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第12話 別れ
「日野さん、日野さん……」
 誰かが私を呼ぶ声が聞こえた。

(ここはどこだろう)

 目を開けると、若い女性が私を覗き込んでいた。
「私……」
 自分がどこにいるのか、最初は理解できずにいた。
 頭を動かすと、『受付』の文字が目に入った。暗い病院の一角。
 やがて、母が倒れたこと、救急車でここ、菊花病院へ運ばれたことを思い出していく。
 私が寝かされているのは、待合室のソファの一つだった。

「気が付かれましたか。大丈夫ですか? どうしますか? お母様の所へ行けそうですか?」
 若い女性が優しく私に問う。よく見ると、CT検査の時に付き添ってくれた、あの若い看護師だ。私服なのでピンと来なかったが。
 その言葉で、いきなり館内放送の記憶が蘇ってきた。
 ICUに来いという放送を聞いた所で私の記憶は途切れたのだ。
 私はガバと起き上がって聞いた。
「母は? 私の母は、大丈夫なんでしょうか?」
 何も答えが返ってこなかった。
 唇をきゅっと閉じたままの彼女は、困ったような眼を私に向けた。
 それが意味するもの……

 私は天を仰いだ。
 涙が幾筋も頬を伝う。
「すみません。いま、母は……どこにいるのですか?」
 力を振り絞って聞く。声がひどく震えていて、私の言葉が聞き取れたか不安になった。
 私の手に両手を重ねながら、彼女は、静かに答えた。
「まだ、ICUのベッドの上で、あなたが来られるのを待っておられます」

 私は、ゆっくりと立ち上がった。
「どうも、ありがとうございます。一人で大丈夫ですから」
 私に掛けられていた毛布を畳んで礼を言う。
 重い足取りでICUへ向かった。
 (何をしていたんだろう。私)
 悲しみとも苦しみともつかない、疲れた感情だけが私を支配していた。

 ICU内で、母は、眠ったように横たわっていた。口に入れられていた緑のチューブが外されて、頬にはテープの白い屑が残っている。
 点滴も外されている。
 私は母の胸に上半身を乗せて、泣いた。揺すっても揺すっても母は何一つ反応しない。すでに体温を失いつつある体に触れたことで、一気に母を失ったことを理解していく。

 最後の最後になって、私は、残された貴重な時間を母と過ごすこともできなかった。
 吐き気に堪えながら、救急車でここまでやってきた時が寧ろ懐かしくさえある。あの時はまだ、物言わぬ母が確かにいたから。
 一体、何をしに、こんなに遠くの病院まで来たのだろうか。
 こんなことなら、あのまま、自宅に布団を敷いて寝かせていた方がマシだったのかもしれない。救急車に揺られて、遠くまで来て、医師や看護師とまともに話す時間もなく、充分な診察も受けられなかった。そして私は、母が倒れてから、今の今までただただ動揺するばかりだった。

 母の胸に顔をうずめていると、看護師がやってきて言った。
「日野さん。大丈夫ですか? 丹羽医師を呼び出していますから、少しお待ちくださいね」
 顔を上げて礼を言う。
「ありがとうございます」

 丹羽医師……
 不思議と私の中から、彼に対する怒りの感情が消えていた。
 母を失った悲しみがそれを凌駕していたのか、それとも、あの不思議な体験の所為なのか。

 ICU内の時計に目をやると零時半だった。
 私が気を失っていたのは、ほんの短い時間だったようだ。
 やがて、丹羽医師がやってきた。
 彼は、深く頭を下げた。
「力不足で申し訳なく思います。零時7分に確認をさせて頂きました。……ご臨終です」
 私は礼を言った。
「どうも、ありがとうございました。それから……、さっきはごめんなさい」
 ここで丹羽医師に文句を言ったのは確かである。
 一階で怒鳴り散らしていたのが私なのかどうかは、よくわからないが……
 丹羽医師は、不思議そうな顔をした。
「ああ、いえ。突然だったのでびっくりしましたけど、頭を打っていなくて良かった」
 ??
 話がかみ合っていない。
「先生、私が倒れたの、ご存知だったのですか?」
「救急処置室を出たところで、看護師に呼び止められて話している最中でした。突然、救急処置室の前でバタンという音がしたので驚いて……」

 ……ということは、一階で怒鳴っていたのは、私ではなく看護師?
 怒鳴っていたわけではなく、話をしていたのか?
 どうも、わからなくなってきた。
「すみません。私、頭が混乱していて……。あの、先ほど大久保先生が処置室で診ておられた患者さん、えっと、血圧が下がって輸血が必要な患者さんですけど……」
 丹羽医師はパチパチと瞬きをして答えた。
「大久保医師は、今夜は珍しく9時半ごろ、帰りましたよ。それに、輸血が必要だったのは病棟の患者さんだけですね」
 驚いた。どうも、現実と非現実とがごちゃごちゃになっているようだ。どうせなら、母が倒れたことそのものが非現実の出来事であったなら良かったのに。

 母は旅立ちの準備をしてもらうことになり、その間ICUの外で待つよう指示された。
 大慌てで叔父に連絡を入れる。叔父と最後に会ったのは半年前だったろうか。急なことで本当に驚いていた。無理もない。
 叔父が手配してくれて、地元の業者の方に迎えに来てもらうことになった。こんな遠くに。3時間後にお迎えが来るそうだ。恐らく到着は4時前になるだろう。

 母は眠ったように穏やかな表情をしている。それが、唯一の救いだった。薄化粧を施されて、照れているようにも見える。
 私はただただ、何も役に立てなかったことが悔しかった。
 命を救うこともできなかったし、何より最期まで傍にいてやれなかったことが悔やまれて仕方がない。
 霊安室に向かう途中、看護師が私のことを気遣ってくれた。
「もう、大丈夫ですか? ふらふらしませんか?」
この看護師は、私が目覚めた時に傍らにいてくれた、あの看護師(片桐さんというらしい)と同期なのだそうだ。片桐看護師から私が倒れた状況を聞いたそうで、心底同情してくれた。

 片桐看護師が大声で丹羽先生を呼び止めたところで、近くにいた私がよろよろと救急処置室の方に向かって歩いて行った。片桐看護師は、こんな夜中に救急処置室に何の用だろうと思っていたそうである。彼女は丹羽医師と話ながら、彼の肩越しに見えていた私が処置室の前で崩れ落ちるのを目撃したと言う。
 二人は、私の状態を確認した後、私を待合室のソファに寝かせた。その直後に、丹羽医師と私を呼び出す館内放送が流れて、丹羽医師は片桐看護師にその場を任せてICUへ向かったのだそうだ。 
 つまり、私を呼び出す放送は実際にあったわけだが、その時、私はすでに意識を失っていたことになる。気を失った状態で夢を見ていたのだろうか。無意識の状態ではあったが聴覚は保たれていて夢に反映されたのかもしれない。
 処置室では、もう一人の当直医が救急患者の処置に当たっていたそうだ。騒然とした処置室の様子を目の当たりにして、私は最初にここへ来たときの光景と混同したのかもしれない。一体どこまでが現実でどこからが夢なのか、その境界がはっきりしない。
 さらに、どうも、母の心臓が止まった時刻と、私が気を失った時刻は、ほぼ同時であったようだ。看護師さんがモニターのアラーム音で急変に気づいて、母の状態を確認し、それから丹羽医師を呼び出す放送を流すまで、タイムラグが生じる。おおよそ2,3分。
 母が、私を誘導したのかもしれない。それは、(みっともないことをしないで。病院に迷惑をかけないで)という母らしい警告だったのかもしれない。人様に迷惑をかけることを、何より嫌っていたから。

 看護師は、ため息を漏らした。
「職員が少なくて、家族のケアまで行き届かないのが現状なんです。本当なら、救急車で到着したら患者さん家族は別の職員がケアすべきなんですけどね。特に、救急現場を、一般の方々の目に曝してしまうのは問題だと思っています。日野さんみたいにショックを受ける家族の方、少なくないんです。病院側には何とかしてほしいと再三お願いしてるんですが、とにかく、公立病院の使命で、できる限り多くの患者さんを受け入れるだけで精一杯なのが現状で……」

 小さなコップに、何リットルもの水を注ぎ込もうとしている状態。それが今の日本の医療だ。あふれ出る水は救いようがない。そして、もともと小さすぎるコップに、全ての水をこぼさないようにしろというのが無理な話なのだ。
 看護師のため息は、解決策の見えない暗くて大きな闇に向かって吐かれた大きなため息だった。