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白鳥姫
作:岳石祭人



第26章 舞姫


 翌朝、お屋敷のモデストの下へ慌ただしく劇場の職員が駆け込んできました。
 話を聞いたモデストは
「なに!?」
 と絶句してしまいました。
 朝の挨拶をしに来たクラリスはショックに呆然としたモデストにびっくりして「どうしたの?」と尋ねました。
「主演のプリマがあの悪魔に襲われたそうだ」
 ビビアナではなく、もう一人、昼の回の主演の方です。
 彼女は高級ホテルの最上階に泊まっていましたが、昨夜遅く物音に気付いて起きた彼女は窓の外に浮かぶあの悪魔の姿を見て卒倒し、消えゆく意識の中で悪魔の「舞台には立つな、おまえも呪われるぞ」という声を聞いたのでした。
 明け方目覚めた彼女はホテル中の人間が起き出すほどの悲鳴を上げ、怯えきった彼女は絶対舞台には立たないと泣きわめき、駆けつけたマネージャーがどんなになだめすかしても頑として言うことを聞かないのでした。
 噂はホテル中に知れ渡り、今頃はペテロブラーグ中に広がっていることでしょう。
「まったくあいつ何考えてるのかしら?」
 クラリスには鳥人間の目的がさっぱり分かりません。
「困ったことになったよ」
 モデストは顔を青ざめさせ、クラリスに強がる余裕もありません。
「昨夜の騒ぎで今日の公演にも当然影響が出るだろうと覚悟していたんだが、どうやら公演そのものができるかどうか怪しくなってきた」
 話はバレエ団の他の者にも伝わり、彼らも呪いを恐れて今日の舞台を辞退する気配が濃厚だというのです。
 モデストはそれを恐れて昨夜はずいぶん遅くまで劇場に残り、団員はじめ関係者たちの説得に追われていたのでした。
 どうやらその苦労が水の泡と消えそうです。
「僕はこれから急いで劇場に行くよ。なんとか夜の回だけでも上演したいけれど、昼の回は、無理かもしれない・・」
 いつも明るくニコニコ笑顔でいるモデストが、心底まいった様子で出かけていきました。
 せっかく初の大興行がまずまず成功しているというのに、大事な最終日でとんでもないケチが付いてしまいました。
 モデストはまだまだこれからバリバリ仕事をしていこうと夢を抱いていますが、その最初でいきなり大きくつまずくことになりそうです。この後その影響は避けがたいでしょう。
 クラリスは鳥人間に猛烈に腹が立ち、なんとかしなくちゃと思いましたが、バレエの舞台なんて、魔法でどうにかなるものではないでしょう。
 知らせは作曲家にも届いてピエトロ氏は苦渋に満ちた表情で居間に現れました。もっともこの人はクラリスの見たところいつも何か思い悩んでいるような難しい顔をしているのでそれほど変わったようには見えませんが。
 アレクサンドラ夫人と子どもたち、王子とオデーレ、ルピネー親子、伯爵夫妻と、居間に集まってこの困った事態に顔を曇らせました。
 最後に現れたオデールが呑気な調子で唐突に言いました。
「わたしが踊ってあげましょうか?」
 みんな何を悪い冗談をと思いましたが、オデールはまじめな顔でじっとピエトロ氏の顔を見ています。
 ピエトロ氏はますます苦渋を深くして、「う・・」とうなり、
「いや、僕からはなんとも・・」
 と、なんともはっきりしない調子で言ってうつむいてしまいました。
 このピエトロ・コンチャロフスキーという国民的人気作曲家は、妙にまじめな顔をして髪をぴったりきれいに分け、芸術家と言うより地方のお役人といった風に見えます。
 まるで面白みのない人のように感じられますが、子どもたちからはとても好かれていますし、実際クラリスがちょっとお部屋を覗いたところ愉快そうに大口を開けて笑いながら男の子たちと遊んでいて、ふだんのむっつり黙り込んだ陰湿そうな印象とはまるで別人でした。
 どうやら極端に人見知りが激しくて、特に女性に対してはそれがひどく、氏がまともに話せるのは妹のアレクサンドラ夫人とその娘たちだけのようです。
 オデールのように唯我独尊自意識の固まりのような女性とまともに話せるわけはありません。
 オデールはツカツカ歩いてくるとピエトロ氏の腕をグイと掴み、
「さ、劇場に行きましょう」
 と、有無を言わさず連行しました。
「わたしも行って来ます」
 クラリスは急いで後を追いました。

 馬車で劇場へ急ぎます。
 クラリスがピエトロ氏と並んで座るオデールに向かい合って尋ねました。
「ねえ、本当に踊る気?」
「ええ、そのつもりよ。他にどうしようもないでしょう?」
 オデールはまるで事もないように言いました。
「踊れるの?」
「たぶんね」
 オデールは二日間非常に熱心に舞台を見ていたようです。でも見ていただけで突然踊れるとは思えません。
「バレエ踊ったことあるの?」
「いいえ」
 ふざけているとしか思えません。
 クラリスは何か言ってよというつもりでピエトロ氏に目を向けました。
 ピエトロ氏はとっても困った顔でただ見つめ返すばかりで、クラリスはこの人は当てにならないなとがっかりしました。
「ただし、わたしの方にも二つほど条件があるわ」
 オデールは真剣な目でピエトロ氏を見つめました。
 ピエトロ氏は蛇に睨まれたカエルのように顔を硬直させてオデールに向き合いました。
「まず一点は、あなたのオリジナルの構成で曲を演奏すること」
「どういうこと?」
 クラリスが尋ねました。
 オデールは珍しく丁寧に教えてくれました。
「ピエトロさんの曲は舞台の演出家によってかなり順番が入れ替えられているの。ぜんぜん違った場面に使われていたり、途中を大幅にカットされていたりもしているわ」
 演出家というのは振り付けのレイジング氏のことでしょう。パンフレットには巨匠と褒め称えられていましたが、
「そう、前時代の、ね。ピエトロさんの斬新な音楽には合わないわ」
 と、オデールはバッサリ切り捨てました。
 クラリスはそうかなあ?と思いました。
 途中まででしたが、素晴らしい舞台に思えました。
 ちょっと長すぎるかなあ・・とは思いましたが。
「凡庸なのよ」
 オデールはまたも言い切りました。
「同じパターンの繰り返しで、音楽が何を意味しているのかまるで理解していない、いいえ、理解しようとしていないわ。音楽なんて、踊るためのただの伴奏としか思っていないのよ」
 そう言われるとそんな気もしてきます。
 驚いたことにオデールは分厚い楽譜まで借りだして部屋で熱心に読み込んでいたのでした。だいたい楽譜を読めること自体驚きです。
 ピエトロ氏も心なし頬を紅潮させて、感動しているようです。
 クラリスもオデールが本当に踊れそうな気がしてきました。
「それで、もう一つの条件ってなに?」
「それは劇場に着いて、モデストさんにね」
 オデールは謎の微笑を浮かべましたが、なんだか自信たっぷりで、とても魅力的に見えました。

 劇場に着いてみると、舞台裏はかなり悲壮なものになっていました。
 恐れていたとおりダンサーたちが呪いを恐れて舞台を拒否し、モデストの必死の説得も受け入れられそうにありません。
 だいいち主演のプリマがいません。
 彼女はホテルの部屋から一歩も外へ出ようとせず、まあ窓の外の暗闇にあの顔がぼおっと浮かんでいたらそれはそれは恐ろしいでしょうが、それにしても情けない有様です。
 現段階ですくなくとも昼の公演を開催するのは絶望的なようです。
「いいわよ、あなたたちは全員舞台の袖で見ていなさい」
 突然現れたオデールが居丈高に言い放ち、団員たちは顔をしかめて白い目を向けました。
 オデールはひるむことなく言いました。
「舞台はわたし一人で十分よ」
 クラリスは馬車の中で言い含められていたとおりに言いました。
「こちらはユークリナの王室バレエ団のプリマドンナ、オデール・ロットバルトさんよ」
 ユークリナの王室バレエ団なんて誰一人知りませんし、実際そんなものはないのですが、オデールにはそれを信じさせる迫力がありました。
「我々に見ていろとはどういうことです?」
 男性の団長が不愉快そうに言いました。
「舞台はわたし一人が踊ると言っているのです」
「ご冗談を」
 団長は嘲りました。
「二時間を一人で踊りきると言うのですか? それとも十分間一流の見事な舞踏を見せて、さあこれで満足してお帰りなさいとお客に言うのですか?」
「もちろん、二時間踊りますわ。モデストさん」
 モデストはすっかり困惑していましたが、クラリスがいっしょなので前向きに話を聞くことにしました。
「二時間、休憩なしで一気に踊ります。もし途中で退場者が出たら、その方にはチケット代全額お返ししてください」
 オデールは何やらクラリスに持たせていた重い鞄を受け取り、その口を開きました。
 中には金貨がぎっしり詰まっていました。
 こうして具体的にお金の保証をされては誰も話を聞かないわけにはいきません。
「ただし、こちらにも条件があります。まず一つ目は」
 と作曲家のオリジナルスコアでの演奏を要求しました。
「もう一つ。
 踊るからにはわたしをこちらのプリマと同じ一流のバレリーナと見なし、あの『白鳥の白』のティアラをつけさせること。そうでないなら代演はお断りします」
 どちらも難しい条件ですが、前向きに考慮すると言うことで、まずはリハーサル、オデールの実力の程を見せてもらうことにしました。
 クラリスとモデスト、団員たちは客席へ、オデールとピエトロ氏は舞台へ移動しました。
 舞台の袖にはリハーサル用の小さなピアノが置いてあります。オデールがあくまでオリジナルの音楽にこだわったのでピエトロ氏自らピアノを弾くことになりました。
 オデールは劇場の予備の練習着を着ています。黒のレオタードです。
 オデールはピエトロ氏と楽譜を見ながら打ち合わせをし、ピエトロ氏は指馴らしにポロンポロン音を出し、オデールはそれも音楽の一部のように舞台の中央で軽く跳ねたり屈伸したりして、やがて二人は顔を見合わせ軽く頷くとリハーサルが始まりました。
 第一幕冒頭、湖で妖精の娘が踊るシーンです。
 このシーンはクラリスもよく覚えています。ビビアナはとてもかわいらしく伸び伸びと楽しそうに踊っていました。
 ピエトロ氏のピアノはなかなか巧みでした。しかしピアノだけのせいでしょうか、楽しいはずの音が妙に寂しく、悲しそうにさえ聞こえました。
 その音に合わせて踊るオデールの妖精も、身振りはとても細かく早く、子どもが遊んでいるようなのですが、やはりどこかもの悲しく、痛々しい感じがしました。
 クラリスはオデールから一瞬たりとも目が離せません。
 オデールは何か求めるように宙に手を伸ばしますが、その腕はか細く、弱々しく、何度も何度も押し返されます。しかしオデールは負けません。弱々しかった腕に芯が通り、まっすぐに伸びていきます。そして何かを掴みます。オデールはそれをしっかり胸にいだき、体の中へ取り込みます。
 音楽は徐々にテンポよくなり、舞台と同じ明るい楽しいものになっていきます。か弱かったオデールの妖精は生き生きと舞台上をはね回り、喜びを爆発させます。
 クラリスは一連の音楽とオデールの踊りが、湖の夜明けと無垢な妖精の誕生の両方を表しているように感じました。
 見事なマイムです。
 そして今生きている喜びに溢れ舞台上をいっぱいに跳ね回っているオデールの踊りは、全身を柔らかく使い、振りは大きく、独特のタイミングで動き、腕の使い脚の使いはバラエティに富み、けれど全体は決してバラバラにならないバランス感覚を保ち、飛び跳ねるときには大きく宙を駆けるようで、回転はそのまま宙に浮き上がりそうな勢いがありました。
 実際オデールは正面を向くたびに手と脚にポーズをつけながら三十回以上回転し、見ているこっちの方が目を回しそうでした。
 オデールは踊りの最初の方はとても小さく見えたのが、今は身長がすごく高く見えています。
 音楽が終わり、オデールがポーズをつけるとクラリスの周りから盛大な拍手がわき起こりました。
 団員たちは驚嘆し、子どものように素直な顔で舞台上のオデールに賞賛の拍手と眼差しを送っていました。
「まいったな、これは」
 モデストは嬉しさが溢れて涙が出てきそうな笑顔をしています。
「オデールさん。ぜひ踊ってください。お金のことなんてどうでもいい。僕はお客さんを信じます。ティアラのことも任せてください。必ずオネーギン氏を説得しますから。ピエトロさん、あなたは天才だ! あなたの作ったままの曲を演奏しましょう! ああ、オデールさん、まったく、なんて素晴らしいんだ!」
 こうなると他の団員たちは自分たちもいっしょの舞台に立ちたくて仕方なくなりました。しかし残念ながらそればかりは無理なようです。オデールの踊りはレイジング氏の振り付けとはまったく違ったオリジナルなものだったからです。いえ、自分たちと違うどころか、こんな踊り、今まで一度も見たことがありませんでした。
 オデールは自分に向けられた賞賛に素直にお礼を言いました。
「ありがとう。もし午後の公演が成功したら、夜の公演はあなた方の力でぜひ成功させてください。ビビアナはきっと踊るでしょう。わたしもとても楽しみにしていますから」

 午後の公演は昨夜の事件で大量のキャンセルが出ていましたが、天才プリマバレリーナの一人舞台ということで、キャンセルの取り消しが相次ぎ、結局いつも以上にお客が入り、席はほぼ満席となりました。
 ただいつもの客層に比べるとちょっと質が落ちるかもしれません。
 お客たちが集まった大きな理由に人気者の魔女娘クラリスの活躍が見られるかもしれないという野次馬的興味と、途中退席したものには全額チケット代を払い戻すという宣伝があったからです。
 一流の上客たちはそんな安っぽさを嫌ってやはりキャンセルしてしまっています。
 クラリスはお屋敷に使いを出し、王子とオデーレ、それともう一人、サファイアの精を呼びました。
 ちょっと気になることがあるのです。
 今日の席はキャンセルが出てボックス席の正面二階という特等席がとれました。
 開演のベルが鳴り、客席が静まるとオーケストラの前奏曲が始まりました。指揮はピエトロ・コンチャロフスキー自らしています。楽器の演奏は皆一流のプロですから楽譜があればとりあえず出来るのですが、指揮はそうはいきません。きちんと曲を理解し、演奏者に的確な指示を与えなければなりません。そこで今回限りピエトロ氏が自ら指揮することになったのです。
 幕が上がったとき、観客席が一瞬どよめきました。
 昨日見たビビアナはヒラヒラの布を何枚も重ねたスカートの衣装を着ていました。
 今舞台の中央で両手を合わせ身をよじり背中を見せているオデールは、短いスカートをはいて脚が太股まで丸見えになっています。
 スカートが短いどころか、まるでお花が咲いているように横に張り出しています。その下に薄布が何枚も重ねられて脚の付け根を隠しているので、本当にお花から体と脚が生えているみたいです。
 張り出した部分は鳥の羽の軸を芯に使っています。
 ダンサーが脚を見せるのは練習中は当たり前のことですが舞台の上でお客さんの前に脚をまるまる見せるようなはしたない真似はまずあり得ません。
 客席のご婦人方は眉をひそめ、殿方はとなりのご婦人に隠れてにやけた笑いを口許に浮かべました。
 オデーレも「ま・・」と息を飲み、恥ずかしさに真っ赤になりました。王子も同様です。
 サファイアの精は
「あたしたちとおんなじね」
 と喜びました。妖精はだいたいそのような活発なかっこうをしています。
 幕が開いてもオデールは静止したまま一向に動こうとしません。衣装のこともあり、客席には批判的な空気が漂い出しました。
 しかし、そのポーズのなんと不思議で魅惑的なことでしょう。まるで一流の彫刻作品のように美しく、本当に石のようにぴくりとも動きません。あのような不自然な形でじっとしているのはものすごくたいへんなはずです。
 客席にもそのただならなさが伝わり、お客たちは皆その姿に視線を釘付けにされました。
 ついにオデールの腕が動きました。
 後はクラリスがリハーサルで見たとおりですが、あの時とは緊張感がまるで違います。劇場の空気が隅々までびりびり張りつめています。
 モデストが遅れて一人お客さんを連れてきました。
 ビビアナです。
 ビビアナはこの突然の変更が気に入らないらしくひどく不機嫌な顔で挨拶もなしにクラリスのとなりにどかっと座りました。
 オデールは踊り続けています。
 観客たちはオデールの踊りの中に無垢な赤子に対する愛おしさを感じています。誕生の喜びと共に涙が溢れてくるような弱きものへの感傷が心にわき上がってきます。
 朝の湖に遊ぶ妖精の娘はやがて素敵な王子様を見つけます。
 オデールは妖精の娘を踊り続けます。
 王子役のダンサーはいないけれど、観客たちは確かにオデールといっしょにその姿を見ています。
 王子を見つけた妖精の娘の驚きと初々しい好意がかわいらしく喜びいっぱいに踊られます。
 二人の距離が近づいたり遠のいたり、その距離感がじれったく思えます。
 観客の心は今や完全に妖精の娘に重なっています。
 王子が去ったとき観客はため息をつき、そして音楽が終わったとき、観客は我に返ると割れるような盛大な拍手を送りました。
 拍手と共にブラボーの声がやみません。
 オデールは身振りで観客の拍手に答えます。
 あんまり拍手がすごいので背景を差し替えるための幕を下ろすタイミングがつかめません。
 まだ始まったばかりだというのに、オデールは完全に観客を味方に付けてしまいました。
 ようやく幕が下ろされ、村祭りの場面になりました。
 ここでオデールは見事な構成の技を見せました。
 この場面では村の若者たちの短い踊りが次々披露されていきます。
 オデールはそれを一人で全て踊りました。
 一人ずつ舞台の立ち位置を変えていき、踊りの始めと終わりではピタッとポーズをつけ、キャラクターの入れ替えを明確に知らせました。踊りもそれぞれに個性を与え、まったく見飽きるということがありません。
 驚いたことに全員が輪になって踊るシーンまで一人で表現してしまいました。
 そして、オデールの踊りのすばらしさと露出した脚の威力が遺憾なく発揮されたのが第二幕の白鳥たちの踊りのシーンでした。
 なめらかな腕の動きによる羽の表現と共に、見事な脚裁きによる水上を滑るように移動する様の表現が秀逸でした。
 小白鳥の踊りのコミカルな振り付けは大受けし、妖精の娘の心を代弁する大白鳥の打ちひしがれた悲しみの踊りはあまりの美しさに特にご年輩のご婦人が多く感動の涙を流しました。
 そしてオデールはここで初めて王子を踊りました。
 ここでも脚が大きく強調されました。
 女性とは明らかに違う直線的で大きくスピードのある動き。体重が一気に二倍になったかのような力強く重々しい動き。太股の張りつめた筋肉は完全に男性のものでした。
 そしてまた妖精の娘を踊ったときの軽やかでなめらかな曲線的で優雅な動き。男性を踊った後でなおさら女性の優しさが印象深く感じられます。オデールは明らかに一般的な女性より筋肉質で硬い脚をしていましたが、娘を踊るときのオデールの脚はとても柔らかく魅力的に見えました。
 そしてもう一人、魔女も演じました。
 魔女の踊りへ移行する際、オデールはまず情景を踊りました。
 白鳥たちが王子が矢を射ったと勘違いして魔女に王子に罰を与えるよう訴えるシーンですが、オデールはこれを音楽のイメージに忠実に、いわばこの場の空気として演じました。
 劇的に悲劇を暗示し、怒り、不吉、愚かさ、運命といったものを、およそバレエとは思えない呪術的なマイムで目玉をギョロリとした恐ろしい顔で演じました。
 そして魔女は気取って意地悪な様を静の動きで、恐ろしく力のある様を狂ったような暴力的な動きで演じました。
 昨日の出来事を知る観客たちはそこにまた本物の悪魔が現れたような錯覚を持ちました。
 魔女、王子、妖精の娘を、激しい音楽に乗せて忙しく交代で演じていき、その舞台上の三角形は三人の関係と逃れがたい運命を強く暗示し、オデールの描くその三角は燃え上がるような高揚感を与え、観客たちの魂を吸い上げていきました。
 ババーンとオーケストラの最後の音が鳴り響き、幕が下りていくと観客たちはどっと疲れている自分に気付き、その圧倒的な感動の強さにそうせずにはいられない衝動で激しく拍手を鳴り響かせました。
 通常ここで十分間の休憩が入るのですが、今回はオデールの希望でこのまま第三幕に入りました。
 幕が上がるとオデールの衣装は真っ黒になっていました。
 ここでは特に魔女に重点が置かれているためでしょう。
 お城の狂騒ぶりと魔女の扮する占い師の登場、王子の恋心を狙う娘たちの踊りが楽しく踊られていきます。
 ここでは魔女が主人公で、妖精の娘は完全に姿が見えないものとして扱われています。
 コミカルで楽しい様子が、次第に魔女の怪しい魅力に支配されていき、妖精の娘と王子の束の間の心の交流もか弱くはかないものとして悲劇的な様相を帯びていきます。
 魔女の妖艶な踊りが実に濃厚で、露出した脚が今度こそ本来の意味で魅力的で、観客は異様な雰囲気で固唾をのんでオデールに見入りました。
 魔女の勝利で幕が下ろされます。
 オデールの観客に対する勝利とも言えます。
 そして第四幕。
 湖。
 再び白の衣装で現れたオデールは、もはやストーリーは無視して流れる音楽のままに体を動かしていきます。
 白鳥たちの後悔と同情、妖精の娘の悲しみと恋の傷み、王子の情熱、再び燃え上がる恋の喜び。それらが渾然一体となり、オデールに休む間もなく踊りを強要し、その激しい踊りの流れは渦を巻くように天上に向かって昇華していきます。
 そして魔女の怒りによって本当の渦が生まれます。
 風が起こり、嵐となり、竜巻を起こし、湖の水を吸い上げ、何もかもがそこに吸い寄せられ、飲み込まれていきます。もはや激しさだけが支配し、何ものもそこに存在しません。
 そして意味をなさなくなった激しさは潮のごとく引いていき、後には何も残らない。
 オデールも舞台を去り、静寂が置き去りにされます。
 コンチャロフスキー氏の音楽はいわゆる国民楽派に属するといいます。広大なラピスの土着的な旋律を、コンチャロフスキー氏の音楽家としての技術は非常に洗練されて流麗な音楽に仕上げています。耳にすぐに馴染む親しみやすさは、しかしそんな表面的な技術によるものばかりではないでしょう。土着的な情感は、激しいものも感傷的なものも、人間の根元的な感情をごく素直に表したものです。
 コンチャロフスキー氏の音楽は人の心をとても素直にする音楽です。
 それ故この静寂には耐えられないほどの悲しみを感じました。
 小さく美しいメロディがよみがえってきたとき、観客の誰もが神の温かな慈悲を感じました。
 復活したオデールは頭に眩しいダイヤモンドの輝きを戴いていました。
 それはどんな暴力にも負けない愛の勝利を表し、再び妖精の娘に戻ったオデールは王子と共に喜びを踊り、喜びの感情が溢れると、再び両者の区別はなくなり、一つの美しい魂となり、天の栄光へと登っていくのでした。

 ジャジャーン、ジャンジャンジャーーーーン・・・・
 オーケストラが高らかに歌い、全四幕の幕が下りていきます。
 ブラボー
 ブラボー
 ブラボー
 観客は総立ちとなって涙を流して力いっぱいの拍手を贈りました。
 再び幕が上がり、晴れやかな笑顔のオデールが深々とお辞儀しました。
 その背からは湯気がもうもうと立っています。
 すさまじい力強さです。
 たった一人でこの壮大なバレエを演じきったのです。
 オデールは引っ込んではまた拍手に呼び戻され、また引っ込んでは呼び戻され、カーテンコールは延々と続き、オデールはピエトロ氏を舞台に引っ張り上げ、オーケストラに感謝と賞賛を贈りました。
 途中退場したお客は一人もいませんでした。
 オデールは史上最高のプリマドンナと激賞され、この舞台は伝説となりました。

 天才とはいるのです。
 ビビアナはそれを目の前でまじまじと見せつけられ、顔を真っ青にしてブルブル震えていました。
 悔しいと思いました。
 けれど素晴らしいと思いました。
 涙が溢れてきそうになりましたが、それを必死でこらえました。ここで泣いてしまったら二度と踊れなくなってしまうような気がしたのです。
 自分は今夜この舞台に立つ。
 きっとオデール以上に素晴らしいオンデーヌを踊ってみせる。
「見てらっしゃい、必ず、必ず踊ってみせる・・」
 ビビアナはギリギリ唇を噛みしめました。












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