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第4話 菊花病院
 結局、私は、それから15分ほど我慢していたが、ついに堪えられなくなって救急隊員に吐き気がする旨を伝えた。隊員は「このまま停まらずに病院まで行きますね。お母さんの命に関わる状況ですからね」と言い、ビニール袋をくれた。
 確かにそれは正論であり、母の病状を考えれば有難い方針だった。けれど、同時に、こんな時に呑気に車酔いしている私を暗に非難しているのだろうか、と棘のある隊員の言いっぷりにひねくれた解釈も与えていた。
 ビニール袋を抱えて、私は救急車内でゲロゲロ吐いた。

 口の中に酸っぱいネバネバが残って、私は気持ちが悪かった。うがいの一つでもしたいところだが、そんな贅沢を言っている場合でないことも承知していた。
 大量の自分の吐物を含んだビニール袋の口を握り締めて、私は、堪えた。救急車内に私の匂いが充満している。隊員は何も言わなかった。非難めいた言葉も、そして、同情の言葉も。

 ようやく救急車は病院に到着した。
 来たこともない場所。知らない病院。やっと救急車から降りることができるという安堵の気持ちの一方で、母の容態も気になっていた。加えて、見知らぬ土地に身一つで来てしまったことに、言い知れぬ不安が突き上げてきた。外の空気を吸って私の吐き気は収まりつつあったが、それと反比例するかのように、急速にどうしようもない心細さが襲ってきた。母は相変わらず意識がないままで、その容態や救急隊員のこれまでの様子から、命に関わる深刻な状況なのだということを理解していた。こんな心細い思い、始めてだ。今まで、困ったことが起きた時は何でも母に相談してきた。それができないのだ。

 病院は古びていた。
 玄関から西口にあたる救急車搬入口に停まった救急車の後方から私は降りた。
 公立病院でそれなりの大きさがあるように見えたが、自動扉ではないドアを救急隊員が手で開けるのを見たとき、新たな不安が私を襲ってきた。
菊花病院(きっかびょういん)』とある。
 菊花(きっか)市は、区画整理で新しくできた市だった。このあたりは菊の花の栽培が盛んである。菊花市という名は、市の名前としては美しいかもしれない。しかし、これが『病院』とくっつくと、何と不吉な響きになることか……。病院の古さからいくと、区画整理前には、別の名前の病院だったはずだ。古い地名の病院だったのだろうか。どうせならこんな縁起の悪い名前ではなく古い名前を残しておいてほしかった。
 設備はちゃんとしているのだろうか? ちゃんとしたドクターが診てくれるのだろうか?
 私の不吉な予感は残念ながら的中することになる。

 救急搬入口から救急隊員が母を運び入れる。
 しかし、中に一歩入ると、とてもすぐに診てもらえるとは思えなかった。
 モニターの音がけたたましく鳴り響くのが聞こえ、大声が飛び交っている。
 そこにいる医師らしき人物は、患者の胸に手をあてて体重を乗せてはリズミカルに押している。
「ボスミン、イチアン! 」
 医師の白衣が激しく動く。
「ええいっ、くそっ。動け! 動け! 動いてくれ!」
 離れた場所から別の看護師さんが大声を上げる。
「先生! 腹部外傷の患者さん、血圧が下がり始めました。80の40です!」
 医師は心臓マッサージを繰り返しながら顔を上げた。
「輸血パックはまだ? 点滴スピードを上げろ! 丹羽はどこだ? 何やってんだ、全く。 全館放送を入れろ。救急処置室に至急来いと!」
 険しい顔の医師はこちらをちらっと見ると、手を休めずにはっとした表情をした。
「おーい。誰か、救急隊から話を聞いてくれ。次の患者さんだ」
 しかし……
 誰も動こうとしない。
「そこ、離れて。カウンターショックいくから。いち、に、さん」
 ボンという音がして患者さんの上体が軽くはねる。
 騒然とした処置室の中。自然災害か何かで大勢の患者が運ばれたのだろうか。
 とても、私の母まで手が回らないという雰囲気だった。
 医師とは反対の隅にいた看護師が遠く離れた医師に叫ぶ。
「せんせーい。12誘導取りました。何かおかしいですけど」
 機械から出た長い紙切れを切って、その看護師は、医師の所に走っていく。当の医師は、天国とこの世の間をさまよっている患者と必死で格闘中である。彼女の手にあるのは、たぶん心電図。
 医師はその紙切れを覗きこんで小さなため息をつくと、看護師の目を見て指示を出す。
「ミリスロール開始。トロポニンを至急で追加。生食20にモルヒネ1アン、半分入れて。それから、大急ぎで田崎先生に連絡」
「田崎先生は今、心カテ中ですけど」
 看護師さんが即答している。
「まじ……。ということは、循環器の連中は誰もいないということか……。カテ室に連絡を入れてAMI患者入院の旨、伝えてくれ。まったく、毎日毎日ここはアフリカの奥地か……」
 二人の救急隊員が私の横で囁きあっている。
「心筋梗塞か……。時間との勝負ですね」
「ああ。循環器の先生たち、心臓カテーテルで手が離せないみたいだから、大久保先生、このまま患者と一緒に病棟に消えてしまう可能性があるな。ボサボサしてたら、引き継ぎできずに俺たち帰れなくなるぞ」

 ピーーッというアラームの音が鳴り響く。
「もう一回いこう。いち、に、さん」
 ボン。
 一瞬、静寂になった、気がした。
「家族を入れて」
 医師は首を横にふりながら小さくつぶやくと汗を手の甲で拭き大きくため息をついた。
 全てが終わったのだ。一人の命が目の前で果てた。

 すかさず私達を連れてきた救急隊員の1人が医師の所へ駆け寄る。
 人の命が息絶えたのを目の当たりにして、私はショックだった。しかし、これでようやく母を診てもらえる、という気持ちが確かに私の心を横切った。思わず自分の中のエゴイスティックな感情に目を閉じる。
 医師と救急隊員が話をしたのは、ほんの短い時間だった。
「そうですか。アタマですね。わかりました。矢部さん、頭部CT割り込ませてもらってきてよ」
 看護師が「はいはい、頭部CTね」と返事をしたかと思うと、今度はぞろぞろと大勢の人たちが入ってきた。
 先ほど息を引き取った方の家族のようだ。さきほどのベッドを取り囲んだと思うと、処置室内に大声で泣き叫ぶ声が響いた。

 それにしてもこれだけ多くの重病人を診る医師がたったの一人。看護師は3人が走り回っている。すごい世界だ。患者の一人はたった今心臓が止まったばっかり。一人は、循環器の重病人。もう一人はお腹から血を流して輸血が必要な状態。それに、実を言うと私のすぐそばに、あと二人、ストレッチャーの上に載った患者が待機しているのだ。一人はお腹を抱えてうんうんうなっている。一人はじーっとしているが、それが重病なのか、軽いのか、私にはわからない。ただ、少なくとも、まだ、二人とも診察をしてもらえない状態であることには違いない。

 看護師が一人近づいてきた。私は窓口に案内されて母の保険証を渡し、カルテを作ってもらった。その後、処置室の手前の椅子に促され腰掛けた。カーテンの向こうに母さんの姿が見える。
 60歳代の看護師に話を聞かれて、母が台所で突然吐き気を訴えたあと倒れたことを説明した。
 看護師の質問に対して一つ一つ答える。
 高血圧や糖尿病は多分ないこと、常用薬はないこと、かかりつけ医もいないこと。健康診断は2年前に受けていたらしく、コレステロールがやや高いのと大腸にポリープがあるらしいことを聞いている。タバコは吸わない、酒は付き合い程度。手術は30年前に乳腺炎で切開をしたことがあるだけで、あとは、今日倒れるまで健康そのものであったこと。
 私と母の二人暮しで、父は4年前に他界したことも。

 看護師の質問は延々と続くかと思われた。こんなことまで聞くのか、と半分感心しながら質問に答えた。が、途中で気づいたのだが、ストレッチャーに乗った母は、そのままだ。

「あの……」
「はい?」
「あの、母の治療はまだ始まらないのでしょうか?」
「ええ、もう少し辛抱してくださいね」
「でも……、あの、母の容態あまり良くないですから、なるべく急いで……」
 看護師は私の言葉を途中で遮って強い口調で言った。
「患者さんはあなたのお母さんだけじゃないんですよ。見ればわかるでしょ」
 そんな……

 私の鼓動は急に速くなってきた。
 ここの病院、本当に大丈夫だろうか……
 私の考えはどんどん悪い方向へと進んでいく。

 私が黙り込んだのを確認して看護師が妙に優しい言葉をかける。
「なるべく早く先生には診てもらいますからね。あなたは気分は少しは良くなった?」
 きつく言い過ぎたと思ったのだろう。ご機嫌取りのような言葉はちっとも嬉しくない。
「あ、はい。ありがとうございます」
 お礼の言葉を口にはしたが、看護師、病院に対する不信感はぬぐえないほどに膨らんでいた。




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