ボクノイモウト
惑星ファルファーレと同じ舞台ですが、独立して読めると思います。
アンドロイドにも感情は生まれるのか、それともそれも作られたものなのか?
アンドロイドを家族として育った人間の方はどう感じるのか?
そんなことを考えて書きました。
「ほら、あなたの妹よ。可愛がってあげてね」
最初に聞いた言葉がそれだった。
――イモウト?
――カワイガル?
僕はその意味を掴もうと、目の前の小さな物体に手を伸ばした。
柔らかくて温かい。
もぞもぞと動いている。
「小さいでしょ? この子はまだ何も知らないの。目もよく見えてないし、座ることも立つこともできないわ。でもね、一年もしたらあなたの後を追いかけて歩くようになるわよ。楽しみでしょう?」
次々にかけられる言葉を脳にしまいながら、じっと観察する。濡れたようなヘーゼルの瞳が僕に向けられた。
「この子もあなたを見てるわ。お兄ちゃんがわかるのね、お利口な赤ちゃん。名前はルリよ」
――アカチャンノ、ナマエハ、ルリ。
ルリ、という名を、僕は僕の中の特別な場所に置く。
ルリは僕の妹でまだ赤ちゃんで、可愛がってあげる存在なのだと。
「あなたは私たちがいない時、ルリのお世話をしてちゃんと守るのよ。お願いね、可愛い妹だものね」
僕はルリから目を離さずにうなずいた。
――ボクハ、カワイイルリヲ、マモル。ボクノイモウト、ダカラ。
***
「お兄ちゃん、どこにいるの?」
あどけない声に呼ばれて、僕はケヤキの影から顔を出した。芽吹いたばかりの緑が梢を賑やかに彩っている。
「あ、みーつけたっ!」
ルリは危なげなく小枝を踏みながら駆けてきた。あの日、オカアサンが言ったとおり、ふにゃふにゃだったルリはすぐに大きくなって、今ではよく喋るし、よく笑うし、よく走る。
ついでによく泣きもするけれど、ルリが泣くと僕はどうしていいかわからなくなって、胸のあたりが熱くなってしまう。だから僕はルリを泣かさないように細心の注意を払っている。
何よりそれが僕の仕事だ。
――カワイイルリ。ボクノイモウト。
ルリは僕の広げた両腕の中に、一直線に飛び込んできた。
「どうしたの、ルリ?」
「あのね、あのね。えーと、お花! 咲いてたの! それでね……」
これだけ喋るとルリはころころと笑い出した。ルリが笑うと空気が虹のように輝きを伴って弾む。僕も弾む。
見ると、ルリのぷくっとした手のひらに瑠璃色の花が握られていた。春の初めに咲く小さな花だ。
「お鼻を近づけるとね、すっごくいい匂いなの。ね?」
香気成分はトランス-2、シス-6-ノナジエノール、ヘキサノール、ベンジルアルコール、オイゲノール……。
無害、神経を和らげリラックスさせる効果。
「本当だ、いい匂いだね、ルリ」
唇の両端を引き上げて表情を作ると、僕はその花をルリの髪に挿してやった。
「似合う? ルリ、かわいい?」
「もちろんだよ。お姫様みたいだ」
小さな花よりも小さなルリの方が可愛い。
――チイサナルリ。カワイイルリ。ボクノイモウト。
***
ルリと初めて会ってから、十三年たった。
その頃は手のひらに乗りそうなほど小さかったのに、今はもう僕の肩ぐらいの高さになった。
そして毎日学校に行く。僕が側にいられる時間は少なくなった。
それでも帰ってくると、僕に抱きついてくる。
――カワイイルリ。ボクノイモウト。
「ねえ、お兄ちゃん。今日は学校お休みなのよ。何だか彗星が接近するからって念のために屋内に避難するように、だって」
朝食を食べながらルリが言った。お母さんもお父さんも仕事に出て、家の中はルリと僕だけだった。
僕も既にニュースや政府通達を検索していたから知っている。
「ご飯を食べたら地下室に行こう。屋内といっても窓際は危ないから」
「ええっ? 私、外が見たいよ。だって流れ星が雨のように降るんでしょう? そんなすごいのってもう一生見られないかもしれないじゃない」
ぷくっと頬を膨らませたルリは、お下げにした亜麻色の髪を指でくるくるといじりながら僕を見返してくる。
「ねえ、いいでしょ? 少しだけでも見たい」
僕の最優先の仕事はルリを守ることだ。ルリの泣き顔よりは笑顔を、笑顔よりは安全を。僕の優先順位は決まっている。
「ダメだよ。怪我をしたら大変だろ」
きっぱりと答えて、僕は食べ終わった食器を片付けた。同時に家中のシャッターを閉めるようにホームシステムに指示を出す。水と食料は備蓄がある。非常用電源のバッテリーも充電されている。空調システムを利用して有害な物質が漂っていないことも確認した。
「ねえ、これじゃあ何にも見えないよ。そんなに大事にしなくちゃダメなことなの? 学校でも誰もそんなに心配してなかったのに」
ルリはまだ納得出来ないらしい。僕はルリの前にかがみ込んで、両手を細い肩に置いた。
ルリの肩は触れるたびに驚くほど華奢で、僕がちょっと力を入れたら壊れてしまいそうだ。
――カワイイルリ。マモラナクチャナラナイ、ボクノイモウト。
「これは譲れないよ。さあ、地下室に行こう」
「東側の小窓だけでも」
「ダメだ。言うことを聞いて、ルリ。こう考えたらどうかな? これはちょっとした冒険ごっこだ。ルリは嵐で山の中の小屋に閉じ込められたお姫様なんだ」
僕は記憶からルリの好きだった童話を引っ張り出して説得にかかった。彗星が上空に現れるまで後一時間もない。僕は早くルリを地下室に避難させたかった。
でもルリはうんざりした顔で肩をすくめた。
「なにそれ。もう、お兄ちゃんたら。そんな童話なんて私もう読まないよ? 中等学校生なんだもん」
「そうだね。それなら駄々をこねるような小さい子じゃないだろ?」
そう言ってやると、ルリはしぶしぶ立ち上がる。
僕はホッとして耳を澄ませた。外は奇妙なほど静まり返っていた。
「わかったよ、地下に行く。でも代わりにお兄ちゃんが外を見てくれない? お兄ちゃんなら強いから怪我なんてしないでしょ? 私は地下のモニターで見てるから」
子供扱いされてルリは苛立っているようだった。ルリを泣かせるのも嫌だけど、怒らせるのはもっと嫌だった。
――カワイイルリ。マモラナクチャナラナイ、ボクノイモウト。
それがどんな結果を引き起こす可能性があるか、僕は知っていた。でも。
――カワイイルリ。ボクノ、チイサナイモウトハ、オオキクナッタ。
「僕がいいよって言うまで地下にいるって約束できるならいいよ」
ルリは笑って約束してくれた。これで安心だ。ルリは僕との約束はきっと破らない。
「ちょっとでいいの。淋しくなったら呼ぶから地下に来てね」
ルリはそう言って地下に降りて行った。
僕はルリの為に、外に出て空を見上げた。西の空、ずっと高いところに輝く星が見えた。朝の光の中なのに、その星はギラギラと燃えていた。
そして何も見えない空中から突然光の軌跡が現れ、降ってくる。
圧倒的なエネルギーが空を引き裂く。
僕は視覚を調整して、その光景を地下室のルリに送った。ルリは安全な場所からこの災厄を見ているだろう。
室内モニターにはマイクもスピーカーも付いているけど、僕は映像だけを送った。音も人間を傷つけることがあると知っていたから。
恐怖なんて感情は僕にはない。なのにどういう訳か淋しいという言葉がぽっかり胸に浮かんでくる。
――カワイイルリ。ボクノイモウト。
光の雨はどんどん近づいて、そのうちの一つは雨というよりも火の玉となって空を横切った。
それを両眼でしっかり捉えた、次の瞬間。
大気も地面も大きく轟く。
バチバチと自分の躯に火花が走るのを、僕は知覚した。
――カワイイルリ。ボクノイモウト。
脚からも腕からも焼け焦げた匂いがする。
その匂いはルリにとって危険か、安全か。分析しようとしたけれど、頭の中にまで流星雨が降りかかって、何もわからなくなった。
もう眼のカメラも機能しない。
――カワイイルリ。ミタカッタモノハ、ミラレタカイ?
そして、僕は壊れた。
「大変なことになっちゃったわね、ルリ。でもあなたが無事で良かったわ」
仕事先から十キロの道のりを歩いて帰ってきた母親は、手動でこじ開けたドアの向こうに愛娘の元気な姿を見つけて疲れた顔に笑みを浮かべた。
そして娘を思い切り抱きしめた後、彗星の接近がこんなに大きな災厄になるなんて、政府はもっと周知すべきだっとぼやく。
「ねえ、お母さん。お兄ちゃんたら帰ってこないんだよ。外にいなかった?」
ルリは用意されていたサンドイッチをぱくつきながら聞いた。
「私、ちゃんと約束守って地下室にいたんだよ? そしたらね、モニターが壊れちゃって、電気も消えちゃって怖かったよ。お兄ちゃん、呼んだら来てねって言ったのに、まだ帰って来ないんだよ」
母親は大きくため息をついた。
「躯は外にいたけど。あれはもうダメだと思うわ。なんだか電子関係のものは全部イかれちゃったそうなの。電気もガスも水道もしばらくは使えないし、通信も交通も使い物にならないんだって。もう、政府も軍もなにやってるのかしら」
「壊れちゃったの?」
「ええ。職場のコンピュータもメモリごとダメになったから」
「私が外の様子見てって言ったからかな?」
「地下室にいてもダメだったんじゃないかしら。とんでもない電磁波がどうとか聞いたわよ」
「そうなんだー、残念。私の赤ちゃんからの記録もお兄ちゃんの中にあったのになー」
「そうねえ。でもあなたが無事ならいいわ。高いものだったけど、ちゃんと最後まで仕事したみたいだしね。また家事を任せるアンドロイド買わなくちゃ。政府が保障してくれるといいんだけど。でも壊れた方は破棄するにも粗大ゴミになって申し込み制だから、新しいのを買うにもちょっと時間かかるわよ」
「今度はお姉ちゃんがいいなー」
「そうねえ、あれは子育て機能が付いていたけど今度は家事機能だけでいいわね。でも防犯も考えると男性形の方がねえ」
上の空で答えた母親は、忙しく家の中を見て回った。
そんな母親を、ルリは笑顔を消して眺める。
「もうお兄ちゃんなんていらないよ」
シャッターを押し上げると、窓の外にアンドロイドが立っていた。その焼け焦げた眼は、まだ空に向けられている。オイルが、頬に黒っぽい筋を引いていた。
「お兄ちゃんなんて、いらない」
ルリは呟いてピシャッと窓を閉めた。