第42章 呪い
ロットバルトは宮殿に舞い戻ると荒々しくドアを開けて衛士を驚かせました。
王女脱走の報告を遠慮しいしいする衛士を「馬鹿者め!」と怒鳴りつけました。ふだんのロットバルトにはまずないことです。
自分の私室に入るとそこもヴァイオレットがむちゃくちゃに暴れたせいで荒れていました。
「ちっくしょう!」
思わず半分欠けた高価な花瓶を壁にぶん投げて粉々に割りました。
ふふふふふ。
女の含み笑いがして思わずギョッと振り返りました。
カーテンの陰から灰色の魔女オデレーヌが出てきました。
「このわたしに気付かぬとはよほど気が立っているね? どうやらあの女の娘にご自慢の呪いが解かれたようだね?」
ロットバルトはチッと忌々しくオデレーヌを睨みました。
「勘違いするな。あの小娘の手柄ではない。たまたま姫がいい男を見つけたまでだ」
「ほお。それもたいしたものじゃないか? あなたの呪いはちょっとやそっとの愛なんかで破られるほどヤワなものではないのだろう?」
ロットバルトはますます忌々しそうに元妻を睨みました。
「王女を逃がしたのはおまえか?」
「逆だよ。王女の脱走騒ぎを利用して潜り込んだのさ。ま、その気になればいつでも潜り込めたんだけれどね、こっちもちょうど準備が整ったところだったんでね」
ロットバルトは内心警戒しながら言いました。
「おまえも少しは母親らしいことをしたらどうだ? オデールは立派な花婿を見つけて婚約したぞ。祝福を言いに行ってやったらどうだ?」
オデレーヌが憎々しげに鼻の上にしわを寄せました。
「黙れ。娘を利用して己の野望を達成しようなど、つくづく情けを持たぬ男め」
ロットバルトは心底うんざりしました。
「そのことでおまえと議論するつもりはない。いいか、おまえは俺に娘を押しつけたんだぞ、姑息にも双子の姉の存在を隠してな。姉の方を利用して何をしていた?」
オデレーヌはぐっと言葉に詰まりましたが、もう自分を正当化することしか考えていません。
「全てはおまえの不実のせいだ!」
袖から「白鳥の白」のダイヤモンドを取り出しました。
ロットバルトはダイヤを睨み付けました。
オデレーヌは薄ら笑いを浮かべて言いました。
「これが何か知っているようだね? そうさ、わたしが人間になるときにあの女に取り上げられた妖精の輝き、妖精の魔力の源さ。ようやく奪い返したよ」
愛しそうに頬ずりしました。
薄目をギョロリと開いてロットバルトを嘲るように睨みました。
「わたしがなけなしの魔力を与えて瀕死のあなたをここまで回復させてやったというのにその恩を忘れおって。いいや、おまえのことだ、最初からわたしを利用するつもりでいたのだろう?」
「言い寄ってきたのはおまえの方だぞ」
「黙れ! うるさい! おまえは不実な男だ。その報いを今こそ受けてもらうよ」
オデレーヌはダイヤを前に突き出しました。
目をカッと開いて魔力を注ぐとパキンと外の殻が割れてそれまでと比べものにならない輝きがあふれ出しました。
オデレーヌは、ははははは、と笑いました。
「みなぎってくるぞ、我が妖精の力が」
ロットバルトは眩しそうに目を細めながら負けじと睨み返しました。
「フン、今さらその程度の魔力でこの俺が倒せるものか。やめておけ、返り討ちになるだけだぞ」
「強がりは止せ。今のあなたの魔力はわたしの与えてやった白の魔力が基礎になっている。それを利用して姫に呪いを掛けたのだろうが? それがあなたの弱点だ。この封じ込められた魔力を一気に解き放てばそれに呼応してあなたの中にあるわたしの魔力が一気に爆発する。果たしてあなたの体がその衝撃に耐えられるかな?」
ロットバルトは脂汗を流しながら強気に言い返しました。
「そうなるかどうかやってみろよ。俺の魔力はすでに完全に回復している。おまえの魔力ごときにビクともせんわ」
「はははははは。それではせいぜい後悔するがいい!」
パアンッ!とものすごい音がしてダイヤが粉々に砕け、真っ白な光が爆発しました。
ロットバルトは思わず硬く目を閉じ、その光の中で女の手が心臓を鷲掴みにするのを感じました。一瞬の激痛。しかしそれはそれきり瞬間で終わりました。
ロットバルトはおっかなびっくり目を開けました。
眩しい光は消え、ただ月明かりが妙に暗く部屋を照らしていました。
ロットバルトは自分の体を確かめました。特に何ともありません。
オデレーヌを見ると、彼女は壊れてしまったようにへらへら笑っていました。
「どうしたオデレーヌ? 俺はこの通りなんともないぞ」
オデレーヌはますますへらへら笑いました。
「なんともない? うふふふふふ、そうなの、なんともないの? それはそれは、うふふふふふふ」
ロットバルトは笑う女が気味悪くなってきて、同情も失せてひたすら憎たらしく思えてきました。
「これで気が済んだか? ではこの俺に刃を向けた報いを今度はおまえが受けてもらおうか」
ロットバルトは人差し指を突き出し、軽くつむじ風をまとわせました。
オデレーヌはそれでもへらへら笑い続けています。
「殺すの、このわたしを?」
ようやく笑いが治まって静かな真顔になりました。
「いいわよ、どうぞ殺しなさい。でも、よーく見て、この顔を。忘れないでね? あなたをこの世で一番愛した女の顔よ」
ロットバルトはオデレーヌの豹変をいぶかしがりました。
「さようなら、あなた」
「俺もおまえとこんな風にはなりたくなかったぞ。だが仕方ない。さよならだ」
つむじ風が強くなり一点に集中して槍のように尖りました。
「さらば」
風の槍が放たれる寸前、窓ガラスを派手に割って大きな白い影が転がり込んできました。
それは放たれた風の槍を広げた羽ではねのけ、オデレーヌを抱えると元の窓から素早く飛び立っていきました。
ロットバルトは呆然としてそれを見送りました。
「なんだ、今のは・・・・・」
ロットバルトにはそれが自分の娘オデーレだとは分からなかったようです。
オデーレは丸く木の並ぶ森の小屋に飛ぶと母親を下ろしました。
オデレーヌは今度こそすっかり呆けてしまったように表情が失せきっていました。
中に運び込み、数少ない家具のうちの小さな椅子に座らせました。
「何故・・助けたの?」
オデーレは小首を傾げてうそぶきました。
「そりゃあまあ母親ですからね。むざむざ父親に殺されるのを黙って見ていられないわ」
オデレーヌは力のない目でちらりと娘を見ると顔を背けて泣き出しました。
子どもがイヤイヤをするようにオデーレを追い立てました。
「わたしはひどい母親だよ」
「とっくに承知しているわよ」
オデーレは呆れたように母親を見下ろしています。
「でも、それ以上に父さんを愛しているんでしょ?」
一瞬オデレーヌの体が止まり、より激しく背中を震えさせました。
「それじゃあ、さよなら。今度こそ本当に戻らないわ。母さん、元気でね」
オデーレは震えるばかりの母親を残して十八年間暮らしてきた家を後にしました。
オデーレはベルーシアの城の自分の客室の窓に帰ってきました。
ベッドにはビビアナが寝ていましたがオデーレの帰宅を知って起き上がりました。
「あらごめんなさい、起こしちゃったわね」
オデーレは笑顔を作りましたがすぐに痛そうに顔を歪めました。
ビビアナがびっくりして飛び出してきました。
「どうしたの?」
「夜遊びばっかりしているから父親にお仕置きされたのよ」
オデーレは強がって減らず口をたたきましたがひどく痛そうに背中を気にしました。
「見せて」
ビビアナはオデーレのドレスの背中を広げて肌を露出させました。気を急いてろうそくを灯すと、右の背中にひどいみみず腫れが走っていました。
「ああ、ひどい・・」
何か薬をと駆け出そうとするビビアナをオデーレは腕を掴んで引き止めました。
「優しくキスしてくれる? この傷にはその方が効くの」
みみず腫れは痛めた羽をしまった痕です。羽は魔力によるものですから確かに思いやりのこもった口づけの方が薬より効きそうです。
ビビアナは一心に優しい口づけを繰り返しました。
「ああ、ありがとう。気持ちいいわ」
オデーレはうっとり言いました。
しばらくそうしていて、
「ねえ、ビビアナ。わたし、帰る家をなくしてしまったわ。ずうっとあなたといっしょに居ていいかしら?」
ビビアナは念入りに口づけして、言いました。
「もちろん。先生が嫌だって言っても放しませんからね」
オデーレは幸せそうに微笑みました。
「また飛べるようになるかしら?」
我慢してここまで飛んできましたが、相当手ひどく痛めてしまっています。
「飛べるわよ。舞台の上でだって、どこでだって」
「そうね」
オデーレは体を巡らせてビビアナを引き寄せると愛しそうに抱きしめました。
ロットバルトには一人愛人がいました。
ロットバルトが選ぶだけにかなりの美人でした。
恋などという面倒なことをするより豪華なお屋敷で裕福な生活をしている方がずっといいという女でしたから今の境遇にはなんの不満もありませんでした。むしろ旦那様のロットバルトを愛していました。その財産も含めて。
そんな女でしたからロットバルトはこれを妻にしようとはまるで思わず、互いに気の向いたときだけ恋人の付き合いを楽しんでいました。
今もこの宮殿に部屋を与え、そこに住まわせています。まあ潔癖性のオデット王女が嫌うわけです。ロットバルトにしてみればそれだけ自分の男性としての魅力に自信があるのでしょう。
部屋をめちゃくちゃにされたロットバルトはこの愛人の部屋に泊まることにしました。
廊下を歩いていてももう深夜でもありますしロットバルトの荒れ具合は宮殿中に知られて誰も恐れて出てこようとはしません。
ロットバルトは勝手に鍵を開いて女の部屋に入りました。
居間を抜けて寝室に向かいます。
ベッドに女が寝ていました。
が。
「んん・・。なーに、こんな夜中に?・・・」
迷惑そうに寝返りを打って顔を上げたのはロットバルトの愛人ではありませんでした。
ロットバルトは目を剥き、吐き気を催し、怒りを沸騰させると野獣の雄叫びを上げてそのモノに躍りかかりました。
宮殿中に女の悲鳴が響きわたりました。
ロットバルトの愛人が泣きわめきながら部屋を飛び出してきました。かわいそうにその頬は殴られて無惨に腫れていました。
さすがにただごとではなく衛士や男どもが集まってきました。女どもはこわごわドアの隙間や廊下の端から覗いています。
愛人は薄ものを着たままの姿で無惨にけつまずいて転げました。
ドアの向こうから憤怒の形相のロットバルトが迫ってきて愛人はまたありったけの悲鳴を上げました。
「きさま、何者だ? どこから入ってきた?」
「何言ってるのよお?」
愛人は泣きわめきました。
「あなた頭がどうかしちゃったの?」
「この無礼者が!」
ロットバルトは怒りの拳を振り上げました。
衛士が慌てて駆け寄りました。
「ロッドバルト様、いったい何事でありますか?」
「この馬鹿者! このような汚らわしい浮浪者をなぜ・・・・・・」
ロットバルトは衛士を見て固まり、真っ青になったかと思うと部屋に引っ込みバタンとドアを閉め鍵を掛けました。
衛士は何がなんだか分からず、とにかく今のうちに愛人を女に引き取らせ、ドアを叩きました。
「ロットバルト様、ロットバルト様。どうされたのです? ロットバルト様!」
やかましい! あっちへ行け! と部屋の奥から怒鳴り返してきました。
衛士はドアを叩くのをやめ、集まってきた仲間と顔を見合わせ、頭を指さしました。
どう見ても先ほどのロットバルトは異常でした。
ロットバルトはベッドに上がり、布団をひっつかんで震えていました。
どうやらあれは自分の愛人であったようです。
しかし、自分の見たあれはとてもそうは見えませんでした。
しかし、今廊下で見た部下の衛士もまた、まともな姿ではありませんでした。
さらに廊下のそこここで自分を見ていた顔顔顔・・。
まるで、地獄の亡者のようでした。
病み衰えた薄い皮膚の下に腐臭の漂ってきそうな膿んだ脂肪がぬめぬめ詰まっていました。それだけで十分でしたが、一番ロットバルトを怒らせ恐怖させたのはその目でした。白目が灰色にくすぶり、黒目はほとんど色が落ちて瞳孔だけがくっきり開いていました。まるで暗黒を内に秘めたように。そしてそれが一様に自分を睨み付け、それがまたなんと敵意と憎悪を露わにしていたことか! まるでこの世でロットバルト以上に憎い人間などいないように。
ロットバルトは歯を食いしばり、無理やり自分を落ち着かせました。
原因は分かりました。
「あの女め!・・・・・・・」
ロットバルトはベッドを飛び降り、窓からゴオッと風を巻いて飛び立ちました。
「ああ、嬉しい。あなたがここに帰ってきてくれたのは何年ぶりかしら?」
オデレーヌはロットバルトを待っていました。
ろうそくに火を入れ、掲げて夫の姿を見ました。
ロットバルトはひどくすさんだ顔つきをしていました。
オデレーヌは疲れて仕事から帰った夫を迎える良き妻のように優しく微笑みました。
ロットバルトはオデレーヌの微笑みを無視しました。
「おまえ、俺に呪いを掛けたな?」
「ええ、そう」
オデレーヌは微笑んだまま言いました。
「わたし以外の全ての人間が醜く見えるように呪ったの。ね? わたしはぜんぜん普通に見えるでしょ?」
オデレーヌは嬉しそうに笑いました。
「何故だ? 何故こんな馬鹿げたことをした?」
「何故? あなたを愛しているからに決まっているじゃない。あなたに以前のようにわたしだけを見ていて欲しいから」
「くだらんことを」
オデレーヌの微笑みが少しだけ神経質にひきつりました。
「くだらなくなんかないわ。だって、あの頃のわたしたちは幸せだったじゃない? ここで毎日二人きりで過ごして、あなたもわたしにしょっちゅう笑いかけてくださったじゃない、とっても嬉しそうに」
「さっさとこのくだらん呪いを解け」
「できないわ。わたしの魔力はすっかり使い果たしてしまったもの。もしできたとしても、嫌よ。絶対に解いてなんかあげない」
「おまえ、いいかげんにしろよ」
「ねえ、ここでまたわたしと暮らしましょうよ? わたしたちきっとやり直せるわ。きっとまた以前のように幸せに暮らせるわよ」
オデレーヌはロットバルトに近づき、さすがにためらいがちに胸に身を寄せました。
「ね、思い出して、わたしたちの幸せな時を。あの時に戻りましょう?」
「どうしても駄目かね?」
「愛してるわ、あなた」
「俺はもう愛していない」
ロットバルトの龍の手がオデレーヌの心臓を突き破りました。
ロットバルトはオデレーヌの体を乱暴に投げ捨て小屋を出ました。
朝になるとロットバルトは街の視察に出かけました。
活気に溢れる街の市民がロットバルトに尊敬と親愛の念を込めて笑顔で挨拶してきます。ロットバルトはかろうじて笑顔を作って手を上げて答えました。しかし歩くたび、人に会うたび、声をかけられるたび、その目を向けられるたび、苦痛は重くなり脂汗がじわじわわいてきて、とうとう耐えきれず角にうずくまって内蔵の物を吐き出しました。善意の市民が敬愛するロットバルト閣下を心配して駆け寄ってきます。しかしロットバルトの鼻腔には腐臭が満ち、喉の奥にこびりつき、胃が喉にせり上がってくるのを涙を流してこらえました。ロットバルトは振り回したくなる手を必死で止めて市民をかき分け逃げ出しました。
宮殿に戻ると誰も近づけずベッドに横になりました。
心底まいりました。
目を閉じれば無数の市民の憎悪に満ちた目が睨み付け、喉にはいつまでも腐臭がこびりついていました。
ロットバルトは己はなんだ?と考えました。
指導者である。
人の上に立つ者は畏怖されて当然である。そうでなければ強力な指導者にはなれない。
全て幻だ。
だがそれさえどうした?
理想を貫こうと思えば敵は必ず現れる。
今さら人の何を恐れるか。
これは戦いだ。何より自分の理想を実現するための。
ロットバルトは自分の理想を思いました。
平等で豊かな社会。
なんと当たり前の理想。しかしそんな簡単なことが愚かな人間どもにはできない。だから自分のような力も知恵も強い意志も持った者が立たねばならぬのだ。
圧倒的な力で人間どもを従え束ねようとした。
失敗した。
愚か者の卑怯な策略で敗北した。
より人間たちに合ったやり方を探るために勉強した。
今度こそやれるはずだった。半分以上成功していた。後ほんの少しだけ。
最後の障害がまたしてもあの女の娘だった。
何故だ? 何故おまえはいつも邪魔をする?
俺は学習した。確かに世界征服など馬鹿げていた。何故なら世界が変わっても人は変わらないからだ。
理想を実現するためには人を変えねばならぬのだ。
それをどうするか?
それを示したのは腹立たしいが人間だった。
ラズベリーアールのラズベリー大伯爵。
彼も世界を変えるには人一人一人を変えるしかないことを知っていた。だから頑固に自分の領土のみに固執し、確実に目の届くその小さな土地で自分の理想郷を作り上げたのだ。
第二第三のラズベリーアールが後に続くのを期待して。
しかしなかなか第二のラズベリーアールは現れなかった。
ロットバルトは恥ずかしくて決して誰にも言いませんでしたが自分がユークリナをその第二のラズベリーアールにしようと思ったのでした。
あわよくばベルーシアも。
この俺のやり方のどこが悪い? 誰が傷つく?
悪いのは人間だ。欲に駆られ己の利権にしがみつき、それを強化しようと働く社会のダニ。
しかし人間にそれを非難はできない。何故なら、みんなそうだからだ。同じ地位につけば人間はみんな同じことをする。
だから自分なのだ。
自分も当然欲はある。だが人間よりはるかに広い視野を持ち物のよく見える自分はそれがどこまで許されるかを知っている。際限なく食い散らかす人間とは違う。自分は己を律することができる。人間には己を律することができない。
どこで間違った? 何を間違った?
オデレーヌか? オデット姫か? クラリスか?・・・・
カラベラスか?
女、女、女。忌々しくも愛おしいどうしようもない存在。
確かに俺の失敗は女だな、とロットバルトはようやく笑いました。
ロットバルトは思い付いて笑い転げました。
そうだ、あの女、カラベラスだ!
この状態であの女を見たらどうなる?
あの高慢知己な綺麗な顔が、憎悪に歪んだ醜い膿み崩れた顔に見えるのだ。これは傑作ではないか!?
ロットバルトは元気に起き上がりました。
「待っていろカラベラス。今おまえの顔を見に行ってやるぞ!」
窓を開け放ち、澄んだ高い青空の下、人目も気にせずに羽を広げると飛び立ちました。
ユリアは朝から白バラの森に来ていました。
昨夜からどうも胸騒ぎがしてなりません。何かひどく悪いことが起きそうな予感がしてならないのです。
カラベラスも同様の予感がしていました。
「クラリスに何かあったのかしら?」
「いいえ。あの子に何かあればもっとはっきりしたメッセージがあるはずよ。でも、確かに、嫌な感じがするわね」
カラベラスは珍しく気弱に娘の身を案じました。
昼近くになり悪い予感の元凶が近づいてきました。
「ロットバルトね」
カラベラスはきつい目で空を見上げ、よく見えるように枝葉をよけさせました。
急速に近づいてくる黒い風を見てカラベラスは眉をひそめました。
「アイリス」
夫に呼びかけます。
「悪いけれどあなたは木の陰に隠れていて。今度はちょっとこの間のようにはいかないようだわ」
アイリスは素直に妻の言うことに従いました。
風を払って翼を広げたロットバルトが立ち止まりました。
「カラベラス!」
狂ったように笑っています。
「友人が訪ねてきたぞ。さあ、その綺麗な顔を見せて見ろ!」
カラベラスは元より開けた地面に立ってロットバルトを見上げています。
「ハハハハ・・ハ・・・・・・・・」
見下ろすロットバルトの顔が表情をなくし恐怖に歪んでいきました。
「うわー、わーっ、わーっ・・・・」
顔を両手で覆って吠えました。指の間から恐る恐る覗き見てまた恐怖の雄叫びを上げました。
ロットバルトの目にはカラベラスが神々しい女神に見えました。
この世の全てに慈愛の微笑みを与える女神が、ただ一人、ロットバルトに向かってだけ哀れみのたっぷりこもった蔑みの目を向けています。
ロットバルトはありったけの大声で吠えました。
「何故だ! おまえは何故いつもそうなのだ!?」
ひっ、と背筋に寒気が走りました。
ロットバルトは理解しました。
自分がこの世でもっとも恐れる者、自分がどうしても勝てない相手、どうしても苦手意識を持って弱気になってしまう相手、常に頭からその存在が離れない相手、そして、自分がもっとも強く心を引きつけられた女。
それがカラベラスなのでした。
オデレーヌの呪いもロットバルトの心のもっとも奥底にあるこの絶対的な感情を覆すことはできないのでした。
自分はこの女を愛していた・・
しかしロットバルトの最後のプライドがその考えを振り払いました。
その途端、カラベラスの周囲に美しく咲き乱れる白バラたちがいっせいに目玉になってロットバルトを睨みました。
あの、憎悪に満ちた民衆の目です。
ロットバルトにとって唯一の救いは人間の肉の腐臭がなく、高貴なバラの芳香が全身を包み込んでいてくれることです。
ロットバルトは情けなく笑いました。
世界の全てが自分を拒絶している。
誰にも尊敬されない愛されない憎しみだけを向けられる世界で王になってどうする?
女神の哀れみの眼差しを受けてロットバルトは完全な敗北を知りました。
「いいや、まだだ。世界が俺を拒むなら、俺が世界を破壊してくれる!」
ロットバルトは狂いました。 |