準備運動と新しい出会い
翌朝ジンは寝る前に設定した〔時間〕の目覚しアラームが鳴る前に目が覚めた。昨日はお酒を飲んだとは言え深酒はしていない。体調も問題なかった。
まず下半身に視線を落として健康を確認すると、タオルを首にかけ1階へと向かった。宿は朝早くから動き出しているようで、従業員の人達も朝から忙しそうに働いていた。
ジンはトイレと洗顔を済ませると、少し早めではあったが快く用意してもらえた朝食を美味しくいただいた。もちろん今日からは平常運転という事で、腹八分目に抑えている。そして宿のお姉さんから洗濯済みの衣類を受け取ると、一旦2階の部屋に戻った。
ジンは小袋に1回分の着替えとタオルを2本入れた公衆浴場用セットを作り、〔道具袋〕に収納した。また、タオルを三本と銅貨を入れた小袋を、〔道具袋〕ではなく鞄に普通に入れた。
こうして一応のカモフラージュを終え、これで準備完了だ。
そして最後に〔チェンジ〕で装備を一瞬にして装着すると、ジンは宿を出てギルドに向かった。
早朝からギルドに向かったのには訳がある。ギルドで受けたアリアの説明の中にギルドの運動場についてのものがあったのだ。
運動場はギルドが受付を開始する午前9時より1時間前から開放されていて、冒険者は自由に訓練する事が出来るとの事なのだ。まだまだ実力が足りないジンであるから、自主練習で鍛えさせてもらおうという考えだ。
そうしてギルドの中に入ったジンであったが、当然受付には誰も居ない。奥に見える数人の職員が朝の準備をしているようだ。ジンはそのまま奥の運動場へと足を進めた。
運動場にはまだジン以外の人は居ないようだった。本格的な練習の前の準備運動として、まずラジオ体操を始める。行うのはラジオ体操の第一だ。第二は覚えていない所が多いので、後でストレッチと一緒にいくつかをやるつもりだ。
大きく手を上に伸ばし、ゆっくりと腕を回し体をほぐす。朝のすがすがしい空気を吸いながら、ジンはラジオ体操を真剣に続けた。
そしてラジオ体操の最後の深呼吸を終えたところで、背後から声をかけられた。
「邪魔してすまない。ちょっと尋ねたいのだが、いったいそれは何なのだ?」
ジンが振り向くと、そこには背が高い黒髪の女性が立っていた。その身長はジンより少し低い程度だから175~180cmぐらいはあるだろう。女性としてはかなりの長身だ。
その体は女性らしい柔らかさを感じさせつつも、しっかりと筋肉もついていてたくましい。とは言え決して大柄というわけではなく、しなやかな身のこなしが予想される引き締まった体だ。
身に付けているのは黒っぽい革鎧で、しっかりと使い込んでいる印象を受ける。武器は持っていないようだ。
その顔は少しつりあがった眉と鋭い眼光もあって歴戦の戦士という雰囲気だ。その雰囲気も相まって少しきつめの印象だが、二十歳前後の凛々しい魅力がある美人だ。
その頭には尖った犬耳がピンと立っている。いや、狼だろうか? と、そこまでを一瞬で見て取ったジンは、彼女にどこか見覚えがある事に気付く。
「あ、もしかして『旅人の憩い亭』の中庭でお会いしましたか?」
「そうだ。あの時も不思議に思ったのだが聞き逃してな。気になっていたのだ。よかったら教えてくれないか?」
中庭で見られて気まずかったのにまさか運動場でも会うとはと、内心ジンは嘆くが、良く考えたらここは運動場である。運動して何もおかしい事はないと思い直した。
「はい構いませんよ。あれはラジオ体操という準備運動なんです」
「準備運動? 鍛錬ではないのか?」
「鍛錬前に体をほぐす為にやるものです。鍛錬などの激しい運動をする前に、体の準備をする為の運動です」
「? すまない。意味がよくわからないのだ。それに何の意味があるのだ?」
準備運動という概念がないのだろうか? そう言えばストレッチの歴史は近代だと聞いた事があったが、準備運動もそうなのだろうか? ジンはどうやって教えたら良いのものかと、少しの間考えて結論を出した。
「それじゃあ、まず一緒にやってみませんか? 口で説明するより、体感してもらった方が分かりやすいと思いますので」
「ああ、よろしく頼む」
誘いに嬉しそうに答える彼女を見て、ジンはやってみたかったんだなと微笑ましく思う。
「それじゃあ一通りやりますので、私の真似をしながらやってみてください」
ジンはそう言って向かい合わせになると、どう動いたら良いのかを口に出してアドバイスしながら、もう一度ラジオ体操を行った。
「――どうですか? 少し体が温まった気がしませんか?」
「確かに少しそんな気がする」
「この体操の目的の一つが、その体を温めるということです。体を軽い運動で温めて、次の本格的な運動の準備をするのです」
「温めると運動しやすくなるという事か?」
「例えば寒い日の朝をイメージしてください。寒いと体が縮こまった気がしませんか? でも起きて顔を洗ったり色々していると平気になりませんか? それは段々と体が温まって少しほぐれたからです」
微妙に違う気がするが何となくは伝わるだろう。元々詳しいわけでもないのだ。なんとなくで勘弁してもらおうとジンは開きなおる。
「この運動も似たようなものです。本格的な運動の前に、軽い運動で体を慣れさせる。体が動きやすいように、少し体を温めるということです」
「なるほど、何となくわかってきた」
ジンは伝わって良かったとホッとする。詳しくない事を説明するのは難しいものだ。
「もう一つの効果が、体の筋を伸ばして動きやすくするという事です。さっきの体操の中で、体の筋が伸びる感じがしませんでしたか?」
「ああ、確かにそうだったな」
ジンはラジオ体操で筋を伸ばす意識をするように声をかけたりしていた。その時に実感していたのだろう、女性は素直にうんうんと納得して頷く。
「筋というのは伸び縮みして私達の体を動かしますが、普通の状態だと少し固いんですよ。それをさっきみたいに軽く伸ばしてほぐしてやる事で、もっと体が動きやすくなるんです。それに固いままだと、急に激しい運動をしたりすると耐え切れずに切れてしまう事があるんです。そういう事故も事前にしっかりほぐしてあげることで、完全に防止するとは行きませんが大分減らす事ができるんですよ」
「ほほう。いや、確かに里の叔父が年甲斐もなくはしゃいで筋を痛めたことがあったが、そういうことなのかな」
「そうかもしれませんね。この筋とか関節というのは、年をとればとるほど固くなりますからね。よくお年寄りが体が固くなったと言っているのもこれです。激しい運動をする為だけじゃなく、毎朝この体操をする事でそうした体の固さを少しは解消できると思いますよ」
自分の体験談を込めて言うジン。昔の不健康な自分の体は激しい運動も出来なかった為、毎朝のラジオ体操でだましだましやって来ていた様なものだった。
「なるほどな。いや、確かにそうかもしれんな」
ジンは本当に素直だなと、また微笑ましく思った。
「ふふふっ。ご理解いただけて何よりです。ただ、先程も言いましたがこの運動は軽いものです。それに体をほぐすという意味では、少し物足りません。私はこれからもう少し別の準備運動も続けるつもりですが、一緒におやりになりますか?」
知りたかったラジオ体操の事はもう伝えたのでここで終わってもいいのだが、一々素直な反応を返すこの女性が何だか可愛く思えてきたジンは、この後に続けてやるつもりだった準備運動にも女性を誘った。
ただここでジンの言う可愛いはどちらかと言うと女性に向けてのそれと言うより、老人モードで有望な若人を好ましく思う方に近かった。
「おお。是非頼む」
女性は勢い込んで頷き、頼んできた。もちろんジンとしても望むところだ。
お互い笑顔で準備運動を再開した。
膝の屈伸や手首足首の回転にアキレス腱伸ばし等、ストレッチ的なものも含めて一つ一つ効果を説明しながらしっかりと体を、筋を、関節をほぐした。
ジンはこういう運動に関して詳しいと言う訳ではなかったが、TVで見た知識や経験をフル活用して一生懸命伝えた。
「なるほど確かに体が温まったな。これからの訓練が楽しみだ」
やはり準備運動といえどもしっかり丁寧に行えば体も温まり、ジンの体もじんわりと汗ばんでくる。
「はい。お互い頑張りましょう」
なんとか準備運動の重要性をわかってもらえたようだと、何となく一仕事を終えた気分になるジン。
「貴重な情報を惜しげもなく与えてくれて本当にありがとう。あ~っとすまない名前を聞いてなかった。私はエルザと言う。名乗りが遅れて申し訳ない」
お礼の後に名前を呼ぼうとして、知らなかった事にようやく気付いたのだろう。エルザはあわてて申し訳なさそうに頭を下げてくる。
一緒に申し訳なさそうに垂れている耳を見ると、やはりこういうところにも感情が表れるんだなとジンは逆に感動さえ覚えた。
「いえいえ、こちらこそ。私はジンと言います。個人的には大事な事だとは思いますが、別に貴重と言うわけでもないので気にしないでください」
ジンは戦いが身近なこの世界で、準備運動の重要さに誰も気付いていないという事はありえないと思う。もしかして秘伝みたいな感じでその流派独自の秘密にしているのかなと漠然と考えをめぐらす。
もしそうなら確かに貴重な情報かもしれないが、ジンにとってはそうではない。不慮の怪我を減らし、健康にも役立つ情報を秘密にする理由はジンには無いのだ。積極的に広めこそしないが、請われれば喜んで教えるつもりだ。
「そうか。改めてありがとう、ジン」
「いいえ、どういたしましてエルザさん」
もちろんお互い笑顔だ。だが、すぐにエルザはちょっと眉をひそめ、続けて言った。
「しかしその口調は何とかならんか? 私は18歳だが、お前も似たようなものだろう? 普通に話せ」
言葉遣いこそ少し乱暴だが、どこか拗ねたようにエルザは言った。
ジンにとっても、エルザに当初感じた凛々しさより、こうした素直な可愛らしさの方が印象深くなってしまっていた。
「ああ、分かったよ。俺も18歳だから一緒だね。よろしく、エルザ」
基本的には丁寧な口調で話すジンだが、いくつか例外はある。相手が望んだ場合は、もちろんジンもタメ口だ。
「ああ。よろしくな、ジン」
エルザは嬉しそうに笑顔で応えた。
そして今日は弓の訓練をする予定だと言うエルザと別れ、ジンは鋼鉄の片手半剣を使って自主練習を始めた。
片手で、そして両手で素振りをする。グレッグとの訓練を思い出しつつ相手をイメージして剣を振る。
しばらくそうして剣を振り続け、時刻は午前9時を回った。しかし運動場にいる教官は、エルザに弓を教えている一人だけだ。
ジンは今日はグレッグ教官は休みなのだろうと判断し、そのまま鋼鉄の剣を振り続けた。そしてさらに1時間が過ぎたところで、自主訓練を終了した。
ジンは締めくくりの整理運動をしようとした時に、その存在をエルザに伝えていなかった事に気付いた。しかし、エルザは訓練中なので仕方なく後日伝える事にし、ジンはとりあえず軽くストレッチをして整理運動を終えた。
ジンは用意してきたタオルでしっかりと汗を拭うと、今度はギルド2階の書庫に向かった。そしてスキルと魔法の本を探す。
魔法についての本は残念ながら見つからなかったが、スキルについて書かれた本はあったので読んでみた。
スキルにはノーマルスキルとレアスキル、そしてユニークスキルの3種類があり、後者になるほど珍しく強力なものになることが多いとの事だ。とは言えノーマルとレアの違いは単に習得した人の数からそう呼ばれているだけで、厳密に言うと2種類だ。またユニークに関してはきちんと存在が確認されたものは一つしかなく、ほとんどが伝説で語られるだけだ。
またスキルの習得方法については、やはり実際にその行為を行う事が条件のようだ。
ごく稀に短時間でスキルを習得する者もいるが、逆に年単位の時間がかかっても結局習得出来なかった人も多く、基本的には時間がかかるものという認識だ。またスキルによっては習得難度に違いがある事もわかっている。
ジンは自分が〔剣術〕スキルを短時間での習得出来たのは、〔武の才能〕が大きな理由の一つだと改めて思う。ただ、いくら個人差があるとは言え、先日の〔剣術〕の習得スピードは普通は異常に見えるはずだ。
グレッグ教官とアリアさんがスルーしてくれた事に感謝だ。しかし残念ながら世の中あの二人のような人ばかりではないだろうから、いくらスキルは隠せるとは言え、今後は注意しなければとジンは思った。
他にも、本には現在まで確認されたスキルが一覧で掲載されていた。ただスキルに関しては隠している人も多い為か、載っているのはほとんどがノーマルスキルで、しかもさほど多くもなかった。ただいくつか参考になるものもあったので、ジンは一応メモをしておいた。
そうして書庫での調べ物を済ませると、ジンは昼前に1階に降りて掲示板で依頼書を確認した。そして昨日も行ったチリル草とメル草の二つをまた選択すると、受付のアリアの元へと向かった。