スュンとアラツグ、怪人を追い、天空を舞う。(前編)
1、スュン
思わずアラツグの顔をまじまじと見つめる。
アラツグもスュンを見上げている。
見つめあう二人……ただし、ここは人通りのある歩道。少年が地面に仰向けになり、その腹の上に少女が馬乗りに跨っている姿を、通行人がジロジロ見ながら通り過ぎていく。
(まったく今日は、何という日なんだ……薄気味悪い男を追いかけていたら、会いたくてたまらなかった男に出会えた)
そこで、ハッとなる。
(バネ足男! 水晶のクーピッドは?)
あたりを見回す。
思った通りというべきか……怪人は近くの四階建ての屋根の上でこちらを見下ろしていた。
相変わらずのニヤニヤ笑いを顔に貼り付かせて。
「その余裕……今に後悔させてやるからっ!」
しかし……どうやって?
このまま路上を滑空しながら追いかけ続けても埒が明かないのは目に見えていた。
(考えろ……考えろ……何か……何か、方法があるはずだ)
自分でも何を探しているのか分からないまま、何かを探す。
大通りの歩道……並木……軒を連ねる商店……店の看板……植木鉢の花……何か……何かが……
二軒向こうの商店の軒下に立て掛けられた「ある物」が目に止まった。
おそらく今朝店の者が使って、そこに立て掛けたまま忘れてしまったのだろう。
スュンは立ち上がり、店の前に立て掛けてある「それ」に向かって走ろうとした。
最初の一歩でブーツが何かを踏んづけて、アラツグが「ぐぇっ」と潰れた蛙のように呻いた。
三歩走った所で立ち止まって振り返る。
(しまった……我を忘れて彼の顔の上を跨いでしまった……でも、ま、良っか。アラツグなら見られても。どうせアラツグには何時か見られちゃうんだろうし……それに多分見えていない。彼の顔面、思いっきり踏んづけちゃったから)
歩道の上で、両手で顔を押さえてのたうち回っているアラツグは取り合えず放っておいて、スュンは「それ」が立て掛けてある店の前に走り寄る。
店の前で、スュンはスカートの前の部分を持って、布地を股下からお尻の方へ回した。
「わわわっ……スュンさん、人前で何やっているんですか? 女の子がそんな、はしたない事……」
ブーツに踏んづけられた痛みから早くも回復したアラツグが叫ぶ。
その声を無視して、今度はスカートの後ろの布地を、同じように股下を通して前に持ってくる。
これで、前後のスカートの布で股間が包み込まれた形になった。
そして「それ」……「箒」の柄を掴む。
「あとは、この箒に跨って、柄の部分で布を押さえてしまえば……」
スカートの布地に「大事な部分」が完全に包まれて見えなくなった。しかも箒に跨っている限りスカートが広がることはない。
裾が上がって素肌の脛と膝が見えてしまうのが欠点だが、この際それは仕方ない。
ふと、アラツグを見る。
目が合った。
(何をしようとしているんだ? この女は?)
とでも言いたげな不審な色でこちらを見ている。
反射的に叫ぶ。
「箒に跨って!」
「え?」
「とにかく、早く、私の後ろに跨って! もう離れたくないの! だから!」
「な、なに言っているか、いまいち良く分かりませんが……そ、それでは失礼して……」
箒の柄、スュンの後ろの所にアラツグが跨った。
「しっかり掴まって」
少年がスュンの腹に両手を回し、彼女の背中に体を密着させた。
「うう……」
それだけで、もう、変な気持ちになりそうなのをスュンは必死に堪える。
顔を上げ、気持ちを切り替え、屋根の上の男を睨んだ。
相変わらずの薄ら笑いで「こいつら、何をやらかすつもりか」とでも言いたげにスュンたちを見下ろしていた。何をしたって、どうせ捕まえられないさ……と。
「その自信を、いまから打ち砕く!」
浮遊魔法、発動。ゆっくりと、上昇する。
二階……三階……四階……
「ど、泥棒! 箒を返せぇ!」
足元で誰かの叫ぶ声が聞こえた。
「すいませ~ん、後で、ちゃんと返しま~す」
アラツグが店主に向かって返事をする。
箒に乗った二人の高度が四階建ての屋根を越えた。
ついにスュンの目線とバネ足男の目線が同じ高さになる。
距離五十レテム。屋根の上で睨み合う。
怪人の顔に、少しだけ驚きの色が浮かんだ。
ギラギラと輝く真っ黒な瞳を盗人に向け、スュンが不敵に笑う。
「今からは、こちらの攻撃ターンだ。我が名は、クラスィーヴァヤの森のダーク・エルフ、剣女スュン。よくも今まで愚弄してくれたな。代償は高く付くと覚悟しろ」
名乗りを上げている間に、空中停止したスュンの頭上に光が凝縮して行く。
薄い三日月形のその光の大きさは、ちょうど彼女の銀剣の長さと同じ。
いきなり三日月形の斬撃光が怪人に向かって走った。
バネ足を使って後ろへ飛びのく怪人。斬撃が屋根瓦を砕いて消滅する。
屋根を一回蹴って跳躍しただけだと言うのに、もの凄い速度と移動距離だった。
「逃がすかっ」
スュンは一気に箒を加速させ、バネ足男を追った。
一定の速度で空を巡航できるスュンに対して、怪人は何かを蹴らなければ推進できない。徐々に速度が落ちていく。
距離が縮まって来たのを感知して、スュンが第二撃の準備をした。頭上に光が集まる。
都市国家の上空に網の目のように張り巡らされた空中水路、そのうちの一本にバネ足男が衝突する……かに見えた瞬間、怪人は膝を抱えてクルリと反転し、幅五十セ・レテムの水路の側面を蹴った。
今までの進路とは完全に逆方向に加速、逃げていたはずのバネ足男が、いきなりスュンたちに向かってもの凄い速度で迫って来た。
不意を突かれ、攻撃もままならず、やっとの事で避ける。
怪人は懐から出した黒い球体をスュンの前方にポーンと放り投げた。投げる直前、球体の突起を指でカチリと押したようにも見えた。
高速ですれ違う怪人とスュンたち。
その直後、中にばねでも仕込まれていたのだろうか、球体の外殻がパンッと弾けて、空中に多量の粉末がまき散らされた。
煙幕状に広がった粉末の中に突入、一瞬、視界が無くなる。
粉末の空間を脱出し、視界が戻った先に迫る高架水路。
「わあぁ、ぶ、ぶつかるぅー」
大声で叫ぶアラツグを、ちょっとうざいな、などと思いながら、スュンは冷静に進路を見定め、水路と赤瓦の屋根の間に箒を潜り込ませた。
無事に高架水路の下を潜り抜けた直後、箒をピッチアップ、垂直上昇、さらにピッチ、上下さかさまの状態でターン、すれ違ったバネ足男を追いながらゆっくりとロールして正立する。
「す、すげぇ……」
「インメルマン旋回よ!」
再びバネ足男を後ろから追う形になった。徐々に距離が縮まっていく。
再度、頭上に魔法で斬撃光を発生させる。
「今度こそ……」
発射された三日月形の光は、しかし目標を外れ、屋根瓦を弾き飛ばしただけで消えてしまった。
「何やっているんですか、スュンさん。ちゃんと狙ってくださいよ」
「う、うるさい、黙れっ」
(やはり、斬撃の触媒となる銀剣が無いと、いまいち軌道が安定しない……高速で移動しながらというのも、きつい……)
いきなり目の前でバネ足男の「背びれ」が動いた。同時に黒マントを袖に縫い付けた腕を広げる。
直後、バネ足男が視界から消えた。
「えっ?」
見失った……
「スュンさん、左、左ですよ!」
左を見る……居た!
空中で箒を大きく旋回させ、怪人を追う。距離が縮まる。
また、姿が消えた。
「こんどは、どこだ?」
首を左右に振って探すが……居ない。
「下だっ」
後ろでアラツグが叫んだ。
「建物と建物の間の路地に、ダイブしたんだ」
「何だって?」
箒を徐々に減速させていく。
「まずいな……このまま変装して地上を歩く人たちの中に紛れ込まれたら、空からじゃ見つけられっこ無いですよ」
空中に停止した。
(あの男は遊んでいるんだ……空中の追いかけっこを楽しんでいた……ここで、あっさり遊びを投げ出すはずがない……)
そう思う相手の心理に、賭けるしかない。
「いたっ!」
アラツグが叫んだ。
その指さす方向を見ると、確かに遠くの屋根の上を、何かがピョンピョン飛び跳ねているように見える。豆粒ほどの大きさしかない。
「すごい視力だな」
スュンは感心しながらも箒の鼻先をその豆粒に向け、一気に加速させた。
「絶対的な直進速度は、こちらの方が速いんだ」
バネ足男に向かって空を飛んでいる間、アラツグが話しかけてきた。
「ただ、俊敏性は奴のほうが上だ。奴は小回りが利くんだ……あの背中に装着した背びれ様の器具と、袖に縫い付けたマントを巧みに動かして、高速で跳ぶ時に発生する風の向きを変え、その反動で急激に進行方向を変える……スュンさんと違って、奴は何かを蹴る瞬間にしか、自分自身では向きを変えられないから……だから、その代用として、風の力を使う方法を思いついた。風を利用すれば、着地の瞬間だけでなく、空中に居るときでも向きを変えられるから」
何かを考えるように一拍置いて、話を続ける。
「……問題は、どうやって奴を捕まえるか……このまま追っかけっこを続けても、埒が明きませんよ。いくら直進速度が速くても、追いついたとたん、さっきみたいに急激に進路を変えられてしまう。こっちが大回りしている間に、また奴との距離が延びる……その繰り返しだ」
そう言ったきり、アラツグは黙ってしまった。
(彼は、何かを考えている……私には分かる)
空中を飛びながらスュンは思った。
しばらくスュンもアラツグも黙って空を飛んだ。
2、アラツグ
あと少しで再びバネ足男に追いつくという時、突然、アラツグがスュンの耳元で囁いた。
「スュンさん、聞いてください」
「あんっ……」
いきなり不意打ちに耳元で囁かれて、スュンの口から思わず変な声が出た。
「あわわわ……急に高度が落ちましたよ! 危ないじゃないですか!」
「ば、馬鹿っ……耳元で囁くな! 力が抜けて、魔法に集中できないではないか。大声で叫んでくれてた方が、まだ、ましだ」
「す、すいません!」
「それから、この際だから言うが、さっきからお尻のあたりに、何か『棒』のような物があたっているのだが、それを退かしてくれないか」
「あ、いや……無理です。それ、生まれた時から俺の股間にぶら下がってましたから。しかも、ずーっとスュンさんの背中を抱きしめてスュンさんの体の良い香りをかぎ続けていたから、かなりヤバい状態です。あとちょっとの刺激で、ひょっとしたら限界きちゃうかも……」
「それ、というのは……ああ……そ、それの事だな? い、今は、困るぞ。我慢してくれ……わ、私だって背中を抱きしめられて、体がめろめろのとろとろになっちゃいそうなのを必死で我慢しているんだから……って、何を言わせるんだ、馬鹿っ」
「スュンさん、前、前っ」
いつの間にか、かなりの近距離までバネ足男に追いついていた。
いきなり目の前の怪人が腕を広げる。
両手に、何かキラリと光るものを扇形に並べて持っている。
「まずいっ! スュンさん、投げナイフだ! 片手に五本ずつ、合計で十本、一度に投げてくるぞ。避けてくださいっ」
凄い動態視力だった。とにかくアラツグに言われた通り右に急旋回する。
直後、バネ足男が、両手に持ったナイフを全部同時に後ろ向きに投げた。
ついさっきまでスュンたちが飛んでいた軌道上を、十本のナイフが高速で走り抜けていく。
避けるのが一瞬遅かったら、全身に投げナイフを受けて墜落していたかもしれない。
さすがに闇雲に接近するのを止めて、少し距離を取った。
「……スュンさん、さっき言いかけた事を言います。ここらで決着をつけましょう。奴に罠を仕掛けるんだ……俺に考えがあります」