第三話 2
高い樹木が、空を覆っていた。足元には苔がびっしりと生え、湿った空気が漂っている。空はあるいは雲に覆われているのかもしれない。そう思えるほどの湿気だった。
「……湿気ってるし。最悪っ!」
暴言を吐いたエウィンに、ソエルとエージュは我に返った。エウィンは周囲をぐるりと見回して、最後に空を仰ぐ。
「あー……なるほどね」
「あ、あの」
意を決して声をかけたソエルに、エウィンは視線を寄越す。
「何?」
「ここは、あの」
エウィンはやれやれ、と言いたげに息を吐いた。
「渉外任務は、初めて?」
「あ、はい」
「じゃあ一番渉外がどんなものか、よーく見とくんだね。良い経験にはなるよ」
でも、とエウィンは笑みを浮かべた。
「管理の次に危険なのが、渉外ってことは、よく覚えておくんだよ」
◇◇◇
管理は世界の最後に立ち会う。そのため、世界の崩落に巻き込まれる監査官も少なくない。そして、世界と世界を円滑に回すのが、渉外だという。
だが、具体的にはソエルもエージュも何も知らなかった。エウィンの後を続きながら、二人は黙って周囲を警戒する。鬱蒼とした森は延々と続いていた。
「ストップ」
ふと、エウィンが手で二人を制した。
「君ら、透明化か飛翔できる?」
「そ、そんな高度な魔法無理ですっ」
おろおろと胸の前で手を振るソエルに、エージュも黙って同意した。エウィンは小さく息を吐くと、二人へと向き直った。
「これから本格的な仕事に移るから。気を抜かないように」
あの不遜な態度が鳴りを潜め、凛とした気配のエウィンが告げた。
その変わり身に、エージュとソエルは息を呑む。エウィンはポケットから糸と瓶を取り出した。すたすた歩み寄って、エウィンは有無を言わせぬ勢いで糸を二人へ順に握らせる。
「あの……」
「見えなくなって、迷子とか困るから。いい? 離したら、どうなっても知らないからね」
どうやら、透明化をするつもりらしいと、二人は悟る。
試しに軽く引っ張ってみる。細いが、テグスのような強度を持つ糸だ。それがまさに、命綱そのものになる。
にわかに緊張感が走る。
「それから、何があっても、この世界で起こることに対して手を出してはダメだよ」
「それは……どういう……」
「それから、私に何があってもね」
背筋がすっと寒くなるような言葉だった。だが、エージュがその意味を問い質すより早く、エウィンは瓶の蓋を開けて、ざらっ、と粉を無造作に撒き散らした。
瞬く間にそれぞれの視界から、姿が消えていく。その存在を告げるのは、最早握った糸を引く感覚だけだった。
存在の証明が、微かな感覚だけというのは、酷く心を不安にさせる。普段、気にしたこともない微かな気配にさえ敏感になってしまうほどに。
エージュは取り残されたような感覚に、落ち着きがなくなるのを自覚する。姿が見えないだけであって、声は出せるはずなのだが、それさえ憚られるほどだった。
――不意に。
ざぁっ、と強い風が木々を鳴らした。それと同時に、すぐそばの地面が爆ぜる。
「―――!」
耳に届いた声に、エージュは視線を走らせる。苔むして、湿った地面を走る姿が見えた。
姿形こそ人間と同じだが、青く発光する文様が肌に浮かび上がっている。何か言葉を発してはいるようだったが、その意味がエージュには分からない。
何かから逃げているのは確かだと、思うのだが。その姿が見えない。
――否。
再び強い風が周囲に吹きすさぶ。
(速すぎて、見えてないだけか⁈)
目を凝らせば、残像のようなものが微かに見える。だが、それも一瞬。
到底、目で追える速さではなかった。そして、こちらへと走ってくる姿が徐々に近づき、年若い青年である事が分かった。ぐいっと、握っていた糸が強く引かれ、エージュはたたらを踏んだ。
驚く間もなく、走る青年を突風――恐らくは、目で追えない何かによる一撃――が襲う。
ばっと、青い光を纏う液体が青年の肘から噴き出す。そして、肘から先は何もなくなっていた。
息を呑むエージュの前で、青年は膝をついて、何かを叫んだ。しかし相変わらず、言葉が分からない。
翻訳言語が追いついていないのは明白だった。そして、高速の正体が青年の背後へと現れる。半透明な体を持つ、蛇に翼の生えた見知らぬ生物。この生物にとって、彼は餌なのだろう。
つまりは。
――喰われる。
咄嗟に助けようと動いたエージュは、不意に強く引っ張られタイミングを逸した。
「駄目だって、言ったよね?」
エウィンの声が、すぐ傍で聞こえた。
ひゅんっと空気を裂く音がエージュの耳元を掠める。瞬間、破裂音が響いた。
「エージュっ!」
ソエルが駆け寄り、エージュの腕を掴んだ。その感覚にエージュは我に返った。姿が、見えるようになっている。
そして……エージュの前に立つエウィンの、肩から先が存在しなくなっていた。
しかし、何故か血が出た様子はない。
「エウィンさ……」
「黙ってて」
ぴしゃりと言い切られ、エージュは口をつぐんだ。
正面では、青い液体を口から垂らす翼をもつ大蛇がこちらを見据えていた。ぱたぱたと、地面に滴る青い液体。姿のない青年。
――喰われた、と理解するのに時間は必要なかった。
悔しさがこみ上げ、エージュはぐっと拳を握りしめる。そんなエージュの前に立っていたエウィンがおもむろに口を開いた。
「σǒ√y。нǒtИниḾy」
ソエルとエージュにとって、全く知らない言葉だった。大蛇はじっとエウィンを見つめ、その口をゆっくりと開く。
思わず身構えたエージュと、怯えた様子で掴んだ手に力を込めるソエル。その耳に、その声が届く。
「iн」
低く響く、大蛇の声。
エウィンが一つ頷くと、大蛇はその巨体で空気を震わせながら去って行った。大蛇が完全に見えなくなると、張り詰めていた緊張と、空気が解けた。
「っはー。……ったく、後で請求するからね」
エウィンはため息をついて、エージュたちを振り返った。何でもない、という様子だが、右肩から先は、完全に消滅している。
「エウィンさん、怪我っ……」
「別に義手だから問題ないけど?」
しれっと返したエウィンに、二人は呆気にとられる。そんな二人に、エウィンはため息をついた。
「ったく。キミら絶対渉外向いてないね。言ったよね? 渉外は管理の次に危ないんだって」
「それは……」
「まぁ、ここで話しててさっきのに食われても文句言えないし。一旦帰るよ。仕事も終わったし」
困惑した様子も見せず、エウィンは帰りのゲートを開いた。何もかも、理解できないままでいる二人と共に。
◇◇◇
本部で義手の制作を待つ間、ソエルは気になっていたことを尋ねる。
「あの、聞いていいですか?」
「義手の事?」
けろりと返したエウィンに少なからず驚きながら、ソエルは頷いた。エウィンは軽く肩をすくめてみせる。
「両手両足、全部偽物。本物はとっくに失くしたよ。でも本部の技術は凄いから、困った事ないけどね」
「仕事で、ですか?」
今度はエージュが問いかける。視線を寄越して、エウィンは苦笑した。
「そーいうこと。言ったっしょ? 渉外は危険なんだよってさ」
「言葉と文明を、観測するのが役目なんですか?」
戸惑いながら、ソエルが質問をぶつけるとエウィンは頷いた。
「そゆこと。だから、渉外監査官は翻訳言語に特化してないと務まらないってわけ」
「管理とは、全然違うんですね」
「あのね……じゃなきゃわざわざ職種分けしないからね?」
呆れた様子でエウィンは言う。口を濁したソエルに、しかし楽しげにエウィンは笑みを浮かべた。
「渉外に必要なのは徹頭徹尾、冷徹な傍観者であることと、翻訳言語。少しは今後の役に立った?」
「あ、はい! あの、ごめんなさい。その、義手……」
エウィンは謝るソエルに首を振った。
「これは、私の力量不足。ひよっこが気に病む事じゃないよ。願わくば」
――自分に一番向いてる職種を選ぶことだね。
それは、確実にエージュへ向けられた言葉だった。