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海老

作者: いえやす

 アンケートにご協力ください。

 お仕事はされてらっしゃいますか?

 ご友人は多い方ですか?

 ご同居のご家族はいらっしゃいますか?

 メールの着信、電話の着信は多い方ですか?

 最後のもう一つ。

 海老、お好きですか?



 1


 「アンケートにご協力お願いします」


 職安からの帰り道、いきなり目の前に差し出されたピンク色の紙に面食らった。

 顔を上げると二十代半ばくらいの女の人が僕の目を覗き込んでいた。二人の顔の距離の近さにもう一度驚いた。

 彼女はにっこりと微笑んだ。


 「お忙しいですか?アンケートにご協力いただけませんか?」


 黒いパンツスーツの似合うスマートな女の人。

 肩までのストレートの髪がさらさらと揺れていた。

 かわいい。

 そう思ったとたん自分の顔が真っ赤になるのを感じた。

 女の人に、それもこんなにかわいい人に間近で話しかけられたのはずいぶんと久しぶりのことだった。

 慌てて彼女の視線から逃れて歩き出そうとしたが、彼女は畳みかけるように話し掛けてきた。

 良いカモだと見破られたのかも知れない。


 「すいません。是非お時間いただけませんか?

 アンケートにご協力いただいた方には抽選で豪華な賞品も当たることになっているんですよ」


 うさんくさい。

 宗教かセールスに違いない。

 頭ではそう分かっているのに彼女から目をそらせなかった。

 邪気の無い子供のような笑顔。

 なんていう香水を使っているのだろうだろうか?

 彼女が動くとうっとりするような良い匂いが辺りに漂った。

 気が付くと僕は近くのビルの一室に連れ込まれていた。

 白いパーテイションに囲まれた殺風景な小部屋。

 一人椅子に腰掛けながら、また引っかかってしまったとため息が出る。

 これまでどれだけ被害にあってきたことか。

 綺麗な女性に目が眩み、のこのこ着いて行っては恐そうなお兄さん達に囲まれる。

 そういう酷い経験を何度しても学習できない自分が嫌になる。

 誰か来ない内に出て行こうと腰を上げかけたとき、さっきの人が飲み物のお盆と一緒に入ってきた。


 「すいません。お待たせしました。

 お忙しいところ本当にありがとうございます。

 簡単なアンケートですので十分くらいで終わりますから。

 よろしくお願いいたします。

 とりあえずリラックスして、こちらをお飲み下さい」


 彼女はそう言いながらアイスコーヒーにたっぷりのミルクとガムシロップを入れて差し出してきた。

 僕は一旦浮かせた腰を降ろしもごもごと礼を言った。


 「あ、私、桜井と申します。よろしくお願いします」


 彼女、桜井さんはにっこり笑って名刺を差し出した。


 『赤海老港 観光課 桜井倫子』


 「……あかえびみなと?」


 「ご存じないですよね?

 実は去年名前を変えたばっかりなんです。

 それまで単なる漁港だったところを観光地にしようと力を入れて。

 名前からおわかりだと思うんですが、赤海老っていう海老が名産なんです」


 向いあわせに座っているテーブルはずいぶん小さくて、桜井さんの息が顔に掛かりそうで僕はどぎまぎしていた。

 桜井さんは口篭もっている僕を真っ直ぐに見詰め、熱心に喋りつづけていた。


 「普通の海老って生きているときは赤くないじゃないですか。

 でもここの赤海老は海の中にいるときから綺麗な赤色をしてるんですよ。

 それはもう鑑賞用にしてもおかしくないくらい綺麗なんです。

 それにとっても美味しくって。

 一度食べたら絶対に病みつきになること間違いなしです。

 刺し身でも茹でても焼いても揚げてもなんでも美味しくいただけます。

 私も大好きなんです。毎日食べても飽きない味で。

 私がここに就職したのもこの赤海老の綺麗さと美味しさに感動したからなんです。

 皆さんにも是非赤海老の綺麗さと美味しさを知って欲しくって。

 ……でも、残念ながらまだまだ宣伝不足なんですよね。

 どういう方法でアピールしていけばいいのか今いろいろ調べてるんです。

 それでこのアンケートなんですが……」

 

 桜井さん席を移動し僕の横に寄り添うように座った。

 柔らかい優しい香りに頭がくらくらしてきた。


 「お名前は?」


 「あ、阿久津です」


 「素敵なご苗字ですね。お年はおいくつになられますか?」


 「こ、今年で二十五になります」


 「そうなんですか? 奇遇ですねえ。私も同じです。

 ……ところで……」


 桜井さんは一旦間を置き、僕の方を向いた。

 自然と目と目が合い見詰め合う形になった。

 僕の顔のほんの十センチのところに桜井さんの顔がある。


 「海老ってお好きですか?」


 僕はごくりとつばを飲み込んだ。


 「……え、え、海老ですか?……ええ、だ、大好きです」


 それを聞くと桜井さんはこれまでよりさらにうれしそうな表情でにっこりと笑った。


 「ありがとうございます」



 2


 「阿久津さんですか?

 私、桜井です。

 先日はアンケートにご協力いただきまして本当にありがとうございました。

 覚えてらっしゃいます?」


 深夜に近い時間の電話。

 桜井さんの声を聞いたとたん、あの何とも良い香りがあざやかに蘇ってきた。


 「ど、どうも、お久しぶりです」


 返事に力が入る。送話口に手を当て荒くなっている息を聞かれまいとした。


 「思い出していただけました?

 お電話遅くなってすいませんでした。お元気でしたか?」


 桜井さんはあいかわらず明るく優しい。

 営業用の愛想の良さに違いないのに、僕はついなにかを期待してしまう。


 「それで、今回お電話差し上げましたのは他でもないんです。

 アンケートにご協力いただいた皆さんの中から抽選させていただきました。

 その結果、阿久津さんがご当選されましたので、そのご報告です。

 おめでとうございます」


 「当選、ですか?」


 ちょっとだけ防衛本能が働いた。

 当ったとか、当選した、というのは非常に危険なキーワードだ。

 以前訪問販売で売りつけられた高級羽根布団をクーリングオフしたときに、お世話になった消費者センターの人にそう言われた。


 「そうなんです。

 でも当選したと言うのはちょっとちがうかも知れませんね。

 先日もお話したように、私のいる赤海老港観光課では試験的にいくつかのツアーを企画しておりまして。

 その中の一つに是非ご参加いただきたいんです。もちろん全て無料で」


 無料ほど高いものは無い。

 確かそうも注意されたような気もする。


 「ただ、いいことばかりではないんですよね。

 ぶっちゃけて言いますと、今回のツアーは二十代三十代の男性の方のご招待になってます。

 残念ながら女性の方の参加が無いんです。

 といいますのも今回のこのツアーは、海老の食べ放題を売りにしようと思ってまして。

 その場合特に問題になりそうなのはやはりお食事にいくらくらいの経費がかかるかということですよね。

 せっかく企画しても赤字では困りますし。

 そこで設定金額をサンプルするために、特に食事の量にこだわりのある方を今回は選ばさせていただいたんです」


 なるほど、たくさん食べそうな意地汚い男を選んだわけか。

 自分にお鉢が回ってきたことに関して少し納得ができた。


 「それで、いかがでしょうか?ご参加いただけませんか?」


 「えっと、僕、ちょっと人見知りする方なんで」


 「そこをなんとか。是非」


 「そうですねえ……。桜井さんも行かれるんですか? 」


 言ったとたんに後悔した。

 調子に乗って質問してしまったが、なんてばかなことを聞いてしまったんだろう?

 壁に掛かっていた鏡に目が行く。

 真っ赤な顔をした僕が、小太りの男が映っている。

 それを見たとたん浮かれかけていた気分が一気に萎んだ。

 本当に馬鹿な僕。

 桜井さんはあくまで営業目的で電話をかけてきているんだから。

 本気で僕の相手をしてくれるわけがないんだから。


 「もちろんですよ。

 私が皆さんの、阿久津さんのお世話をさせていただきます」


 いかにも嬉しそうに言う桜井さんに、僕の全ての警戒心は吹き飛んだ。


 「じゃ、じゃあ、行きます。参加します」


 「ああ、よかった。ありがとうございます。

 精一杯お世話させていただきますね」


 桜井さんはほっとしたように言った。

 その安堵のため息に、やっぱり営業か、ノルマなのか、という思いを感じないわけではないのだが。

 まあいいや。

 もう一度桜井さんに会えるなら、それだけでもうれしい。


 「それで、確認なんですが、阿久津さん以前と比べて、体重とか落ちてらっしゃいませんか?

 今回ご参加の方には体重の下限制限があるんです」


 「……珍しい制限ですね。それ。

 変わってないです。八十五キロくらいです」


 電話の向こうで桜井さんが電卓かなにかを叩く音がした。


 「それなら大丈夫です。問題ありません。本当にありがとうございます」


 桜井さんはまたまた安堵したように言った。


 「とりあえず、パンフレットお送り致しますね。

 阿久津さんとまたお会いできることを楽しみにしてますから」



 『赤海老湊 海老食べ放題ツアー』

 14:00 駅前集合

 14:30 貸し切りバスにて赤海老港へ

 18:00 赤海老港から赤海老丸に乗船

 19:00 デッキにて夕食(海老料理食べ放題)・夕食後船内で一泊

 08:00 赤海老港に帰港

 08:30 朝食

 09:30 貸し切りバスにて帰宅

 12:00 駅前にて解散



 桜井さんから電話があった翌日にはもう旅行のパンフレットが届けられた。

 ハートマークの添えられた『楽しみにしています』という手書きのメッセージを僕は何度も読み直した。

 桜井さんにとっては仕事の一環なのだろうけど、それでも今の僕にとってそれはめったに無いことだった。

 ここ最近桜井さんのように向こうから笑って話し掛けてきてくれる女の人なんて僕の周りには一人もいなかった。

 ファーストフードの店員にだってスマイルを出し惜しみされているような気がしていたのに。

 騙されているのではないかという疑心もまだ確かに有るけど。

 でもそれよりもなによりも、勘違いでもいいからもう少しだけ桜井さんにかまって欲しい。

 やさしくして欲しい。

 だけど、僕には一つ大きな心配がある。

 実は僕は桜井さんに一つだけ嘘を付いている。

 僕は実は……。

 実は海老が嫌いだ。大嫌いだ。

 甲殻類アレルギーで海老なんか食まったく食べられない。

 そんな僕が海老食べ放題ツアーに参加なんかしていいものなんだろうか?

 桜井さんをがっかりさせやしないだろうか?



 3


 出発当日、集合場所に着いたとき僕は軽く失望していた。

 平日に泊りがけで行くというのに、こんなにも参加する人がいるなんて。

 駅前の広場には四十人くらいの男、それも皆僕以上のデブばかりだった。

 この異様な集団に通行人も遠巻きに不信の目を向けていた。


 「ご参加ありがとうございます」


 桜井さんが、周りのデブ男達の間を巡っては皆に挨拶をして回っている。

 そしてこのまま帰ろうかどうしようか悩んでいる僕を見つけて声をかけてきた。


 「あ、阿久津さん。

 今日はご参加いただいてありがとうございます。

 ちょっと到着までにお時間かかりますけど、おいしい海老たっぷり用意してありますから、楽しみにしてて下さいね」


 桜井さんの笑顔に僕もつい笑顔を返してしまった。

 海老なんか食べられないというのに。


 バスは大型のサロンバスだったが、乗客の体型が規格外のためかゆったりというわけにはいかない。

 桜井さんは相変わらずにこやかな笑顔のまま乗客の間を忙しそうに走り回っている。

 時々は僕にも微笑んでくれている。

 やっぱり可愛いなあ。

 さっきまでの後悔は消えて桜井さんの笑顔をもう一度見ることが出来ただけでもここに来た甲斐があったと思い始めた。


 「良い女だよなあ」


 隣りの男が下心満載の発言をした。

 宮崎という男だ。斜に構えた感じのする男だった。

 だけどデブが斜に構えてもねえ。

 勘違い宮崎はいろいろ話し掛けてきたが、僕はあまり相手にせず生返事を返していた。

 僕のそっけない反応を気にも止めず宮崎は桜井さんの背中をじとっと見ていた。


 「良い女だよなあ」


 繰り返し宮崎は言った。


 「ここだけの話、あいつ俺に気が有るんだぜ」


 びっくりして宮崎の顔をまじまじと見た。

 得意げな三白眼の細目が歪んでいる。

 今時なんでと思うような分厚いメガネ。

 生白っくて丸く太った顔。

 身長は僕よりわずかに高いだけなのに体重は少なくとも五十キロは多いはずだ。

 参加メンバーの中でも一番のデブ。

 外見的には頭のてっぺんから足の先までどこをどうみても好きになれる要素がない。

 その上僕の方が年下だとわかったとたんに偉そうに上から話掛けてくる態度も気に入らない。


 「桜井はさあ、俺には是非参加して欲しいって言ってたんだ。

 俺はこういうの興味ないから断ってたんだけど、あんまりしつこいからさあ。

 まあ、いやいやながら参加してるんだけどな」


 宮崎はにんまりして優越感たっぷりだった。

 どうしてそんなに自信過剰になれるのか不思議なくらいだ。

 あの桜井さんが宮崎のことが好きだなんて、そんなこと有るわけがない。

 そう思いながらも口には出せなかった。


 「あいつさあ、多分デブ専てやつだぜ」


 宮崎は馬鹿にしたように笑った。

 天につばを吐くとはこのことだろうか。

 本当に嫌な奴だ。

 でも、でも、もしかしたら本当にそうなんだろうか?

 桜井さんはデブ専なのだろうか?

 いやいやこんなこと考えちゃ桜井さんに失礼だ。

 でも、電話の時もこっちの体重をやたらと気にしていたっけ。

 だったらもし宮崎みたいに太れれば、もっと体重を増やせば桜井さんは僕のことを相手にしてくれるんだろうか?

 そうなんだろうか?


 いつの間にか眠っていた。

 バスに乗っていた他の乗客も皆眠りこけていたようだった。

 目を覚ますとどこだかよくわからないが港に着いていた。

 日はもう沈みかけていて窓から見える港は暗かった。

 灯りも人気も無い。

 やけにさびしく見える港だ。


 「お疲れさまでした。

 途中渋滞にはまってしまいまして少し遅れましたが、ほぼ予定どおり赤海老港に到着いたしました。

 外に見えるのが赤海老丸になります」


 薄暗い港の中に黒い船影があった。

 今日はあそこに泊まるのか。


 「予定では、このあと赤海老丸のデッキで、夜景を眺めながら、海老食べ放題の夕食になります。

 皆さん船の中のお部屋にご案内致します。

 一旦休憩していただいて、デッキに集合お願いいたします」


 船はそんなに大きくはなかった。

 船中泊と聞いていたので勝手に客船を想像していたのだけどどうもそうではないようだった。

 不安げな顔をしていたのが桜井さんの目に留まったらしく、こっそり話しかけられた。


 「ごめんなさい。阿久津さん。ちいさな船で。

 もっと大きな船を用意したかったんですけど、まだ企画中のツアーで予算があまり下りてくれなくて……。

 ですけど食事の方はしっかりしてますから、すいませんが我慢して下さい。お願いします」


 桜井さんの困ったような微笑みに、なんだかより親しくなれたみたいでうれしかった。

 港の強い潮の匂いに混じって桜井さんの甘い匂いがふわっと漂ってきた。


 「大丈夫です。

 僕こういう船に乗るの始めてなんで楽しみです」


 「そうですか?

 そう言っていただけると私も多少は気が楽です」


 予想通りというか、予想以上に部屋は狭かった。

 普通体型以上の男が2人で使うような部屋ではない。

 行ったことはないがカプセルホテルというのはこんな感じなのかもしれない。


 「本当に狭いなあ」


 ここでも同室になった宮崎はぶつぶつ文句を言いっぱなしだ。

 部屋は船の底の方にあった。

 デッキから急な階段を降りると狭い廊下が二十メートルくらいのびている。

 左右に二人部屋が各十室。計二十室あった。

 部屋といっても壁のにめり込んだ二段ベッドの窪みにドアが付いているようなものだったが。

 上段のベッドに昇る足場として、わずかに床があり、取り外しのできるハシゴが付いていた。

 しかも狭いだけではなく、船の下方ということもあり窓一つ無い。

 換気扇は回っているが閉所恐怖症の人はとてもここにはいられないだろう。

 ベッド以外のスペースがほとんど無いのでテレビも無いし風呂もシャワーもない。

 いくら無料の招待とはいえこれはないんじゃないかとさすがに僕も不満を覚えてきた。

 だって、狭い船底に総勢四十人のデブの男なんて。

 それを想像するだけで暑苦しいし息苦しくなってくる。


 「本当にごめんなさい。狭い思いをさせてしまって」


 桜井さんが顔を出した。深々と頭を下げて謝った。


 「本当はもっと大きな船の予定だったんですけど、なにか手違いが合ったみたいで」


 「いいよ、一晩だけなんだろ」


 さっきまでぶつぶつ言っていたくせに宮崎は鷹揚に返事をした。


 「申しわけ有りません。宮崎さん。阿久津さんも。もうすぐ食事になりますから、デッキの方にお集まり下さいね」


 桜井さんは各部屋を回って同じように謝っているようだった。

 宮崎がなっという感じで僕に目配せをしてきた。

 でも桜井さんの態度、そんなにおかしなものだっただろうか?

 桜井さんが宮崎のことを好きだなんて、デブ専だなんてきっと宮崎の勘違いに違いない。

 そうとしか思えない。

 館内放送が流れ、船が港を離れ夜の海に出発した告げた。



 4


 デッキの食堂は船底の部屋と違い広く立派な造りだった。

 もうすっかり夜になっていて、窓からどこかの街の夜景が見えていた。

 食堂の中には丸いテーブルがいくつもセッティングされ既に前菜が運ばれている。

 海老のカクテルソース、海老のサラダ、海老のムース、海老のテリーヌ、海老の和え物……。

 海老を使った冷菜がテーブル一杯だった。

 そしてそれを見たとたん僕は身体がむずがゆくなってきた。

 皿にサラダを申しわけ程度に盛りつけ、野菜だけでも食べようとしたが、ドレッシングにも海老のエキスが使われていることを聞かされてフォークを置いた。

 料理は次々と運ばれてくる。

 海老のソテー、海老フライ、海老グラタン、海老のマヨネーズ焼き、海老のチーズフォンデュ……。

 煮物蒸し物焼き物揚げ物に至るまで海老オンリーの食事。


 「実は俺、海老って苦手なんだよねえ」


 同じテーブルで隣りに座っていた僕と同い年くらいの男がこそっとつぶやいた。

 男は久保田と名乗った。

 割と暗い感じのするメンバーの中で、妙に元気な感じのする男だった。

 体格は僕を一回りくらい大きくした感じだ。

 しかし久保田の方はなにか本格的に運動をやっていたらしく、手足の太い柔道部出身のような体型だった。

 肩幅が広く胸が厚く、着ている今風のジャージがやけに似合って見える。

 髪もソフトモヒカンというやつだろうか。


 「じゃあなんでこんなツアーに参加したんですか?」


 「いやあ、やっぱりかわいいじゃない?倫子ちゃん」


 久保田があごで指した先にはもちろん桜井さんがいた。

 桜井さんは宮崎のテーブルにいた。空になったコップにビールを注いでいる。

 宮崎はテーブルのひとつを一人で独占しており、それこそ山のような海老料理をものすごい勢いで平らげていた。

 それを嬉しそうに見つめる桜井さん。

 桜井さんは大食いの人が好きなのか?

 やはりデブ専なのか?


 「いやね。実は俺の場合、こっちの方から倫子ちゃんをナンパしてさ。

 つい調子を合わせてたらこんなことになっちゃったんだよねえ」


 久保田は陽気に笑ってビールグラスを空けた。


 「倫子ちゃん、上手いんだよねえ。

 気があるそぶりっていうの?思わせぶりな。

 ……是非招待したいって言うから、もっと色気のあるツアーだと勝手に思ってたよ。

 それがここまで殺伐としたツアーだとはねえ」


 久保田は自嘲気味のため息をついた。

 僕もつられて周りを見回す。

 僕と久保田以外はみんな海老が大好きらしくおそるべき大食漢ぶりを発揮していた。

 ただひたすら無心に食べつづけるだけの約四十人のデブの男。

 確かに見ていて心が和むものではない。


 「まあ、それでも酒が無料ってだけでも良しとしなきゃあねえ。

 ……それに今夜は時間が有りそうだし、もうちょっとじっくりと倫子ちゃんを攻めてみようかなあ」


 久保田はまだ桜井さんのことをあきらめてはないみたいだった。

 うらやましい。

 僕には無理だ。

 例え何か用があっても気軽に女の人に声をかけることができないんだから。

 久保田のようなバイタリティも宮崎のような過剰な自信も僕にはない。

 黙って指をくわえていることしかできないんだ。きっと。

 諦め気分ですきっ腹にビールをちびりちびりやっていると当の桜井さんがやってきた。


 「大丈夫ですか?お口にあいますか?

 久保田さん、阿久津さん。召し上がってらっしゃいますか?」


 心配そうに顔を覗き込まれた。

 まずい。嘘がばれる。


 「いやあ、おいしいよお、この海老。本当に」


 久保田がいきなり調子の良い大声を出した。

 見るとさっきまでまったく手を付けていなかった久保田の皿は空になっていて、代わりに僕の皿の上にそれが積み上げられている。

 こいつ他人に押し付けやがって!


 「本当に上手い!最高!赤海老最高!」


 久保田は調子良く続ける。が。


 「ごめんなさい。実はこれ赤海老じゃあないんです」


 「へっ?」


 久保田が間の抜けた声をだした。


 「実は赤海老は今は品薄になってまして。

 これは赤海老と似ているんですが、黒海老っていいます」


 「黒海老、ですか?」


 赤海老もそうだがまったく聞いたことが無い。

 ここらあたりの俗名なのだろうか?


 「そうなんです。

 赤海老とよく似ていますけど、実は黒海老の方が希少品なんですよ。

 養殖でしか手に入らないんですが育てるのがとっても難しくて」


 「そうなんだあ。美味しいよこれも。ホントに。

 黒海老最高!

 ……でも残念だなあ、赤海老も食べてみたかったなあ」


 久保田は黒海老を一切れ口の中に放り込むと心にも無いことを言った。

 多分このツアーが終わった後に繋げようという魂胆なのだろう。


 「明日の朝には入荷しますよ。赤海老」


 桜井さんが嬉しそうに言ったので、久保田はぐっと喉を詰まらせた。


 「私もほっとしてます。赤海老はここの名産です。

 切らすわけにもいかないですから」


 「赤海老も養殖なんですか?」


 「いえ、赤海老は漁で、罠を仕掛けて採るんです」


 「へえ、でもそんなに人気があるならすぐに無くなっちゃうんでしょうねえ」


 「そうですね。

 またすぐ次の漁の準備に取り掛からないといけないですね。

 でもまあ今回はざっと3トンか4トンは入荷されそうですから。

 しばらくは大丈夫だと思いますよ。

 ああ、そうでした。

 お二人とも、赤海老まだ見たことないですよね。お見せしますね」


 桜井さんは部屋の隅にお置いてあった小さな水槽を持ってきた。


 「これが赤海老です。綺麗でしょう?」


 桜井さんはうっとりとした表情で水槽を覗いた。

 砂と置物で海中を再現した水槽には体長十五センチくらいの2匹の赤い海老がいた。

 確かにこれまで見たことの無いような真っ赤な海老だ。

 南海の熱帯地方の生き物のよう。

 その透明感のある赤さは、まるで深紅のガラスで出来たイミテーションのようだった。


 「綺麗ですねえ」


 思わず僕も、久保田も見入った。


 「でしょう?光に当ると宝石みたいに輝くんですよ」


 桜井さんは子供のように自慢げだっが、急に笑顔のまま眉をひそめた。


 「ところで阿久津さん、まったく召し上がってらっしゃらないんじゃないですか?」


 「いや、もうお腹一杯食べました。今は一休みしていたところで。

 ……これから、また、食べます」


 慌てて言ったが見え透いた嘘だった。

 ばればれだ。こんなの通じる訳が無い。


 「そうですか……。

 それなら良いんですけど。

 せっかくのお料理ですので出来るだけ召し上がって下さいね」


 残念そうな表情で桜井さんがテーブルを離れていくと、久保田はビールで口の中をゆすぎはじめた。

 先程一口食べた黒海老が気になるらしい。

 僕は小さくため息を付いた。

 やっぱり来ない方が良かったのかもしれない。

 桜井さんのあのがっかりしたような顔。

 僕のせいであんな顔をさせてしまった。

 自分で自分が嫌になる。


 結局最後まで海老の入ってない料理は無いまま、食後のアンケートが配られた。

 味の評価は五つ星にしておいた。

 僕と久保田以外のメンバーはみんなその体格に違わずその身体に海老を詰め込んで膨らました腹をさすっていた。

 狭い階段を一列に並んで船底に降りていく様は滑稽というより、どこか不気味な感じすらする。

 部屋に戻ると、宮崎が悪態を吐いていた。


 「なんだよ。最低のツアーだよな。

 こんな狭いところに押し込められて。

 携帯も使えやしない。

 それにあの海老。ぱさぱさして不味いのなんの。

 あれで客を呼ぼうってのが間違ってるよ。

 最悪だよ」


 食事の時、全員に対し愛想の良い桜井さんを見て、さすがに宮崎も自分の勘違いに気づきはじめたようだった。

 僕に一言の断りも無しに、広い方の下段のベッドに寝転がりぶつぶつ言っている。

 宮崎が文句とともに吐き出す息には強い海老の臭いが混じっていた。

 僕は宮崎の悪態にもその臭いにも我慢できなくなって廊下に出た。

 が、廊下にも他の部屋からの海老臭が漂い出てきていて、耐えられそうになかった。

 僕は外の空気を吸いたくなり、一人デッキに上がっていった。

 デッキの食堂には桜井さんがまだいた。テーブルに一人座りなにやら書き物をしている。

 声をかけようかどうしようか迷っていたら先を越された。


 「こんばんわ!倫子ちゃん」


 久保田だった。

 久保田は桜井さんの背後に忍び寄り後ろからわざと脅かすように声をかけた。

 桜井さんはびくっとして振り向いた。

 僕はそうする必要も無かったが慌てて身を隠した。


 「ああ、びっくりした。脅かさないでくださいよ。

 ……久保田さん、なにかご用ですか?」


 振り向いた桜井さんは、笑っていなかった。

 そういえば笑っていない桜井さんを見るのは始めてだったことに気がついた。

 久保田もそうなのだろう。

 桜井さんの射るような視線にお調子者も二の句が告げないみたいだった。


 「いや、その、あの……」


 「用がないんでしたらお部屋にお戻り下さい」


 「いやあ、お時間有ったらちょっとお話しでも……」


 「ごめんなさい。今はプライベートな時間なんで」


 丁寧だが断固とした口調だった。

 そのきっぱりとした物言いに、久保田も退散するしかないようだった。

 結局桜井さんの愛想の良さは営業だった。

 わかっていたつもりだったが、それを目の当たりにしたのはショックだった。

 もちろん自分みたいな無職のデブが桜井さんみたいな可愛い人に好かれるとは思ってはいなかったけど。

 やっぱり来なければよかった。海老も食べられないんだし。

 部屋に戻ると、灯りをつけたままで宮崎はすでに眠っていた。

 酒のせいか真っ赤な顔でいびきをかいている。

 先ほどまで腹いっぱいで苦しいとかいっていたのに。いい気なもんだ。

 宮崎はどこかかゆいのか寝ながらも首筋や腕をぼりぼりかきむしっている。

 それを見ていると僕まで身体がかゆくなってきそうだった。

 一匹たりとも口にしていなかったのに空気中から皮膚を通って海老のエキスが浸透してきてもおかしくない。

 そう思えるくらいこの部屋も廊下も海老臭い。

 だけど他にいるところも無いし。

 仕方なく上段のベッドに昇った

 船内はとても静かで、宮崎のいびき以外なにも聞こえなかった。

 部屋の灯りを消してそのまま横になっているとなぜか急に眠くなってきた。

 おかしい。こんなに早い時間に。

 ぼんやりした頭の片隅に芽生えた小さな疑問を検証する暇も無く、僕はすぐに眠りに落ちた。



 5


 誰かに呼ばれたような気がして目を覚ました。

 しばらくそのままぼんやりしていると、二段ベットの下から宮崎の声が聞こえ、ようやくここが船の中であることを思い出した。


 「……おーい、……おーい」


 小さな弱々しい声だった。

 宮崎の声だと思うととたんに嫌な気分になる。

 寝言だろうか? こんな夜中に人騒がせな。


 「……おーい」


 呼ぶ声は止まらない。あまりのしつこさに僕は声を荒げた。


 「なんですか?こんな夜中に」


 「阿久津か?よかった。頼む、たすけてくれ。頼む」


 声はどこまでも弱々しかった。

 さすがに少し心配になり、ベッドから降りて灯りを点けた。


 「どうしたんですか?宮崎さん」


 「阿久津、頼む助けてくれ」


 宮崎は頭を枕の上に乗せて非常に行儀良い姿勢で寝ていた。

 毛布を首の下まできっちりとかけ、顔はまっすぐ上を向き顔をこちらを見ようともしていない。

 なんだこいつは?

 悪ふざけかもしれないと思うとよけいに腹が立つ。


 「身体が、からだが、かゆいんだ。それに身体が動かないんだ」


 「身体が動かないって、どうしたんですか?病気ですか?」


 「わからん。ただ動けないんだ。それに全身がかゆい」


 正直面倒くさかった。

 でも宮崎は真剣な表情で目だけを動かして僕を見ていた。

 半分泣いているみたいだった。


 「……首も動かないんだ」


 食中毒でも起こしたか?

 食べ過ぎで腹でも壊したか?

 いずれにせよいい気味だくらいに思っていた。


 「なあ、俺どうしちまったんだよ。なあ、助けてくれよ。なあ」


 もし本当に病気なら誰か呼びにいかなくてはいけないけど。

 誰かといっても桜井さんしかいないけど。

 僕は久保田に向けられたあの冷たい視線を思い出した。

 あれを自分が受けるのは嫌だった。

 改めて宮崎の顔を見てみたが特に顔色が悪いということはない。

 むしろつやつやして血色の良いくらいだ。

 へんな汗もかいていないし。

 身体が動かないというのも気のせいではないだろうか?


 「しっかりしてください。大丈夫ですよ。なんともなってないですから」


 僕は落ち着かせるように言ったが、宮崎は納得せずに食い下がってくる。


 「そうか? 本当に大丈夫なのか?

 なんともなってないか?

 俺の身体は大丈夫なのか?」


 宮崎のしつこさにいい多少うんざりして彼の毛布に手をかけた。


 「大丈夫ですよ。ほら、なんともなってな……」


 突き出た腹で大きく膨らんだ毛布をめくり宮崎の手足や胴体を一応確認してやるつもりだった。

 だけどそれはできなかった。

 なぜならそこに宮崎の身体はなかったから。

 宮崎の太った体も手足も毛布の中には見当たらなかった。

 代わりにあったのは赤い小石の山だった。

 毛布の中一杯に山のように盛られた赤い小石があった。

 毛布をはがしたことで、まるで渇いた砂山が崩れるように赤い小石がベッドから崩れ落ちてきた。

 ずざざざっと音を立てて崩れ落ちる赤い小石は床に流れ僕の足を足首まで埋めた。

 とっさに避けることも出来なかった。


 「おい、阿久津、どうしたんだ? 俺大丈夫なのか?

 大丈夫なんだよな? おい、阿久津、返事をしろよ」


 宮崎の声は聞こえていたが返事は出来なかった。

 僕は赤い小石の山を見つめていた。

 毛布の中からこぼれ落ちて自分の足首を埋めている赤い小石のようなもの。

 一つ一つが『つ』の字型で透き通った深紅のガラス細工のように見える小石。

 じっと見ているとそれらはぴくぴく動きはじめた。

 ぴちぴちと跳ねるように動きはじめたそれは、そう、夕食の時水槽の中で見た赤いやつだ。

 海老だ。

 あまりに大量だったのですぐにはそれと気づかなかったが。

 宮崎の毛布の中にあったのは赤い海老だった。赤い小石じゃなく赤い海老だった。

 何千匹もの真っ赤な海老。

 それを理解したとたんに背中に冷水を浴びせられたように正気に戻った。

 うわっという低い叫び声を上げて、足にまとわり付く海老を払い、狭い床を脇に飛びのいた。


 「おい、阿久津、どうしたんだよ」


 ベッドの上の枕には宮崎の首がある。

 さっきと同じように行儀良く、まっすぐに上を向いて。

 でも毛布をはがされた首から下にはなにもない。

 腕も、胸も、腹も、足も。なにもない。

 あるのは海老だけ。


 「おい、どうしたんだ。阿久津。

 どうしたんだ。なんとか言ってくれよ! 」


 宮崎は喋っている。

 宮崎は自分の体が無くなっていることに気が付いてない?

 いや、そもそも身体が無くなっているのに生きている? 首だけで?

 これは夢だ。悪い夢だ。

 僕は宮崎の首のそばに近寄った。


 「どうしたんだ!阿久津。何とか言ってくれ。

 おい、おい、何するんだ! やめろ。やめてくれ」


 僕はなにかに導かれるように枕の上の宮崎の首を持ち上げた。

 ちょうど自分の顔と同じ高さに。


 「阿久津。なんなんだこれは。これはどいうことなんだ」


 宮崎がしゃべると、顔の筋肉が動く。

 その動きにあわせて首からぽろぽろと赤い小さな塊が白いシーツの上にこぼれていった。

 白いシーツの上でピンピン動く赤い海老。

 海老は宮崎の首からこぼれ出てくる。

 そして、海老がこぼれる度にその分宮崎の首は短くなっていく。


 「なあ、阿久津頼む、俺の首を掻いてくれ、かゆくてかゆくてたまらないんだ」


 宮崎は海老に食われているんじゃない。

 宮崎が海老になっているんだ。

 宮崎の肉が、骨が、全てが細かく分解して、少しづつ赤い海老になっているんだ。



 「おい、阿久津。頼む」


 そのことにやっと気が付いたとき、僕ももう限界だった。

 宮崎が恐かった。

 宮崎の首からこぼれてくる赤い海老が恐くて恐くてたまらなかった。


 「う、うう、うわ、うわーーーー!・・・・・」


 僕は叫んだ。そのまま両手でもっていたものを思いっきり壁に向かって投げた。

 宮崎の首を投げた。

 首は案外軽かった。もうかなり海老化が進行していたのかもしれない


 「おい、あく・・・・・・」


 宮崎の首は壁にぶつかると、大きな豆腐か何かのようにぐしゃっというしめった音をたてた。

 そしてそのまま粉々に砕けて弾けるように飛び散った。

 数千もの赤く小さな破片。

 その一つ一つがそれぞれ赤い海老へと見る見る変化して、床の海老に混ざっていった。

 もう後には宮崎のかけらも残っていない。

 急に吐き気がこみあげてきた。

 だけどからっぽの胃からは何も出てこない。身体を折り曲げ空吐を繰り返した。


 わさわさ わさわさ わさわさ わさわさ・・・・・・。


 気が付けば赤い海老は床一杯に広がり、僕の足首まで埋めていた。

 また悲鳴を上げそうになるのをあと一歩でこらえた。

 ここでパニックを起こしては駄目だ。

 畜生、宮崎なんて放っておいて早く逃げればよかった。

 ああ、後悔してももう遅い。

 とにかくここから出るんだ。ここから出て足を洗うんだ。

 外開きのドアを開け、廊下に飛び出した。

 デッキへの階段まで廊下を走ろうとして足が止まった。

 僕のいた部屋はデッキへと昇る階段から一番遠くの部屋だった。

 階段までの廊下の左右にはそれぞれ10個づつ部屋がある。

 目の前の廊下で、別の部屋のドアがいくつか開いていた。

 そしてそこから海老が、ドアの開いた部屋から真っ赤な海老がどんどんどんどん廊下にあふれ出していた。


 わさわさ わさわさ わさわさ わさわさ・・・・・・。


 両手で口を押さえたがもう今度は悲鳴を止められなかった。

 何十万匹という赤い海老が恐ろしいほどの勢いで廊下に流れ込んでいる。

 狭い廊下は見る見るうちに海老で埋め尽くされていく。

 赤い海老は電灯を反射しそれ自体が発光してるように赤く輝いていた。

 輝く赤い波がうねって押し寄せてくる。

 このままではすぐにここは赤い海老に飲み込まれてしまうだろう。

 早くここから逃げるんだ。

 海老に触りたくないとか言っていられる状況ではない。

 だけど恐くて海老の中に足を入れることが中々出来なかった。

 知らず知らずに涙が、鳴咽が出てきて止まらない。

 何度も深呼吸して無け無しの勇気を全部振り絞ってなんとか一歩を進めた。

 足に海老がまとわり付いてくる。

 冷たく硬いぬめぬめとした感触が伝わってくる。

 海老たちは噛み付いたり刺してきたりはしない。

 ただ泥のようにまとわりついて、足を重く、鈍くする。

 階段までの距離は後ほんの十メートルくらいのはず。

 でもこんな状況では絶望的な距離に感じる。

 それでもなんとか前に進む為に泣きながら身体を動かした。そうすることしか出来なかった。

 やっと廊下の半分まで進んだとき、ばこっと音がしてそれまで閉まっていたはずの部屋のドアが目の前で開いた。

 室内の海老の圧力に耐えられなくなったのだろう。

 とたんに海老が勢いよくあふれ出てきた。

 海老の波が大きくうねり一瞬腰の高さまで海老に飲み込まれた。

 波の勢いに倒れそうになるのを必死でこらえたが駄目だった。

 足をすべらせ海老の波の中に倒れ込んでしまう。

 それでも必死に目を閉じ口を閉じて海老を身体の中に入れないようにして立ち上がった。

 髪の中や肩に残った海老を振り払い、壁際にすがり付き全身の力で転ばないよう耐えていた。

 涙と鼻水と海老の粘液で目を開けていることが出来ない。

 全身がもうぬるぬるで、拭いても拭いても拭い切れない。

 海老の蠢く音だけがうるさいくらいに耳に響いていた。


 わさわさ わさわさ わさわさ わさわさ・・・・・・。


 霞んだ赤い視界の中、出口の階段に人がいるのが見えた。

 信じられなかった。

 自分以外にも助かった人がいるんだ。

 それに安堵し、今度は嬉し涙が溢れでてきた。

 膝まで海老につかりながら最後の力で進む。


 「おーーーい! 開けてくれ、開けてくれよ! 」


 出口の階段にいたのは久保田だった。

 パンツ一枚の久保田は僕のことなんか目に入らないみたいで、デッキへと昇る階段の途中の鉄製の扉を叩いていた。


 「おーーい、いいかげんにしろよ!そこにいるんだろ。いるのはわかっているんだ。

 なあ、頼む助けてくれよ。だれにも言わないから!」


 「久保田さん、ドア開かないんですか?」


 ようやく階段下にたどり着き、海老の海から抜け出すことができた。


 「おお、阿久津!お前も無事だったのか?畜生、奴等ドアに鍵をかけているんだ」


 「奴等って?」


 「決まっているだろ、奴等だよ。桜井だ。あいつら最初からこうすることが目的だったんだ」


 「桜井さんが?うそだ?目的って?」


 「目的?知るかよ。そんなの」


 二人とも混乱していた。会話がかみ合わない。

 どうしたらいいのだろうか?

 狭い階段で身を寄せ合ってしばらく二人とも途方に暮れた。

 でも久保田は僕という生き残りを見つけて少し落ち着きを取り戻したのだろう。

 周りをすばやく見回すと意を決して海老の海に飛び込み、そのまま一番近くの部屋に入り二段ベッドのハシゴを取り外して持ってきた。

 そのハシゴで扉を叩きはじめた。


 ゴン!ゴン!ゴン!


 鈍い音はするが鉄扉はびくともしない。

 久保田の行動を見て僕も別の部屋からハシゴを持ってきた。

 二人して何度も何度もドアを叩いた。


 ゴン!ゴン!ゴン!


 どこから沸いているのか海老は徐々に増えてきているようだった。

 足場にしている階段は7段しか無く、既に下から3段目は海老に沈み、まもなく4段目も海老に埋まろうとしている。

 足場が不安定になる中、僕と久保田は二人とも何度も海老の海に倒れ込んでは立ち上がりドアをハシゴで叩き続けた。

 どれくらいそうしていたのか。久保田の掴んでいたハシゴが突然僕の目の前に飛んできた。


 「すまん、手を滑らせた」


 久保田は僕のほうに右手を伸ばしていたが、その指先を見て僕はぎょっとなった。

 差し出された久保田の指の背中に赤い縞模様が浮かんでいた。

 久保田の指が、海老に、海老になりかけている。

 呆然としている僕の目の前で久保田の右手の小指がぽろっと落ちた。

 落ちた小指は久保田の足元でぴんぴん跳ね始めた。

 久保田も同じように落ちた小指を、真っ赤に輝く海老を見つめていた。

 驚いている暇も無く今度は中指が、親指が次々と海老に変化しだした。

 久保田はこれ以上指が無くならないように両手を握り締めたが無駄だった。

 赤い海老が次々流れるようにこぼれ落ちてくる。


 「あーーー!俺の指が、俺の手が。

 ……阿久津、阿久津、助けてくれ阿久津。頼む」


 海老はぼろぼろぼろぼろこぼれ、階段下の海老の中に混ざっていく。

 もうどうすることもできない。

 指が全部無くなると今度は手の甲が、その次は腕が、ろうそくが解けるようにどんどん短くなっていった。

 久保田は僕に助けを求めて階段を一段降りてきた。

 僕は久保田を避けるように後ずさり階段から降りた。

 助けを求める久保田の口から悲鳴とともに赤い海老がぴんぴんと飛び出してきた。

 ぱくぱく動く口の中で舌が海老に変わっていくのがはっきり見えた。

 舌の無くなった久保田は喋れなくなり獣のように叫び始めた。

 そしてもう一段階段を降りようとしたとき、階段を踏み外して海老の中に倒れこんだ。

 すでに右足の足首から下も海老に変わっているようだった。

 海老の海の中、久保田は最初はなんとか立ち上がろうともがいていたが、少しずつその動きは小さくなっていった。

 久保田のたくましい四肢が先端から見る見るうちに千匹、万匹の海老に変わっていく。

 両手両足を失った久保田は仰向けの達磨のように海老の海に浮かんでいた。

 もうどんな抵抗もできない様子だったが、それでも目だけはまだ生きていることを主張するように必死に助けを求めている。

 やがて久保田の身体は少しずつ赤く染まり、細かくひびのような模様が入ってきた。

 そしてゆっくりフライパンの上のバターが融けるように全身が万匹の海老へと変わり赤い海へと同化していった。

 後には久保田の下着だけが、ネイビーブルーのショートトランクスだけが赤く輝く海にゆらゆらと冗談みたいに浮かんでいた。


 わさわさ わさわさ わさわさ わさわさ・・・・・・。

 海老たちはひときわ赤く輝きはじめ、船底を眩しいくらいに真っ赤に染めていた。

 眩しさに目を開けていられないほどに。


 わさわさ わさわさ わさわさ わさわさ・・・・・・。


 みんなみんな海老になった。宮崎も久保田も海老になった。

 そして僕はとうとう本当に一人ぼっちになった。

 いやだ。

 ……いやだいやだいやだ。

 僕は死にたくない。

 海老になりたくなんかない。

 助けてくれ。

 誰か助けてくれ。

 僕は狂ったように手にしたハシゴでドアを叩きつづけた。

 不意に船底の電灯が全て消えた。

 赤い輝きも一瞬で全部無くなり、窓一つ無い船底は完全に真っ暗になった。

 一点の灯りも無い。

 もう何も一切見えない。

 僕は悲鳴を上げながら階段から滑り落ちた。

 腰まで海老つかりながら階段を手探りで探して昇った。

 素手で思いっきりドアを叩く。

 ああハシゴが見つからない。

 助けて! 助けて!

 声の続く限り叫び続けた。



 6


 桜井倫子はいつものように船底に続く鉄扉の鍵を開けた。

 昨夜はこのドアを内側から叩く音がうるさくて良く眠れなかった。軽くあくびをした。

 ドアを開けるとむっとしたこもった生臭い空気があふれ出てくる。

 こればっかりは毎度のこととは言えなかなかれることができない。

 出口横に付いていたブレーカーを上げ、換気扇のスイッチを入れ直した。

 寄港まで約1時間。それまでには大分ましになっていることだろう。


 「……サ、サクライさん」


 足元から声がした。

 船底の廊下に降りる階段の上部に阿久津がいた。

 阿久津は下半身は海老に浸かっているものの、上半身を階段で支えそれ以上沈まないようにしている。

 一晩中その体勢でいたことは誉めてあげても良いと桜井は思った。


 「……サクライさん、たすけてください」


 桜井は出来の悪い子を諭すように困った笑みを浮かべた。


 「阿久津さん、駄目ですよ。アンケートの質問に嘘答えちゃ。

 海老が嫌いなら嫌いって言って下さいよ」


 「桜井さん、お願いです。助けて下さい」


 「まあ、でもそれもこちらのミスですね。しょうがないですよね。

 予定していた人数が集まらなくて今回は体重重視で集めましたから。

 準備不足ではありましたね。すいませんでした。

 阿久津さん。その点はお詫びさせていただきます」


 「ぼく、ぼく、誰にもなにも言いませんから、おねがいです。助けて下さい」


 阿久津は必死に桜井に助けを求めている。

 桜井はしゃがみこみ阿久津の目を覗き込んだ。


 「海老が食べられなくて本当に残念でしたね。

 でも最初にそう言ってくれればこのツアーにはお誘いしませんでしたよ」


 桜井はここ数日間で一番の微笑みを浮かべた。

 造り笑顔でない本物の微笑み。

 今回は本当に苦労も多かった。でもその苦労も無駄ではなかった。

 これほどの大漁になるとは。うれしい誤算だ。


 「ごめんなさい、助けて」


 桜井はキスをするときのように阿久津の頭に手を回した。

 桜井の髪の毛が阿久津の頬に触れあのうっとりするような香りが阿久津を包んだ。

 阿久津はこんな時だというのに顔を赤らめた。

 桜井の唇が触れんばかりに近い。

 阿久津も手を伸ばそうとしたがもう身体は動かなかった。

 二人はじっと見詰め合う。

 そしてそのまま、すくっと桜井は立ち上がった。

 阿久津の頭を抱えたままで。

 熟れた果実が枝からもぎ取られるように、阿久津の首はぷつりというかすかな音をたて身体から離れた。

 首を失った身体は全ての統制を失ったように階段からずるずるっと滑り落ち、瞬く間に海老の海へと沈んでいった。


 「ご迷惑をおかけしました。阿久津さん。今回は本当にお世話になりました」


 「助けて下さい、助けて下さい」


 阿久津は自分の状況にまだ気付いていないのだろうか?

 それとも気付いてわからない振りをしているのだろうか?

 この状態の頭部はいったい何を感じているのだろうか?

 いつもの、これまで何度となく考えたことのある疑問が桜井の頭に浮かんだ。

 ぼんやりと物思いに耽っていたためか、桜井の腕から少し力が抜けた。


 「あっ・・・・・・」


 安定の悪くなっていた阿久津の頭部が桜井の両手の間から抜けていった。


 「……たすけて……たす……」


 阿久津の頭は階段のステップにぶつかり、ぐしゃりと音を立てて粉々にはじけた。

 そして数千匹の海老へとばらばらに分解し、他の海老たちに混ざっていった。


 わさわさ わさわさ わさわさ わさわさ・・・・・・。


 生きの良い真っ赤な輝く美しい海老たち。

 いつも以上の大漁に桜井は大満足だった。




 赤海老港観光課の桜井です。

 どうもいつもお世話になります。

 予定通り、赤海老、入荷いたしました。

 すいません。今回遅くなりまして。

 そうですね。あまり宣伝はしてないんですが赤海老の美味しさは口コミで広がっているみたいですね。

 いえいえ、昔からお世話に成っているところには優先的に回させていただきますから。

 それでお値段の方なんですが、サービス期間は終了ということに成ります。

 正規料金に成りますがその点はすいません。ご了承くださいませ。

 ええ、ええ。

 お昼までにはお届けできると思いますので。

 え? 次回ですか? 

 そうですね。あまり日を空けずに入荷したいと思っているんですねどねえ。

 いろいろ下準備に時間が必要でして。

 申しわけ有りません。

 はい、今後とも赤海老をどうかよろしくお願いいたします。


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― 新着の感想 ―
[一言] あ〜〜〜,気持ち悪かった.トラウマになりそう.海老は好きですが,この次,おいしく食べられるかどうか心配になってきました(^^;)
[一言] 正統派のホラーですね、途中で参加者がどうなるかはなんとなく予想がつきましたが、身体の一部一部がそうなるとは思いませんでした。発想が良いですね、おかげで怖さも倍増です。 結局桜井さんはなんだ…
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