれが、エルフの女の……か!」
「ふぉおおおー、力じゃあああ、力が漲って来るのじゃあああ……婆さんが死んで十五年、萎れっ放しだった儂の下半身に力がぁあああ……ありがたやぁ……ありがたやぁ……」
「うっひょひょーいっ! 俺、ばっちり脳裏と目蓋に焼き付けたから、もう一生おかずには困らんわ」
「あれ? おい、あのエルフ……毛が生えてないんじゃねぇか?」
「ええ? まさか……あ! ほんとだ! あのエルフ、毛が無ぇ!」
「すげぇ……エルフって、毛が生えねぇのかぁ……」
「ねぇー、ママー、あのエルフのお姉ちゃん、何で、おしっこする所に毛が無いの? ママのおしっこする所には有るのに。あのお姉ちゃん、大人じゃないの?」
「しっ、アリサ、大声で言うんじゃありません! 見ちゃいけません! さっ、行きますよっ!」
頭の中が真っ白々で何も考えられないスュンの口から、絶望の叫びが世界中に響き渡った。
「いやぁああああああああああーっ!」