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第8話 回想
 一条医師は私に何か話したそうだったが、看護師に呼ばれて、次の患者の診察のために姿を消した。患者や患者家族は最低限の時間しか医師や看護師と接することができない。
 患者家族としてはぶちまけたい不満が山ほどある。しかし、これだけ少ないスタッフが目の前を走り回っているのを見ると文句を言うのも気の毒な気がしてくる。
 それに……
 それなりの医療を受けたかったら、民間の一流病院を受診すればいいのだ。多額の金を積んで。公立病院を受診する時点から、最低限(私には最低限のもっと下のような気がするのだが)の医療で我慢するという意思表示をしたとみなされる。それが本意であろうとなかろうと……。私の中の怒りの矢はどこへ向けて放てばいいのか、その方向を見失ったまま私の中で燻り続けた。

 母は3階にあるICUに入った。沢山のベッドが並んでいる。あっちからこっちからアラームが鳴って、看護師はバタバタ走り回っている。所狭しと並んだベッドの数に対して、看護師は、たったの2人。3つも4つもアラームが鳴っているのに、これじゃあ、とても対応できるとは思えない。
 ICUのベッド上に横たわる母。
 母さん……
 目を開けてよ、母さん……

 仕事に疲れて台所に行った時、母は昼食の準備中だった。
「あんたの好きな親子丼にしようと思ってね。あんた暇なの? 暇だったらキャベツ切ってくれない? トマトも冷蔵庫に入っているから、サラダを作ってちょうだい」
 そういえば、朝食を済ませた頃から何だか調子が悪いと言っていた。病院も薬も嫌いな母が頭痛薬を飲むなんて本当に珍しいことだった。日頃から人一倍我慢強い人である。もしかしたら、あの時から頭の中では大変なことが起きていたのかも知れない。 
 私が冷蔵庫からキャベツを取り出した直後、母は、流しに手をついて倒れたのだった。まな板の上には玉ねぎと長ネギが綺麗に切り揃えられていた。三つ葉と下味のつけられた鶏肉は、まな板の横に置かれた皿の上で出番を待っていた。
 作りかけの親子丼。
 親子揃って食べそびれた親子丼。

 献立に困ると、母はよく親子丼を作ってくれた。
「あんたが好きだから」
 それはウソではなかったが、死ぬほど好きということもない。簡単に作れるご馳走だったから、母はそんな言い訳をしていたのだろう。私も特別それを否定してこなかった。

 私は翻訳の仕事をしている。報酬はたかが知れたものだったが、自宅で仕事ができるのが何といっても魅力である。
 父が逝ってから、私は以前務めていた会社を辞めて、自宅で仕事をするようになった。母が心配だったから。もともと会社内でも翻訳を頼まれることが多かったので、その知識を生かせたらと思っていた。主な翻訳は、新しい商品のマニュアルや注意事項を始め非常に多彩な内容である。通常『産業翻訳』と言われるもので、小説などの文学的なものは含まれない。出来上がった翻訳は期限内にインターネットで翻訳会社に提出する。
 採用試験は3つのレポートの翻訳を課された。運良く合格したが最初の頃は仕事量も少なかった。決められた期限の少なくとも3日前には必ず提出してきた。実績を積む毎に、頼まれる仕事量が増えてきた。仕事の量がそのまま報酬の額になる。
 この仕事は自分のできる範囲で、きちんとこなしていくことが肝心である。仕事を取りすぎてこなせなくなると一度に信用を失うから要注意。仕事の打診が来ると、今抱えている仕事の具合と新しい仕事の内容を考えて返事をする。最初の頃は頑張って断らないようにしていたが、一度、精神的に追い詰められた苦い経験があって、今は3件に1件くらい断っている。それだけ多くの仕事を回してもらえることに感謝である。
 一日パソコンの前に座っているので、目が疲れるのと腰が痛くなるのが難点。部屋からふらっと出てくると大抵は母とお茶を飲んだりお喋りをして気分転換をする。今日も、午前中一杯頑張って一つレポートを仕上げたところだった。

 母は眠ったように横たわっている。小脳という所に大変なことが起きているなんて、寝顔からだけじゃ全然分からない。一度音を立てて崩れた淡い期待だったが、母がむくっと起きるあの妄想が再び私の中に湧いてきた。
 そして、私は初めて空腹を感じた。昼食を取り損ねていつの間にか夜になっている。食事を取れるうちに取っておかなくちゃ。私が倒れるわけにはいかないのだ。ICUの窓から見える外は真っ暗。夜になっていた。看護師に尋ねると、院内の売店はとっくに閉まっているが、売店横にパンやおにぎりの自動販売機があると教えてくれた。もう少しマシな物がほしかったら、病院の近くにコンビニとパスタの店と焼肉屋があるとのことだ。

 私は、コンビニに行くことにした。エレベーターで一階に下りると、玄関脇の外来待合室には、こんな時間になっても大勢の患者が溢れていた。さながら避難所かどこかのようだ。咳をする者、ソファでぐったりする者、座る所がなくて壁際の床にしゃがみこんでいる者、皆一様に疲れた様子をしていた。
 外へ出ると、細い雨が降るともなく降っていた。風が吹くと、霧吹きで吹き付けられるように顔面に冷たい感触が生じる。病院のすぐ斜め前にコンビニが見えた。ライトを照らして走る車の切れ目を見て、私は道路を横断した。
 見知らぬ町の見慣れたコンビニ。コンビニだけは、どこも似たようなものだ。こんな所でかすかな安らぎを感じている自分がおかしかった。
 おにぎりはあらかた売り切れてしまっていた。ぶどうパンと一つだけ残った梅おにぎり、小さなミルクセーキを購入して私は病院に戻った。再び、診察待ちの大勢の人の間を縫ってエレベーターに乗り込む。ICUの前のピロティに来たが、あいにく、私の座るスペースはなかった。仕方なく、窓際に立って簡単な食事を大急ぎで済ませる。
 美味しいかどうかさえわからないままに、ミルクセーキで喉のおにぎりを流し込んで、私の一人ぼっちの晩餐は終わった。







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