しげあ記 登竜門編 4
南極仙翁の弟子は現時点で3人居る。
白鶴と狐。それに道化の3人だ。
まず5年前に白鶴が最初の弟子になった。
五穀爺に紹介されて遣って来たらしい南極仙翁に出会い「仙人に成れ」と誘われて弟子になっている。
年齢の割りに聡明で、同年代の児童達と比べても精神年齢の高かった白鶴が、見ず知らずの南極仙翁の勧誘に素直に従ったのは、白鶴の人格形成に大きな影響を与えた五穀爺からの紹介があったからだ。
1000も2000も越す数多の仙術の種類の中で医術に関する巫医術と、薬術に深く関わりを持つ練丹術を学び始めたのも五穀爺の影響に寄る所が大きい。
―――次に弟子入りをしたのが狐だ。
白鶴が南極仙翁へ弟子入りしてから2年後―――。
登竜門の中に狐は居た。
危機一髪。
その時の狐の状態を表すのにこれ以上の表現方法は無いだろう。
開拓者に強姦されかけていた。
登竜門と言う、いつ蛮族に襲われても不思議ではない危険な場所でだ。
開拓者は蛮族との戦いや登竜門のコロコロと変わる季候の変化に精神が追い詰められ恐慌状態だったのかもしれない。
肉体的にも精神的にも限界に達してしまったが故の凶行とも言える。
だが考えても見て欲しい。
蛮族は神出鬼没だ。
登竜門の中なら壁や床や天井と、中空以外の好きな場所から蛮族は捻り出される。
そんな中で周囲の警戒を疎かにすればどうなるか。
……狐達はフロアマスターに補足されていた。
辛くも貞操の危機は免れた狐だが、今度は命の危機に晒される事となる。
―――此処で開拓者は信じられない行動に出た。
悩む素振りも見せず。
狐の足の骨を折ると、狐を囮にして逃げ出した。
遠くでソレを見ていた白鶴が狐を保護した時。
その囮作戦は功を奏していたようで、弱りきった狐をフロアマスターは標的にしていた。
背後から、狐を殺そうとしていたカモの姿を模す巨大なフロアマスターを強襲して鞘切り丸で横薙ぎにぶった切った後、上半身の無くなったフロアマスター越しに狐と目が合ったこの時が狐との出会いだ。
南極仙翁の言では狐は仙骨を持っていたらしい。
白鶴と南極仙翁が登竜門の中で修行をしていた時に狐が登竜門に居たのは不幸中の、本当に僅かな幸いだった。
この時に南極仙翁が白鶴と自分以外の仙気を感じ取っていなければ、狐の窮地は救えず狐は死んでいただろう。
狐は保護された1年後、南極仙翁に弟子入りをした。
当時、極度の人間不信に陥り、余りにも情緒不安定だった狐は1人で日常生活が送れる様になるまで1年間のリハビリを必要としたからだ。
少しでも社会復帰の助けになるのであればと雉鶏精と言う雉の妖精・胡喜媚が与えられたのも、手慰みにと石琵琶を与えられたのもこの頃のことで、狐の方が白鶴よりも年上だけど狐よりも白鶴の方が早い時期に弟子入りをした先輩になる。
そして最後に道化。
道化が南極仙翁の弟子に加わったのは半年ほど前のこと。
仙道としての道名は申公豹と言うが、白鶴は道化と呼んでいる。
弟子と言うよりも扱い方はお客様に近い。
南極仙翁の師匠である仙界・崑崙山の教主元始天尊様が人界で拾い、育てて来た秘蔵っ子で、修行の最後の仕上げとして南極仙翁の元に預けられたらしい。
仙人に成る為にも1度は登竜門を攻略してこなければならないと言われ、今は登竜門を攻略する為に麒麟崖に滞在している。
最初は「こんなモン一日で攻略しきってやるぜ」と意気込んでいた道化だが、初っ端から全力で登竜門内部を突き進み、一週間ほどで1020年層辺りまで辿り着くと力を使い果たして死に掛けた。
お目付け役と言うか親睦を深める為に着いて行った白鶴と狐が居なければこれ以上進む事も戻る事も出来ずに蛮族の餌食に成っていた事は想像に難くない。
白鶴と狐と道化。
この3人が、現在南極仙翁の指導の下、登竜門から仙界を臨む弟子全員だった。
………仙人や道士の絶対数は非常に少ない。
陰陽師や魔術師など、他のジョブにも言える事だがジョブは成り手を選ぶ。
そもそも登竜門に挑む為に11機関が用意しているジョブは『不便な科学者』たちの為のジョブだ。
魔力が無ければ魔術師には成れず、霊力や法力がなければ陰陽師にも修験者にもなれない。余り好きな台詞ではないけれど、こうした科学で解明し難い生き物の持つ不思議な力を行使するには相応の資質――。つまり才能が必要になってくる。
こうした才能を持っていて初めて術を学ぶ事が出来る上、才能の高さ低さが更に学べる学問の幅を狭めてしまう。
成り手を選び、選んだ成り手を篩いに掛けて厳選せねばならないジョブ『不便な科学』『不便な技術』と呼んで何の差し支えも無い。
組織は現在3万人ほどの冒険者を抱えているが、厳しい試験や勧誘によって選出された冒険者たちは全員、一定以上の才能を有する術士であった。
この3万人に及ぶ冒険者の内、組織の重鎮が直々にスカウトしてきた冒険者の数は9000人ほどで、組織の何れの重鎮たちにも800人近い直属の部下なり弟子なりが居る計算になる。
だが南極先生の受け持つ弟子は3人だけで、つい最近まで0人だった。
仙骨が無ければ、どれほど望んだトコロで仙人には成れないからだ。
この基準は厳しい。
仙骨は、先天的に生まれ持ってくる骨格だ。
ごく稀に仙道の持つ仙骨を引き抜いて移植する事で仙骨を得る者や、金丹と呼ばれるも薬の力を用いて只の骨を強引に仙骨に作り変える者も居るが、普通は体が拒絶反応を起こして仙人になる前に絶命する。
人界に住まう人々の中で仙骨を持って生まれて来る人間が現われる確率は100万人に1人と非常に少ない。
仮に人界で暮らす人口の数を65億人とした場合、単純に計算しても650人しか仙骨を持っている人はいない計算になった。
………日本の人口は大凡1億3千万人に及び、最大で13人は居る可能性が有るのだが実際には白鶴と狐の2人しか見付かっていない。
こう言う仙骨を持って生まれて来る人は場所も時期も集中するそうだ。
人口が10億人を超える中国には100人くらいの仙道候補がいるだろうと探してみた所、300人強の仙道候補が発見されて仙境にかつて無い盛況を見せた時代も有ったと言う。
秋に作物を収穫するように、仙道の素養を持って生まれてくる人々が一斉に現われる時期と言うものが有るそうだ。
白鶴や狐。
それに道化を含む南極仙翁の今の3人の弟子は、時期外れに現われた仙道の変り種とでも言うべき存在だった。
第9話『南極仙翁の弟子・白鶴と九尾と申公豹』
組織の中で最も大きな区域は人界の区域だ。
まァ当たり前だろう。此処は人界なのだから。
他の10の区域と比べても3倍の広さを持ち、高さも深さも3倍ほど有った。
大半の冒険者や開拓者は人界の区間から登竜門に挑み、帰ってくる。
基本的に、他に10有る区間から登竜門に挑むのは重鎮や、その関係者からの勧誘を受けた者だけだ。冒険者になった後も、勧誘を受けていないのであれば人界区間からの攻略になる。
人が最も多いだけあって、設備が最も充実しているのも人界の区域だ。
病院があり、ホテルがあり、スーパーマーケットや銀行、警吏部隊の詰め所や裁判所も人界の区間にある他、生徒数3000を数える4年制のアカデミーや、物見遊山で来た観光客の為の土産物店まであった。
11機関の人界区間を訪れるのは冒険者や開拓者だけではない。
冒険者や開拓者を相手にする商人や記者。
11機関の銀行や病院に勤めている銀行員や医師や看護士。
アカデミーに勤める教師や警吏部隊の隊員。
人界区域は何時も、様々な人たちで賑わい活気に満ち溢れていた。
最近ではドーナツ状だった11機関の本部も人界区域の人の多さに改増築を続け、魚の尾びれの様な広がりを見せている。
「…ん〜〜〜。今日もあそこは賑やかですねえ」
賑わう人界の区間に視線を送り、笑みを零す。
他ではチョッとお目に掛かれない人だかりだった。
剣を装備する騎士のような青年や槍を構え腰蓑を付けただけと言う半裸の青年。
サーカスの猛獣使いのような衣装に身を包み、腰に鞭を佩いている褐色の女性やシスター服に身を包む、戦いが似合いそうに無い大人しそうな女性の姿も合った。
「どこのコスプレ会場だ」
そう思わなくも無い。
違いが有るとすれば人々が構える武器も防具も本物で、オモチャではないと言う事くらいだろう。
ジッと人界の区間を仙界の区間・麒麟崖から見ていたが、白鶴の視線に気付いた者は1人もいない。
ドドドドドド――――…ッ。
流れ落ちる滝の音が耳に痛かった。
壁一面が嵌め殺しの強化ガラスになっており、廊下から登竜門の大穴を眼下に見下ろせる。
仙境・麒麟崖から人界の区間までは直線距離で2キロほど離れていた。
その位の距離ならば、蛮族を食べ続け視力の向上された目を凝らせば目視できる。
この程度の視力。冒険者の中では珍しくない。
『千里眼』の2つ名を持つ冒険者なんて「地球がもし平らならば、端から端まで捉えてみせよう」と豪語しているくいらいだから、ソレと比べれば白鶴の視力も大した事は無い。白鶴目視の限界は3キロだけど、千里眼の冒険者は4万キロだ。
秘境に比べ仙境に人の気配は全く無く、ガラスに触れれば滝の出す音の振動で細かく震えているのが判る。
通気口からだろうか。
潮の香りが鼻に着いた。
視線を人界区間から外して後方に移せば霧が濃く立ち込めている中で、幾つものゴンドラが忙しなく動いているのが目に付く。
―――登竜門を往くにも抜けるにも大滝を潜り抜けなければならない。
海水の大滝を滝は南極大陸の上を覆う厚い氷が解けて出来ているのだが大滝の水量は膨大で、その水圧の前には自動車でさえ煎餅の様にプレスされてしまう。
一見すれば南極点に開いた大穴を囲み360度から均等な量の滝を流しているように見えるが実は、流れる水量には激しい差がある。
1番勢いが強い部位では滝の厚みが3キロに及ぶが、最も勢いが弱く薄い場所では100メートルほどしかない。
そういった場所が、登竜門の出入り口になっていた。
水圧も比較的に弱く空き缶をペシャンコにしてしまうくらいで済む場所をゴンドラが運通していた。
―――ロープウェイだ。
大滝の内側と各区間の出入り口には駅が有る。
南極点に空いた大穴には、クモの巣のようにワイヤーが張り巡らされ、幾つものゴンドラが開拓者や冒険者を乗せて動いていた。
「………ん。登竜門で蛮族と戦う時よりもアレに乗って居る時の方がよっぽどゾッとしますねェ」
ゴンドラの中から登竜門の大穴を見下ろし、ロープウェイの細いワイヤーが切れてしまわないか心配になる。
外側から鍵が掛けられ密閉されたゴンドラは一歩間違えれば奈落の底へと沈む棺桶に早代わりだ。余り長く乗っていたい乗り物ではない。
視線を仙境の外側から内側に戻す。
「ん。乙…、どうかしましたか?」
「気楽なもんだな」
「?」
「アイツ等の事さ。今日も今日とて、登竜門の中で冒険者なり開拓者なりが何十人も何百人も死ぬって言うのに、何でああ和気藹々としてられんのか。………それだけの実力がアンのか、それとも自分が死ぬまで自分が死ぬなんて考え付きもしない馬鹿なのか………。ホント、判んないな。人間は」
「……………」
人の姿を取ったまま乙が心底判らないと言った顔で言う。
その手には、書類の束を抱えていた。
白鶴の手にも大量の書類が乗せられている。
狐の修行のため、南極仙翁が時間を作ろうと白鶴に肩代わりさせている分の書類だ。重要な内容の物は少なく『喫煙室を増やして欲しい』だの『他の10の区間を潰して人界の区間を拡大して欲しい』だのと言う内容の嘆願書が多い。
「開拓者に成るのに制限が無いのは大問題じゃないか? 付けろよ制限。『私は自分の意思で登竜門に挑みました。登竜門で起きた事の全ては自己責任として受け入れ、死んでも一切文句は言いませんし、生き延びた時に心身に重大な障害を負おうとも文句は決して言いません』くらいの誓約書を書かせろよ。それだけで随分と違って来るだろーが」
「…あー――。とりあえず落ち着いてください。乙が興奮すると書類が熱で焼けてしまいますから」
「〜〜〜〜〜!!! 子ども扱いするんじゃ無い!」
とん・とん・とん。と、書類を持ったまま填め殺しのガラスの壁に足を着けて数歩、進む。
壁に対して垂直に立ち、顔の高さを乙に合わせると片手で頭を撫でて宥める。
乙の身長は頭から生えている角を除けば155センチほど。
身長が130センチしかない白鶴から見れば乙は長身で、頭を撫でるのにも一苦労だ。
頭を撫でられた乙が顔を真っ赤にして怒り出す姿は威嚇をする猫に似ている。
今が冬である為に、乙の肌は保護色により雪のように白く染まり、顔が赤くなるととても目立った。
「――――ん。なんですか乙。ひょっとして先日の件で僕のことを心配してくれているのですか?」
基本的に人間がどうなろうと知った事ではないと思っているドラゴンの乙が人間を心配しているような発言をしたので、少しばかり珍しいなと思っていたが、誓約書云々のくだりで何と無く、言いたい事に思い当たる。
リュックの告訴の事だろう。
麒麟崖で狐から告訴の話を聞いた後。
白鶴は人界区域の警吏部隊に赴いた。
そこで、リュックが裁判所へと向った事を聞いて裁判所に向う事となった。
裁判所に往くと、其処でリュックと再会した。
………最初にギョッとした目で見られ、次いで怨敵を見るような視線を送られた後、随分とうそ臭い笑みを浮かべてリュックが朗らかに話し掛けて来る。
白鶴をやや強引に部屋から出そうとする中でリュックと共に部屋に居た検察官に話をした所、随分と自分勝手な嘘を言い連ねたらしく白鶴が厳罰に処されるように手続きされているのには眼を見張った。
「これは嘘です。書き直してください」
そう言えば、リュックが食って掛かった。
意見の食い違いに頭を悩ます検察官に「こんな小僧の言う言葉を信じないで欲しい」と学校の教頭と言う立場を誇示してリュックは「聖職者である私が嘘をつくはずが無い」と断言し互いに証拠がないのであれば私の方を信じるべきだろうとまで主張し、白鶴の喋るタイミングを奪う。
「証拠は有ります」
そう言うと、平然と嘘を着いて堂々としていたリュックが大げさに諸手を上げれば「ほら嘘が来た」と笑い出す。
そんな証拠なんてものは無く、売り言葉に買い言葉だと考えたのだろう。
この嘘を利用して自分の誠実さをアピールし、白鶴を嘘を平気で吐くような信用なら無いガキに仕立て様としたのかも知れない。
そして白鶴が冒険者認定証に備わっている録音機能による白鶴とリュックの会話を証拠として提出すれば、顔を真っ赤にして「嘘だ」と否定し冒険者認定証である眼鏡を奪い破壊しようとする始末だ。
結局は、その時のリュックの態度や声の声紋検査の結果、リュックが開拓者では無く冒険者を名乗って居た事が認められ告訴は取り下げられた。
逆に白鶴が「名誉毀損でリュック氏を告訴できますよ」と進言されればリュックも顔を赤から蒼に変え脂汗を流しながら「すみません! すみません!!」としか言わなくなった。
「リュック=レオンハートは本名ですか?」
「すみません!! すみません!!」
「告訴する事を誰かに薦められましたか?」
「すみません!! すみません!!」
「中学校の教頭と仰っていましたが何処の中学校ですか?」
「もーしません!! 反省しております!! すみません!! すみません!!」
「他の2人は病院に居ますから、安心してください」
「すみません!! すみません!!」
「あの………」
「すみません!! もーしません!! すみません!!」
「…………」
「すみません!! 反省しております!! 許してください!! すみません!!」
と、こんな感じで会話にならない。
そして溜め息と共に「告訴する」を選んだところ「貴様は鬼か!」「これだけ謝ってんだから許してもイイじゃ無ーか!!」「あ〜あ〜…。俺の家族が路頭に迷ったら貴様の所為だからな」等と喚き散らしながら殴りかかって来た所を常駐している警吏部隊に連れられていった。
―――この一部始終を、乙は白鶴の影の中で見ていた。
散々に悪態を吐かれ、命を助けた相手に告訴されかけ裁かれる手前まで来ていた白鶴は相当のショックを受けていた事を、間近に居た乙は気付いていたのだろう。
実際そうだ。
白鶴はその日、日本に帰らず麒麟崖の一室に泊まると大変な落ち込みを見せていた。
…………乙の口から出た誓約書の話は、其処に端を発しているのだろう。
優しい奴だと礼を述べれば「んなぁ!!」と、猫の様な声を上げた。
「〜〜〜〜あ、あーうー…。ふ、ふざけんな! お前が居なくなるとだなァ………あーあーあーアレだ。わた…私が霊界に帰るのが遅れるから心配しているだけなんだからなッ、甲のことなんて全ッッ然、まったく! 微塵にも心配なんかしていないんだからな!!!」
「わわわわわ!! 乙書類ッ! 書類から煙が出てる!!」
お礼を言ったのに怒鳴ると言う行動に出た乙の態度を不審に思うよりも、プスプスと煙を上げる書類の方に視線が行く。
ソレが気に入らなかったのか。
バン……! と、白鶴の顔に持っていた書類の束をぶつけて、そのまま何処かに駆け出そうとすれば乙のシッポが白鶴の臍から抜けてしまう。
テレビのスイッチを切った時に聞こえる「ヴン!!」と言う音を立てて乙はそのまま姿を掻き消した。
書類の束を顔から剥がすと其処にはもう乙は居らず、影に声を掛けても何故か返事は帰って来ない。
「……ん〜〜〜。何か僕は拙い事でもしたのでしょうか」
ガラスの壁から地上に足を戻しながら、困ったように呟いた白鶴の声が、仙界の一部を切り取って収めた様な箱庭に見える麒麟崖の中に溶けて消えた。
仙界の一部を切り取って作り上げられた仙境・麒麟崖は崑崙山に建つ玉虚宮と言う宮殿をモチーフにしているそうで、玉石で出来た中華風の宮殿は神秘的であり幻想的だ。
その背景は霧の立ち籠もる岩山の山頂を思わせる。
桃の木が咲き、登竜門からの潮の香りで消えてはいるが、もう少し仙境側に近付けば桃の匂いが馨しい。
空気は冷たく清らかで、本当に11機関と言う施設の中かと疑いたくなった。
何処から流れ、何処に続いているのか判らないが滝があり、川があり、池も在る。
川には半円を描く端が掛かり池には小舟が浮き、滝には虹が掛かっていた。
生き物も住んでおり、池の辺でカエルが鳴き川面を時折小魚が跳ねる。
―――少し離れた場所には温泉も見受けられた。
岩と檜を組んで作った壁の影に隠れた温泉から湯気が立ち昇っている。
広々とした仙境には南極仙翁の他に伯鑑という年老いた亀と、五畜と言う豚・犬・猫・鶏・鴨が暮らしており、ともすれば廃れてしまいそうなによる仙境の美観が損なわれないのは伯鑑達が定期的な掃除と整備を心掛けているからだ。
手入れが良く行き届いている仙境には枯葉の一枚も落ちていない。
故郷の仙界から遠く離れた異世界で過ごす南極仙翁を不憫に思った崑崙山の教主や13人の弟弟子達が、その寂しさを紛らわす為にと出来る限り崑崙山に似せて作った仙境は南極先生を寛がせるだけでなく、仙人を目指す白鶴たち道士にも居心地の良い空間を提供していた。
「――――ん? あそこに居るのは…………」
人気の少ない仙境の中。
乙と言う運び手を欠いて四苦八苦しながら書類を運んでいる白鶴の眼に碁を打っている南極仙翁の姿が映った。
狐との修行は終って小休止と言うところだろうか。
ぱちり、ぱちりと、碁盤に碁石を打つ音が聞こえてくる。
南極仙翁は碁が好きだ。
白と黒。
その配色が好きらしい。
動物ではパンダやイルカが好きで、楽器はオルガンを好まれる。
白鶴としては白鶴の長笛に狐の石琵琶。そして南極仙翁のオルガン三重奏が好きなのだが南極仙翁は音楽よりも碁を好み静寂を好むから滅多な事ではオルガンを引かない。
ヒマな時は白鶴や狐に「碁の相手をせよ」とせがんで来た。
白鶴は南極仙翁と碁を打って100回に1回くらいしか勝て無い。100回打ち合って全敗する事だってある。
意外と狐が碁に強かったが、それでも10回に1〜2度しか勝利を拾えない。
相性の問題なのだろうか。
白鶴と狐が碁で競えば勝敗は5分5分なのが不思議だ。
狐と打っているのだろうか。
他に考えられず無視をして素通りしようとすれば「あら重そうね、運ぶの手伝おうか」と狐が目の前に居た。
「え?」と思いながら南極仙翁の方を見直す。
其処には子供が居た。
とても小さな子供だ。幼児と言ってもいいだろう。
背丈は1メートルを漸く越えた程度でしかなく、老人の様に髪の毛は真っ白だ。
ビックリする位に大きな目は落書き染みていて、よく見ればソレがピエロ特有の化粧で在る事に気付く。
白鶴や狐と同様、白を基調とした羽織を纏う背には勇ましい豹の咆哮する様子を描いた水墨画風の刺繍と『豹』の一字が刻まれていた。
「…んん。なんだ道化でしたか」
「ええ。意外と語の才能が在るらしいわよ。鶴君は直ぐに追い抜かれちゃうかもね」
クスクスと、狐が笑い、少し焼け焦げた書類を見れば「また乙ちゃんを怒らせたのね」と呆れられてしまう。
南極仙翁の弟子の証。
白鶴が道化を道化と呼ぶのはユニフォームや胴着の意味を持つ羽織の下には豹柄の布地で作ったピエロの衣装を着ているからだ。
羽織にフードが付いているのではなくピエロの衣装にフードが付いており、フードを被れば豹の耳が頭部にピョコンと現われて、顔のメイクに良く似合う。
大口を開けた豹の顔を模しているフードを被れば口の中から子供が顔を覗かせている様に見えた。
真っ白い髪の毛が丁度、豹の上顎の牙に見える。
手袋や靴の所為で顔の半分しか露出されている部分は無いが、その肌の赤みや顔つきの丸みから見て、道化の歳が保育園の年少から年中くらいだと白鶴は当たりを付けた。
仙道と言うよりも道化師に見える。
だから白鶴は道化を道化と呼んでいた。
―――驚く事に、虎の上に座っている。
本来なら黄色いはずの毛皮が白く、額に黒子の様な点がある。
目と耳が虎にしては異様に大きい。
虎ほども大きい虎縞模様の猫と言ってもイイだろう。
凶暴そうな顔には何処と無く愛嬌もあった。
ジロリと1度だけ白鶴に目を向けた後、すぐに視線を外し、背中に子供を乗せたまま器用に丸くなると眠りにつく。
目の前の幼児こそ、後に白鶴が幾度と無く首を刎ね飛ばし、斬り殺そうと試みるも遂に殺しきれなかった不肖の弟弟子申公豹と、申公豹の御す虎の霊獣・白額虎の黒点虎だった。 |