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第10話 主治医
 ICUのドアが開いて、ぼうぼう頭の医師が入ってきた。今時めずらしいくらいクラシカルな黒ぶち眼鏡をかけた男性医師である。昔のマンガに出てくるガリ勉君を連想させる。白衣のポケットに手を突っ込んだままICUの中央にあるカルテ台に近づくと、数冊のカルテを引っ張り出して覗きこんだ。パラパラとめくってパタンとカルテを閉じることを繰り返すと、そのままツカツカとこちらへ向かって来る。もしかして、主治医? いやな予感。

「日野さんですね。丹羽と言います。今回日野さんの主治医を勤めさせて頂きます。それから、今日はボクが当直ですので」
「よ、よろしくお願いします」
 私は深々と頭を下げた。いやな予感はしたが表情に出ないように気をつけた。母の治療をしてもらうのだ。担当医への心象を悪くするわけにはいかない。
 頭を下げたときに白衣にぶら下がっている名札の写真が目に付いた。無表情の顔写真は、少なくとも実物よりも清潔に見える。もう一度、頭を上げて主治医の顔を見る。うっすらと生えた無精髭、薄い唇の隙間から見える歯垢の溜まった歯。私は思わず顔を背けた。

「一応、脳浮腫予防の点滴をしていますが、まあ、時間の問題ですね。覚悟をしておいて下さい」
 耳を疑った。
「一応って、あの、……適当な治療をされたら困るんですけど!」
 ここまで何時間も待たされた恨みも手伝って、私の中から完全に理性が飛んだ。こっちは精一杯気を使って接しているのに、この若い医師の不遜な態度は一体何なのだ。思わず唇をかみ締めた私の顔を見て、彼は、答えた。
「ああ、すみません。でも、ボクには何もできませんから。ここでできる治療は脳浮腫予防の点滴くらいなんです。これだけ酷い出血だと、どうしようもないというのが正直な意見です」
 口先だけの謝罪と、それを裏付けるように自分は悪くないのだという言い訳。明らかに自分よりも年下に見える医師の誠意のない言葉に、私の自制心がかき消された。
「それにしても、もう少し言い様があるでしょう。人の命をどう思っているんですか?」
 丹羽医師は何も答えなかった。
 しかし、彼の冷たい目が、私に彼の心の内を教えてくれる。
(オレにどうしろ言うんだ。どうしようもないと事実を話しているだけじゃないか。不満があるなら民間病院へ行けばいいんだよ)
 彼は私の質問を無視したまま、モニター類を確認して踵を返した。

 絶望的な気がした。
 ここの病院自体も、そして何より、この医師。
 私は彼を追いかけた。彼の前まで大急ぎで走ると行く手を阻んだ。
「あんたね。それでも医者なの? 人の気持ちを踏みにじっておいてタダじゃすまないからね」
 自分でもびっくりした。
 私は、人から短気だと言われたこともないし、自分でもそう思わない。恐らく、これまでの(くすぶ)りが一気に爆発したのだろう。怒りの中には、地中海病院へ連れて行けば良かったという自分自身に対する怒りも混じっている。そういう意味では八つ当たりと言えなくもないが、構うものか。家族の気持ちまで上手に扱うのがプロってものだ。
 丹羽医師は黙っている。斜め下を向いたまま、じっとして動かない。
 彼の態度は、私をイライラさせた。
「何とか言いなさいよ! あんた、仕事したくないんでしょ。私の母の治療をするのが面倒だと思っているのでしょう? どうなのよ!」

 ようやく彼は顔を上げて、私の顔を見た。彼の顔からは不遜な表情は消えていた。無表情、と言えばいいのか。
「すみませんが、ボクはこれから救急処置室に行くところなんです。ここへは、今日入院された患者さんを確認に来ただけで」
 謝罪がない。まずは謝るのが先だろう!
「あんたね。それでも医者? あんたみたいな人に母を診てもらいたくないわ。主治医替わってもらえないかしら」
 一度理性を失ってしまった私はブレーキをかけることができなくなっていた。
 かろうじて白衣を掴むことはしなかったが、その時、彼のPHSが鳴らなかったなら、それも自信がない。特別大きな音で着信音が鳴った。
「あ。丹羽です。あぁ、すみません。はい。急いで行きます」

 よほど彼を追いかけていこうと思ったが、最初にここへ到着した時の、あの救急処置室の騒然とした状況が浮かんできて、ようやく私の理性が目を覚ました。
 しかし、担当医は替えてもらおう。あんなのイヤだ。
 
 母の元へ戻ると、例の男性が私を見て言った。
「ここにはいろんな医者がいるよ。患者も色々だけど医者も色々。長いこと入退院を繰り返していると、色んな事情が見えてきてね。あなたみたいに何も知らない方がいいかも知れないね」
 私は、一部始終を見られていたことを初めて恥ずかしいと思った。
「みっともない所をお見せしてすみません」
 男性はニコニコ笑いながら言った。
「いやあ。患者家族だったら、一生懸命になるよ。そりゃあ、あなたの気持ち、とても理解できますよ。特にお母さんが、こういう状態ならなおさらだ」

 一呼吸おいて、彼は医師群の説明を始めた。
「例えば、大久保先生。あの先生は、民間病院に対して敵意を抱いている。彼は、民間病院からの打診があったのに自ら断った口だ。面白いねえ、医者っていう人種は。ここにいるより、よっぽど待遇はいいはずなのになあ。おまけに、いっつも、国の医療制限について文句ばっかり言ってるのに、民間病院へは死んでも就職しないと言っている。生き方が下手って言うのか、青臭いって言うのか。だけど、そういう先生がいるから、公立病院が、それなりに成り立ってるんだよなあ」
 大久保先生というのは、私がここで最初に見た医師、救急処置室で心臓マッサージをしていた、あの先生のことのようだ。

「一方で、丹羽先生。彼は、去年、地中海病院の採用試験に落ちた。筆記試験では合格したのに面接試験でダメだったんだとか。かわいそうに、そのすぐ後には、奥さんと離婚」
 あれじゃあ民間病院も採用しないだろうよ。離婚より何より、あれで結婚できたことの方が奇跡ではないか。
 私は、丹羽医師に対して、必要以上の敵意を抱いているのかもしれない。でも、どうしても、許せないというのか、生理的に受け付けない、というのか。

「医学部をかなり上位で卒業したらしいですよ。不幸なことに、彼のやりたい医療はここにはない。まさか地中海病院を不採用になるとは思っていなかったらしくて、おぼっちゃま先生の初めての挫折ってやつです。民間病院不採用と離婚。相当(こた)えたみたいですね。早く立ち直ってもらわなくちゃいかんのですがね」
 驚くほど病院の内情を把握しているこの情報収集力! それは、この男性が、いかに長い時間、ここで奥さんの世話をしてきたかを物語るものでもあった。こんな旦那さんに愛された彼女は幸せだ。
 でも、丹羽医師がどういう状況にいようと私には関係ない。プロはプロであるべきだ。
 彼は続けた。
「まあ、あんまり責め立てるのもなあ。医者も人間だからね。心の病気になることだってあるだろうよ」
 正直言って、私は、この男性に対しても、少し腹が立ってきた。
 心の病気なら、仕事を辞めるべきだ。あんな状態で仕事をしてほしくない。私は、誰に言えば担当医を替えてもらえるのか、そのことを真剣に考え始めていた。






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