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第1話 救急要請
 2018年9月10日・・・

「母さん! 母さん、しっかりして!!!」
 大変!!
 どうしよう……

 それは突然だった。
 台所で昼食の準備をしていた母が『吐き気がする』と流しの淵に手をついたかと思うと、突然、膝から崩れ落ちた。
 慌ててその場にしゃがみこんで、母を揺する。
 だらりと力の抜けた母は重かった。
「母さん! 母さん……」
 そうこうしているうちに、私の両足に何か生暖かいものが染み込んできた事に気がついた。
 失禁……
 母は、意識を失い、同時に失禁して床に倒れこんでいた。
 大変な事態に、私の方がうろたえる。
 わぁ、どうしよう。ホントにどうしよう……
 足が震えてくる。
 救急車……

 ちょっと待って。
 救急車は、5年前から有料化されていた。とりあえず3万円あれば救急車を呼ぶことができる。母をその場に置いて、財布を確認する。3万円ジャスト。
 どうしよう……

 母が大変な時だと言うのに、私の頭の中には、動揺する気持とともに、様々な思いが駆け巡る。
 医療制度が大幅に替わって、以前のように簡単に救急車を呼んで救急病院へ行く、という時代は終わっていた。
 救急車を呼ぶ前に、国民保険の利く病院(公立病院)へ運んでもらうか、自費診療の病院(民間病院)へ運んでもらうかを決めておかなくてはならない。
 どうしよう……
 神様……

 この間バラエティ番組で、有名タレントが骨折で入院したときのことを面白おかしく話していたのを思い出した。
 彼はギプスをはめた状態で、4日目に退院したと言っていた。本当は2週間の入院を勧められたが、早々に退院してホテルに移ったのだと言う。自費診療で病院にかかった彼は、現在400万円の治療費をローンで払っている最中なのだと、関西弁で、ベラベラ喋っていた。
「お陰で、今は毎日、朝はパンのミミでっせ。でもなあ、これ、もしもやで、もしも2週間入院しとったら、どないなったやろなあ? 4日で400万円でっせ。2週間やったら一体なんぼになります? 今度は金の心配で、胃潰瘍になりますがな。そしたら、2週間やのうて、4週間かかるかもしれんやろ。そんなもん、病院の思うツボでっせぇ。ほやろ? ほんま、えらいこっちゃで。どないしますぅ?」
 独特のトークで笑いを取っていたが、笑い事ではない。
 彼は、人気タレントだからこそ、自費診療の病院に診てもらえたのだ。
 どうしよう……
 動揺しながらも、妙に冷静な私がそこにいた。

 母の状態は深刻だった。だから急いで治療してもらう必要がある。
 でも、深刻だからこそ、治療費がバカ高い値段になることも、簡単に予測できた。
 母さん、貯金、いくら持ってるんだろうか。
 私の貯金は75万円だ。これでも、一生懸命貯めたつもりだけれど、こんなもの、一日入院しただけで飛んでいく。
 治療費、いくらになるんだろ。
 骨折で、4日間で400万円かあ。ICUとか入ったら、あっという間に1,000万円とか2,000万円とかになると聞いている。どう考えても、うちにそんなに貯金があるとは考えにくい。

 2年前、民間の保険に加入するかどうか話し合った時、母は言った。
「いざと言うときは、もう、諦めよう。な。保険料支払うより、毎日の生活の方がよっぽど大事。もしも、私が倒れたら、国民保険の利く病院に運んでちょうだい」
 元来、元気で働き者であることだけが自慢だった母は、自分が病で倒れることなど考えていなかったのだろう。いや、余裕がなかったという方が正確かもしれない。
 まさか、こんなに早く、その時が来るとは……
 毎月の保険料、85,000円は、我が家では捻出するのが困難だった。いや、どこでも、そんなに簡単には払えないだろう。
 保険料にはグレードにA,B,Cそれにゴールドがあって、Aが一番安くて母の年齢だと85,000円だった。その前に、プチAというのがあるが、これは「診察のみで検査、治療費は一切出ない」タイプ。月25、000円なら払えるだろうが、そんな保険、意味があるのだろうか。それよりも、ゴールドの保険料を支払える人って、一体、どんな生活してるんだろう。確か、入会時に1千万円支払い、月々の保険料は100万円を超えていたと思う。ふざけた世の中になったものだ。

 母の胸に耳を当てる。
 心臓は動いている。息もしている。まだ、生きている。
「かあさん! ねえ、目ぇ覚まして!! お願い!」
 母はぐったりしたまま、ピクリとも動かない。
 やがて、鼾をかき始めた。
 まずい……
 母の顔を横に向けて、とりあえず舌が気道を塞がないようにする。
 私は決心して、電話を取った。
「もしもし。すみません。救急車一台お願いします」
 電話を置いたあと、私は、母の尿で濡れた自分の靴下を剥ぎ取り、台所横の小さな部屋に入って片っ端から机の引き出しを開けた。大事なものがしまってあるはずの机。
 ヘソクリや通帳はここにあるはず。もしかしたら、私の知らないところで、広大な土地なんか持ってるかもしれない……と期待しつつ、そんなわけないか、とため息。
 普通預金が240万円、定期預金が650万円。
 どうやら、それがうちの全財産らしい。仕方がない。
 私は、母の保険証をバッグに入れた。

 救急隊が到着する前に、母の下着を替えておきたかった。
 バスタオル数枚を持ってきて、母の腰の辺りにかけ、下着を脱がす。重い。何て重たいの。濡れた下着はべっとり臀部にしがみついていて脱がすのが大変だった。
 涙が出てきた。
「かあさん……」
 バスタオルで下半身を拭いて、ついでに、床もそれで拭く。
 力ずくで清潔な下着を大腿部まで引き上げたところで、サイレンの音がけたたましく鳴り響いたかと思うとすぐ近くでぴたっと止まった。

 救急隊員が到着する。
 最初に、3万円を請求された。
 財布からお金を出す。
 領収書を渡された。
「確定申告の際、これも出されるといいですよ。医療費の一部とみなされますからね」
 救急隊員はそんなことを言った。

「すみません。あの、スカートだけでも……」
 箪笥からスカートを引っ張り出してきて、そう言った私に、
「一刻も早く搬送しましょう。毛布をかけるから大丈夫」
 救急隊員は、二人がかりで母をストレッチャーに乗せた。
 私も後をついていく。
「希望の病院はありますか?」
「いえ。公立病院でお願いします」
「……そうですか。お母さん、状態が深刻そうだから、できれば民間病院がいいけどなあ。地中海病院だったら、ここから一番近いですよ」
「すみません。無理です」
「そうですか……」
 救急隊員は、舌打ちをした。
 私に聞こえないと思っていたのか、油断したのか、それとも、わざと?
 救急隊員の心の声が聞こえたような気がした。
(ちぇっ。あそこだったら話が早いのに。公立病院か。今から探さなきゃならんじゃないか)





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