スュン、公使館の経費でドレスを買う。
1、スュン
今度こそ、オリーヴィアより先に集合場所に行って待っていようと、八時前に中庭に出た。
青い空を見上げる。今日も良い天気になりそうだった。
敷石に覆われた地面を歩いて、中庭の真ん中にポツンと一本だけ生えている楓の木のそばへ行く。
幹に触ってみる。
「石ばかりの庭にたった一本植えられて、何だか寂しそうに見えるな」
楓の木からの連想で、さっき食べた楓の樹液入りオート麦粥の味を思い出した。なかなか美味しかった。ああいう美味しい物をいろいろ食べるのが『訓練』だと言うのなら、それも悪くないな、と、呑気に思う。
そこで、ふと気になった。
「私は、『オート麦の粥』なるものを、既に知っていた? そうだ……前々から、私はあの食べ物を知っている……いや……あの味わいは初めてだ……味覚ではなくて……オート麦粥がどういう食べ物かを知っていた。オート麦という穀物を煮て、そこに楓の樹液と少々の塩と隠し味を入れた食べ物だという事を知っていた……何故だ?」
その時、東館一階の車庫の脇にある通用口から、ひとり職員が出てきた。人間の男の職員だ。男は足早に中庭を横切って西館に向かう。両手に書類の束を抱えていた。
それを見てスュンは、ピンッ、と来る。
「書類……書物……本……ああ、そうか! 本! 恋愛小説!」
オリーヴィアからもらって、ページが擦り切れるほど読み込んだ三冊の恋愛小説……そのうちの一冊に「主人公がオート麦粥を作る」という描写があったのを思い出す。
「なんだ。小説の中に書いてあったことを、自分の記憶のように感じていただけか……」
分かってしまえば、何ということはない。
「現実と非現実の境目なんて、案外、はっきりしない物なのかも知れないな」
楓の木の下に置かれたベンチに座りながら、そんな事を思う。
その時、再び東館の車庫のほうから音がした。
振り返って見る。機械馬車用の扉をペーターが動かしていた。
完全に開いた所でいったん車庫の中に戻って、例のエルフ専用の豪華な馬車を中庭に出し、再び扉を閉めた。
オリーヴィア様に言われたのかな? と、見当をつける。彼女はペーターに御者をさせ、あの馬車に乗って仕立て屋に向かうつもりなのだろう。
果たして、それからしばらくして中庭にやってきた緑のエルフは「さあ、行きましょう」とスュンに声をかけると、ペーターが扉を開けて待つ馬車へ真っ直ぐ歩いて行き、乗り込んだ。
スュンも、その後に従う。
守衛に門を開けさせたあと、ペーターも御者席に座った。
馬車はゆっくりと門を通り、石畳の道を走り出した。
2、仕立て屋のマダム
「本来なら、まだ開店前の時間だけど、使いの者を出して話をつけてあるから、鍵は開いているでしょう」
言いながら、オリーヴィアが仕立て屋の扉を開ける。
「私だけじゃなく、他のエルフたちもこの店で何着も仕立てているから、公使館は店にとって大得意さまよ。何かと融通が利くわ。それに……これが一番大切な事だけど……ここの女主人は口が堅い」
中に入ると、こざっぱりとした身なりの人間の女が待っていた。四十歳くらいだろうか。
「いらっしゃいませ。オリーヴィアさま」
自分のスカートを両手で摘まんで、軽くお辞儀をする。
「おはよう。マダム。無理をいって、ごめんなさい。新人のエルフを紹介するわ。こちらはスュン。昨日、公使館に来たばかりの娘よ。しばらくは私が面倒を見ることになったから、よろしく」
「初めまして。スュンさま。なにとぞ御贔屓に」
「初めまして」
スュンも挨拶をする。
オリーヴィアが話を続ける。
「今日来たのは、他でもない。このスュンの服を何着か仕立ててほしい。いつも通り、デザインは人間のご婦人風で、ちょっと流行を取り入れた感じで、それでいて最先端過ぎず目立たないように。金具類は『エルフ仕様』でお願い」
「かしこまりました」
「とりあえず公使館で着る上等なものを三着、人間の社交界で着るものを二着、平民風のものを一着と……あと侍女服も」
「メ……侍女服……ですか」
スュンが思わず聞き返した。
「そう。万が一の場合……変装用に、ね」
オリーヴィアが耳元で囁いた。
「滅多に着ることは無いだろうけど。私も一着持っている」
思わず、この年上の緑のエルフが大きなヒラヒラ付きのエプロンをして「お帰りなさいませ、ご主人様」などと、しをらしく傅いている姿を想像してしまった。
「では、スュンさま、寸法を測らせて頂きます」
巻き尺を片手に女主人が近づいてきた。
「ああ、そうそう」
女主人がスュンの体に巻き尺を当てている間、壁に飾られた生地見本を眺めていたオリーヴィアが声を掛ける。
「下着類も必要ね。どうする? スュン……ズロウス、履く? 履かない?」
「ズロウス……ですか?」
「人間のご婦人方がスカートの下に履く下着のことよ」
本当は、スュンはズロウスというものを何となく知っていた。恋愛小説に「スカートの中に手を入れ、ゆっくりとズロウスを脱がせて」うんぬん……とかいう描写があった。
しかし、その事は言わないで置く。
「まあ人間のご婦人にも『履く主義』と『履かない主義』が有るらしいけど」
「は、履かない……のですか? スカートの下に、何も? あ、あの、オリーヴィア様は……」
「私は『履かない派』。慣れるとすーすーして気持ちが良いから」
「す……すーすー……」
ちょっと気持ち良さそうな気も……
「ちなみに、マダムは?」
「私は、履いております。この年齢になると腰が冷えますので」
「……だそうよ。どうする?」
「わ、私も……オリーヴィア様と同じ、『履かない派』でお願いします」
「では、そういう事で……マダム、下着は七着、シュミーズだけを用意して。ああ、それから、コルセットも。いつも通りコルセットの寸法はきつくならないように、ゆとりを持たせてちょうだい。動きやすい素材を使って」
「かしこまりました」
採寸が終わり、生地とデザインを選ぶ。といっても、右も左も分からないスュンは、マダムとオリーヴィアの勧めるまま、言われるがままに唯「はい、はい」と頷くしかない。
「では、マダム。とりあえず一着だけ、一時間後には出来ているかしら?」
「はい。必ず」
「い……一時間で、出来るのですか! 服一着が?」
「凄いでしょう? マダムの腕はサミアでも一番だから。マダム、あとの服は出来次第、公使館に届けて置いて。請求書の宛名は在サミア・エルフ公使館オリーヴィアで」
注文書にサインをして店を出た。
3、スュン
「街の店を見て歩くには、ちょっと時間が早いな……」
馬車に乗り込みながら、オリーヴィアが言う。
「仕方がない……喫茶店で時間をつぶすか。ペーター、いつもの所へ」
馬車が、石畳の通りを走り出した。
朝の歩道を、人間たちが大きな箒で掃いていた。
「別に『特別任務中』という訳では無いから変装をする必要も無いけれど、喫茶店に入って、エルフというだけでじろじろ見られるのも嫌だから、人間に化けましょう」
走る馬車の中でオリーヴィアが言う。
「ただでさえ、スュンのその格好は……剣士とか、剣女とかいう者たちは……人目を引くものだし」
オリーヴィアの髪の毛と肌の色が見る見る変化していく。
「あ、あの、私はどういう姿になれば……」
「思い出しなさい。魔法を使うコツは、何?」
「最小の魔力消費量で、最大の効果を得る」
「そう。特に『擬態魔法』は、人間の目に晒されている間ずうっと持続させなくてはいけないから、無駄な力を使うべきではない。私は見ての通り上から下まで『緑色』だから、全身を擬態させなきゃならないけれど……スュンの場合は、ほぼ、そのまま『アフルーン系の少女』で通るわ。両耳を魔力で小さくするだけで良い」
言われた通り、両耳だけに意識を向ける。スュンの耳は見る見る小さくなり、長い黒髪の下に隠れた。
なるほど、これならほとんど魔力を使わなくても済む。一日中こうしていても疲れる心配はなさそうだった。
馬車がゆっくりと速度を落とし、喫茶店の前で停車した。
「降りましょう。さっき公使館の食堂でお茶を飲んだばかりだけど、服が出来るまでのあいだ他にする事もないし、ここで時間を潰そう」
店内に入る。確かに雰囲気の良い店のようだった。高そうな服を着た紳士淑女が数組、茶を飲みながら話をしている。
「朝っぱらから暇なのねぇ……上流階級の方々というのは」
店内をさっと見回し、オリーヴィアが呟く。
「まあ、我々も朝から服を仕立てて、喫茶店で時間を持て余しているのだから、似たようなものだけど」
人間の姿に化けた上司の呟きを聞きながら、スュンは別のことを考えていた。
(服の事は良く分からないけれど……いくら、あのマダムの腕が良いとしても、たった一時間で服を仕立てる事など出来るのだろうか? おかしい……何かが……変だ)
自分は、根本的なところで気づいていない事がある……そんな思いが胸に引っかかって取れなかった。
4、スュン
喫茶店での一時間は、オリーヴィアが一方的に話し、スュンがそれに相槌を打ち続けるという形で過ぎて行った。
再び馬車に乗り、仕立て屋へ戻ると、約束通り一着だけ仕上がっていた。
マダムが「どうだ、凄いだろう?」と言わんばかりの笑みを浮かべている。
「試しに着てみなさい」
上司に言われ、スュンはマダムを見る。着てみろと言われても、どうやって着ればいいのか分からない。
「奥に試着用の部屋があります。こちらへどうぞ」
オリーヴィアは店内で待つことにして、スュンと女主人の二人だけで奥の部屋へ向かう。
カーテンを閉め切った部屋に明かりを灯し、扉を閉めたあとマダムが言った。
「お召し物をお脱ぎください」
「すべて?」
「はい。すべて」
腰の銀剣を外し、室内にあった小さなテーブルの上に置く。剣女の正装をすべて脱いで裸になった。
マダムが手に持っていた服をスュンに渡す。
まずは、シュミーズ。続いて、コルセット。
「ご注文いただいた通り、コルセットは動きやすさを重視して、緩めで柔らかめのものを選びました」
コルセットを体に巻いて、屈んだり、腰をひねったりしてみた。マダムの言う通り、思ったよりは動きやすい。
「これなら、いざという時にも、何とかなるかもしれない」
最後にドレスを着て店に戻った。エルフ式の服はマダムが箱に入れて持ってくれた。銀剣は、まさか腰に下げるわけにもいかず、左手に持って歩く。
「あら。なかなか可愛いじゃない」
オリーヴィアが微笑む。
「自分で鏡を見てごらんなさい」
言われたとおり、壁に埋め込まれた全身鏡の前に立つ。確かに我ながら、けっこう可愛い……かも、知れない。
「ドレス姿で、左手に銀剣というのも……何か妙ですね」
照れ隠しに、言ってみる。
「ああ……そう言われてみれば……そうかも知れない。人間のご婦人方は日傘を持っていることが多いから、あとで武器職人の所へ行って『仕込み傘』を作ってもらいましょう」
「仕込み傘、ですか」
「傘の柄の部分に銀剣を仕込んだ、隠し武器のことよ」
「ああ、それなら……」
目立たない。
「よし、これで仕事が一つ片付いた。公使館に帰りましょう」
「はい」
女主人に見送られながら、通りに出た。
(大事なところが、すーすーする……)
気持ち良いような……気持ち悪いような……