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第9話 患者家族
 家族用のガウンを羽織り、私は母の待つICU内に入った。
 母の隣のベッドには、母より少し年上と思われる女性が横たわっていて、旦那さんなのだろう、しきりにその女性の背中をさすっている男性の姿があった。
 母のベッドへ近づいていく途中、彼と目が合ったので私は軽く会釈をした。70前後だろうか。穏やかな表情のその人は、そこに横たわる女性と幸せな生活を送っていたのだろう、彼女に投げる愛情の眼差しは作ろうと思って作れるものではない。
 
 私が不在にしていた間に、母の口には、緑色のチューブが突っ込まれ、テープで顔面に固定されていた。気道を確保する道具なのだろう。ちょっと驚いて母の顔をのぞきこんだが、母の容態そのものはコンビニに行く前と変わりない様子だった。ちょっとほっとする。私は安堵のため息をついて、先ほどコンビニで買って来たティッシュと安物のタオルを袋から出して枕元に置いた。

 後ろからふいに声をかけられた。
 先ほどの男性である。
「お母さんですか?」
 突然の質問にちょっとびっくりした。話し相手を探しておられるのかと思った。
「え、ええ。昼頃、突然倒れまして……」
「そうですか。時々、身体の向きを換えてあげる方がいいですよ。すぐに床ずれができますからね。看護婦さん達はみな忙しいから、やれることは家族がやってあげないと」
 やれることをやってあげる……。新参者の私に患者家族の心得を教えてくれているのだ。
「ああ、ありがとうございます。考えてもいませんでした」

 彼の奥さんは膵臓がんなのだそうだ。発見された時にはすでに手遅れの状態だったと言う。
 肺炎を併発してICUで治療中だが、状態が安定したら退院の予定らしい。どう見ても退院ができるような状況ではないと思うのだが。
「ここはね、搬送されてくる患者さんがとても多いんですよ。なぜだかわかりますか?」
 どう答えていいかわからなかった。
 確かにその通りだった。次々に救急車がやってきた。お陰で母がICUに運ばれるまでに、こんなに時間がかかったのだ。
「公立病院が少ないからなんじゃないですか?」
「どこだってベッドが空いてないと入院できません。搬送患者が多い理由は、ベッドの回転が速いからですよ」
 男性は淡々と話す。
「入院患者は無理してでも退院させられるのと、運ばれてきた患者が簡単に死んでいく。治療を受ける前に死んでしまう患者も多くいますしね。病院に多くを期待しちゃいけない。私は、どうせなら、家内の肺炎を治して自宅に連れて帰りたいと思っています。ここで死なせてたまるかって、そう思ってるんです」

 同じ境遇にある者は簡単に心が通じることがある。彼の言葉の端々から、私と共通する思いを感じることができた。
 私の中でさっきから燻っている怒りの捌け口がみつかった気がした。傷の舐めあいでしかないかもしれない。それでも、口に出せないよりましだ。
「さっき、先生から、明日までもたないだろうと宣告されたんです。それで、私……、私、民間病院に搬送してもらえばよかったと、後悔してるんです」
 男性は少し考えこんで、ゆっくり答えた。
「どうなんだろうね。私には、どちらがいいかわかりませんけど、少なくとも両極端の選択肢があることで、多くの人間が苦しんでいることだけは確かでしょうね」
 彼は、奥さんの顔を覗き込んで口周りを濡れたガーゼで拭いてから、再び続けた。
「多額の金を積んで最高の医療を受けるか、原始的な医療で我慢するか。少なくとも公立病院では、やれる医療行為に極端な制限があるからね、勝負は速いですよ。例えば人工呼吸器。ここではほとんど使われないんです。保険が4日間しか利かないんだそうですよ。4日間で外せると判断されるケース以外は呼吸器はつけないらしいんです。それ以上つけたままになると、あとは、病院がその費用を負担することになりますからね。それに一度つけた呼吸器をはずす行為は『殺人罪』になる。病院側からすれば、そりゃあ、つけたくないですよね。つまり、国は、病気になったらさっさと死になさい、と言っているんですよ」

 心臓に氷水がかけられた思いがした。
 母の呼吸が止まったら、それはそのまま死を意味するのだ。人工呼吸器も使わない救急病院……。それが、今の日本の医療の現実なのか。
 現役時代は医療機器販売の営業を担当していたという彼。仕事柄病院内部の事情も多少は知っている。今の医療情勢について素人の私とは違う見方をしていた。医者や看護婦に文句を言ったって仕方のないレベルなんだと言う。

 私が抱えている問題は、決して私だけの問題ではないんだと思った。
 公立病院に課せられた極端な医療行為の制限。つい何年か前まで行われていた医療行為が、国にとっては『無駄遣い』と判断されているのだ。生死を分ける重症患者の場合、民間病院へ行けば命拾いをし、公立病院へ行けばあの世行き。
 『病院2系統制度』が導入されて5年が経つが、多くの国民が、今更、弱いものいじめの制度に過ぎないことを理解し始めている。でも、もう遅い。川の流れは高い所から低い所へ落ちるに決まっている。一度この流れを作ってしまった以上、流れ落ちた水を高い所へ戻すことはできないのだ。

「私たち国民の選んだ道なんでしょうよ。政治家を選んだのも国民だし、国民皆保険を守るべきとすら考えなかった。医療の選択肢が増える、3分診療も無くなるなんて、みんな金持ちの理屈でしかない。それもたった一握りのね。自由診療で競争させれば医療費は下がるなんて、嘘っぱちだったじゃないか。結局、普通の人間はまともな医療が受けられなくなってしまった」
 奥さんの上体が動いた。彼は、立ち上がって奥さんの顔を覗き込んだ。そして彼女に異常がないことを確認すると、そのまま腰を下ろして話を続けた。
「一部の恵まれた人達だけが最高の医療を受けられる。みんなが一様に同じ選択肢しかないなら、諦めがつくんですよ。ところが、そうじゃないから、多くの人間は苦しいんです。あなたも、お母さんを民間病院に連れていけばよかったなんて、思わない方がいい。その方が不幸にならずに済む」
 奥さんが急に吐き気を催したらしく、ご主人は、あわてて膿盆を奥さんの口元にあて、背中をさすり始めた。そこにあった光景は、ガン末期の妻を労わる夫の献身的な愛だった。

 地中海病院への執着……。
 彼の言葉によって、私の中にある怒りのマグマが、地中海病院への執着によって増強されていることを悟った。しかし、取らなかったもう一つの選択肢を考えないということは、そんなに簡単なことではない。彼の言うことは理屈としては理解できるのだが、私自身の激しい後悔と菊花病院への不満という感情を抑え込むことは不可能であった。









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