高校に入って初めて恋ってモノをした。
4月に体育館であった新入部員勧誘会。
そこで、初めて孝介先輩に会った。
会った、というのは正しくないかもしれない。
孝介先輩は、自分が所属する水泳部の紹介をするために、壇上に上がって用意された原稿を読んでいた。
正確には、一方的に“見た”だけだった。
水泳部という割に、日に焼けていない顔と、筋肉のあまりついていないスラリとしたスタイル。
明るい色に変色した髪からだけ、プールの匂いがしそうな気がした。
ただ、それだけのことで、あたしは孝介先輩をもっと知りたくなって、水泳部員になった。
ジャージの裾を膝まで折りあげて、あたしは足の消毒用の水溜りを通り抜けた。
プールに1人残って泳いでいるのが孝介先輩だと、そのフォームを見ればすぐに判る。
孝介先輩のフォームは、あたしの目には力強くてキレイに見えるけれど、水泳部の先輩や顧問の高橋先生に言わせると、「ムダが多くてタイムに繋がらない泳ぎ方」なのだそうだ。
あたしたち水泳部員の夏は短い。
普通の県立高校であるうちの学校には、温水プールはおろか屋内プールもない。
だから、水泳部といっても、実際プールに入って泳ぎの練習ができるのは、せいぜい1学期の中間テストが終わる6月のあたまぐらいからお盆前までの、2ヵ月半くらい。
県大会も終わって8月に入ると、わざわざ夏休みの練習に出てくる部員なんてほとんどいない。
おまけに今日は朝からドンヨリと曇っていて、いやいや練習に出て来ていた部員たちも、1人また1人と引き上げていき、最後に孝介先輩が残った。
裸足でプールサイドのコンクリートに踏み出した。
プールサイドは、昨日までの真夏の太陽の熱を残していて、ほんのりと暖かい。
あたしは爪先を立てて、孝介先輩が泳いでいるコースのゴール地点へ早足で歩み寄り、孝介先輩がそこに置いたタオルを手に取った。
泳いでいる孝介先輩の腕や肩や、息継ぎの度に横を向く頭が、透明な水を切り裂くように見える。
太陽が出ていないから、その姿は水面で反射する光に邪魔されることなく、あたしの眼に映り込む。
25mプールの向こう端でターンをして、まっすぐに泳いでくる。まるで、あたしがここで待っているのを知っていて、あたしを目指して一心に泳いでくるようだ。
あたしはドキドキと高鳴る胸に、孝介先輩のタオルを押し当てた。
水飛沫と一緒に、荒い息をしながらプールから上がってきた孝介先輩に、あたしはタオルを差し出した。
「お疲れ様です。居残り練習ですか? 熱心ですね」
先輩は水泳帽とゴーグルを一緒に外してから、あたしが差し出したタオルを受け取った。
「有沢もまだ残ってたのか? 早く帰らないと雨が降ってくるぞ」
言いながらあたしから少し離れて、孝介先輩は頭を激しく振って流れる水を震い落とす。アテネオリンピックで金メダルをとった、おんなじ名前の水泳選手のようだ。あんなオムスビみたいな頭ではないけれど。
孝介先輩の体から飛び散る雫が、少しだけあたしの白い体操着を濡らした。
そんなつまらないことが、あたしのボルテージを一気に高めていく。
水泳なんて本当は好きじゃない。日に焼けるのは嫌だし、はっきり言ってスタイルはコンプレックスだらけで、水着になるのは恥ずかしい。
だけど、水泳部員にでもならなければ、あたしは孝介先輩と知り合いになることすら不可能だったと思う。
なのに、部員になってすぐ、先輩にはカノジョがいることを知った。先輩より1つ年上の、髪の綺麗な色の白い女性。
そのことを知ったときには、あたしの孝介先輩に対する単純な興味は、好きという気持ちに変わっていた。
カノジョの存在を知った後で、自分の中の気持ちに気づいたのだから、諦められるはずもなく、あたしの切ない恋は始まった。
だから、あたしの初恋は、“見つめること”だった。
ほとんど毎日のように練習を見に来るカノジョが、優しく差し出すタオルを受取る先輩の横顔や、そのあと一緒に帰っていく2人の後ろ姿を、ずっと見つめ続けていた。
見つめているだけでいいじゃないって、自分を納得させていた。
先輩がカノジョにふられたという噂が流れ始めたのは、夏休みに入って間もない頃だった。
あれほど足繁く練習を見に来ていたカノジョが、県大会の応援に姿を見せなかったことで、周りのみんなはその噂が真実であることを知った。
失恋をし、県大会のレースでも一勝も挙げることができなかった孝介先輩は、落ち込んでいるのか、吹っ切るために何かに打ち込みたいのか、毎日こうして居残り練習をしている。
いつもなら、なんだかんだ言いながらも、何人かの男子部員がそんな彼に付き合って最後まで残っているけど、今日は流れの速い雲に追い立てられるようにみんな帰ってしまって、プールには孝介先輩とあたしだけが残された。
今日も孝介先輩が居残り練習をするかどうかは、賭けみたいなものだった。
先輩が他の部員たちと一緒に帰らずに1人になることがあったら、あたしは自分の気持ちを彼に伝えようと決めていた。
あたしは賭けに勝った。
悪いけど、これはあたしにとってはチャンスなのだ。
なんていったって、あたしたちの夏は短い。
夏休みの練習は、プールが使用できなくなるお盆までの、あと1週間とちょっとで終わってしまう。
お盆明けの夏休み後半戦を楽しく過ごすためには、この1週間とちょっとが勝負なのだ。
孝介先輩は、日よけの下に並べて置かれたパイプ椅子に、どっかりと座り込んだ。
荒い息をして、薄く筋肉のついた肩をまだ上下させている。
肩からかけたタオルで頭から流れる雫を拭う。
その腕が上下するたびに、腕の筋肉も躍動する。
水泳部に入ったときは憧れだけだったヒト。
カノジョがいるって分かっても、その気持ちは私の中でどんどん育って、だけど、見つめることしかできなかったヒト。
しなやかなその筋肉も、相変わらず薄い色の髪も、今や誰のモノでもなくなったのだと思ったら、あたしの口からスルリと言葉が出た。
「孝介先輩、その……、カノジョとの噂、本当なんですか?」
孝介先輩は、タオルで体を拭っていた手を止めた。その肩の筋肉がピクリと動くのがわかった。
「だったらナニ!」
答えた声は、当たり前だけど怒っていた。
その声と口調の固さに、あたしは一瞬ビビったけれど、ここで引くわけにはいかない。
何しろこれは、めったにないチャンスなのだ。
「噂が本当なら、あたしと付き合ってください!」
あたしは孝介先輩を見つめ、できるだけ言葉を区切らないように一気に言った。
「入学してから、ずっと好きでした」
あたしの言葉が終わらないうちに、孝介先輩が立ち上がって、隣の椅子にタオルを置いた。
あたしが目を逸らさないから、彼も目を逸らさないのか、彼が目を逸らさないから、あたしも眼を逸らさないのか。
まるで目を逸らした瞬間、何かがはじけて飛びそうな緊迫感の中で、やがて孝介先輩が口を開いた。
「有沢、俺この前ふられたばっかりなんだけど……」
「知ってます。でも、ふられたってことは、今はフリーってことでしょう?」
“知ってます”という言葉があたしの口から出た瞬間、孝介先輩が目を伏せた。
空が一段と暗くなった。
上空から雲のうねる様な音が聞こえる。
本当にもうすぐ雨が降ってくるだろう。
孝介先輩は意を決するように、もう1度あたしの視線を真正面から捕らえた。
「有沢、ゴメン。俺、ふられたからって、そんなにすぐに気持ち切り替えられない」
その言葉にあたしは俯いた。
何か言葉を探さなければと、あたしは懸命に思考をめぐらしたけれど、言葉が何も見つからない。
心臓がドクンドクンと鼓動を打っている。こめかみが痛くなって、辺りの物音が遠くにかすんでいくようなあたしの耳は、それでも先輩の声を捉える。
「でも、ありがとう。有沢」
そう言い終えると、孝介先輩は椅子の上に投げ出してあったタオルを肩にかけ、水泳帽とゴーグルを手に取った。
「ああ、とうとう降ってきた」
孝介先輩の言葉に日よけの外を見ると、人のいなくなったプールに雨が波紋を造っていた。
降り出したばかりの弱々しい銀の糸が、プールサイドのコンクリートの色を、濃いグレーに変えていく。
「有沢、傘持ってきてる?」
孝介先輩が優しく尋ねてくれる。
あたしは先輩の顔を見ずに頷いた。
「送ってやれないけど、気をつけて帰れよ」
ぎこちない微笑と共に、その言葉を残して、先輩はプールサイドを歩き出した。
何か言わなければいけない。
そうでなければ、あたしの初恋はこれで終わってしまう。
今さっき自分がふった女の子に対して、こんな自然に優しい言葉をかける先輩を、やっぱり好きだと今でも思う。
何をどうすれば良いのかわからないけれど、取り敢えず孝介先輩を引き止めたい!
あたしは雨をものともせず、孝介先輩の後を追いかけて、その背中に向かって叫んだ。
「あたし、諦めませんから!」
絶叫したつもりだけど、のどがカラカラに渇いていて、あまり大きな声を出せなかった。
それでも孝介先輩は雨の中で歩みを止めた。
「先輩に別のカノジョができても、ずっと好きです」
プールサイドに立ち止まったまま、振り返らない背中に向かって、あたしはなおも続けて言い募った。
孝介先輩がゆっくりとあたしを振り返り、引き返してきた。
これは効果があったということだろうか? ちょっとは、あたしの気持ちに答えようとしてくれているのだろうか?
先輩はプールサイドをズンズンと歩いてきて、あたしの真正面に立ち、あたしの肩に手をかけた。
「有沢、ありがとう!」
正面から見た孝介先輩の頬は、心なしか上気して赤く見えた。
その興奮した口調のまま、熱っぽく真正面からあたしに囁きかける。
「そうだよな!」
―――?
“ソウダヨナ”???
孝介先輩の口から出た言葉は、なんだかちょっとあたしの予想に反していた。
そんなあたしの反応なんて気に留めることもなく、先輩は興奮したまま、あたしの肩にかけた手を放して、雨が降ってくる空を見上げた。
「そうだよな。ほかに好きな人ができたって言われたからって、諦めなきゃいけないなんてことないよな!」
上を向いた孝介先輩の顎から、雨の雫が滴り落ちる。
いつの間にか拳に握られた、さっきまであたしの肩に置かれていた左手からも、雫は滴っていた。
その雨の雫になりたい、なんて思っている場合じゃない!
事態はなんだかあたしの予想を大きく裏切っている。
「ほかに好きな人ができたってカノジョに言われて、俺、諦めるしかないんだって思ってたけど、そんなこと関係ないよな。あいつにほかに好きな人ができたって、俺の気持ちは変わらないんだから、諦めることなんてなかったんだよ」
孝介先輩は、まるで熱に浮かされた様に瞳を潤ませ、両手を強く握り締めていた。
―――!?
あたしはことの成り行きがよく理解できないでいる。
「でも、孝介先輩、カノジョにふられたんですよね? だったら、追いかけるより、違う恋を探したほうがよくないですか?」
全くバカなことを口走ってしまった。
先輩はまるで、今、あたしが目の前に居るのに気がついたかのようにあたしを見、魅了されるような笑顔を満面に浮かべた。
「ふられても諦めないって、今、有沢が言ったんじゃん?」
その言葉で雷に打たれたように固まってしまった体の変わりに、あたしの頭はゆっくりと事態を理解し始める。
「俺、追いかけたり、粘ったりするのって、男らしくないって思って、諦めろって自分に言い聞かせてたけど、そんなことないよな!? 自分が納得できないのに、一方的に終わりにされて諦めるなんて、そっちの方が男らしくないよな?」
孝介先輩の熱っぽい語らいは、あたしには絶望的な言葉だ。
取り敢えず、あたしの気持ちに答えようとは、これっぽっちも思ってないらしい……。
「ありがとう、有沢。ホントに気をつけて帰れよ」
さっきと同じ言葉を残して、先輩は再びあたしに背を向けて、雨の中を歩き出した。
あたしはその背中を引き止めることができないでいる。
引き止めようとするあたしの言葉が、逆に彼を勇気付けてしまうらしいからだ。
夏の雨は、プールサイドのコンクリートからも、あたしの体からも、孝介先輩の体からも、等しく熱を奪っていく。
それなのに、あたしたちの心から、その熱を奪っていくことはないらしい。
憧れた背中は、プールサイドと外の更衣室とを隔てる、コンクリートの塀を曲がって見えなくなってしまった。
雨に濡れたままその背中を見送って、自分でもしぶといと思いつつ、それでも諦めないと、あたしは自分の心でつぶやいた。
孝介先輩がそれでもまたカノジョにふられたら、リプレイを申し込んでやる。
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