バベル 上宮編縦書き表示RDF


グループ小説第十八弾参加作品(原案提供者・でん助様)。

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では……。
  
バベル 上宮編
作:上宮穂高


  
   
人の世には、必ず『幸』と『不幸』とがある。
全ての人間が、そのどちらかであることは有り得ない。
その両極の意味は、『幸』にあらざれば『不幸』。
逆も成り立ち、『不幸』にあらざれば『幸』である。
しかし、その境目は実に曖昧──人により、どんなことだろうと『幸』に『不幸』になり得る。どんなことだろうと。
  
   
だが、例えどんな『幸』だろうと『不幸』だろうと、どこかで埋め合わせが付く。
これに例外はない。全ての人間が、『幸』『不幸』のどちらかであるのは、有り得ないのだから。
どこかで『幸』があれば『不幸』が。
どこかで『不幸』があれば『幸』が。
過不足なく等質に、ある。
何せ、『幸』『不幸』は一対の切り離せぬもの。
光があれば陰があるように。
善の掲げられる裏に、悪がはびこるように。
何者にも縛り得ぬ自由のそばで……鉄格子の中に陰鬱とした時間が過ぎ去って行くように。
  
   
  ────────
   
  
俺は、『幸せ』なんて信じない。
『不幸』の度合が軽くなっただけ、それだけ。
『幸せ』なんてない。
あるのは『不幸』だけ。
俺は物心付いてからというものの数年間、そう考えて来た。
そして今もそう考えている。
霧雨の帰路。
高校という檻からやっと解放されて、俺は誰もいない雨の通りを歩いている。
無言で。
足早に、ただ足早に。
今日だって、赤堀の野郎に散々莫迦にされ尽くしての下校だ。
足も早くなる。
赤堀の野郎が言うには──うちの親父は毎日酒を飲んでは街中で暴れ回り、逮捕歴すらある──それでいつも、ソイツの息子がこれだぜ、と言って締め括る。
どこで知ったか知らんが、事実だ。
確かに俺の親父は飲んだくれだ。昔は将来を嘱望された人材だったか何だか知らんが、今や母さんと俺を泣かすだけの存在だ。
それを、何かで気を悪くすればすぐ俺に当たり散らす武器にするのが赤堀の野郎だ。
ますます嫌なことが思い出された俺は、いやが上にも歩調を速める。
そんな時に浮かんで来る、赤堀の始終隈のできた目付きに俺は反吐を吐きたくなる。
あれは、親父の目付きそっくりだ。
酒に毒された親父の目そのものだ。
  
   
だから、『幸福』なんていう代物があるなんて信じられはしない。
その一心で、雨の中、薄青の風景をひたすら歩く。
傘を差した所でそれは無意味で、俺は全身とうに濡れ切っていた。
吹き込んだのか、何なのか。
だが、そんな小さなことはもはや何ともない。どうだっていい。
俺は歩く。
少なくとも、俺に『幸せ』だとか『幸福』だとかいうものはかけらすらない。
そう思っていれば、何を望むでもなくいられる。
損になることなど一切ない。
周りの全てが不幸の種なんだから、それ以上に不幸の重ねようはないだろう。
  
   
……卑屈だな。自分自身のことながら。
でもいいさ。
卑屈にでも卑怯にでも生きてやるさ。
俺は、苦々しく薄笑いを浮かべて黙ったまま帰り路を辿り続けた。
そう……『幸せ』なんてな。
  
   
  
   
『……本当に……
   望みはないのか』
  
   
──ああ。ないさ──
  
   
『でも……もし何か望みが叶うとしたら?』
  
   
──だから。
  叶う訳ないだろ──
  
   
『もし……もし、叶うとすれば、だ』
  
   
──…………、……──
  
   
『「願ってみたい」。
     そう思う?』
  
   
──…………それは──
   
  
『……お前が真に欲する
「望み」を持つならば。叶えよう』
  
   
  
   
……気が付くと、俺はいつしか家の前で立ち止まっていた。
意識がはっきりしない。
雨に濡れ過ぎたか。
勢いが強くなって来たしな。
「……、今の声……」
どうにも、雨のせいらしい。
変な声まで聞こえやがった。
でも、声なんかするはずはない。
ここは住宅街の寂しい一本道。
人がいればすぐ見えるが……降りしきる雨音の中に、人の影は一つとしてない。
  
   
変わった点といえば一つだけ。
俺の目の前の路面……そこに、一札の本が落ちているだけだった。
黒表紙、影を集めたかのような闇色の本が、そこに。
  
  
   
「…………本?」
足下にあるその存在に気付いて、俺はふと我に返った。
誰かの落とした本だろうか。
何がなしに、ヒョイと拾い上げてみる。
黒い革の表紙……大きさ厚さは小さい辞書くらい。
何かの辞典か聖書か……そう思って開いてみると、何故か中身は白紙。
一文字すら、書き込まれていない無地のページが連なっている。
「……何だこれ」
俺がそう思うのはさもないことだった。
ノートや手帳の類いにしては、分厚過ぎる。
全ページ落丁の辞書? そんなの有り得るのか。
それに、もっと妙なことがある。
「……濡れて……ない、よな」
俺は眉を顰めた。
こんなに盛大に雨曝しになっていて、表紙はおろかページの一枚も濡れていないっていうのはどういう本なんだ。
  
   
気味が悪い。
そういう直感が頭の中を過る。
俺は元通りそれを路上に置くと、人気のない通りを背に玄関の扉を開いた。
「ただいま」
その言葉に返すのは、家の中に響く雨の余韻だけ。
水を打ったような玄関に、埃っぽい空気が満ちている。
誰もいない……か。
当たり前だ。
母さんはこの時間仕事に出ているし、親父は飲んだくれて居間に寝転がっているかパチスロに出ているかどちらか。
何の音もしない、ってことは親父は出ているらしい。
さっき雨が激しくなったから、きっと打たれて来るだろう。
いい気味だ。
そう、ささやかな笑いを噛み締めながら俺は二階の自室への階段を上る。
家の中は、電気が点いていないのと夕方の雨のせいで、憂鬱になるには十分なほの暗さだった。
  
   
『……余は万世万時、
「望む者」と共にあり』
  
   
そんな声がしたのは、階段の薄闇の向こう。
薄ら笑いをこぼしていた俺は、刹那に血が凍るのを感じた。
時既に遅しで自室のドアを開けてしまった後だったが。
なぜなら……その声には。
ほんの数分前に聞いた、そんな覚えが。
  
   
「な……何でだよ?!」
明りも点いていない、黄昏の闇が忍び込み始めている部屋。
その一角にある、俺の机の上……周りの闇を凝縮したような、『あの本』があった。
  
   
『……余を見て腰を抜かすとはな』
再び、あの声が響く。
今度こそ……信じたかなかったが。
分かってしまった。
間違いない。
『情けない格好だ』
部屋の入口でへたりこんでいる俺の目線は、机の上から離したくても離れない。
机の上の本は、間違いなく『喋って』いた。
俺の口は、閉じることもできない。顎が震えている。
『……怖いか』
再度。
『昔は。余が現れるだけで人はひれ伏したもの……神の使い、と。それが今の世はこれか』
突き放すような嗄れ声が、脳に流れ込んで来る。
今気付いたが、本の声は脳に直接聞こえていた。
それでいて、明らかにその本が喋っているんだ、と俺には分かった。
「……な、何、なんだ」
嫌な汗が流れる背中を、入口の柱に寄り掛からす。
「……何なんだよ! 一体……お前……、は」
『ほう。そんな情けない格好で余に物申すか』
放っとけよ、という一言さえも言えない。
額にさえ汗が出て来る。
『……余の名はバベル──神代の塔に名を借りて、現世の民の「望み」を負う者なり』
瞬間、空気が凍り付くような厳しさに満ちる。
『そして、其の成就が為に世の主より遣わされし者なり』
重々しい空間の中、低い嗄れ声はそう名乗った。
  
   
  
   
「『望み』を……負う者?」
依然として、本の言葉は続く。
『そうだ。下界の民の「望み」を叶えるのが余の役目』
はー、そうなのか……と受け流すこともできない状態にその時俺はいた。
思わずたじろぐ。
本が、外見は普通の本が言葉を発して俺と向かい合っている?
んなバカな。
大体、ついさっきまで表に落ちていた本がここにあるのもおかしい。
俺は目をこすったが、それでも『バベル』と名乗る本は俺の机の上にある。
『……まだ余の存在を信じぬか』
再び、声が響く。
『余の存在を、信じるか信じぬかは勝手だが。いずれにせよお前は神の手により選ばれたのだ』
「神の……手?」
『そう。お前が自分の欲するものが満たされたと言うまで、余はいかな望みであろうと成就させる』
「……望、み?」
俺はその時、無意識に心臓の辺りがドクンと動くのを感じた。
『望み』……ね。
  
   
『……しからば、言うがよい。己の真に欲するものを』
雨の音が響き渡る部屋に、重厚なバベルの声が満ちる。
惚っとしていた俺は、とりあえず部屋の片隅のベッドまで行って腰掛ける。
そしてこう言う。
「……それなら。俺を殺してくれ」
無論、真顔でだ。
こんな家に暮らすなら死んだ方がましだろう。
俺の言葉にバベルは、少しうろたえたように口を閉ざす。
けれども。
『……いいのか』
できるのか。
俺は虚空に目を向けたまま浅く首肯する。
『……叶えたくない望みではあるがな』
溜め息のような声が帰って来る。
「どういうことだよ」
『お前を殺すことは容易い。ただ例え死んだとしても、冥府の業火に焼かれるような時は助けられないのだぞ』
「……どういうことだ」
『物分かりの悪い奴だ。業火に焼かれようものなら人は誰とて助けを乞う。しかしその火は神罰ゆえ。余は業火からの救いという望みを叶えることあたわず、これは聖典たる余の本義に反する』
……七面倒なことを言ってやがる。
とにかく、依頼主を殺すことはしたくないってか。
今度はこっちが溜め息を零す番だった。
「……んじゃ、金」
『金?』
「そうだなァ。一生生活に困らないような」
と、くぐもった笑い声が聞こえる。
『……そうだな。金、か。よかろう、承った』
「何がおかしい」
『いや。人はやはり、必ず一番二番に金や富を求めるものなのだな』
「放っとけ」
俺は、そんなバベルの言葉を鬱陶しく思ってベッドに横になった。
これが夢なら、寝たら覚めるかもしれない。本が喋り出して望みを叶えよう、なんてな。
『だが、叶える代わりに見返りは取ることになるだろう』
「あぁ……分かった」
  
   
  
   
見返りか。
俺から何を取るって言うんだよ。
俺は目をつぶった。
  
   
 ──────── 
  
   
……どれくらい時間が過ぎたか。
俺がふと目を開けた時、部屋の中は闇に包まれていた。
「夜……か?」
首をもたげて外を覗いてみる。
雨はもう止んだらしく、空模様は星の光る夜の晴天に変わっていた。
とりもあえずも、俺は体を起こして一つ伸びをする。
何だか少し体が疲れてるな。
そういえば、と見ると……机の上。
そこには、依然として堂々と分厚な黒の本が乗っかっている。
「夢……じゃなかったか」
『当然だ』
あの低い嗄れ声もよく聞こえる。
夜になって静かさが増したからか。
俺は溜め息をついた。
『バベル』……ま、害はなさそうだからいいとして。
親父に見付かったら間違いなく古書店に売り飛ばされるな。
「……そういえば、俺の願いは叶ったのか」
『確かに成就した』
それだけかよ。
もっとどこがどう叶ったって言ってほしいもんだが。
『証しを欲するならば……階下へ降りてみよ』
じっと自分を見ているだけの俺を見兼ねたのか。
バベルはそう言う。
証し?
まさか、一階に行ったら札束でピラミッドが作ってあった……なんていうのはないだろうな。
バベルの言葉を冗談半分に思いながら、俺は何も言わずに自分の部屋を出た。
  
   
結論を言おうか。
バベルは本物だった。
本当に、『「望み」を叶える本』だった。
札束ピラミッド、ではないにしろ、果して俺には心中で狂喜乱舞するような結果が用意されていたんだ。
  
   
一階の居間を覗いてみる。
そこにあったのは、帰って来た時には気付かなかったが、電話のそばにメモが一枚。
  
『ちょっと出て来るから、心配しないでね。

    お母さんより』
  
と、震えた文字で。
母さんが出かける、というのはさして珍しいことじゃない。
何せ毎日が仕事だ。
でもこういうメモを残すのは余程の時だ。
親父が捕まったなら『警察署に行く』と、書くはず。
俺は漠然とした不安を胸に募らせて母さんの携帯に電話をかけた。
何回かのコールの後、母さんは出る。ただし、涙声で。
俺はすぐさまその訳を問うた。
と。
『お父さん……ね。お父さん……死んじゃったって』
……俺は。
愕然として、受話器を握る力すら、その時抜けてしまった。
  
   
母さん曰く。
親父の死因は腹胸部刺傷に起因する出血性ショック死。
つまり、刺殺だった。
いつも通り歓楽街を飲み歩いていた親父は、何の恨みを買ったのかビルの間の細い小路でメッタ刺しになって倒れていたという。
目撃者はなし、犯人は不明。
俺は、電話と駆け付けた警察署でとで胸の底が空になって急に冷えるような思いがした。
何故?
それが真っ先に思ったことだ。
仮にも親父は俺の親父だったし、そうでなくてもあの豪胆で喧嘩っ早い親父が刺し殺されるなんて夢にも思わない。
案の定、いくらかは整えられていたものの、霊安室に安置されていた親父ですら断末魔の苦悶と怒りの表情を浮かべていた。
その夜は湿っぽい夜ではあった。
ただ、身内でも評判のよくなかった親父の死だ。
まるで肩の荷が降りたような涼やかさ、が感じられなかったと言えば嘘になる。
俺は一晩中寝床でその涼やかさを背中に感じていたことを覚えている。
  
   
だが驚いたのはその数日後の話だ。
親父は、最近こそああいう碌でなしだったが、昔は郷里の秀才、そして某企業の名うてのエリート、だったらしい。
その余波が意外な所で来ていた。
「……二億、円……」
俺はそう口に出さずにはいられなかった。
母さんも口元を押さえていた。
保険金だ。
親父には多額の保険金がかけられていたということだった。
その額二億円。
俺と母さんには死んでも届かず、かつ見るだけで心臓が止まるような金額には違いなかった。
ただ、それがその時手に入った。
これこそ、まさに『奇跡』とでも呼び得る出来事なんだろうか。
否、少なくとも母さんと俺にとってはそれに違いなかった。
『奇跡』。
その言葉の通りまさしく奇なる出来事だった。
  
   
その愉悦にようやく浸れるようになったのは、明日登校が始まるという晩のことだった。
「フフッ……フフフフフフッ」
笑いが、止まらない。
俺は、一人夜闇の部屋の中で奇異な喜びを噛み締めていた。
  
   
  
   
「……バベル」
『何だ』
「お前って、やっぱり本物だったんだな」
俺は、ベッドで大の字になりながら机の上のバベルに喋りかける。
『……やっと気付いたか』
「気付くも何も、信じるさ。こんな奇跡、起きないと思ってた」
そしてまた、ほの暗い天井を眺めながら笑い声をこぼす。
『……こういうことが起きてほしいと思っていたのか、前々から』
「ハハッ、当たり前だろ? フフフ、そうでなきゃ今までやって来られなかった」
自分自身、実に俺は残酷だと思っていた。
実の父親が死んだと言うのに息子の自分は、その死を有り難み嬉しがり笑い転げている。
親不孝もいいとこだ。
でも、それでもいいような気がしたのは何でだったんだろうか。
実に愉快。
哀しみ怒り、そんなの更々なくて愉快さが底なしに込み上げて来ている。
それで俺は笑っている。
これを残忍と言わずして何と言うのか。
『……そうか』
バベルが再び口を開く。
『それなら余に言うことはない。実の父を対価としても「望み」の主たるお前が、事足りたならば』
俺は、その言葉を聞いてニイッと唇を歪めてほくそ笑んだ。
俺は、暗がり天井を見上げながら──雲もない漆黒の夜空の真下に、何か自分が『変われる』、いや『変わる』時が来ていたように思った。
  
   
『では、次の望みを言うがよい』
バベルは、少し間を空けて再び重々しい声を発した。
愉悦に浸り切っていた俺は、その時を待っていたとも言える。
改めて向き直り、そして口角を上に歪める。
「赤堀臣吾」
……俺は。
こういう力の類いを得るのを夢見ていたのかもしれない、本当は。
そして今それを手にしている。
何の文句も、あるはずはない。
「……こいつを、殺してくれ」
俺は真面目に、そう言った。
  
   
『……殺人か』
「ああ。そしてその取り巻きも、同じような目に、な。それで俺は満足だ」
バベルは少し黙り込む。
『満足……か』
「ああ」
『それでよいのだな』
「何度も言わすなよ、これ以上望みはないさ。金には、この先も不自由しないようになるんだろ? さっき『一生生活に困らないような』金を、って言ったはずだぜ」
『……それは漸次叶う』
「ならいいんだ。それなら、俺にはもう望みはないよ。金はあるからな」
俺は、もはや前とは別人になっていた。
前のように、雨の中しょぼくれて帰ったりはしない。赤堀の野郎に罵られたりすることもない。
それを思うと……体の奥底から、フツフツと何かが沸き立って来るように思えてならない。
バベルは、隣りでまただんまりを決め込んでいたが、
『よかろう。つまりは現在お前を蔑み嫌う者ども……お前の最も嫌う者どもを排除しろということだな』
元の淡々とした調子を取り戻して、言う。
  
   
  
   
「その通り」
『……承った』
  
   
 ────────
  
   
それから、一週間後。
「……おい、本多」
「何」
学校、昼休み。
「最近、ヤケに嬉しそうだな」
休み時間になって早々、俺の席の所にやって来たのは赤堀だった。
「……いや、別に」
俺は広げたちり紙の上、カッターで鉛筆を削りながら言う。
わざと、平然を装って。
「……そうか」
一方の赤堀は、どこか焦燥としている所を隠せないでいた。
例の隈がちの細い目が僅かに震えている。
「いけ好かねぇな……お前は、やっぱり」
そりゃどうも。
俺は笑いを堪えるのに必死だったのは言うまでもない。
  
   
「……山西のこと、知ってるか」
ヤケに慎重な声で、赤堀は続ける。
「ああ」
「賀澤のことも……知ってるよな」
「ああ」
俺は未だに平然ななりをする。
……面白い所だ。
「他にも……大勢、ここんとこ怪我で休んでる」
「そうだね」
「しかも、ほとんどが通り魔に襲われてだ。切り付けられたり殴られたり」
「知ってるよ」
……言いたいことは分かっている。
なんたって、全員赤堀の仲間だったからな。
バベルの奴も面白いことをしてくれるもんだ。
赤堀の仲間から手を付けて、最後の最後まで赤堀を残しとくとは。
赤堀のこんな顔が見られるなんてな、実に愉快だ。
「……聞いてんのか」
赤堀の顔は、気付けば青褪めている。
「ああ」
だが、そんなことは俺にとってはどうでもいいことだった。
無感情に相槌を打つだけだ。
そうするだけでも、口角が緩みそうになる。
「……おいっ!! 聞いてんのか本多っ!!??」
痺れを切らしたか。
赤堀は平手を机に叩き付けると、憔悴した目を一層鋭くして俺に向けて来た。
……チェッ。
いい所だったのに、早めにキレたか。
ん、カッターも切れ味が悪いな。
元々、笑みを殺し冷静でいる為だけにやっていた鉛筆削り。
別に刃の切れ味が悪くなったならやる必要もない訳で。
「聞いてるって」
そのカッターは、こう使う。
さも削り終わりという感じで、その刃先を突き付ける。赤堀に。
「……聞いてるんだよ」
俺の低い声が響く刹那、赤堀の青い顔は輪をかけて青くなり……表情は止まる。
その時の俺の顔……どう見えたんだろうな。
  
   
「……、そう、か、」
人は弱いものだ。
権力が逆転した途端子犬のように怯えおののき出す。
赤堀もそれに似ていた。
正気付いているのかいないのか、俺から即刻離れたいかのように背中を向けた。
背中を向けて、十秒としない間に教室から姿を消した。
後には、嫌なくらい静かな教室の中に俺が残る。
   
  
  
   
「…………」
赤堀の奴、教室から出る時……俺を見ようとすらしなかったな。
そのことを思うと、俺はたまらず笑みに口を歪めた。
やっと笑えるようになったな。
色々な意味で。
俺はそう頭の中で呟きながら、独り声もなく笑い続けた。
  
   
そう言っていた赤堀も、それから一週間後に死んだ。
死因は腹部殺傷による失血死。
親父の時と同じだった。
あれ程偉そうにしていたヤツが。
何だ、呆気なく死んだな、と俺はまさに有頂天だった。
『……遂に死んだな』
赤堀が死んだ翌日。
奴の机の上の花瓶を、いい気味だと眺め尽くして帰って来た時のこと。
俺を出迎えたのは重いバベルの嗄れ声だった。
「ああ」
俺は事も無げに喋り出してみせる。
「これ以上愉快なことはねぇな」
ガタリと椅子に腰掛けると、バベルはまだ何か言い足りないのか、
『……そうか』
一言、こう呟く。
まるで渋い表情でも浮かべているかのように。
『それなら……それならば、余の役目は既に達せられたということだ』
重々しい……宣告するような声の響き。
バベルは、初めて名乗った時のような口調で言葉を発する。
「ああ。そういえばそうだっけか」
一方俺は、椅子の悠長にも背もたれに体を預ける。
この後何が起こるかも知らずに。
「……この先金には困らないようになってるなら、その通りだな」
『何度言わすか。それは成就済みのことだ』
「……バベルにも、世話になったな」
……よし。
もう俺にたて突く奴は消えた。
後は一生金には困らない。前のように貧乏暮らしをすることもない。
それを思うと、否が応でも笑みの洩れて来る俺だった。
  
   
『……いや』
ところが。
『余にはまだ成すべきことがある』
何をする?
  
『……対価だ』
  
バベルは。
それまでにはない冷たい声で……告げる。
『対価』……と。
「……ああ? 対価? そんなのあったか」
俺はまだ悠長にバベルに答えてみせる。
まだ。
そんな時。
  
   
──ピンポーン……──
  
   
『……行くがよい。さすればそこに対価はある』
……何が。
何が対価だ。
俺は何の物怖じもしないで、部屋を出て下へ降りることにした。
だってもう俺に取られるものがあるか?
金?
金ならいくら取られたって泡のように湧いて来るぜ。
バベルは、そんな俺を黙って見送る。
黙って。
  
   
思えば、バベルには先が見えていたんだ。何もかもが。
「……はい、今出ます」
この玄関のドアを開けたら。
「……どなたですか、」
俺が一体どうなるのか。
  
   
「こういう者だよ」
俺の問いに答えたのは……男。
俺は、刹那息がヒュッと引っ込んだ。
「ちょっとね……用事があるんだが。君に」
開いたドア一杯にのぞく、灰色のスーツ姿。
その手には……黒い手帳。
「……上がらせてもらうよ」
男はニッコリと笑う。
俺は逆に産毛が逆立つような……恐怖。刹那の恐怖を覚える。
  
   
何でだ。
  
   
  
   
「……ハ、ハァ。どうぞ」
「そんな畏まらんでいいよ。すぐ済む」
男はその四角顔ににこやかな表情浮かべたまま、いきなり上がり込んで来る。
  
   
……何だ?
   
  
「ちょ、ちょっと? 何なんですか」
「……言ったろう? 君に用事だ」
……『用事』?
その言葉は、俺の血の気を引かせるには十分だった。
気付くと、熊のように大柄な体躯が家の廊下をどんどん遠ざかって行く。
……あの先は……!!
「ちょっと! 何人の家に」
「ん? 俺は刑事だぞ。しかも許可はもらってんだ」
ますます、全身から熱が引くのが分かる。
突き放されて行く。
その感覚を得た俺は、何がなんでも早く辿り着きたかった……自分の部屋へ。
なのに。
どうしてだろうな……足が。足が、震えて動かないなんてな。
俺はただ、薄暗い一階の廊下を這いつくばっていただけだった。
  
   
「お。遅かったね」
……俺が震える身を起こして自分の部屋のドアまで辿り着いた時。
その刑事は俺の机の前でニヤついていた。
その時の。
その時の俺の表情がどんなだったかは想像に難くない。
「そ……それは」
「ん? ああ、これか」
その刑事は──いつの間に探り出したのか──俺のカッターを指でつまんでいた。
光に透かすように眺めるその姿に、俺は……心臓の辺りが破れそうだった。
咄嗟に胸倉を掴む俺を、刑事は横目で見ていた。
「知ってるかい? 君の父さんは刺し殺されたってこと」
  
……知ってるよ。
  
「んで。ここんとこ、その父さんを襲った通り魔か何かがあちこちで現れてな」
  
もはや……俺は汗を背中一杯に流していた。
  
「君の同級生も。何人かやられているそうじゃないか、ん?」
  
……知ってるんだよ。
俺は、見開いた両目をもう閉じる気力すらもなかったと思う……その時。
  
「それも、ほとんどが切るか刺すかしたもんだ」
  
俺は。
もう足が立たなかった。
崩れ落ちた。
一瞬にして。
バベル……まさか、お前……!?
  
「丁度凶器はこんな細いナイフなんだがね……。んじゃ、ちょっと面白いものを見せようか」
刑事の笑みは、もうにこやかなものではなくなる。
その手がカッターの刃の上にかざされる。
俺は見た。
刃は……無情にも青紫に光った。
「ご覧よ。光ってるね……君も火サスとか見て知ってるんじゃないかな、ルミノール」
  
……ハハ、ハハハ……そんな軽く言ってくれるなよ。
ルミノールだなんてな?
  
  
  
  
「……警察もね」
刑事は。
さっきとは全く違う口調で言い始める。
「バカじゃないんだ。もう動機ぐらい見当は付いてる。後は物証だけだったんだがね、君がこのカッターをちらつかせてくれてて助かった」
その瞬間……俺はガクリと全身の力が抜けるのを感じた。
「……本多昭人。君を連続殺傷の容疑で逮捕する」
  
   
  
   
「……う……う、そだ、そんなの……そんなの嘘だあぁぁっっ!!!!!!」
もう。
もはや俺は錯乱してたと言ってもいい。
鬼のような形相で刑事を睨み付ける。
「嘘じゃないさ。こうして物証も出たんだ。後は表に迎えが来てるから……そん中で聞こうか」
熊のようにがたいのいい、その刑事にとっては俺を捕まえるなど赤子を捕まえるのと同じようなもんだろう。
俺は見る間もなく腕を取られていた。
「は、離せえぇッ! 俺は何もやってない!! やってないんだあぁッ!!!!」
「……大抵の殺人犯はそう言うんだよ」
刑事の声はもはや冷たく冷えきっている。
違う、違うんだよ!!
俺は本当に人殺しなんかしていないッ!!
  
   
『いや、お前が殺した』
  
   
刑事の声と……同等の冷たさを持って。
『お前が殺したのだ。それは間違いない』
そう告げるのは他でもないバベルだった。
「バ、バベルっ!! お前……ッ!!」
『……対価は……まだ告げてなかったか。お前の「人生」、それが望みに見合った唯一の対価だ』
人生だとっ!!??
俺は血走った目でヤツを凝視する。
頼む。
誰かヤツを黙らせてくれ。
  
   
「……おい。さっきから何言ってるんだよ」
俺の傍らで、怪訝そうな顔をする刑事。
「……あ、あぁ、あいつがっ!! あぁいつが悪いんだよ!!」
「……どいつが」
「分かんないのかよっ!? あいつだよ、バベルがっ!! バベルがやったんだッ」
しかし。
「……何言ってんだ」
俺の声も空しく。
「誰もいないだろ。どこ指差してんだよ」
   
  
   
  
ああ。
悪いのは、バベルなんだよ。
俺は悪くない。
バベルが悪い。
なのにヤツが見えない?
んで俺を逮捕?
ふざけんな。
誰か。
誰かコイツも黙らせろ。
このバカ刑事もさ。
もういい。
殺せ。
殺せよ。
殺していいからさ。
誰か殺せよ。
誰かさ……。
  
  
  
  
  
  
──余の名はバベル。
  
神代の……かの天の雷に崩れし塔に名を借り。
  
現世の民の無尽たる『望み』……『欲』を聞き遂げる者なり。
  
  


  
  
自分、元々怪談好きなんですよ。
……あ、いきなりすみません。
自分の場合、怪談好きが高じて物書きをし始めたってことです。
ですが……ブランクですか。書けない……書けない……。
最近ホラーはご無沙汰ですからね……前は短い話ばかり大学ノート五冊分ぐらい書いてたのに……どこ行ったんでしょ。あの五冊。
  
……ゴホンゴホン。
ってことで、これは言い訳のつもりじゃないのですが。以上、文字数も〆切も大幅にオーバーした作品をお届けしました(一万文字以内って言われたのに……)。
いかがだったでしょうか。
自分としてはもっと濃く暗く書きたかった感がありますが。
自分が考えた結論としては、始めから『バベル』という本など存在しなかった、全ては本多昭人青年の心の闇が作り出した幻想……その幻想の声に彼は耳を傾けて動いていた……。
こんな所です。
が、これは一つの説に過ぎません。
作者の自分がこう提示したからと言ってこれが正しい見方とは限らないのです。
皆さんそれぞれの見方で見ていただいて……何か背中にヒヤッと来るものがあれば。イヤな汗をかくものがあれば。何か感じたものがあれば……。
そうすればこの駄作も意義があったというものです(違約作品だっていうのに……つらつらとこんなことをすみません)。
  
では、関係者の方々に最大の謝辞を申し上げまして……失礼致します。  













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