第6話 CT検査
看護師の提案は私には尤もな事に思われた。とにかく、今は重症の母の治療を最優先にしてほしい。しかし、彼は不服なようだ。
「ちょっと、何言ってるんですか? むっちゃ痛いんすよ。多分、骨折れてますよ」
そこまで言って、彼はキッと看護師を睨み付けた。
「……そんな、風邪の患者らと一緒にすんなよ。すぐに医者を呼べよ」
途中から、明らかに怒りで興奮してきたのが分かる。
「申し訳ないけど、ここの人達はみんなまともに喋れないの。喋れる患者は『軽症』なの。わかる?」
「ふざけるな! 貴様、何様だと思ってるんだ! 外来待ちって一体どんだけ待たされるんだよ?」
看護師は澄ましている。
「正確にはわかりませんけど、多分、8時間くらい……」
「なにぃ。ちょっ、8時間って、てめえ、ふざけてんのか」
今にも彼女を掴みそうな勢いである。
「隣に浜病院がありますよ。あそこだったら迅速かつ丁寧に診てもらえると思いますけど。何だったらこちらから電話連絡入れときましょうか?」
看護師さん、やるなぁ。浜病院は多分、民間病院だ。早く診てもらいたかったら、充分な金を払って、しかるべき病院に診てもらえ、ということだ。
不躾な若い男がやられたのを横目で見ながら、内心ほくそえんだ私だが、直後、その言葉がそのまま私にも当てはまることに気がついて一気に暗がりに突き落とされた。
もしも私に充分なお金があったなら、こんな遠くの汚い公立病院ではなく、地中海病院ですぐに診てもらえたはずなのだ。よれよれの白衣を着た老人医師ではなく、腕のいい医師にそれなりの治療をしてもらえただろう。いや、一条医師が腕が悪いと決め付けたわけではないのだが……。
若い男へ向けられた看護師のこの言葉は、命が金に左右されることを端的に私に教えてくれた。
目を閉じたままの母の顔を見る。涙が出た。少し紅潮した頬。生え際に1cmほど白髪が見える。染めていたのか……。知らなかった。じっと顔をみつめる。こんなにジロジロ観察したことってないなあ。左頬の小さなシミも、耳たぶのすぐ後ろの小さな黒子も、今始めて知ったように思う。
手を握る。看護師の真似をして脈に触れてみる。その強い拍動は、母がしっかり生きていることを私に教えてくれている。
大丈夫。きっと大丈夫。
ふっと、ベッド横のモニターを見る。モニターの数字は190−100を示していた。
これって血圧だよね?
190って高いんじゃない。下げなくていいんだろうか……
その時、看護師の声が響いた。
「日野さぁん」
顔を上げると、20歳代だろうか、若い看護師がニコニコしてすぐ前に立っている。
「日野さぁん。CT検査に行きましょうね」
病院に到着してからすでに1時間が経過していた。
すでに日が暮れかけているのを、救急搬入口のすりガラスが示していた。これから一体どうなるのだろう……
看護師が一人でストレッチャーを引っ張っていった。手馴れた様子で、器用にストレッチャーを運転(?)していく。
私もついて行くことにした。ストレッチャーの後ろを持って手伝う。
看護師さんがニッコリする。
「ありがとうございます」
曲がり角は結構難しい。これを若い看護師は一人で運転していくのか……大変な作業だ。
CT室の前に来た。
「少しここでお待ちくださいね。前の患者さんが出てきますから」
そう言って、若い看護師はCT室のドアを開けて中に入っていった。
そういえば、さっきの40歳代の看護師はCTの予約がびっしりだと言っていた。なるべく沢山の検査を入れ込もうと時間のロスを最小限にする工夫。次々に患者さんをCT台に乗せるために、私の母は、ここで待機しているのだ。
やがてCT室の扉が開いて、病衣を来たおじいさんと先ほどの看護師が出てきた。彼女は、今度は点滴台を上手に運転している。私の前まで二人が来ると、看護師はおじいさんの耳元で大声を出して言った。
「ふなこしさぁん。ここの椅子に腰掛けて少し待っててもらえますか?次の人のお世話をしますから。それが済んだら病室まで戻りましょうね」
ふなこしさんと呼ばれたおじいさんは、「あぁ、あぁ」と頷きながらゆっくり私の後ろの青い長いすに腰かけた。
「さぁ。日野さん、中に入りましょう」
看護師は母に呼びかけて私に軽く会釈をするとCT室の中にストレッチャーごと消えた。
CT室のドアが閉まる。ドアには覗き窓がついていた。
さきほどの看護師が白衣を着た男の人と一緒に母を抱えてCT台に移動させている。看護師というのは何と体力のいる仕事だろう。
男の人が別の部屋へ消え、看護師だけが出てきた。
「ふなこしさぁん。お部屋に帰りましょうかぁ?」
看護師は腕を抱えるようにして”ふなこしさん”を立たせた。
「検査が終わる頃にはまた降りてきますから」
看護師は私に向かってそう言うと、”ふなこしさん”と点滴台と共に私のそばから離れていった。
CT室には母が一人で台の上に横たわっている。私は、ドアの外で一人で立ち尽くしていた。
台の上の母は孤独に見えた。私も孤独だった。それでも、ようやくここまで辿りついた、そういう気持もあった。あとは、どんな宣告がされるのか……。
宣告か……。私はなるべく考えないようにしようと思った。想像したって仕方のないことだ。なるようにしかならない。こんなときに頭を働かせてもろくなモノは出てきっこない。
ああ、今、私の目の前で、熟睡していた母がCT台からむくっと起き上がってくれたら、どんなにいいだろう。「私、何してるの? ここどこよ?」なんて言い出してくれたら!! そしたら、私と母は、このまま夕飯を食べて家に帰るのだ。私がどれだけ心細かったかを話して、二人で笑いながら……。
何と虚しい想像だろう。自分に都合のいい想像は、結局私を叩きのめすための単なる前置きにしかならないと気づく。考えまいとすればするほど私の頭は勝手な想像を膨らませていくのだ。油断すると白い布を顔にかぶせられた母の映像が浮かんでくる。それを振り払うように、むくっと起きる母の姿を思い描いてみて、そして絶望する。自分の頭なのに完全に自分でコントロールできなくなっている。もう、気が変になりそうだ。ここから逃げ出すことができるなら、どんなに気が楽だろう……。
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