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デイドリーム

作者:柳田朧

怖いのは幽霊より人間。
 深夜。ここ最近雨続きだったことがまだ尾を引いているのか、空は薄いほこりのような雲に覆われて、星も月もほとんど姿を見せない。それとは逆に、街は誘蛾灯のように怪しげで頼りない光に満ちている。深い闇は、そんなかすかな光によって街から締め出されていた。
 市内でも有名な高級マンションの一室。曇天どんてんの夜空にそびえる摩天楼を窓辺でぼんやりと見上げている、眼鏡をかけた中肉中背の青年が一人。雲の隙間に月が見えないかと視線を右往左往させる彼は、後ろから呼びかけられて、窓に映る背後に視線を移す。
「……夜に女の部屋に招かれた男の顔じゃないわね、きみ」
「俺がこんなツラなのは元からですよ。それに」
 今度は振り向いて、テーブルに腰かけるバスローブ姿の女性、の手元に置かれた書類の束に目をやった。
「呼ばれた理由が理由でしょう」
「あら、そう。別に他に用事を作ってもいいんだけどね。ところで、何か見えるの? そこに立ってて」
「あなたが人を呼びつけておいて長々と風呂に入っていたから、やることもなくこうしてただけですよ。それも三十分も」
「その程度の待ち時間で怒らないでほしいな、久遠くおん君」
 くすくすと笑う彼女は、濡れそぼった肩まである黒髪をかき上げた。久遠と呼ばれた青年は、窓辺から離れるとテーブルに近づく。
「で、三嶋みしまさん。今回はなんですか」
「近場での仕事になりそうよ。そのわりにどうも、依頼料の徴収が面倒そうなんだけどね」
「へえ……あなたがそういうこと言うのは珍しいですね」
「普段は鬼のように取り立ててるとでも言いたげね」
「滅相もない」
「ともかくも、依頼された以上は完遂するのみよ。必要になりそうなものはまた、あとで別に渡すわ」
 三嶋は書類をまとめて袋に入れ、ぐるぐると紐を巻いて封をした。久遠はその所作を見て、不服そうな声を出した。
「仕事の説明は?」
「中に入ってる書類でわかるでしょう? 私ももう眠たいの」
「俺ももう三十分前から眠いんですがね。大まかにでも説明してください」
 細かい男は嫌われるよ、などとのたまう三嶋は、しかし一言で答えた。
「依頼は人殺し。給料はこれくらい」
 指を三本立てる。もう片方の手はあくびをする口を押さえるのに使っていて、久遠はこれ以上三嶋は何も話すまい、と判断して書類を受け取った。一礼して、部屋から去ろうとする。だが部屋を出て行く前に振り返り、また窓の方を見た。正面のビルが見えるだけだろうと思ったが、なんとなくもう一度見た。
 すると目が合った。
 黒く、暗い目。高く長く階段を上っていって、ふと手すりの間から一階までの高さを見やった時のような。吸い込まれそうな視線が、久遠をからめ取った。三嶋は久遠の方を向いているので気づいていない。
 窓の外、天地を逆さにして落ちていく影を、知らない。
「あ」
 呟きを漏らした時には既に、影は窓の外を通り過ぎていた。三嶋が視線の方向を向いた時には、外の景色は三十分間久遠が見つめていたものと同じものに戻る――――そして数秒。実際には聞こえなかったが、久遠は生ゴミの詰まった袋を投げ落としたような、湿った音を想像した。


 さほど急がず、エレベーターで下る久遠。三嶋はまた汗をかくといけないと言って、部屋から出なかった。扉を抜けて、なるほど確かに外は暑い、と思った久遠はジャケットのえりをぱたぱたさせ、薄暗く湿気たエントランスを出る。そこには、アスファルトの熱をはらんだ風が吹きすさぶ中、小さく血溜まりが出来ている。その中心に倒れているのは、中学生くらいのパジャマ姿の女の子だった。
 近づいて見てみると、先ほど久遠を絡め取った黒い光は、瞳に無い。しかしその顔は痩せこけて生気がなく、十分に恐ろしい。
 口の端ではわずかながら息が出入りしているのがわかった。二つ折りの携帯電話を取り出して119を押し、近くの電信柱を見ながら住所を告げる。人命が懸かっているわりに事務的な通話を終えると、さてどうしたものかと久遠は思案した。何もしないのは非人道的な気がしたが、ヘタなことをして悪化させるのもまずい。考えた末に結局、着ていたジャケットをかぶせるだけに留めた。わりと気に入っていた一品だったのですぐに後悔し、返してほしくなったが、血塗ちまみれはさすがに着る気になれない。
 溜め息をつきながらエントランスに戻る。風は無いので外より暑いかと思ったが、大理石の壁に背をもたせかけてみると涼やかだった。長く待つことになるかと思って覚悟したが、日本の救急は優秀らしく、さほど時間をおかずにサイレンが聞こえてくる。
(これなら確かに、タクシー代わりに使おうとする人が出るのもうなずけるな……)
 やってきた救急隊員に話しかけられたことに適当に応じつつ、久遠はそんなことを考えた。
 見上げると、サイレンの音に気づいたのか、ベランダからいくつか顔が突き出している。その内のひとつが、絶叫した。

          *

 事故でも殺人未遂でもなく、事件は自殺未遂に終わった。
「痩せてたから親に虐待でも受けてたのかと思ったんだけどな」
 あなたが通報をしてくれたおかげで娘が一命を取り留めた、と自分の前で泣きじゃくる親を見て、さすがに久遠もその考えは捨てた。他にも色々あって拘束されていたが、ようやく自宅のアパートに帰って来れた久遠はまず珈琲をれ、ソファに座って読書をしている少女に呼びかける。
「なあ、八千代。自殺する理由ってなんだろうな」
「少ない上に厳しい選択肢に悩むことだと思うね」
 しおりを挟んでぱたりと本を閉じ、長い黒髪をなびかせながら八千代は立ち上がった。黒いカーディガンの前を固く合わせて、久遠が珈琲を手渡すまで袖の中に隠した手を出さない。冷房を効かせすぎだ、と短くたしなめて、リモコンと珈琲を交換した。
「で、少ないっていうのはなんだ、あれか。生きてく方法が、って意味か」
「この場合は肉体的に生きてる、というより”活きてる”、つまり人生を楽しめてるかどうかだと思うけれどね」
「なるほど。人生を楽しむにはそれを邪魔する障害をなくさなくてはならない。または、それを無視出来るようにしなくてはならない、とかか。それらがどれも実行にかたそうだと思ったから、悩んだ挙句に自殺する」
 久遠の言葉に首肯した八千代は、中学生が生活苦で死ぬことはないだろうしね、と付け足した。むしろ”小学生”というくくりに程近い年齢の彼女だが、なにやら重たい言葉だった。珈琲をすする姿を尻目に、久遠はテレビをつけながら返す。
「でもそれより、生きてく理由が無いから死ぬ、だと、俺は思うけどな。楽しめないからじゃなく、やりがいが無い。自分の代わりなんていくらでもある。そういうことから目を逸らすのが、人生を適当に楽しむってやつだ。食べるのも眠るのも寝るのもずっとやってれば飽きるが、やりがいを感じられるものは小休止を挟めばいくらでも続けられる。そういうのが無いから、嫌になる」
「他の言葉には大方賛同するけれど、自分の代わりがある、なんて言うものではないよ」
 反論を許さない声で八千代は言った。目を丸くした久遠だが、すぐに優しげな目になって、ああ、そうかもな、と返しておいた。再びいつものトーンに戻った八千代は、久遠に向けて言う。
「まあ、そうだとしても。本人にとってはそれが理由の代わりになってくれるならそれだけでいいんだと思うよ。生きてくのが、楽になるから。宗教などは正にそういう”救い”という理由を与えてくれるひとつの極致なのだからね」
 神様なんてカケラも信じていないような目で、八千代は天井付近にある神棚を見た。
「別に宗教でもなんでもいいけどな。ただ、その理由が無くなったら死にたくなるようじゃ、人生があまりにも綱渡りだろ。だからさ、俺はせめて理由にするなら『やりたいことがあるから』とか、そういう主体的なものにした方がいいと思う。周りがどうこうじゃなくて、自分がどうこうだから、ってことに、さ。そうすれば遺書も残さずに済む。周りに八つ当たりしながら死なずに済む」
「そうそう自己中心的になれる人間はいないよ」
 八千代はぼんやりした目で久遠を見つめ、久遠はテレビを見ていた。ニュースでは一度取り上げられたのみで、その後少女の自殺などという小さなトピックスが挙げられることは、ないのだが。
「ところで久遠、遺書は残っていたということだね。そうやって言うのだから」
「やたら震えた筆跡で『もういやだ』ってな。短いだろ」
「……短いね。遺書というのはもっとこう、長々と世をはかなんで書くものじゃないのかな」
「よっぽど突発的な自殺で、その日はあの子にも死ぬ予定なんかなかったんだろ。遺書、安っぽいことに学習帳に書いてあったらしいしな。死ぬにはいい日なんて、死ぬまで無いとはよく言ったもんだ」
 軽く言った久遠に、八千代は呆れた風な溜め息をついた。見れば、ニュースは避暑地での行楽シーズンの過ごし方などにスポットを当てているらしく、少女の飛び降りのような暗い事件は扱われていない。たまたま巻き込まれた久遠も、もう少し経てば世相の移り変わりのように事件を忘れるだろう。
 だが今はまだ、久遠は事件の関係者なのだった。ふと視界の端にピンク色のシャープペンシルを見つけ、それをつまみあげると、何か思いついた表情で八千代に問う。
「これ、もらってもいいか?」
「別に一山いくらの安物だからいいけれど。何に使うつもりかな」
「ちょっとした見舞いだ。それとどうも、『理由』が気になるからな」

          *

 電車を乗り継ぎ、久遠は少女の搬送先だという病院まで来た。暑い外界とは打って変わって冷たい空気の溜まる白い病院内を、うろうろとさまよって病室への道を辿る。転落した少女は霊安室へ行くような事態には、なっていなかった。頭から落ちたのだ、生きてることは幸運だったと言っていいだろう。
 だがしかし、幸運のなかでは不運だった。
「植物状態、ですか」
「ええ。お医者様の見立てでは、もう起きないだろう、と……」
 平井ひらい百合子ゆりこ、というらしい少女は、頭に包帯を巻かれ白いベッドに横たわり、十三歳で生命の時を止めた。少女の母親は久遠のことを覚えていたようで、病室の扉を開けて彼の顔をあらためた瞬間頭を下げた。飛び降りの直後にも久遠は平井に会っていたが、その時よりもさらに老い、疲れたように見えた。呼吸の度にひいひいと音がするのは、泣きすぎて喉が枯れたためだろうか。
 横に並び、眠る百合子の顔を見やる二人。久遠には落下している時の顔よりは、今の顔の方がまだ生気があるように見えたが、もちろん言わなかった。落下の衝撃で鼻はひしゃげ、歯もほとんどが折れているらしい。そのために輪郭の崩れた顔は、どこか人形のような雰囲気をかもし出していた。
 しばらくそうして、どちらともなく切り出すのを待っていたが、久遠がポケットからシャープペンシルを取り出して話を始める。話を切り出し、相手の懐に入るため、持ってきたのだ。
「それは?」
「あの時、百合子ちゃんが持ってたものです。こちらに差し出してきたので受け取ってしまったのですが、あの後忙しくて渡しそびれていたんです。お返しした方がよろしいかと思いまして、勝手ながらこちらまで来てしまいました」
 平井は震える指先でそれを受け取り、胸に抱え込むようにして嗚咽おえつを漏らした。久遠はそれを冷静に見守り、落ち着くのを待って、向こうから何か切り出してくるのを待った。程なくしてすすり泣きは止み、平井は目頭を押さえた。久遠は予定調和とばかりにハンカチを差し出す。平井はそれを手で制して、自分のハンカチをブラウスの胸ポケットから出した。もうずいぶんと湿ったハンカチを。
「お見苦しいところを」
「いえ。こんな事態になってしまったんです、当然のことと思います」
 また少し、間をあける。しかし久遠は、わずかでも今のやり取りで、平井との距離は近づいたと思った。もう、訊き始めてもいい頃合だろう、と。シャープペンシルを見つめて手を震わせる平井に、出来るだけ重い表情を作って話しかける。
「このシャーペン、百合子ちゃんが直前まで使っていたんでしょうか」
「多分そうだと思います。あの子の遺した言葉は、インクではなく黒鉛で、書かれておりましたので。……ところで、他に渡されたものはないでしょうか?」
「いや、ありませんが。何か無くなったものでも?」
「あの子の携帯電話です。部屋になかったんですが、そうですか」
 少しの空白があって、平井が落胆したことがわかる。短い遺書の他に、電子媒体で何か言葉を遺していないかと思ったのかもしれない。先に相手に問われたので、そろそろと久遠は問い返す。
「……原因はいじめ、だったんでしょうか」
 平井がわずかに身じろぎした。少し不躾ぶしつけな、踏み込んだ質問だという自覚は久遠にもあった。しかし一応は恩人でもあり、また、手渡された物を届けてくれる善人、というイメージを植えつけてある以上、それなりに話を聴きだせるだろうという自信も同時に持っていた。
 飛び降りた少女がいじめが原因で不登校だった、ということはニュースで流れていたことだ。だが久遠は、その程度ではない『なま』の情報が知りたい。そのために、身じろぎひとつしたきりさっぱり動かない平井を、冷徹に見据え続ける。自分の欲する情報、つまり『理由』を知るために。
「……それは理由のひとつではあると思いますが、引き金があったんじゃないかと、私は思っております」
 重い口を開き、平井は呟くように言った。滑り出した、と思った久遠は矢継ぎ早に質問を送り出したくなったが、ぐっと堪えて平静を装い、少しずつ言葉を選んで、慎重に尋ねていくことにする。何度もこうした質問は繰り返されているはずなので、いかに”恩人”の久遠と言えどもそういくつも質問を重ねることは出来ない。
「何か心当たりでも?」
「ええ。あの晩あの子は、飛び降りる前、誰かと電話をしていました。その時、様子が変だとは思ったんです。まるで、口論のようだったので。けれど、そこで気づいていれば……こうはならなかったんじゃないかと、今でも思います」
「自分を責めないでください。百合子ちゃんもきっと、そんな風に気に病んでほしくないと思ってますよ」
 視線はベッドの上で眠る百合子に向いた。またも平井の目じりに涙が浮かびかけたが、今度は潤むのみで、こぼれ落ちることはない。どれほど悲しい出来事であっても、いつか涙は止まる。事情を問われたりで時間がとれなかったこともあったが、久遠がすぐに平井のところに来なかった理由は、平井の精神状態が小康に入る頃合を見計らっていたためであった。
「そうですね。きっとそうだと……思います。優しい、子でしたから。でも気が弱いところがあったので、それがいじめられる原因だったのかも、しれません」
「気の優しい子は、人と争えませんからね」
 切れ切れに話す平井の言葉の合間に、久遠は耳に快いように相手の言葉を変えて、うなずき返すような科白せりふを差し挟む。
「そうなんです。だから、あの晩のことは、よく覚えているんです。滅多に声を荒げないあの子が、めずらしく怒ったような声で、話していたので。ひょっとしたら……いえ」
「クラスメートからだったと?」
「でも私は電話が掛かってきた音は聴いておりません。なので、あの子からかけたんだと思うのですが……自分からかけるようなものではないですよね、クラスの人間なんて」
 薄く、憎しみが感じられる言葉だった。平井の手が、悲しみとは違う震えを見せる。久遠は眠る百合子の顔に視線を移し、自分だったらどんな時に怒るだろう、と考えた。八千代が死んだ時かな、と想った。
「誰か、自分から百合子ちゃんが電話をかけるような相手はいたんでしょうか」
「それなら一人。加奈かなちゃんといって、百合子が学校に行かなくなってからもよく遊びに来てくれる子でした。百合子にとっては唯一、親しい友達だったんだと思います。けれど、だからこそあんな怒声をあげるような口論の相手だとは」
「思えないですよね」
 ともかくも、電話が何かの契機ひきがねか。
 そう納得した久遠はそこから適当に話をずらして打ち切り、丁寧に挨拶をして、また快復した暁にはお祝いをさせてくださいと言い残してその場をあとにした。病室のドアを閉めて壁に背を持たせかけ、さてこれからどうしたものかと思案する。こっそり平井宅に入って着信履歴でも調べて、その『加奈ちゃん』とやらの方も調べて見るか、と。
 ふと目を開いて横を見ると、一つ先の病室の前に、びくりと肩を震わせるおかっぱ頭の女の子がいた。白いワンピース姿で、ハンドバッグを提げた――――じろじろと見ていたつもりはないが警戒されたらしい。そろそろと病室から離れていこうとしている。そこで、久遠は平井との会話の中に出てきた少女に思い至った。
「きみ、ひょっとして『加奈ちゃん』?」
 カマをかけて呼びかけてみると、立ち止まっておそるおそるこちらを振り向く。手間が省けた、と久遠は思った。


 病室から離れた待合ロビーで、座り込んだ加奈に久遠は紙コップを差し出す。無難にリンゴジュースを買ってきたのだが、口をつける様子はなかった。間繋ぎに持ってきただけだったので気にせず、横に腰を下ろした久遠は自分の分の珈琲を一口胃に流し込む。
「いきなり呼び止めて悪かった」
「いえ……こちらこそすいませんでした、いきなり逃げてしまって。百合子を助けてくれた人だったのに」
「別にいいよ。ちょっと目つき悪いからな、俺。でもしばらくは、病室に行かない方がいい。平井さんは今、泣いてるから。親子だけでそっとしておいてやろう」
 加奈は素直に頷いた。そこでようやく、リンゴジュースに口をつける。
「言い忘れてたな。俺は久遠だ」
「久遠さん、ですか。加奈は、高橋、加奈です。どうも」
 高橋、と口の中で繰り返した久遠は、頭のどこかでその名前に覚えがあるような気がした。けれどそれがなんだったかを思い出す前に、加奈が頭を下げた。
「百合子を助けてくれて、ありがとうございました、久遠さん」
「ん? ああ、そんなに気にすることじゃない。たまたま通りがかっただけだ」
 三嶋との契約には、厄介なことになりそうな時は出来る限り三嶋と自分の関連性は見せないようにする、というものがあった。そのために久遠は、同じマンションの一室にいたということを伏せて、自宅に帰る道すがらに通りかかったということにしてあった。
 加奈はなおもかぶりを振って、横に座る久遠に向き直る。
「もし久遠さんに助けてもらえていなかったら、加奈は大切なお友達を失うところでした」
「……そうか。あんなことになったのは残念だが、目覚める可能性がないわけじゃない。気長に、待ってやるといい」
「はい」
 目の前を行きかう様々な人を見ながら、久遠は溜め息をつく。周りの人々に、明るい顔は少ない。病院内だから当然なのだが、先ほどのような重苦しい病室の雰囲気を味わったあとだと、余計にこらえようがなくなる。横の加奈を見ると、久遠の言葉に少しは励まされたのか、少しだけ明るい顔だった。
「平井さんが言っていたんだけどな」
「はい?」
「あの夜、百合子ちゃんは誰かに電話をしていたらしい。二回電話をかけていたらしいんだが、もしその相手がわかれば、ひょっとしたら自殺関与罪で告訴出来るかもしれないんだそうだ。俺はまあ通りすがりだから何もわからなかったが、きみには何か心当たりはないか?」
 あ、と呟いて、加奈はうつむきかけた。しかし視線はらさず、久遠の言葉を受け止める。誰の目にも、何らかの心当たりがあることは明白だった。だがここでいては逆効果だと、久遠は考える。相手が何か言うまで、決め付けたような表情は絶対に見せない。少しも相手に「疑われている」と思わせないよう、細心の注意を払う。
 やがて、加奈の目から光が消えた。あの日久遠が見た、百合子の暗く黒い目を彷彿ほうふつとさせる瞳。生気の無い、死人のような目。かぶりを振って、周りを行きかう足音に怯えるように耳を塞ぐ。
「…………心当たりは……はい。で、でも、違うん、です…………」
「全部聴くまでは何も判断しない。それに人間、思ってもない言葉を口走ることだってある。だからとりあえず、まずは話してくれないか」
 久遠は真摯しんしに訴えかけるような目をしてみせる。加奈は怯えた表情を少しずつ和らげ、最初に見せていたような明るい顔を、少しだけ取り戻した。まだ暗い影が落とされていたが、それでも唇の震えは収まる。わずかに空いた唇の隙間からこぼすように、加奈は語り始めた。
「……あの日、加奈は、いつも通りに百合子と電話をしてました。いつも通りというのは、一日おきに電話するようにしていたことです。最近見たテレビのこととか、読んだ本のこととか。普通の話題を、いつも。でも、学校の話題だけは、あまり出せませんでした」
「百合子ちゃんはいじめられていたんだってな」
 こくりと頷く。なんとなく読めてきたような気のする久遠だったが、余計な先回りはせずに淡々とつむがれる言葉を聞く。
「だから、あまり学校のことは話さないんですけど。その日は、話しました。話さないわけには、いかなかったんです――加奈は後ろから、いじめのグループに、脅されてたから」
 いじめを受ける人間に関わろうとする人間は少ない。自分まで、いじめの対象にされかねないからだ。だが加奈は自ら進んで百合子との友情を保とうとし、結果、グループに目をつけられることとなったのだろう。筋書きが読めていただけに、久遠は舌打ちしたくなった。胸クソ悪い。
「藤崎、っていうんですけど、そのグループのリーダーに塾の帰り、脅されたんです。『平井にケータイで電話してこのセリフを読め。やんなかったらあんたも明日から学校来れなくするから』って。それで加奈は……百合子に、言ってしまったんです。ひどいことを。本当に、ひどいことを」
 泣き出しそうな顔になったが、生気と色が抜けたような加奈は、泣く気配がなかった。そんなことをした自分には泣く資格すらない、と思いつめた様子で。たまにちらちらとこちらに視線を投げかける通りすがりの患者やその家族は、誰も彼も憐憫(れんびん)の情がこもった目をしていた。久遠はそんな目こそしていなかったが、優しげな言葉をかける。
「それは、その藤崎という奴が悪い。きみが気に病むことじゃない」
「ありがとう、ございます。でも、言ってしまったのは事実で、言ってしまったのは加奈なんです。……だからでしょうか、毎晩夢に見るんです、百合子を。『どうして、どうして』って切ない声で加奈の身体を叩くんです。どうしようもなくそれが怖くて、悲しくて……だから今日は、百合子に謝りにきたんです。許してもらえないかも、しれないけど」
「そうか」
 世の中にはどこにも闇があふれている。自分の身近でその害を訴える者が居ない限り、それを自覚することはない。久遠は嫌なものを見たような顔で、眉間にシワを寄せて額に手を当てた。
「あまり思いつめるなよ。百合子ちゃんは、きみが夢で見るように責めてるわけじゃない。思い余って、それがあんな行動に出ただけで。それはきみじゃなく、その藤崎が責められるべきなんだ」
「そう、ですね。そうだと、いいんですけど……すいません……」
 誰にともなく謝った。涙は出ないのに嗚咽おえつは止められないらしく、加奈は膝に顔を埋めるようにしてうずくまった。待合ロビーに小さく、少女の泣き声が聞こえる。久遠は加奈が泣き止むのを待って、それから彼女を病室に連れて行った。
 ごめんね、ごめんなさいという呟き声が白い室内に響く。それを見届けてから、久遠は病院の玄関口で待つ。暮れ始めた夕日はどんどん落ちる速度を速め、ビルの間から細い斜光を残すのみとなる。久遠の横ではくたびれた中年の男がポケットから取り出した煙草を口にくわえ、ゆっくりと吸っていた。


 脇にある灰皿に五本目のフィルターが投げ込まれようとした時、玄関口から加奈が出てきた。久遠は背を持たせかけていた壁から離れ、彼女の方向へ足を向けた。

          *

 加奈が夢の中で出会う百合子は、ずっと昔、まだ学校に来ていた頃の姿だった。この日の夢は病室を訪れ、トイレから出てきたところから始まっている。夢のはじまりと終わりなど、あってないようなものだが。気づいたらそこにいるだけで、それは決して対外的なものではない。だからこそ、日常の延長として感じられる。
「どうして、どうして」
 声だけが聞こえる。加奈はベッドの方を見たが、百合子の姿はそこになかった。ベッドに近づく。声だけが聞こえる。
「なんで、どうして、加奈」
 声が響く度に胸が痛む。わたしだって辛いよ、百合子。そう訴えかけたくて、ベッドに倒れこむ。枕からは暖かさと、残り香が感じられた。涙を流してそれを抱きしめ、百合子の声に耳を澄ます。
「いたいよ、つらいよ、加奈、加奈、加奈」
 今度は、ベッドの真下から響いた。目を見開いた時には、足首をつかまれる感触。枕を放して起き上がると、ベッドの下からぎりぎりと音を立てながら百合子が出てくる。おぞましい、血塗れの姿。それでも加奈は目を逸らさない。ただの黒い点々のような眼窩がんかとしっかり向き合い、愛しげに手を広げた。いとおしい人。狂おしい想い。
「加奈」
「百合子」
 口から血をあふれさせ、折れた歯が突き刺さる歯茎はぐきで加奈の首筋に喰らいつく。それをすら受容して加奈は百合子を抱きしめる。どんなになっても、親友は親友だった。


 そこで目が覚めた。
 だが夢は夢のままでは、終わらない。


 滑らかな肌に包まれているが、痩せすぎた身体。普通なら子供らしくぷっくりとしているであろう頬も、陰影がくっきりと浮かぶほどに張りを失っている。頭には依然として包帯が巻かれ、痛々しい傷がその身体には残っていたが、それでも安らかな寝顔だった。
「百合子……」
 そんな百合子の寝床を犯す者が一人。加奈は、純白のシーツの上で百合子と共に布団にくるまっていた。栄養剤だけで生き繋いでいるためか、それとも前からなのか。どちらともつかいないがとにかく影の目立つ頬を右手で撫でさすりながら、愛情と欲情のこもった目で親友の身体を舐めまわすように視姦する。
 左手は布団の中にあった。それは百合子の身体を這い回り、そうでなければ自分の身体を撫でさすることに使っていた。そうして一人、愛する者の前で自分を慰めることにふけっていた加奈は、ドアの閉まる音でようやく我に返った。
「……”五月三十日。そろそろ始めることにした」
 低く室内に反響する声。身体をよじって背後を見やった加奈は、眼鏡をかけた青年がそこに立っているのを見た。
 その手には、彼女の日記帳が開かれていた。
「手始めに昔どこかで聞いた実験をすすめてみた。鏡に向かって自分の目を見ながら『お前は誰だ?』と問い続けるというもの。百合子には自分に自信をつけるためのおまじないだと言って教えた。素直にそれを信じたようだった。これからどうなるか楽しみだ。
 六月七日。少しずつ効果が出てきたようだった。電話してみるとどこか声が不安げで、それがわたしにはたまらない。他に頼るものがない百合子にはわたし以外にはその不安を打ち明けられない。少しずつ学校のことも話題にすると、そのたびにこわくて引きつった、小さなさけび声を出す。気持ちいい。
 六月十四日。大きく変わった。ずっとあやしいことを言ったりあぶなげな感じだったのに、逆に落ち着いたようなふんいきになっていた。おかしいな、と思ったけれど、わたしにしか頼れないところは変わっていなかった。電話しながら藤崎たちをけしかけて、家のドアをたたかせた。百合子はちっちゃい子みたいな声で泣きさけんで、やっぱりそこは変わらないと思った。
 六月二十日。百合子の家のゴミを調べた。最近はいらいらしていることが多くなったみたいで、壊れたものがたくさん見つかった。でもわたしがあげたものはひとつもなかった。わたしだけが、大事にされてることがよくわかる。あげてばかりでわたしはもらうものが少ないから、いくつかもらっておくことにした。ちょっとよごれてたけど、百合子のにおいがする。血のついた××××。
 七月一日。あまり百合子はしゃべらなくなった。でもどんなになっても百合子は百合子、わたしはどんなになっても愛してあげる。実際に会うと、弱った小動物みたいですごくかわいい。このまま家に持ち帰って押入れで飼育できればいいのに。思わずだきしめたら、おどろいた顔をしてわたしをつきはなした。なんで? どうして。
 七月十三日。最近、百合子がわたしから離れていってるような気がする。あの実験で百合子はこわれてしまったのかも。だとしてもわたしは愛してるけど、それでも自分から離れられたらすごくこまる。どうにかして百合子に、わたしを強く想って欲しい。わたしを強く焼き付けたい。こんなに想ってるんだからそれが許されるはず。
 七月十六日。百合子の部屋の窓を見上げながら呪いの言葉をささやいた。全部、ぜんぶ、ぶちまけた。親友のわたしがいじめをあおってたと知って、百合子は金切り声をあげた。でもね、わたしはあなたを愛してるの。こう続けても聞こうとしなかった。そして、百合子は落ちてきた。手には携帯電話を握っていて、そこにはわたしと百合子の記録が残ってる。わたしはそれを持って、家に帰ってきた。でも、つらい。さみしい。これで百合子はいなくなっちゃった。本当に、あの飛び降りるって決めるまでの瞬間には百合子はわたししか想ってなくて。わたしだけを見ていて、それがとっても心地よかったのに。それももう落ちてしまって、残ったのは愛でこげてしまいそうなわたしだけで。
 七月十七日。通りかかった親切な人が百合子を助けてくれた。もう起きないだろうけど、でもこれはこれですごくいい。百合子をいくらでも愛することができる。いつまでもそばにいてあげるからね。いつまでもそばにいてね”」
 途中から久遠は読み上げていなかった。全て暗記しているのか、加奈がこちらを見つめたままにぶつぶつと内容を告げていたのだ。徐々に友人を追い詰めていき、その狂っていく様を観察し続けた日記は、己の気狂いを記したものにすり替わってゆく。
 顔を上げた加奈はぱかりと口を開けると、黒い穴のようなそこから笑い声を漏らした。焦点の合わない目が虚ろに何かを凝視している。自分とは違う世界ものが見えているのだろうと久遠は理解する。
「久遠さんには、感謝してます。だって、そのおかげで、わたしは百合子をずっと愛していられるんだもの」
「そうかい」
 閉じた日記帳を棚に置いて、久遠は二人に近づく。パイプ椅子に腰掛けて、二人の少女を見据えた。
「勝手にわたしの家に入ったんですね。どこから気づいてたんですか?」
「最初も最初、あの子が飛び降りたのを見つけた時から俺は気づいてたよ。仕事・・の書類の中に、お前ら二人の名前が出てきてたからな。そこから推測していけば、簡単にわかった」
 鋭い目は冷たく、映るもの全てを凍てつかせるようだった。それでも狂気に濁り、涙も流れぬ加奈ほどの恐ろしさではない。病院内の人間の中で唯一、明るい笑顔をのぞかせる彼女ほどでは、ない。
「まるで名探偵ですね。でも、わたしはそんなに悪いことをしましたか? 好きな人とずっと一緒にいたいと思うのは、そんなに悪いことですか? 愛したらダメなんですか? ずっと、モノのように傍に置きたいと思いませんか? 愛を独占したいと想ったらダメなんですか」
「自慰行為を愛と言われても俺は困るだけだがな。まあ、悪いことじゃない。むしろ世間一般よりずっと純粋な、破壊願望と破滅願望だ」
「ありがとうございます」
 にっこりと笑みを浮かべる加奈。その間も、左手はずっとまさぐっている。久遠は目を逸らさず、そこにある現状を直視した。白い病室は、白濁とした彼女の意志によって染め上げられているように感じた。
「俺は別におまえを警察に突き出そうとかそういうことをしに来たわけでも、ないしな」
「あれ、そうなんですか?」
 ことりと首をかしげ、黒い穴のような目と同じように真っ暗な口を開く。おかっぱ髪がその動作につれて揺れて、加奈の表情をわかりづらくした。もっとも、幸せという喜色満面の彼女には、それしきのことは関係なかったが。
「白々しい。ここまでおまえは読み切っていただろうが」
 久遠はジャケットの内から小ぶりな瓶を取り出す。そんな、行き止まりを突きつけられて、加奈は嘲笑あざわらった。
「そう、そう、それですよ。そうでないと困るんです。百合子はどこまでもわたしの思うようにしか動けないんですから、そうしてくれていないと予定が狂っちゃいます。所詮しょせん、わたしのお人形さんなんですから。ああ、ちゃんとできたのね。わたしが・・・・昔教えておいた・・・・・・・裏の請負業にわたしを殺すよう連絡してくれたのね。ああ、これで完成です。百合子へのわたしの愛は、百合子からの強い想いによって死ぬことで完成するの。さあ久遠さん、言ってくださいな。わたしを殺すって」
 あの日。久遠が三嶋に呼ばれた理由は、殺しの依頼があったからだった。
 それは飛び降りる寸前の平井百合子からのものであり、その依頼料は母親からどのような手を使ってでも、いくらでも徴収してくれという条件付きだった。三嶋は子供の依頼ということで料金の徴収を上手く片付けられるか悩んでいたのだ。
「さあ早く早く。そうして百合子に殺される。わたしは百合子が思い続けるわたしでいられる」
 加奈は久遠に瓶を寄越すようせがんだ。その瓶の中身は、毒。果てしなく甘美な、愛の終焉しゅうえんを飾るための。どんな蜜より甘い自己陶酔に浸る加奈は、もうそれくらいの刺激でなければ満足しない。終焉でしか絶頂しえない人間に成り果てていた。
 何も言わず立ち上がった久遠は、おもむろにその瓶を加奈に差し出す。
 そして、手を伸ばそうとした加奈の腕をつかんでいきなり布団から引きずり下ろし、首筋に手刀を叩き込んだ。そして気絶した加奈に、薄く笑いかける。
「俺の仕事は、おまえの殺害じゃない」
 毒を手早く仕込む。遅効性で、摂取量が多くならないと死なないタイプのものだ。そしてその瓶から指紋を拭き取り、加奈に持たせる。やることを済ませると、久遠は手早く病室をあとにした。

          *

「その百合子という子の依頼は何だったんだい」
「自分が生き残ってしまった場合の自殺の手伝いだ。加奈を、殺すにすら値しないと位置づけること。おそらくそれがあの気狂いに一番ダメージを与えるって、気づいたからだろうな」
 自殺をはかった中学生の事件は、その親友がもう一度殺そうとするという事態に発展したことになり、マスコミが大きく取り上げた。高橋加奈は殺害容疑で捕まり、愛する者がいなくなった世界で生きることに呆然とした表情で連れ出されていった。
 玄関口の面した通りの反対側からそれを見届けていた久遠は、もう見慣れてしまった黒い光を宿した目で、加奈がこちらを見て一言呟いたのを見た――「呪ってやる」と。それは愛する者を壊し、愛する者から壊されることを望んだ女の、呪詛じゅそ
 久遠は八千代を見た。
「だから他人に依存した生き方は弱いんだよ。そいつがいなくなることがそのまま死に直結するくらいに」
「そんな破滅願望もまた面白いと思うけれどね。そんな危うさでいいじゃないか、その方が面白みがあるものだよ」
「とてもそうは思えないけどな。これ、土産だ」
 八千代に向かって投げ放ったのは一冊の日記帳。ソファに座っていた八千代はあたふたとそれを受け取り、一頁目を開いたところで怪訝けげんな顔をする。久遠は説明して、その内容についておおまかに説明した。歪んだ愛情がはぐくんだ狂気の一部だ、と。
「わかった。寝る前に読むことにするよ」
 寝物語にはよくないだろ、と思いつつも久遠は何も言わなかった。煙草をふかしつつ日記を眺めている八千代から離れて、携帯電話でメールを確認する。三嶋から連絡が入っていた。依頼料の支払いについてだった。桁数を数えながら、八千代に言う。
「今回は実入りがいいな。やっぱり三嶋の奴、しぼり取れるだけふんだくってる」
「そんなによかったのかい」
「こっちに回ってくるのは三割くらいだがな。多分あの母親を、どこかに売り飛ばしたんだろう」
「ちょっと待ってほしい。たしかその依頼、娘が母親から徴収するように頼んであったのではなかったかな?」
「方法は問わない、ともあった。母親を相当恨んでたんだろうな、娘は」
 少しずつ不安定になっていく心。一番近くで生活していた母親が、普通それに気づかないわけもない。だがそれをえて、恐らくは面倒だから、見過ごしていたのだとしたら。誰よりも助けてくれることを期待した相手に裏切られた子は、深く頼った分だけ傷ついた。その傷の深さを、復讐で埋めようとしたのだろう。
 百合子の死は加奈の行き過ぎた愛情のためだけではない。冷めた母親のせいでもあったのだ。もっとも久遠には、平井の流した涙が嘘だったとは思えていない。しかし、百合子の目に映っていた姿が、百合子にとっての真実なのだろう。
「欲しいと言ったわりには普段世話しない。そのくせ、そのペットが死ぬ時には泣く。そんな子供じみた愛情、ってところか」
 どんなに言ったところで、伝わらなかったなら意味は無い。伝えすぎるのも気味が悪い。そう久遠は思った。八千代はふっと思いついたことがあったのか、日記から目を離して呟く。
「久遠は」
「あ?」
 携帯電話を閉じて、八千代の方に視線を落とす。眠たげな目でこちらを見上げる彼女は、薄く微笑んでいたように見えた。
「死にたくなったことはあるかな?」
 ぼそりと問われたことを頭の中で反芻はんすうするように、たっぷり一拍、考え込む素振りをみせる。
 だが結局出たのは「さあ」というぼかした返事だった。
「なら、殺したくなったことは」
 続けざまの問いかけに、またも考え込むような素振りを見せつつ、すた、すた、と八千代の後ろに回りこむ。「特にないな」と返しながら抱きかかえてやろうと、両手を伸ばすつもりだった。
 だがそこでふと脳裏に、最後に加奈が言い放った呪詛が染み出してきた。この世で最も、暗い黒い呪詛。「呪ってやる」というただ一言。愛する者を、壊す感情。それが呼び水となったかのように。狂いながらささやく加奈の言葉が、ふつふつと久遠の頭の中に沸き出してくる。頭の中が黒く塗りつぶされる。

『――好きな人とずっと一緒にいたいと思うのは、そんなに悪いことですか? 愛したらダメなんですか? ずっと、モノのように・・・・・・傍に置きたい・・・・・・と思いませんか? 愛を独占したいと想ったらダメなんですか――』

 伸ばした腕は途中で止まり、その指先で八千代の首をつかんだ。
「さあ」
 久遠は指先に力を込めた。


人を呪わば穴二つ。

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