約束と戸惑い
エルザとの約束の時間まであと1時間になろうとするところで、ジンはガルディン商会を後にする事にした。
せっかくなのでと夕食を誘われたが、約束があるという事でジンは丁重にお断りした。ただ、やはりアイリスからは随分駄々をこねられた。
「おにいちゃ~ん、いっしょにごはんたべようよ~」
見送りに店の前まで出てもなお、諦めきれずジンにすがるアイリス。子供の我侭と言えばそれまでなのだろうが、この街に来たばかりで友達もいなくて寂しい思いをしていた事を思うと、やはりジンはどうしてもアイリスに甘くなってしまう。ジンはしゃがんでアイリスと目線を合わせて言った。
「ねえ、アイリス。ごめんだけどお兄ちゃんはこの後に人と会う約束をしてるんだ。だから今日はアイリスとご飯を食べることができないんだよ」
既に何度か繰り返した会話だ。それでも諦め切れず、少し涙目になってうなるアイリスに、ジンはさらに付け加える。
「ねえ、アイリス。約束って大事だよね?アイリスもパパやママとの約束は守るでしょう?お兄ちゃんも約束はちゃんと守らなくちゃいけないんだ。それは分かってくれる?」
一応小さく頷くアイリス。その様子を見てジンは、アイリスの頭を撫でながら言った。
「良い子だね、アイリスは。だからお兄ちゃんもアイリスと約束するよ。今日は駄目だけど、今度一緒にご飯を食べよう。約束する」
「ほんと?」
「うん、約束する。それじゃあ約束のおまじないしようか?」
「おまじない?」
「うん。アイリス、こうして小指を出してみて」
そうしてジンは小指だけを立てた状態で、アイリスに向けて手を差し出す。同じ様に出された小指同士を絡め、そしてリズムに合わせておまじないを口にしながら軽く上下に動かす。
「指きりしましょ、嘘ついたら駄目、だ~めよ。指切った」
そう言ってジンは最後にタイミングよく指を離した。指切りの元の文言はちょっと怖いところがあるので、ジンは四歳児向けにマイルドにアレンジしているつもりだ。アイリスは若干戸惑いながらも、興味津々でジンに付き合って手を上下に動かした。
「ふふふっ、もう1回する?」
「うん、する!」
そう答えるアイリスには、さっきまであった今にも泣き出しそうな雰囲気はない。
「「ゆびきりしましょ、うそついたらだめ、だ~めよ、ゆびきった」」
今度はアイリスも一緒になり、リズム良く歌うように言葉を発する。そうして指きりした後は、お互い笑顔で顔を見合わせる。
「ちゃんと指切りして約束したからね。今度一緒にご飯食べようね」
「うん!」
そうしてジンはアイリスの頭を撫でた後、立ち上がって両親であるオルトとイリスに謝罪する。
「すいません。勝手に約束してしまって」
「いえ、此方こそ。それに食事は此方がお願いしたかったので助かりました。ありがとうございます」
オルトも笑顔でそう返す。イリスも同じく笑顔で頷いた。
「ありがとうございます。それではこれで失礼します。今度は普通に買い物に来ますね。じゃあアイリス、またね」
そうしてあらためて二人とアイリスに別れの言葉を告げると、ジンは笑顔で商会を後にした。アイリスが離れようとしなかったのでタイミング的に醤油と味噌を買う事は出来なかったが、今度改めて買いに来るつもりのジンだった。
その後ジンは女性と会う前のエチケットとして、公衆浴場に寄って身奇麗にした後に宿へと戻った。そしてエルザの部屋を訪ね、出てきたエルザと連れ立って1階の食堂へと降りる。少し赤くなったエルザの目には気付かないふりだ。
「それじゃあ、まず乾杯しようか」
様々な料理が並べられたテーブルで、ジョッキを片手にジンは言った。
「ああ、いいぞ」
やはり答えるエルザの声に元気はない。だが、だからこそジンは今ここにこうして居るのだ。
「よし、じゃあ『出会い』に」
そう言ってジンはジョッキを上げる。別れた悲しみではなく、出会えた喜びに対しての乾杯のつもりだ。一瞬言葉に詰まるエルザだったが、すぐに笑って後に続いた。
「ああ、『出会い』に」
そうして二人ともジョッキを掲げ。
「「乾杯」」
そして打ち鳴らした。
「あー、美味いなー」
一気に飲み干して声をあげるエルザ。ジンはピッチャーで空いたエルザのジョッキにビールを注ぐ。
「ああ、美味いな。今夜はとことん飲みな」
本来酒は適度に飲んで楽しむもので、酔いつぶれる程飲むのは好ましくないと考えているジンだったが今回は別だ。酒は悲しみや辛い事を吐き出し、心を楽にするのに非常にありがたい存在でもあるのだ。勿論そういう場合は自分の家で飲むのが当然で、しかも女性が外でそこまで飲むのは論外だ。しかしジンはちゃんと自分がエルザの面倒を見るつもりなので、こうして酒をすすめるのだ。
「ああ、ジンも飲め」
エルザの勧めに従ってジンも飲み干し、新しい酒で器を満たす。そしてお互い笑顔で再度ジョッキを掲げた。
そうしてジンとエルザはお互い食べ、そして飲んだ。特にエルザは大いに酔っ払い、シーリンとの思い出話や愚痴を吐き出した。笑い、怒り、悲しみ、そして祝福するエルザ。ジンはもっぱら聞き役に回り、エルザのフォローをする。
エルザの笑いや祝福には同調して笑い、そして怒りや悲しみには様々な形で慰める。それらのジンの行動や言動は、付き合いでやっているわけではなく本心からのものだ。ジンは時には自らの失敗談や経験談を交えつつ、その後数時間に亘ってエルザと過ごした。
「ん~」
そう意味の無い声をもらすエルザはかなり酔いが回っており、潰れる一歩手前という状態だ。恐らくもう少しで眠ってしまうだろう。
終盤エルザのジョッキの中身を酒ではなく冷やしたお茶に替えていたジンだったが、頃合と見てそろそろお開きにしようと考えた。ジンも結構な量の酒を飲んだが、〔健康〕のおかげかほろ酔い以上にはならないで済んでいる。
「よし、エルザ。部屋に戻るぞ。立てるか?」
そう言ってジンはエルザに声をかけるが、一人では無理だなと判断して肩を貸そうとする。だがエルザの足には力が入っていない。大変面倒な事態ではあるのだが、これもエルザの自分に対する信頼の証と考えれば悪い気はしない。ジンは宿の従業員の女性に、鍵を持って一緒について来てくれるようにお願いする。エルザの部屋の戸締りと、万一にも変な噂が広まらないようにという配慮のつもりだ。そしてジンは肩を貸す事をあきらめ、エルザを抱きかかえるとそのまま階段を登って二階へと上がった。それは所謂お姫様抱っこに近い形だ。
運ばれるエルザは、自分がどういう状況にあるのか分からないので無抵抗だ。むしろ落ちないようにか、無意識にジンに抱きついてきた。当初ジンにやましい気持ちは一切無かったが、直接触れ合う事で感じるエルザの柔らかさを意識してしまうのは止むを得ない事だろう。元が老人とは言え、精神は18歳の若者なのだ。だからと言って狼になる事は論外だし有り得ないが、それでも友達に反応してしまう自分に少し罪悪感を覚えてしまうジンだった。
従業員に鍵を開けてもらったジンは、エルザをベッドに寝かせる。そして一旦1階に戻ってコップと水を入れたピッチャー、そして万一の備えに洗面器を借りて戻る。戻った時には、女性がエルザをきちんと布団の中に入れてくれていた。
「ありがとうございます。ハンナさん」
ジンがお礼を言った相手は、この宿の従業員のハンナだ。ハンナはこの宿で働いて長く、食事や洗濯等でジンもお世話になっている恰幅の良い中年女性だ。
「あんたもマメだねえ。自分の部屋で面倒みても、別に誰も何も言わないだろうに」
ハンナはベッドに寄せた小さなテーブルにコップ等を並べるジンを見て、笑みを浮かべたまま言った。何だかんだで二週間以上ジンと接している事で、彼が酔った女性に悪さをする様な男だとは欠片も思っていない。それにジンが自分の部屋に連れ込むことさえしない事もわかってて、あえてからかう為に言っているのだ。
「そういう訳にはいきませんよ。私も男ですからね」
ジンも苦笑しつつハンナに答える。自分にその気は無くとも、エルザの評判が悪くなるような事は避けるべきだとジンは考えている。それにさっき反応してしまった事もあり、ジンはそこまで自分を過信していなかった。
「隣の部屋は空いていないですかね?出来たら念のために今日は近くに泊まりたいのですが」
エルザの部屋を出て、ハンナが鍵を閉めているのを確認しながらジンが言った。部屋の内側用の鍵が掛けられない以上、どうしても防犯に不安が残るからだ。
「心配性だねー。分かった、言っとくよ」
ジンはそう快諾してくれたハンナにお礼を言い、今夜はエルザの右隣の部屋で休む事にする。元より部屋には一切荷物を置いていないので、部屋の変更といっても移動させるものはない。ジンはベッドに座り、〔MAP〕を表示させる。そして隣のエルザの部屋と自分の部屋を範囲指定し、そこに侵入者があった場合には〔警報〕が鳴る様に設定した。そうして準備を終えると、ジンもベッドに横になって眠りに付いた。
そして何事も無く迎えた翌朝、ジンの朝はラジオ体操で始まる。
以前はわざわざギルドの運動場に出向いて行っていたが、初心者研修の後は開き直って宿の中庭でやっている。最近では何人かの宿の従業員も一緒になって行う事もあるくらいだ。昨日の酔いもまったく残っておらず、ジンは気持ちよく朝の日課を消化していた。
そしてラジオ体操を終えてストレッチに移ろうかとする頃、エルザが中庭に現れた。
「おはよう、エルザ。思ったより早いな。酔いは大丈夫かな?」
今日は討伐依頼の予定だが、ギルドに行く直前にエルザを起すつもりだったジンはそう言った。
「おはよう。昨日はすまない。酔いは問題ない」
ジンと少し距離を取ったまま、答えるエルザは申し訳なさそうにしている。
「どうかしたのか?酔いつぶれた事なら別に気にしなくていいよ?」
「い、いや、さっきハンナさんに聞いたのだが…」
ジンに対する返事もどこかぎこちない。
「昨日私をけ、結婚運びしたと。しかも私はジンにだ、だだ抱きついてたりしていたと」
そう言うエルザの顔は真っ赤だ。どうやらさっきのエルザの表情は申し訳なさそうだったのではなく、恥ずかしくて緊張していたせいでそう見えていただけの様だ。
これはジンは後で聞いた話だが、この世界では所謂お姫様抱っこ(=結婚運び)は新婚初夜に夫が妻をベッドに運ぶ時にするものという認識が一般的だ。もちろん普通に病人等の搬送で使うこともあるのだが、女性が相手に抱きついたとなると前者の意味が強くなるのだ。ましてやエルザは同じ様にベッドに運ばれている。運ばれたときの記憶がおぼろげなエルザは、朝ばったり会ったハンナにその事実を告げられて散々からかわれたのだ。言われてみれば、何だかうっすらと誰かに運ばれて嬉しかったような、ふわふわと気持ちよかったような漠然とした記憶があるエルザだった。
ジンもエルザの言う『結婚運び』の意味は分からなかったが、彼女が恥ずかしがっている事はわかった。初めて見るエルザの表情にジンの心が跳ねる。加えて自分がその時に感じたエルザの感触などを思い出してしまい、ジンもつられて赤面する。しばしお互い赤面したままの時間が過ぎたが、ようやく少し立て直したジンが口を開く。
「ゴホン。あーそのエルザ、不用意な運び方をしてしまった事を詫びる。申し訳ない」
「い、いや、こちらが悪いのだから謝らないでくれ。それに別に嫌じゃないし」
ジンの謝罪に答えるエルザだったが、最後のほうが呟くようになってしまう。距離もあってジンには届かない。ジンも友人のエルザを女性として意識している自分に戸惑ってしまい、いつも以上に気が回らない。
このままではいけないと、ジンは自分の両頬をパンパンと二回強く叩いて、気持ちを切り替えようとした。
「ほんとすまん、エルザ。俺もちょっと意識してしまってた。今後そういうのにはもっと気を使うようにするよ。お互いこれ以上昨日の事は気にしないようにしないか?」
これ以上変に意識してしまうのは、友人としてエルザに失礼だと考えるジン。変な空気を吹き飛ばすかのように勢い込んで言った。
「あ、ああ。そうだな。そうしよう」
ジンの意識してしまっていたという発言に、少しの喜びと僅かな不満を感じるエルザ。感じる不満は「ちょっと」だからか、それとも過去形だからだろうか。
しかしエルザもこのままではいけないと、同様に立て直そうとする。
「よし、んじゃちょっと失礼」
ジンはそう言って井戸に近づき、冷たい井戸の水で顔を洗う。本日二度目の洗顔だが、目的は当然頭を冷やす事だ。そして自分もそうしようと、エルザもジンに続いて冷たい井戸の水で顔を洗った。
二人とも冷たい水で顔を洗う事で、少しは冷静になれたようだ。顔を見合わせて笑う。
「ははっ、ごめんなエルザ。どうもこういうのに慣れて無くてね」
一応元老人であるジンには少ないながらも経験値はあるのだが、あまりにも昔過ぎて当てにならない。逆に若い精神と肉体に戸惑うほどだ。
「ははっ、私もこういうのは初めてで慣れん。お互い様だな」
エルザもハンナにからかわれたせいで過剰反応し過ぎたと、ようやく通常の状態に戻る。
「ああ、お互い様って事だな。それじゃあ準備を済ませたら、早めにギルドに行こうか」
「ああ、私はかまわん。確かレイチェルも参加するんだったよな」
エルザが予定以上に早起きしたのでそう提案するジンと、快諾するエルザ。
「そうだよ。まあ俺達の方が早いだろうが、その分依頼をしっかり吟味しよう」
「わかった。ジンとレイチェルならDランクの討伐依頼でも大丈夫だな。久々の本格的な依頼になりそうだ」
腕が鳴るなと、エルザは楽しそうだ。
「はははっ、お手柔らかにね。じゃあ俺はストレッチが終わったら先に部屋戻ってるから、エルザも準備が終わったら呼びにきてくれ。ああ、今日はエルザの部屋の右隣に泊まってるから間違えないでね。そして一緒に朝飯を食べてから、そのまま出発しよう」
「了解。じゃあ、また後で」
そうして二人は一旦別れ、そして再び合流すると一緒に朝食をとった。再びからかってきたハンナにエルザがまた乙女モードになりそうになったが、ジンが肩揉み一回の約束で勘弁してもらった。肩揉み自体は、以前肩こりで辛そうなハンナにやってあげた事がある。
こうしたたわいのないやり取りも、他の宿泊客にも聞かせることで何も無かった事を知らしめ、エルザの評判を落とさないようにとハンナが気を使っているのだろう。そう判断したジンは、ハンナに感謝しつつ、場を和ませるように対応したのだ。
実際はエルザだけでなく、ジンを守る為にもハンナはそうしたのだ。アリアとの一件でジンは目立つ事になってしまったが、同じように見目麗しく有能なエルザにだってファンのような者はいるのだ。
そうしてたまに会話に交ざってくるハンナを加えながら、その後もジン達はたわいの無い会話を楽しみつつ朝食をとった。そして食事を終えたジン達は、ハンナに見送られてギルドへと向かうのだった。
次回は8~10日のいずれかの予定です。
それなりに必要なことを書いているつもりですが、此処数回は特にのんびりペースになってしまいました。楽しんでいただけてますでしょうか?
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ありがとうございました。