小学校六年の春だったと思う。俺は、妾の子だということがばれていじめられたことがある。勉強がまあまあで、体が大きく運動もよくできたので、いじめられるわけないと思っていた。だが、口下手で話を合わせるのが苦手だったので、友達はいなかった。それが原因で、いじめられたのかもしれない。
昼休みや登下校になると、クラスの悪ガキどもが近づいてきて、
「お前の母さん売春婦」
「妾の子、妾の子」
「サノバビッチ、サノバビッチ」
と、手をたたきながら俺の周りを回る。
クラスのやつらはもちろん何も言わない。俺もやっぱり何も言わず黙っていた。腕力に自信がなかったわけではない。喧嘩することでこのことが母が知られてしまうことを恐れたからだ。何日もこういったことが続いた。
ある日、悪ガキたちが廊下で俺をはやし立てている様子を、別のクラスの御堂エリに見られてしまった。
「あなたたち、いい加減にしなさい。先生にいうわよ」
悪ガキたちは御堂エリに面と向かって言われて、しぶしぶはやし立てることをやめた。俺には屈辱的なことだった。コイツだけには助けられたくなかった。
「大丈夫。ひどい人たちよね」
エリはきれいな長いまつげをふるわせて、心配そうにこちらを見る。かわいい横顔が俺をいらつかせる。
俺はエリをにらみつけて、
「いい気になるなよ」
と、怒鳴った。
エリは突然怒鳴られて、ビックリした顔をしていた。
俺がエリを意識するのには、理由があった。エリの父親、御堂哲司は、地方出身の金持ちで俺の母を妾にしていた。十六歳で母は俺を生んだ。御堂哲司との間の子である。だから母は、まだ若くて色が白く小柄だったので学生でも通用するぐらいの容姿をしていたと思う。ただ母は体が弱かったので仕事ができず、妾生活をして御堂から生活費を恵んでもらっている状況だった。御堂は、でかいからだのきざな野郎だった。週に数回顔をみせるが、実子ではないとはいえ、血のつながる俺に挨拶も会話もプレゼントもない。認知もしなかった。あるのは、母に対する劣情だけ。別に御堂になにか期待しているわけではない。そういう人間だと説明しているだけだ。
御堂は隣の部屋で母と楽しんだ後、満足げな顔でそそくさと顔を隠しながら、本当の妻と子供の待つ家庭に戻っていく。俺と母の家は、御堂の家のような豪邸ではなく普通のアパートだ。壁は薄く淫らな行為の声は筒抜けだ。小学校六年にもなれば何をしているのかわかる。俺は母と御堂の嬌声を聞きながら生活していた。
俺が週に何度か来る男が父親だと知ったのは、小学校に入ってからだった。母には御堂に迷惑がかかるから、御堂が父親だと言ってはならないと口止めされた。母は優しい俺にとっての唯一の味方である。御堂は嫌いだが、母の言いつけどおり父親のことを秘密にした。
世間では母が御堂の妾ということを知らなかったが、誰かの愛人だとはうすうす知られていた。誰にも父親のことを話せない、こんな親子に世間や親戚の目は冷たく、こんな母だけが俺に優しくしてくれた。俺は母のために早く大人になって強くなって、母に優しくしてあげたいと思っていた。
俺が同学年に御堂の娘がいることを知ったのは、小学校四年のときだった。
たまたま授業中、窓からグラウンドを見ていると、四年一組御堂、と書かれたゼッケンをつけて運動服の小さい女の子が走っている。俺はその日から気になって、御堂エリの姿を眼で追うようになった。機会があれば、どんなやつかずっと観察していた。エリは活動的で男勝りな女の子だった。髪の毛が短く、目が大きい、色が黒いので、美少女というよりは美少年みたいに見える。体が小さいのに笑いながら自分より体の大きい男の子の頭をコツいたりしていた。勉強もスポーツもかなりできるらしい。
俺は下校するエリのあとをつけて、御堂の豪邸の場所を知った。御堂の見覚えある黒塗りの車もそこに止めてある。御堂哲司の本当の家庭がそこにあった。俺は中を窺いてみたかったが、怖くなって自分の家まで走って帰った。自分の家に戻ってくると、俺はなぜかほっとした。
俺へのいじめはエリが助けてくれた後も少し続いた。しかし、そのあと悪ガキたちは、このいじめに飽きたのか、俺をいじめなくなっていった。
時が過ぎて秋になった。
小学校の修学旅行は、二泊三日だった。二日目の夜、俺は夜中の二時くらいに目が覚めた。みんなはスヤスヤと寝ている。俺が便所に行こうとすると、女子トイレの方で声がするのに気がついた。
「気持ちいいだろ。なぁ。いい気持ちだろ。かわいいなぁ」
「いっ、いやです。やめて、やめてください。触らないでください。柴田先生。いや」
俺は柴田先生が、女子生徒にいたずらしている現場に出くわしたみたいだ。
多くの女子生徒たちは柴田先生を嫌っていて、俺は女子生徒の体を触ったとか下着を見ていたとかいう女子生徒の柴田の陰口を何度も聞いたことがある。俺は母と御堂の性的なことに不快感を持っていたので、こういったことに潔癖症気味だったのかもしれない。俺は他人のことにあまり興味がないタイプなのに、女子生徒がかわいそうに思えて、助けてあげたくなった。
「こら、おまえら何をしているんだ」
と、俺は声色を変えてどなりながら、隣の清掃用の用具室から、上からホースで水をぶっかけてやった。柴田は「うああ」と叫びながらトイレから転がるように出てきて、走って逃げていった。俺はその逃げていく無様な柴田の姿を見て、ざまぁみろだった。
俺は水浸しになってしまった女子生徒に、だいじょうぶかと声をかけた。
げっ、まずい、エリだった。
エリは、いきなり俺に抱きついてきてわんわんと泣き出した。
「怖いよ。怖いよ。こわいよう」
エリは繰り返した。本当に怯えているようだった。勝気なエリらしくなかった。俺はそのままつったっているしかなかった。
数分間そうしていたと思う。俺には長く長く感じた。だんだん嗚咽が小さくなってきた。まだ水浸しの小さな体は震えている。しかたがないので俺は旅館の三階にある大浴場に、泣いているエリの手を引っ張って連れて行った。大浴場の営業時間は終わっていたが、鍵はかかっていなかった。風呂に張っているお湯は冷めていたが、熱いお湯は出るようだった。
俺はエリに、
「脱衣所のドライヤーで服を乾かしな、寒いならシャワーは使えるぞ。タオルとバスタオルは、使用済みのかごに残ってるやつを使えばいいだろ」
と、ぶっきら棒に言って大浴場を出ようとした。
「待ってお願い、誰も来ないか見張ってて、怖いから」
エリは赤い目と震える声で俺に言った。
俺はエリとこれ以上関りたくなかったが、非道じゃないので、
「これで、貸し借りなしな」
とエリに言い放って、見張るために脱衣所の出入口付近でエリに背を向けて座った。
エリは悪ガキにはやし立てられた俺を助けたことを覚えていないだろうから、不思議そうな顔をしていた。でも俺が見張っているので、エリはシャワーを浴びるために服を脱ぎ始めたようだ。
俺は絶対後ろを見ないように気をつけた。でも音はするので、エリが何をしているか想像してしまう。服を脱ぐ音、浴場に入っていく音、シャワーの音が、脱衣所に戻ってくる音、体を吹く音、ドライヤーで、髪や服を乾かしてる音がした。エリは落ち着いてきたのか話しかけてきた。
「お願い、今日のこと誰にも言わないで」
「俺には、話すようなダチがいねぇよ」
と、俺は返した。
「なんでいないの」
「愛嬌ねえからな」
「愛嬌あるよ」
「ねえよ」
「あるよ」
俺はこんな会話をしたくないので黙った。
「名前、なんて言うの」
「結城」
「下は」
「鉄人」
「鉄クンってよんでいい?」
馴れ馴れしいやつだ。
「鉄クン、あたしが友達になってあげよっか?」
俺はカチンと来て、思わずエリをにらみつけるために後ろを振り返ってしまった。
エリはまだ下着を着けているところだった。
エリと目が合う。
「きゃっ」
「あっ」
俺は目をそらしたがもう遅かった。
「もぉ、鉄クンのエッチ」
少し媚を含んだ声だった。俺はこの声にいらいらした。どきどきしている自分にもいらいらした。
「お前なんか大っ嫌いだ」
俺はそう言い残したまま大浴場を出て行った。
修学旅行から帰ってくると、学校でエリの視線を強く感じることが多くなった。俺はエリと違うクラスだから、多く逢わないはずだが、廊下で友達と話しながら俺の教室をのぞいたり、俺のクラスの人と話すために教室に入って来たとき、なんか俺のほうを時々チラチラ窺ったりしてるように感じる。目があうとすこしエリの耳が赤くなっているような気もする。以前は俺のほうがエリの姿を目で追っていたが、目があうようになったのであえて視線を合わさないようにした。
卒業式まで数週間という時期になった。昼休みにエリは俺のクラスに来て、俺の姿を見つけると近づいてきた。
「ちょっと顔貸して」
と言って、俺の返事も聞かず非常階段のほうに引っ張っていった。
非常階段の踊り場はすこし寒かった。風も時々吹いてくる。エリは二人だけになってもなかなか話し出そうとしなかった。
「修学旅行のことは、誰にも話してないよ。」
と、俺は仏頂面で言ってみた。
「そんなこと心配してない」
「だったら何」
「あたしのこと嫌いなの?」
真面目な顔してエリが言う。
俺は黙った。
「あたし結構人気あるんだよ」
沈黙を嫌ったのか、エリが冗談めかして話す。
「田口君とか、東上君もあたしのこと好きみたいだし・・・」
自信家だな。
俺は話をさえぎって、
「俺、勝気な女好きじゃねぇし。女らしくて素直なのがいい」
「素直で女らしくなればいいの?」
彼女はまったく堪えるようなタマじゃない。
「それにおまえ柴田に触られて汚れてるだろ」
そう言い放って、俺はエリのもとから逃げた。エリがその後どんな様子をしていたかは、すこし心苦しかったので俺は見ないようにした。
小学校の卒業式が終わり春休みに入った。もうすぐ中学生になるので、俺は新聞配達や飲食店の皿洗いのバイトを始めた。
御堂の金で生活させられるのが嫌だったからだ。家近く飲食店の主人には高校生にならなきゃ雇ってやれないといわれたので、隣町の飲食店で高校生だと偽って雇ってもらった。俺は体が大きかったのでだませたと思っていたが、飲食店の主人は知っていたかもしれない。給料が普通のバイトの六掛けぐらいだった。しかし違法な労働なので、雇ってもらっただけでもありがたかった。
バイト代は全額母に渡した。
優しい大好きな母に喜んでもらいたかった。初めてのバイト代を母に渡したとき、母は泣きながらにっこり笑って、
「ありがとう」
と言った。
俺が御堂を嫌っていることを知っているから、何でバイトをはじめたのかも知っているはずだ。
俺は中学時代に入ってからも愛想よく話すのが苦手なので、やっぱり友人を作れなかった。図体がでかいが、からかっても言い返さないので、軽く思われていたのかもしれない。
ある日クラスの不良に絡まれて、3人から意味なく殴られた。俺は母を悲しませたくなかったので耐えようと思っていたのに、不良たちのいじめが小学校のときに比べてあまりにも暴力的でしつこいので、逆にキレて3人をボコボコにやり返してしまった。
俺は母にばれてしまうと動揺した。しかし結局母にばれることはなかった。不良達は俺にボコボコにされたことを隠した。俺は不良というのは面子があるので、喧嘩に負けても口外しないんだなとそこで学んだ。
でもその事件から、クラスのやつらに俺が不良だと思われるようになってしまった。俺は体が大きかったので、その後も不良に絡まれることが多かったが、喧嘩で負けたことがなかった。 クラブ活動もせず愛想もなかったし、学校の授業中はバイトの疲れでよく居眠りしていたのでそう思われても仕方がない。だが悪いやつらとつるんだり遊んだりしていたわけではない。俺はバイトと学校で十分忙しかったし、母を悲しませるようなことをしたくなかった。
エリのほうは中学に入って綺麗な女性に変わっていった。小学校まで短かった髪を肩まで伸ばしている。髪の毛もすこし茶色がかっている。小学校まで日に焼けて褐色だった肌が、吹奏楽部に入って白くなった。流行後れの校則と戦いながら、セーラー服のスカートの丈を短くしていた。小学校までは快活元気な男勝りな子だったが、中学に入ってきれいな大人っぽい感じになってきている。
かわいい表情にもすこし色気が加わり、胸はそんなに大きくないが手足が長くて、体の線がまるみを帯びてきている。相変わらず背はそんなに高くなかったが。
周りの男たちが、エリのことで騒いでいるのをよく聞いた、誰がかわいいとか、誰が振られたとか、誰が付き合っているとかの話にエリの名前が出るようになっていた。中学二年になったときクラスの連中が、大学生と付き合っているらしいと噂してるのを聞いたことがある。俺はすごく気になったがクラスで話すやつがいなったので、本当かどうか詳しいことはよく知らない。
俺はエリが綺麗だったり可愛かったりみんなの評判がよかったりするのが嫌だった。エリが、輝けば輝くほど自分の惨めさを感じるのだ。俺はエリに嫉妬していた。本当の家庭を持っているエリと、偽者の家庭で育つ俺。社交的なエリと無愛想な俺。母がかわいそうだ。俺はエリを認めない。俺は御堂なんて人間を認めない。
俺は飲食店で皿洗いのバイトで家に帰ってくるのが遅かっので、御堂がどのぐらいの頻度で家に来ているのかよく知らないでいた。今思えばバイトなんかしないで、寂しい母の話し相手になっていればよかったかもと思う。そんなことになっているとは知らなかった。
中学に入ってから御堂は、あまり母に会いに来なくなっているらしい。
母は御堂が足繁く通わないようになり、気に病んでいるみたいだった。母は御堂に捨てられると、経済的にも困窮すると考えたかもしれない。俺のバイトの稼ぎでは、不安だったかもしれないし、何より御堂のことを愛していたかもしれない。
鏡台の前で「歳かしらね」と、つぶやいているのを見たりした。
そのうち母は、寂しさを紛らわすために酒におぼれるようになった。俺ははじめ母にのみ過ぎないように注意したが、親というのは子供にそういうことを指摘されるのがことのほか嫌らしく、結局俺は母にあまりきつく注意できなかった。母はもともと体が弱かったため入退院を繰り返すようになり、精神的に不安定になり躁鬱病になった。
俺の家に、御堂はもうさっぱり来ないみたいだ。
中学3年の秋。
その日もいつものようにバイトが終えて、俺は夜遅く家へ帰ってきた。するといつもと同じでない様子の母が首をつっていた。俺は母だと思わなかった。人相が変わっていた。体液が体中のあなから出ていた。俺はその後どうしたかよく覚えていない。
葬式には、中学校のやつらがたくさん来ていた。クラスの女たちが、話したことがない人間の葬式で泣いている。いまいちリアリティがなかった。俺は泣けなかった。同じクラスでないエリも御堂も姿を見せなかった。俺としては、来ないほうが心が掻き立てられなくて有り難かった。
葬式のあと親戚が集まって、俺の進路を話し合った。
俺は中学卒業後、隣の県にあるパン工場で働くことになっていた。半年後、パン工場の近くで一人暮らしの生活をする予定なので、このまま残りの半年間、この母との思い出のあるこの部屋で一人暮らしさせてくれと親戚に頼んだ。親戚たちは俺を引き取らないですむこの提案を受け入れた。親戚たちはほっとした様子だった。いつでも困ったことがあれば連絡しなさいとも言われたが、言葉どおり受け取れない。親戚も生活は豊かとは言えない。子供を育てるには、責任も生じるし出費も生じる。
学校に行くと、クラスメイトも先生も腫れ物に触るようだった。かわいそうな感じで俺に接っするのはやめてくれ。バイトをしているほうが、忙しく体を動かすので余計なことを思い出さなくてよかった。新聞屋の主人も飲食店の主人も、余計な同情がなく普段どおり仕事ができて有り難かった。俺はいつもどおりの忙しいバイトと学校の生活に戻っていった。
いつもどおりの生活に戻ったと思っていた。ある日ふと夜中に目が覚めた。いつも疲れて寝るので、夜中に目が覚めるなんてありえない。俺の顔が濡れていた、
「うっ、う、くっ」
という嗚咽がもれた。
俺は泣いていることを自覚した。母のことを思い出した。やさしかった。きれいだった。楽しかった。母との思い出。なんでひとりで死んじゃったんだろう。
嗚咽の声が大きくなっていた。俺はもう我慢しなくてよかった。もう家族は誰もいない。俺はもう一人ぼっちだった。
年が明けた。多くの学生の進路が確定し始める。中卒での就職は、近頃めっぽう少ない。ほとんどが進学。エリは推薦で家近くの私立の女子高に決まったらしい。俺は隣の県のパン工場に就職。これで御堂家との接点が切れるなと思っていた。
しかしある日、学校の昼休みにエリが突然近づいてきて俺に話しかけた。
「話があるの、放課後に体育館の裏で待ってるから来て」
悪いが俺にはもう話がなかった。御堂家との接点を作りたくなかった。御堂家から逃げ出したかった。
放課後そのまま、家に帰ってバイトに行った。飲食店の皿洗いのバイトが終わって家に着いたのは、夜中の十一時すこし前だった。家の前に黒い人影。誰かいる。セーラー服の上にコートを羽織ったエリだった。寒そうにしてドアの前で座っている。すこし顔を強張らせている。
俺はため息をついた。いつから待っていたんだろう。中学に入って綺麗で優しい女性の印象だけど、そういえば小学校のころは活発で勝気な子だったよな。中学から猫かぶってやがる。強情なやつ。
「入れば」
俺は家の鍵を開けて、エリの目を見ずに言った。エリは、うなずいたようだ。後ろからついてくる。部屋の中できょろきょろ見渡す。俺はエリをソファーに座らした。エアコンをつけインスタントコーヒーを二つ作った。
「お母さんの仏壇どこ」
俺は、
「いい」
とだけ返した。
「ごめんなさい……」
「私、その全然知らなくて……」
「私の父がその・・・鉄君のお母さんとその……」
「鉄クンのお母さんの葬式の話しをしたら、お母さんが教えてくれて……」
「わたし、鉄君と異母姉弟だって、知らなくて……」
「父がそんな恥ずかしいことをしているなんて、ちっとも知らなくて……」
なんか要領を得ないし邪魔くさい。
「もういいよ。君の家と僕の家は、関係ない。君の母親がどう言ったか知らないけど。君の母親が勘違いしているだけだ。母は俺に父親について何も話さなかった。本当のことは母しか知らない」
「そう、ごめんなさい」
エリは唇をかみしめた。まったく俺の話を信用してない感じだ。俺とエリは無言でコーヒーを飲んだ。コイツでも家族のことで心を痛めるんだな。心痛めてもらっても母親は帰ってこないけど。俺はそんなこと考えていた。エリも黙って何か考えてごとをしているみたいだ。
コーヒーも飲み終わったので、
「もう夜おそいから帰りな」
と俺は声をかけた。
エリはうなずいた。少し凹んでいるようだ。なんかエリらしくない。
「送らなくていいよ」
と、エリ。
「誰が送るって言った」
と、俺。
俺のアパートからエリの豪邸まで、歩いて三十分ぐらいだ。結局、俺はエリを家まで送った。エリの家まで送る途中、エリはついてくる俺の方を見てニヤリとした。俺もニヤリを返した。なんかすこし元気がでたみたいだ。
一週間後。
いつものように夜バイトから帰ってくると、またエリが玄関の前で座って待っていた。今日は私服に着替えていた。俺の姿を見つけるとにやっと笑う。俺が鍵を開けると、勝手に後ろから俺について部屋に入ってくる。俺はインスタントコーヒーを二つ作った。それを飲みながら雑談を三十分ぐらいした。といっても一方的にエリが学校であったことなんかをしゃべっているのを聞いているだけだが。エリはおもむろにもう帰ると宣言した。俺はおもむろに家まで送ると宣言しなかったが、家まで送った。
その日から、エリが週に何回か部屋に来るようになってしまった。俺は他人との距離を十分とることになれていたので、懐に入ってきたエリにどう対応していいのかわからなかった。俺はエリにされるがままだ。もう今更部屋に来るなともいえない。それにエリが誰もいない俺の家に来てくれるのが楽しくなっていた。俺は一人になって寂しかったのかもしれない。
ある日バイトから帰るとやっぱり家の前にエリはいた。俺は自然に笑みがこぼれる。エリもにっこりを返す。俺はいつものようにコーヒーを二つ作った。エリは白いコーヒーカップに口をつけた。俺はコーヒーを飲みながらエリを盗み見た。エリの唇は少しぷっくりしていて小さかった。光っているからなにかつけているのかも。エリはその唇でいつもとは違う話を始めた。
「異母兄妹で結婚できないって知ってる?」
挑むような目つきで俺をみるエリ。目線をはずさないエリ。なんかいつもと違う。俺はさしあさって視線をはずした。あまり触れたくない話題だ。沈黙が長い。
「知ってる」
とだけ俺は答えた。
「小学校から?」
と、エリ。
「…………」
「小学校のときなぜ鉄クンに振られたか、わかってよかった」
「結構、当時は落込んだなぁ」
エリの俺を見る目つきは変わらない。なんかまずいところに入り込んでいる。にぶい俺でもわかる。エリが、コーヒーを飲み終わったみたいだ。
「そろそろ帰りな」
俺は急かせるように言う。
「じゃ、帰る」
エリは不機嫌に答えた。
その日も俺は、エリを家まで送ろうとして玄関でぐずぐず靴を履いていた。先に靴を履き終えたエリは、俺の頭の上から、
「それでも好きだよ」
と、いきなり言って先に走って帰っていった。
その日結局俺はエリを家まで送らなかった。俺はまずいと思った。エリと距離をおかないといけないと考えるようになった。異母兄妹でネンゴロになるわけにはいかない。
次の日バイト先で俺は、ホールで働いている湯沢ミカさんに、バイトが終わったら話がしたいと声をかけた。ミカさんは、髪の毛が赤くて耳にピアスをたくさんしている。バンドをやっている大学生らしい。ほとんど誰とも話さない俺が話しかけると驚いていた。でも、ミカさんは、結構サバサバしているので、俺の頼みを聞いてくれそうな気がした。俺は、バイトが終わってからミカさんに、十日間ぐらいバイトが終わった後、俺の部屋でコーヒーを飲んでくれないか頼んだ。理由は変な女に付きまとわれているためと説明した。ミカさんの答えは、一万円で手を打とうだった。俺は、一万円で手を打った。
ミカさんが、バイトの後俺の家でコーヒーを飲むようになって三日目だった。ミカさんと一緒に家に帰ってくるとエリが待っていた。その日エリは、驚いた顔で、
「誰?」
と聞いた。
「俺の彼女」
俺はミカさんを紹介した。
「鉄クン。女らしい子が好きっていってたじゃない。全然、彼女に見えないんですけれども」
と、エリはミカさんを見て疑い深そうに言った。
俺はすこし動揺した。ミカさんもまずいと思ったのだろう。
「あたしの彼氏取らないでね」
と、ミカさんはそうエリに言って俺にいきなり抱きついてキスをした。
エリは驚いて目を大きくした。
その後俺をキッと睨んだエリは何も言わずその場を駆け出した。
キスが終わると俺は、
「な、何するんですか」
と、はあはあと息を切らしながらミカさんに聞いた。俺はキスの間ビックリして息を止めていたみたいだ。
「バレそうだから、気を利かしたんだけど。迷惑だった?」
と、ミカさんは平気そうだった。
「いや、ミカさんがいいんだったら、いいんですけど」
「そうでしょ、じゃ、キス代プラス一万円ね」
と、ミカさんは手を出して一万円を要求した。
「え、金とるの?」
俺は、しぶしぶ財布から一万円札を出してミカさんに払った。結局俺のはじめてのキスは、一万円という値がついた。俺の計画どおりではなかったが、エリはこのキスの件で俺の家に来なくなった。エリと距離をおくことはできたが、エリをひどく傷つけてしまったことを後悔した。
エリが家に来なくなって、俺はもうすぐ会わなくなるエリのことや御堂のことを考える時間が増えた。俺はやっぱりエリを傷つけたことを後悔していた。エリは、何も悪くない。俺は御堂が嫌いだからエリに八つ当たりしている卑怯な人間だ。母と行為を楽しんだ後、満足げな顔で、そそくさと、顔を隠しながら、自分の家に戻っていく御堂の顔を思い出した。俺は、あんなこそこそした卑怯な人間になりたくない。いろいろ考えるうちに、俺は、ひとつの決心をした。俺はもう逃げない。その日俺は決心を伝えるため、エリを呼び出して非常階段の踊場に連れて行った。なんか小学校のときを思い出した。あの時も、風が吹いて寒い日だった。俺はどのように話せばいいのか迷った。沈黙が長かったので、エリのほうが切り出してくれた。
「ミカさんの件なら、知ってるよ」
と、エリが風で舞う髪の毛を押さえながら言った。
「え、なんで」
「あの後、どうしても納得できなかったの。だから鉄クンがバイトしている店で、ミカさんにしつこく問い詰めたの。そしたら、鉄クンが変な女に付きまとわれて困っているから、別れるのに手を貸したって教えてくれたよ。よっぽど私のこと嫌いなんだね」
「違う誤解だ御堂、俺はおまえのことが好きだ」
俺はエリをじっと見て、気持ちを伝えた。
エリは、真っ赤な顔して目線をそらした。
「もう、鉄クンと話すといつも驚かされる」
「おまえの父親が嫌いだったんでおまえに意地悪してた。俺卑怯だった。ごめん」
「やっぱり、異母兄妹なの」
「たぶん、母が言うには」
「だから、付き合うのがだめなの」
「ああ、だめだ。ごめん」
「わかった」
俺は、エリを見た。
エリは、にこっと笑いかけてくれた。
「なあ、ひとつお願いがあるんだけど」
「なあに、お兄さん」
冗談めかして、エリが言う。
「卒業式にでも、おまえの父さんに会う機会を作ってくれないか」
卒業式が終わった。
卒業生は両親と記念撮影したり、後輩に第二ボタンをあげたり、友達と泣いたりしている。
御堂家もエリと両親で和気あいあいと楽しそうに何か話していた。しばらくするとエリと母親は父親から離れていった。エリは俺のほうを見て目で合図した。エリは予定どおり御堂と会う機会を作ってくれた。俺は御堂に近づいた。
「御堂さん、お久しぶりです」
御堂は俺の顔を見てぎょっとした顔をした。
「ああ、久しぶりだな、な、なんだ」
俺は緊張しながら、
「今日無事に卒業できました。4月から工場で働くことになりました。今まで育ててくれて有難うございました」
と、御堂に話しかけた。俺は、自分の声が震えてないか気になった。でも俺はその時御堂の目を見据えてちゃんと話ができていたと思う。
「おお、元気でな」
御堂はエリとエリの母親のほうを伺いながら、苦虫をかみ殺したような表情で答えた。早く姿を消してくれといった雰囲気だ。
「さよなら父さん、もう会いに来ないから心配しないで」
俺はそれだけ言って御堂から離れた。残念だが初めて言った「父さん」で、声がすこし震えてしまった。
おわり
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