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第7話 後悔
 やがて、ストレッチャーに乗せられた母がCT室から出てきた。
私の苦しみも知らず、母は眠ったような顔をしている。ホントにいい気なもんだよ、母さん。
 再び、救急処置室へ戻る。
 母が頭のCT検査を受けている間に、救急処置室の顔ぶれが入れ替わっていた。先ほどまでウーウーうなっていた男の患者の姿はなく、私たちの後に救急車で到着した二人連れのうち重症と思われる人と、さらに車椅子に座った見知らぬおばあさんがいる。あの態度の悪い若い男は姿を消していた。患者は、どこからか次から次へと湧いて出てくるようだ。
 一条医師の姿はない。どこへ行ったのだろうか。
「ちょっとお待ちくださいね。フィルムが仕上がり次第、ドクターが来ますからね」
母を運んできた若い看護師は、私に早口でそう告げると、再び急ぎ足で部屋から消えた。こんな状態で、よく医療ができるものだ。こんなに患者だけが置き去りにされる状況がしょっちゅう生じる中で事故など起きないのだろうか……

 突然、車椅子のおばあさんが大声で私に話しかけてきた。
「ちょっと、カズちゃん。こっち来てぇ。背中がな……」
 え? カズちゃん?
「あ……私、カズちゃんじゃないですよ。間違えてらっしゃるのかな?」
 無視するわけにもいかず、私は、優しく答えた、つもり。
「あぁ、カズちゃんじゃなかったか。あなたはどちらさんですか? ほら、あの、ひまわり。ひまわり、花瓶に差しときぃな。どこやったかな、ひまわり。なぁ、カズちゃん……」
 そこまで聞いて、私はこのおばあさんが認知症を患っていることをようやく理解した。
 正直言って、この非常事態に、見知らぬ認知症のおばあさんに優しくできるほど私は人間が大きくない。おばあさんはベラベラ喋り続ける。モチがどうしたの、ヒマワリがどうの、モチとヒマワリが交互に出てきて延々と続く。私はいよいよ泣きたくなってきた。誰か職員さん、早く来てよ。

 私の祈りが通じたのか、そう願ったと同時に、ドアが開いて、先ほどのCT室の白衣のお兄さんが大きな茶封筒を抱えて入ってきた。が、彼は、診察机にそれをポンと置いただけで部屋から出て行った。母のCTかもしれない。
 間もなく、一条医師が入ってきた。よれよれの白衣を揺らしながら、バタバタと。
「どれどれ」
 茶封筒の中から画像を取り出して、ガシッガシッとシャーカステンにぶら下げる。
「ひえぇ。こりゃまた、すごい」
 画像をろくろく見もしないうちから一条医師は小声でつぶやいた。私の鼓動は段々高まっていく。じっくり見なくても一目見てわかるような異常な画像……ということなのだろう。母がむくっと起き上がる想像は、1000分の1の期待を抱いていた私のその超楽観的な想像は、その瞬間に音を立てて崩れていく。
 一条医師が振り向いて私にお辞儀をする。
「日野さんの娘さん……ですか?」
「はい……」
 と答えた私の声は自分で驚くほど小さくてかすれていた。

「こちらへどうぞ」
 一条医師が私を招き寄せる。
 私はおずおずと診察机の近くまで歩いて行った。
「これ、お母様の頭のCT画像です。上から順番に水平に切っています。こんな風に」
 と言って、一条医師は自分の頭の右側をボールペンでシュッシュッと前から後ろに往復させた。
「……ここにあるのが小脳です。そして、これが出血巣(しゅっけつそう)。お母様の病名は小脳出血です」
 私は何も言えずに突っ立っていた。喉がカラカラでまともに反応することさえできない。呆然とする私に、一条医師は説明を続けた。
「かなり広範囲にわたっています。これから内科的な治療を開始しますが……、正直言って、かなり危ない状態です」
「……」
「明日まで……持ちこたえられるかどうか……」
「!!」
 嘘だ。つい何時間か前までは、母は元気だったのだ。私と一緒に台所に立っていたのに。
 一条医師に懇願する。
「お願いです。助けてください。お願い……。何とか手立てがあるでしょう? 手術をするとか、何とか……。先生、ここは病院ですよね? 先生!!……」
 後は、言葉にならなかった。こみ上げてくる涙は後から後から溢れてくる。
 母さん、助けて。母さん……私を助けて……お願い……

 気がつくと、私は、床に座り込んで顔を両手で覆って泣いていた。
 もう、何が何だかわからない。
 救急車を呼んだ時から、搬送されている時から、ここへ着いた時から、とっくに私の頭の中ではぼんやり想像していたことだ。命に関わる状況だということ……
 でも、そんなにはっきり言わなくたって!
 明日までもたない?
 日本の最新医療ってそんなものなの?
 どうして、さっきまで元気だった母さんを助けることもできないの?
 だいたい、この医師、やる気あるの?
 こんな病院に来るんじゃなかった!

 私の頭の中は、怒りと悲しみとが真っ赤なマグマになっていた。次第にそのマグマは私の中で膨れ上がりフツフツと音を立てて燃えたぎってきた。
「何とかしてください! 絶対に助けてください! 私の母さんをそんなに簡単に見捨てないで!!」
 私は立ち上がり、一条医師のよれよれの白衣を握り締めていた。
 一条医師は、憐れみの目で私を見ながらゆっくりとした口調で静かに言った。
「お気持はわかります。しかし、お母様の出血はあまりにも大きい。そして、すでにヘルニアをおこしかけています。ここで提供できる医療にも限界がありますし、それに……」
 一条医師はここで一旦言葉を切ってから、私の目を覗き込んだ。
「ここでなくても、仮に有名な民間病院の最高の医療を受けたとしても、多分、救命は無理だと思います。残念ですが……」

 諦めろと言うのか……
 民間病院の最高の医療を受けたとしても、多分、多分、多分……
 私の頭の中で、『多分』というその言葉だけが心のフィルターに引っかかった。逆の可能性をも秘めた言葉、『多分』。
 つまり、民間病院だったら助かる可能性があったということだ。もしも私に有り余るお金があったなら、その可能性に賭けることができたということだ。金がないばっかりに、あっさり母の命を差し出さなくてはならないのだ。こんなことが許されていいのだろうか。
 母の命はその辺に落ちてる石ころと一緒。
 金持ちの命は医師達が全力を尽くして助けてくれる。でも、金の無い者は、黙って死んでいけと言うのか。何と言う不公平だろう。許せない……

 私の中の真っ赤なマグマは、悔し涙となって再び両の目から溢れてきた。
 誰か私の悲しみを沈めてください。
 誰か私の怒りをなだめて下さい。
 泣いても泣いても私の涙は枯れることを知らない。

 地中海病院……
 あそこに搬送してもらえば良かった。そしたら、こんなことにはならなかったはずだ。
 借金してでも、あそこに運んでもらえばよかった……
 無駄に過ぎてしまったこの数時間が急に惜しくなってきた。
 倒れてからすぐに地中海病院に運ばれていたら、多分母は元気に歩いて退院できたはずだ。
 大きな後悔が私を襲ってきた。
 どうしてお金のことを心配したのだろう。
 お金は何とかなる。でも、でも、母の命は……