第5話 放置
母が倒れてからすでに3時間半が経過している。相変わらず母はストレッチャーの上に寝かされたままだ。先ほどと違うのは、モニターが取り付けられたことぐらいか……
先ほど頑張っていた医師は、心臓の悪い患者と共に風のように部屋から消えていた。看護師も、しばらくバタバタしていたが、やがて職員は誰もいなくなった。私は、そっと処置室に入った。
(こんなことなら、スカートを穿かせておけばよかった)
毛布の下は下半身がみっともない状態であったことを私は急に思い出した。
それにしても、これが日本の救急医療の実態なのか……
救急車で運ばれてきたにも関わらず、母さんは救急処置室に置き去りにされたまま。看護師は一通り私に質問をしたあと、部屋から出て行った。そして、処置室には、すぐに治療が必要な患者数名が取り残されている。
そうこうするうちに、南側の大きな扉が開いた。
(やっと診てもらえる)と思ったのは一瞬だった。
ガラガラと音を立てて運ばれてきたのは、別の患者だった。
看護師二人が男性の乗ったストレッチャーを処置室に運び入れてきたのだ。
あの……
と問いかける間もなく、二人はまた消えた。ストレッチャーを置き去りにして。患者は、時々腕を挙げたり、緩やかな動きをしたり、うーという低い声を立てていた。
新たな重病人の登場で、さらに私の不安は増した。私は自分の不安を和らげるために母の手を握った。酸素マスクをあてがわれた状態で母はじっとしている。
母さん……
母の顔を見ると、涙が出そうだ。でも、ここで泣いたら天国から天使がすぐに降りてきそうだ。それはダメ。我慢しなくちゃ。何とか助けてもらえるって。自分に言い聞かせる。
突然、電話が鳴り出した。
処置室の一角にある診察台の上にある電話機だ。
職員は誰もいない。当然、電話に出ることのできる人間はここにはいなかった。私以外には……
誰も出る人のいない電話の音に耐えるのは相当の苦痛だった。
鳴り止んだ、と思ったら、数秒後に再び鳴り出した。
私の鼓動が激しくなる。ここには、いるだけで苦痛だ。
バタバタと人の走る音がして、看護師が飛び込んできた。
今度は40歳ぐらいの看護師だ。
「はいはいはいはい……」
そう言いながら受話器を取った彼女は、耳に当てたあと「ちっ」と言って受話器を置いた。
「遅かったかあ」
私の視線を感じたのか、彼女は私の方に顔を向けた。
「あ。日野さん?」
彼女は、私の名を口にした。
「は、はい。そうです……」
「もう少し待っててくださいね。ようやく先ほどの方のCTが終わりましたので、もうすぐ呼ばれると思いますから。予約患者さんが一杯いるんですけど、何とか割り込ませていますからね」
私はここへ来て初めて、私の心を落ち着かせてくれる言葉をもらった気がした。
大きな不安の中で、小さな希望が見えた気がした。
すると、また、診察台の上の電話が鳴った。
看護師は、はいはい、と言いながら受話器を取る。
「え? いや、困りますよ。手一杯なんですから。そんな……。一方的に受けないでくれませんか? いや、いくら病棟に少し空きがあるからって、さっき来られた方の診察もまだできない状態なんですよ。えぇっ? ちょっと待ってくださいよ。無理だって、いくらなんでも……」
そこで電話は切れたのだろう。看護師は受話器を睨み付けて言う「ええ加減にせえよ。自分らは診なくていいと思って!」
看護師の言葉が終わらないうちに、再びドアが開いて、今度は白衣を着た医師らしき人が急ぎ足で入ってきた。さっきとは違う人だ。ひょろっとしたその人の身に着けている白衣はよれよれだ。
シャーカステンの明かりが点る。医師はガシッ、ガシッと複数枚のCT画像をシャーカステンにはめ込むと、腕を組んだ。右手で顎をさすりながら、時々画像に近づいたり、画像の裾を持ちあげて、斜め下から覗き込むようにして確認している。
「ふーむ。困ったな……」
その時、医師の思考を遮るように救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
「え? また、救急患者なの?」
誰にとも無くそうつぶやくと彼はCTを右手に掴んだまま後ろを振り返った。
その時、私と目が合った。後姿の雰囲気から中堅クラスの医師と思っていた私はちょっとびっくりした。どう考えても老人の部類に入りそうな顔立ちだ。
彼が私に何か言おうとしたその時、また、電話が鳴った。
「もしもし。一条ですが。……え? どうして先に連絡くれないの? いや、他に病院がないったって、どう考えても無理でしょう? 私の外来だって1時間すっぽかしたままですよ。で、何? 事故? ああ、そうですか。はいはい」
明らかに電話を取って不機嫌になった一条医師は、診察机に座ってカルテに記入を始めた。 それと同時に後ろのドアが開いた。私たちが入ってきたドアだ。外部と直接つながっている救急外来通用口。
新たな救急患者……
母がここへ運ばれてから随分時間が経つのに、一向に状況は進展しない。一体いつ診てもらえるのだろう。
正直言って、もう来ないでほしかった。わがままかも知れないけれど、患者が増えれば増えるほど母の手当てが遅くなるし手薄になる。
ドアから新たな患者が運び込まれても、一条医師は机に向かったままだ。
患者を診ることなく、一条医師は大声を上げた
「おーい!誰か!」
先ほどの40歳代の看護師が現れた。
「ちょっと、救急隊員の話を聞いて。こっちの指示はもうすぐ終わるから」
「はいはいはい」
『はい』を繰り返すのは、この看護師さんの口癖なのだろう。
患者さんは2人。一人はストレッチャー、一人は救急隊員に肩を支えられて入ってきた。
看護師さんは救急隊員と話をしたあと、ストレッチャーの患者さんを覗きこんだ。
「私の手ぇ、握ってくださーい。はい、反対。はいオッケー」
バインダーに何やら記入した後、歩いて入ってきた患者さんに話しかける。
「あのね、あなた方より病状の重い患者さんが4人順番待ちしているの。こっちの彼はあなたより急ぐ必要がありそうだから救急患者5番目扱いにします。あなたは、軽そうだから基本的には外来の患者さんの中に入れさせてもらいますね。申し訳ないけど」
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