実父が死んだのは、今年の春のことだ。
何の感動も無かった。重要なものとして実感できず、自分に関係するものとして捉えづらかった。その死は、違う世界にあった。あまりにも会わずにいる期間が長過ぎたのだと思う。努力しても、今では顔すら碌に思い出せない。
両親が離婚してから、もう二十年以上が過ぎている。その後、事情で二度ほど会ったが、それは感動的な邂逅ではなく、むしろ通過儀礼的なものだった。蔵の奥に隠されたどこか忌まわしい、因縁めいた葛篭を開ける感覚に、それは何処か似ていた。
実父は僕が小学四年生の頃、愛人と逃避行した。家庭という現実を直視できない甘さだったのか、人生最大のラブロマンスだったのか。それとも、快楽の上に身を滅ぼす堕落を求めたのかは良くわからない。結婚という行為そのものが何処か妥協の産物であるとしたら、現実を突き破る一つの錐が、実父にとっての逃避行だったのかもしれない。
だが、その真実を知る実父はもうこの世にはいない。
僕は今、台湾で暮らしている。
海外で生活すると、日本の情報を客観的に捉えてしまうから不思議だ。多分それは、連日、中国語で捲くし立てられるニュースを、ただぼんやりと意味もわからず見ているためかもしれない。
第二次湾岸戦争のニュースに始まり、SARSという感染症の猛威の映像が流れ続けた。台湾総統選挙では候補者が銃で撃たれ、国内が混乱する光景がそれに続いた。
自分が異端な存在としか考えられず、不安になることが多かった。どこか違う世界で物語は始まり、うやむやなまま消えて行く気がした。
自分は世界の渦の中に巻き込まれている、ただの漂流物に過ぎない。――何故か、そう思えた。
先日、台湾のテレビ番組内で日本の養蚕風景を見た。
ブラウン管の中で、真っ白い蚕達が繭を必死に作っている。無表情な昆虫の視線は、その前に座る自分へと向けられていた。何気ない一コマだが、テレビを消した後もしばらくその映像が目に焼きついていた。蚕達の怒りや哀しみの無い勤勉な営みは、どこか不気味さがあった。
自分に問いかけてみた。何故、こんなに蚕達の姿に心が揺れ動くのだろうかと。その答えはなく、繭を作る無機質な目だけが浮かぶ。
ふと、今の僕はどんな目をしているのだろうと思う。それはもしかすると、この蚕達の視線と何処か似ているのかもしれない。
台湾にある帰国子女向けの学習塾講師の仕事を始めてから、まもなく三年が経とうとしていた。海外といっても特に生活に急激な変化があるわけではなく、日々の生活を埋めていくのは、「過ぎていく時間」だけだった。毎日、職場の煩わしい雑事が続き、感情だけが消えていった。
崩れ落ちそうな旧い宿舎の五階の窓から、僕はいつも遠くの景色を見つめた。そこからは、日本人学校や、天母街を歩く人々の姿。
「陽明山」と呼ばれる山々の緑がはっきりと見えた。青空の下、必ずといって良いほど、窓の向こうにはいつも白い雲があった。
Tからの手紙が届いたのは、実父の死の連絡があった直後だったと思う。紙面には日本の状況や今度生まれる子供の名前決めのことなど、最近の出来事が面白おかしく綴られていた。末尾には帰国の際には酒でもと大きく書いてあった。ただ、その日の手紙が違ったのは、封筒の奥から写真が一枚出てきたことである。その裏には、大きな字で「写真の整理中、面白いものを見つけたので送る」とだけ書いてあった。
その写真を見た瞬間、数年前の日々へと引き戻されていくのがわかった。桜の香りが鼻を掠める。それは、海外に出る直前に、花見に行った時の写真である。中央に写っているのは、祇園の舞妓のような白塗り化粧をし、日本髪を結っている女性だった。名前は「サクラ」と言い、当時付き合っていた彼女である。その隣りには、やはり白塗りでちょんまげをし、浪人風の着物に身を包んだ男が、桜の木の下に立っている。
その男は、まさに僕だ。
写真の中で、女性は微笑を浮かべているが、自分の表情は虚ろである。何処か脅えているようでもあり、考え込んでいるようでもある。見方によれば、完全に隣の女性に主導権を握られ、うろたえているようにも見えなくはない。
写真を見ながら、ただ苦笑するしかなかった。過ぎた季節を実感するように、その姿を見つめてみた。彼女と過ごした時期は、目の前に広がる人生の選択に悩んでいた時期でもあった。また、閉塞感の中で、試行錯誤を繰り返していた時でもある。
しばらく写真を眺めながら、彼女はどうしているだろうかとふと思った。それは感傷的なものであり、愛情ではなかった。
一
Tが高価なワインを買い部屋を訪れたのは、僕の三十歳の誕生日である。互いに三十代を迎え、その日は酔いにまかせて、いつになく将来のことを熱く語り合った日でもあった。
彼は大学時代からの親友である。
当時、僕は高校の教員をしていた。
問題の多い生徒の対応や、父母との対応、部活の監督、職場の付き合いなど忙しい日々だった。仕事を優先させるようになると、すぐに私生活を省みることもなくなった。同様にTも大手企業の営業として、忙しい毎日を送っていた。周囲は僕等に強く結婚を勧めていたが、要望に答えることは不可能に近かった。
ところが、その日は饒舌だったTが沈黙したかと思うと、突然のように自分の結婚式が決まったことについて切り出し始めた。先月、内密に結納を済ませ、来年の夏に結婚すると言った。彼は経過を話すにつれ、顔を紅潮させた。結婚を前提に付き合っていることは、つい最近まで彼の両親すら知らない極秘事項だったという。内心では上手く行かないのではと、婚約指輪を渡す前まで信じられなかったとも語った。
「昨日彼女と式場の予約をした」
と、Tは改まった口調で言った。
「そうか、良かったじゃないか」
「でも、オレが結婚すると、君がオレらの仲間の中で一番最後まで結婚していない男になるわけだろう?」
「仕方ないよ」
「早く結婚しろよ」
「無理言うなよ。そんなに簡単に結婚相手は見つからないよ。だから今に至るわけだろう?」
「一生独身を貫くつもりか?」
「まさか。ただ、運みたいなものだし……」
「一つ提案がある」
Tは自分で納得するように何度もうなづきながら、僕のグラスにワインを注ぎ足した。彼は満面の笑みを浮かべ、少し声のトーンを高めて話し出した。
「プレゼントだ」
Tはワインを口に含み、どこからともなく封筒を取り出した。中からは綺麗に印刷されたチケットが一枚出てきた。そこには中央に大きな字で「御見合いパーティ入場券」と書かれていた。
「何だ、これ?」
「ご覧の通りだ。申込書の年収の欄は少し嘘をついたが、秋のパーティは女性の参加人数が多いそうなんだ。まずは、ウォーミングアップだよ。結構このチケットを買うのは大変だったんだからな」
「……遠慮しとくよ」
封筒をTの前に差し出す。彼はあわてて自分の手にそれを握らせた。参加する気など全くなかった。むしろ彼にどこか独身を憐れまれている気すらした。
「おいおい、善意を無駄にするなよ。パーティは土曜の午後七時スタートだし、仕事も終わっているだろう。のぞくだけでもかまわないから…」
「もし生徒の知り合いでもいたら?」
「大丈夫、会場は銀座だ。銀座ならここから離れているから問題ない」
「おい、おい」
Tの説得はその後もしばらく続いた。
営業職を続ける彼の話術は、実に見事なものだった。
拒み続ける自分の頑なな感情を、時間をかけ丁寧に解きほぐし続ける。話術にのせられると、動かない高価な戦闘機すら買ってしまいそうだ。結局は拒否を続けるのが面倒になり、そのパーティに参加することを約束させられてしまった。自分の意思の弱さを嘆くしかない。しかも、恋愛獲得への根拠の無い期待というおまけまでついていた。
「お見合いパーティ」については、以前知人から聞いたことはあった。それは、恋人を求める男女がファッションのように会へ参加しているという噂話程度のものだった。提案しているTも、全てを真面目に考えているわけではないことは想像できた。
チケットを中央に置き、その後も二人でしばらく飲み続けた。
「なあ、T。お前はこういうパーティに参加したことあるのか?」
ワインを飲みながら、さりげなく尋ねた。
「オレか? もちろん、一度もない」
彼はワインを喉に流し込みながら答えた。
「三十歳、お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
その後、僕らはしばらく笑い続けた。
会場は、地下鉄銀座駅近くの建物の九階にあった。
たどり着いた時はもう午後八時を過ぎ、パーティ開始の午後七時から一時間以上が経っていた。
ガラス扉を開けると、異空間に迷い込んだかの錯覚に陥った。そこには、アップテンポの曲が激しい音量で流れ、眩いライトの洗礼があった。どこかにあった淡い出会いの期待も、吹き飛ぶ勢いだった。
ミラーボールらしき照明が忙しく動いている。入口にあるクロークにチケットを差し出すと、受付の係員が百二十と書かれた番号札を無造作に差し出した。見るからに高級スーツをまとった男たちが多数座っているのが見える。僕はウェイターから飲み物を受け取ると、入口付近にできた人垣の中を無理に掻き分け、会場の中央を覗いて見た。
中央は少し広めな喫茶店程度の広さしかない。そこに黒山の人だかりができている。男女合わせて二百人以上はいる。狭い会場の中を大勢の男女が所狭しと集まっていた。広い額に浮かぶ玉のような汗を拭き、物欲しそうに女性を見つめる中年男の姿が目に留まる。そして遠くには銀座の夜景が見えた。
中には成人式帰りのような晴れ着を着た女性の姿もある。金髪に染められた頭髪に、スーツを決め込んだ男もいる。人波に揉まれ、観察することもままならない。会場に収容できる人数はもう既に限界を超えているように思えた。中央に時期早々のサンタクロースの格好をした男が、マイクを握りしめている。どうやら司会のようだ。近くにいる女の娘に流し目を送っている。
サンタクロースが「シャッフルタイム!」と叫ぶと、それまで話していた男女が簡単な挨拶を交わし離れていく。どうやら仕組みは簡単で、それぞれが興味のある人の前に行き、次の合図がかかるまで話を続けることができるようだった。会場にいる全てのメンバーに番号札は配られていた。胸に付けられたそれらは、会場内を揺れている。ここでは、短い時間でより多くの異性の関心を得られるかが勝負の分かれ目のようである。自分の手に握られている番号札、百二十番は、現在ここにいる男性の人数のようだ。
再度、サンタクロースの掛け声と共に、会場内の男女が一斉に蠢く。
それは決して気持ちのいい光景ではない。むしろ、会場の息詰まるような熱気と咽ぶような香水のにおいが入り混じり、大きい会話の不協和音に、苛立ちと嫌悪感だけが沸き起こる。
中央ステージへ近付く気力はなかった。
親友の提案とは言え、会場に入ったことを後悔した。
それは、まるで戦場のように殺気立っており、生き残りをかけた遊戯にも似ていた。何処か虚ろな瞳を、引き攣った表情の中に隠し持ち行動している。いかに異性にアピールし、短い時間で恋人を得るかで勝負がつく。恥ずかしがっている時間などない。あきらめたものには、ただ、無意味な記憶だけが残される。このゲームに執着のない僕は、最初から放棄しているようなものだった。中年男が額の汗を拭き、女性の前に立つ姿が再び目に焼きつく。恋愛が成立するための、煩わしいものの全てがそこにはない。真摯さはむしろ忌み嫌われる存在なのかもしれない。
しばらくすると僕の体は、すぐに入口付近まで押し退けられた。人波の背後に見える窓には、点滅を続けるビルのネオンが輝いていた。どこかバブル期の騒ぎのような、目的のなさにも似ている。でも、それは会場に来ている大半の男にしてみれば、戦線離脱した男の単なる僻みと思われるだけなのかもしれない。女性たちの大半は慣れているのか、何処か規則性のある動きと対応を繰り返しているようにも思えた。
入口の扉で一人佇んでいると、後ろのエレベーターのドアがゆっくりと開いた。そこにはショートヘアーで、薄桃色のセーターを着た女性が立っていた。きらめく会場のライトに、鮮やかに浮かび上がる。だが、顔にはどこか疲れが残っているように思えた。
「中に入れそうですか」
彼女は僕の肩を軽く叩くと、小さな声で言った。そして、皮製の赤いバッグの中から眼鏡を取り出した。
髪は少し栗色をしており、化粧は殆どしていない。
唇が会場の光に輝き、艶やかな色をしている。他の女性の年齢層よりは上のようであり、見方によっては主婦のようにすら見える。派手なセーターの色は、どこか不釣合いな気がした。無理に年齢をごまかそうと無理をしているようにさえ感じる。その意味では僕も同様である。努力を否定するつもりはなかった。
「無理をすれば、入れるかも……」
彼女は「そうですか」と呟くと、眼鏡をバッグに戻した。そして姿勢を低くすると、僕が押し出された人波の中に入ろうとした。すぐ傍で彼女は群集に弾き飛ばされながらも、精一杯力を込めて前方の壁を押し続けた。しばらくすると努力の甲斐もあり、小さな空間に割り込むことができた。体が半分入ったあたりで、後ろを向く彼女と目が合った。
「いってらっしゃい」
「……行ってきます」
彼女は微笑みながら答えた。
数分後、体は完全に見えなくなった。
まもなく終了となるパーティで、成果が上がるかどうかは難しい。童話の多くが幸せな結末を求めるように、彼女だけでなく、この会場にいる誰もが永遠の愛を探す求道者に思えた。理想の恋を求めれば、現実はさらに乖離していく。自分自身が求める恋も、理由はともあれここにいる以上、同じなのかもしれない。
彼女の姿を再び見たのは、時期尚早のサンタクロースが競技終了五分前の合図を出したころだった。彼女はハンカチで鼻の辺りをしきりに拭き、人波から逃げ出すように出てきた。入り口に佇んだままの僕を見つけると、ばつの悪そうな顔をした。笑顔で小さく手を振り
「おかえり」と言うと、彼女は横に立ち、大きなため息をついた。激しい音量が会場に鳴り響き続ける。サンタクロースは高いステージ台に上り、右手を振り回し、残り時間が僅かなことを更に強調し叫んだ。会場のざわめきはさらに増し、会話が各地で飛び交う。彼女は再び眼鏡をどこからともなく取り出してかけた。そして、じっと僕を見つめた。遠くでサンタクロースが叫ぶたび、喚声が湧き上がっていた。
「すごい人ね。百二十番さん」
彼女は僕の番号札を見ながら言った。黙ってうなづいた。
「もう酸素不足よ。気分が悪くなりそうだったわ」
「どう、収穫は?」
「そうね……」
彼女は人波の上に立つ、サンタクロースを見つめた。
「……ゼロよ」
「そう」
「残り時間はあとわずかよ。あなたも中央ステージまで行ってみたら?」
「やめておくよ。遠くで見ている方がまだいい」
「せっかく来たのに、もったいないじゃない」
「どうもノリが合わないからね。ただ疲れに行くようなものだよ」
「じゃあ、どうしてここに来たの?」
「強いて言えば、……社会見学」
「ふうん」
「……君は? どうして参加する気になったの?」
「そうね。援助してくれる人を見つけたかったの」
「援助?」
「そうよ。援助。こういうパーティでは、お金を持っている男性が、女性に援助を申し出ることって多いそうよ」
会場内は数名を除けば、若い男女を中心に盛り上がっている。彼女の
「援助」という言葉の意味が、どこまでが本心であり、冗談であるのかもわからなかった。遠くでサンタクロースが
「気になる相手の番号札の数字を覚えておくように」と、叫ぶのが聞こえる。
「もう少し早く来ていたら、何とかなったかもしれないけれど」
「……ううん。いいの。銀座まで買い物に来たついでに寄っただけだし」
「そう」
僕等はしばらく何も語らず、中央ステージを見つめた。まるでフォークダンスのように、離合集散の儀式が続いている。彼女の肌は白く、つややかな唇には、セーターの色にも似た桃色の口紅が塗られている。
「それに私、昔から賑やかな所が大好きなの。活気がある場所は日頃の嫌なこと忘れられるでしょう。友達がこのパーティを勧めてくれたの。特にこの時期は、会場の人数が三倍にもなるから、出会い作りにはちょうどいいわよって」
「……三倍か。道理で多いと思った」
「理由は簡単。孤独なクリスマスを過ごしたくない、ただそれだけ……」
「クリスマスのためか……」
「まあ、そんなところね。人間にとって理由を見つけるなんて、さほど難しくないのかもね」
話し方は自信に満ち満ちていた。聞いているうちに、「援助」という言葉も、本心で言っている気がした。彼女は何を考えているのか予測も付かない、不思議な魅力があった。
サンタクロースの合図と共に、会場のスタッフが異性の氏名を書く用紙を配り始めた。
「これが終わったあと食事でもしようか」
僕はさりげなく彼女を見つめて言った。
「そうね。いいわよ」
用紙を回収し終えた頃に、サンタクロースは番号を呼び始めた。しばらくすると僕と彼女の番号が呼ばれ、中央ステージで握手をした。悲喜こもごもの祭りの終焉の中、素早く僕等はその世界から抜け出した。
会場から離れ、銀座プランタンの近くにある小さなカウンターバーに入った。彼女はすぐに
「サクラ」という名であることを告げた。
時計が十時半をまわると、「時間が無いから、戻らないと……」と彼女は言った。まだ話始めてから三十分しか経っていない。冗談かと思い、顔を見ると目は笑っていなかった。
「家はどこ?」
「……熱海」
「熱海って、あの温泉地の? 今日はどうやって来たの?」
「車よ。もう帰らないと大変」
彼女はここまで来るのは、ちょっとしたドライブのようだったとも言った。話も碌にできず、肩透かしを食らった思いだった。だが、熱海まで帰るのだとしたら、あまり引き伸ばすわけにも行かない。
それからすぐに会計を済ますと店を出た。買い物袋を持つのを手伝い見送った。地下にある駐車場に入ると、彼女は赤いホンダ車の前で立ち止った。そして、簡単な食事のお礼を言うと車の中に入った。
エンジンの音が周囲に広がる。彼女は車内で駐車券を探しているようだった。僕は車の窓を軽くノックした。
「来週、時間あったら会えないかな?」
このままでは何処か悔いが残る気がした。彼女のことを何も知らないまま、終わるのはあまりにも寂しく思えた。窓が静かに開く。
彼女は「いいわよ」とあっさり答えた。
あまりにも偶然な出会いから、二人の付き合いは始まった。恋愛にあまり積極的でない自分が誘ったことは、予測さえできないことだった。彼女に対して好感はあった。だが、それが恋愛感情かというとどこか違っていた。何処か流されているようだった。それはパーティの余韻のためだったのかもしれない。
サクラと付き合い始めたのは、この日からだった。
それは僕等のパーティが始まった日でもある。
二
サクラと出会ってから一週間後、再び銀座で待ち合わせた。
約束の時間に三十分ほど遅れてから、彼女は現れた。
ベージュの薄いコートを羽織っている。あの日の別れ際、単純にサクラともう一度会いたいと思った。なぜそのような気持ちになったのかは、数日経っても正直な所、自分自身にもよくわからない。彼女に興味はあったが、恋愛感情があるわけでは無い。これから始まる予感のようなものをただ信じているに過ぎない。
アンティークに囲まれた喫茶店の中で、僕等の沈黙は続いた。時間が止まっているかのようだった。飲み物が運ばれ、食器がテーブルヘのると、瀬戸物特有の高い音が店内に広まった。
「これからどうしようか? まだ決めていないんだ」
「そう」
彼女は人差し指をあごの上に軽くのせた。離れた場所でマスターらしき人物がコーヒー豆を挽く音がし始めた。
「私、買い物に行きたいわ。いいでしょう」
「もちろん」
「欲しい靴があるの。今日、予約しに行くつもりだったの」
「いいよ」
僕等は銀座の街並みを歩きながら、他愛の無い話を繰り返した。時折サクラは微笑んだ。その日は珍しいほどの秋晴れだった。三越の前から続く通りは歩行者天国となっており、テーブルが並んでいた。
「私、一か月前まで働いていたの。休みなんてほとんど無し。欲しい靴を選ぶ時間も、自由になる時間も本当になかったの」
彼女は一緒に入った店で一時間ほど悩んでいた。僕はただ店の中の商品をのぞいたり、外へ出ては通りを行き交う人の群れをぼんやりと見つめるしか術はなかった。彼女は何度か返答を求めたが、靴については何も知らなかったので、ただ生返事を繰り返すだけだった。
しばらくすると「ここには良いのないわ」とだけ告げ、別な店へと歩き出した。僕はただ彼女について行くだけだった。本当によく歩き続けた。気がつくと、廻った店は五軒にもなった。
「好きな靴ぐらいは本気で探したいの」
彼女は店を換える毎に繰り返し言った。結局、決めたのは最初に行った靴屋で、ブーツを短くし、予約をすることになった。いつの間には歩行者天国は終了しており、辺りも次第に薄暗くなってきていた。
その後、地下にあるイタリア料理店へと入り、食事をとることにした。メニューを見るとサクラは急に「食欲がない」と言い、再び靴の話をし出した。何故そこまで靴にこだわるのか分からなかった。ブランド名に始まり、靴屋の名前、色や形、素材、未知の世界の言葉が続く。しばらくすると、アイスティーが彼女の前に静かに置かれた。
「サクラさんは、一体どんな人なの?」
しばらくして、僕は話題を変えた。というより、むしろ靴の話に耐えられなくなったというのが本音だった。
「それよりあなたの仕事の方が聞きたいわ」
彼女はバッグから眼鏡を取り出してかけた。
「仕事?」
「何、もったいぶらないで、教えて」
「……高校の教師」
彼女は人差し指で眼鏡に触れ、「そう」とだけ呟いた。そして、少しだけ考え込む素振りを見せた。
「ねえ、私はどう見える? 怒らないから言ってみて」
「良く分からないけど、自分を変えようとしているようには見えるけど……、それって答えになっていないかな」
「当たっているかもしれないわ」
店内の客は疎らだった。注文を取るウェイターの声が微かにホールに響く。
「年齢は三十三歳か、三十四歳」
「そうね。当たりよ。三十三歳」
彼女の口元が少しだけ歪む。
「初恋は、中学校の頃。部活の先輩」
「そうよ」
僕はビールを一口飲んだ。調子に乗りやすいのは悪い癖だ。部活の先輩の話をなぜ出したかは分からない。適当に言ったに過ぎない。
「昔、付き合っていた男性に悩まされたことがある。でも、結構いい人生経験だったとも思っている」
「うん。それも当たり」
彼女は両手の指を組みあわせ、肘をテーブルの上にのせ見つめた。
「その彼とは婚約したけれど、何かわけありで駄目になり、仕事中心の生活へ」
さっき、一か月前まで休みなく働いていたと言っていた。仕事漬けの毎日という言葉から連想しただけだった。
「それはちょっと違うわ」
そう言うと、組まれた指の上へ顎をのせた。
「……婚約ではなくて、結婚したの。でも、離婚」
驚きを隠し、僕は微笑んでごまかした。離婚など思いもよらない言葉だった。女性の三十三歳の経験が、男性とは随分違うことを教えられるようだった。
「子供がいたりしてね……」
テーブルの料理を口に運んだが、全く味はしなかった。彼女は表情一つ変えずに、ぼんやりしている。
「…それも当たっているわ」
一瞬むせて、口の中の料理を吐き出しそうになった。目の前にいる女性は、離婚歴があり子供もいる。だが、ここで驚くのは悪い気がした。彼女にも彼女なりの事情があるはずである。感情を抑え込むしかなかった。
「子供は、今日はどうしたの?」
「前の夫が連れて行ったわ。離婚の条件だったの。今は独身よ」
彼女はグラスに入った水を飲んだ。白く細い首がむき出しになった。
その後、僕は幾つか話題を変えたが、内容が体を素通りして行くのが分かった。
しばらくして店を出た。時計を見ると午後八時を廻っていた。銀座のビル街に光の波ができる。
歩きながら、彼女の話を整理してみた。離婚して三年近く経つといい、前の夫との間に子供が一人、今は夫が養育している。仕事は一か月前に辞めたという。
彼女はマリオンの前を通り過ぎた頃、肩を軽く叩いた。
「交通費もらえないかしら?」
突然だったので、僕は答えに困った。
「五千円あれば十分。今日は電車で来てみたの。これで次回からどうすればいいか、大体分かったわ」
熱海からここまでの交通費は安くはない。すぐに支払ったが、何処か納得できなかった。
確かに、今日誘ったのは自分である。だが、訳もわからぬまま、遠距離の恋愛になりかけているのも事実である。
が、彼女のことをまるで知らない。
このまま、付き合いを続けて行く中で、全て受け容れられるかも分からない。僕は現実を見ていないのかもしれない。むしろ彼女の求める交通費は、現実的だった。惹き付けられるほど、魅力を感じているわけではない。ただ、彼女とあって話がしたかった。その衝動は、現実的ではなかった。どこか違和感があり、どこか躓きが用意されているようにも思えた。
どこか偽善的なものを感じた。これから先、優しい嘘が繰り返されていくように思えた。サクラの瞳の奥には、現実を生き抜く狡猾さと、深刻になることを避ける哀しさがあるように思えた。
「これからどうしようか?」
彼女の言葉が体の中に響いていた。帰るといえば、それはそれでいいと思えた。もう一度飲み直すのもいい。瞳は街灯の中で潤んでいた。
「……じゃあ、ホテルへ行きましょう」
自分の足は止まったままだった。どうしていいのかわからなかった。
驚きとともに、体の中に欲望の塊のようなものが突き上がってくる気がした。抑え付けられていた性欲が、暗い洞穴の奥で音を立てているようでもある。業だと思った。家庭を顧みず女と共に逃げた父のように、弱くてちっぽけな自分がいる。行動を正当化することに長けた、もう一人の存在がいる。
ゲームと割り切るのならば人生は全て楽しい。
遅れながら後ろを歩き、流されていく自分と向き合っていた。決断できなかった。
「途中の駅まで送るよ。あとは君が決めればいい」
サクラは足を止め振り返ると見つめた。そして、俯き加減で頬をほんのり紅く染め、恥ずかしげな素振りをした。
彼女の口が微かに「慣れているのね」と、動いた気がした。
電車は、東京の街並みを素通りしていく。頭の中はこれから始まる出来事についてのことで一杯になっていた。もしかすると、彼女は出会った時からもうすでに、このような関係に陥ることを予測していたのかもしれないと思えた。
横浜駅から歩いてすぐにあるラブホテルの一室に僕等は入った。
サクラに案内されるがままだった。初めてのデートで、ベッドを共にすることなど、考えていなかった。からかわれているような気がした。でも、このことは彼女にとっては、むしろ具体的なことなのかもしれない。最初から普通の恋などは求めず、むしろ割り切りの中で快楽に耽るほうが、より現実的で目に見える愛の形なのかもしれない。
部屋の扉を閉じ、唇を自分ので塞ごうとした。サクラはそれを避け、耳の側に寄せると「キスはしない主義なの」と、ささやいた。彼女は眼鏡を外し、テーブルの上においた。彼女の背中を抱きしめようとすると、彼女はそれをすり抜けるように立ち上がり、徐に服を脱ぎ始めた。薄暗い室内灯の中に透き通るような白い裸体が浮かんだ。ベッドの上に服が積み重なっていくと、バスルームへと消えていった。彼女の行動はどこか今日の過去の小さな告白に抗い、何も考えないことを強要しているように思えた。とても子供を生んだ体には見えなかった。白い肌が妖艶で、興奮させた。その体はどこか寂しさの残る表情とは違い、生命的なものが漲っている。僕は煙草に火をつけた。指先が微かに震え、激しい緊張がある。口から吐き出される煙を見つめながら、しばらく冷静になろうと心がけるしかなかった。
その後、全裸になり、ベッドの上で抱き合った。
だが、理性はゲームへの出場を拒否した。あまりにも展開が速すぎ、心の整理がつかなかったのかもしれない。それでも、彼女の舌はその後もしばらく体中を這っていた。井戸の中で響く風の音が何処かから聞こえてくるようだった。
結局、ゲームは未遂で終わった。
サクラはホテルの時間終了の連絡を受けると、すぐに服を着始めた。ただ一人とり残されていた。一枚また一枚と服を着ていく彼女の姿を、漠然と見ているだけだった。
「ねえ、あなたと抱き合うと、なぜか教師と悪いことしているように感じたわ」
サクラは微笑んで僕を見つめる。
「どうして?」
「ただ、正直そう思ったの。教師と一緒に寝るってこういう感覚なのかなって。不思議と罪悪感が湧いてくるのよ」
サクラはブラシで髪をとくと、「行きましょう」とだけいって、ドアのノブを開けた。僕は心の中で、「君に罪悪感を与えたのは、自分が教師だからではなく、精神的にまだ子供だからなのかもしれない……」と呟いていた。
僕は現実を直視できない、ただの漂流者であることを、はっきりと認めなければならないのかもしれないと思った。
三
横浜のラブホテルで別れてから二週間後、僕等はまた会うことになった。
彼女との電話の中で、自分が映画を見に行くつもりであることを話したのがきっかけだった。どうしても一緒に行きたいという。僕はさほど期待できる内容の映画ではないとはっきり言った。実際、恵比寿の単館ロードショーがもうすぐ終わりに近づいたので見ようと思っていただけだった。事情を話し、今度別な映画を誘うといっても了承しなかった。
サクラからの電話は横浜で別れて以来、二、三度あった。一方的に続く話の中、僕は一度だけはっきりと、君の求める「援助」は無理だといった。彼女も「それは分かっている」と答えていた。
その日の電話の中で、サクラは執拗に映画を一緒に見に行くことを求め続けた。いつしか面倒になり、最後には了承した。断る理由は何も無かったが、自分の優柔不断さに嫌気がさした。好きなのかもわからぬまま、一度目のデートで彼女の裸体を見た。
自分の気持ちを整理してみたい気がしていた。映画を見て、食事をし、普通の恋人たちのように最近の出来事を話す。それが二人にとって、重要なことのような気がした。でも、サクラに対する行為への自己弁護のように思えた。
彼女は約束の時間より少し遅れてきた。パーティ会場で初めて会った時と同じ薄桃色のセーターに、赤のレザーのスカートをはいていた。会うなりすぐに、前回銀座の靴屋でオーダーしたものをキャンセルしてきたといった。そして、別のものに注文し直してきたと切り出した。電話の内容もそうだが、彼女の中には一貫して、靴に限らず「モノ」の存在があった。確かに、女性が「モノ」に対して関心を示すことは分かっているつもりだった。だが、サクラの話題の殆どがそれだった。話は自分の意思を無視して続けられる。遅れたことへの謝罪は少しも無い。
軽く食事を済まし、恵比寿ガーデンプレイスにある小さな映画館の中に入っていった。館内には二十人程が既に座っていた。彼女は最後尾の席を選び、先に座った。僕も従うように横の席に座った。
映画はハリウッドの青春ムービーだった。
若手の有望新人が多く出演していたが、内容はというとお世辞にも面白いと言えるものではなかった。
ニューヨークの夜景が度々映し出され、スクリーンに映る朝焼けのマンハッタンブリッジだけが心を和ませた。青春グラフティのような世界は、二人には不釣り合いな気がした。時折、上映が始まってからサクラの横顔を見た。思ったより熱心に見ているので少しだけほっとした。映画の内容が盛り上がりを見せ始めた頃、彼女は耳元でささやいた。
「ねえ、さわって」
意味が理解出来ず、戸惑っていると、彼女は僕の右手をつかみ、ひざの上に座った。そして、セーターの胸の辺りに押し当てた。すぐに左手も同様に運ばれた。
観客は映画に夢中のようである。誰かに気付かれるかもしれないという緊張感の中、彼女の胸を揉み続けた。
ブラの感触が手のひらに広がってくる。
微かな化粧の香りが、全ての神経を刺激した。硬くなった乳首の感覚が分かった。何度か手を離そうとした。だが、その度ごとに僕の手の甲を上からつかみ、自ら胸を揉んだ。彼女が時折軽く吐息をつく姿に、いつしか映画を見ていることを忘れさせられてしまった。そして、軽い呼吸を繰り返し、振り返りながら耳たぶを優しくくわえた。
スクリーンには、ニューヨークの夜景が再び映しだされている。幸いなことに他の観客は席が離れているためか、僕たちに対して何の関心も示さなかった。体へと伝わる感覚が、自分の不明確な感情を動かしていた。
映画館が終わった後、僕等はしばらく歩いた。彼女は映画のエンドロールが流れる前には隣の席に戻り、元の表情に戻っていた。
フリーマーケットの広がる通りを横切る。木々の香りが心地よい。老夫婦が楽しそうに散歩している。子供達が集まり、しきりに楽しそうに話し合っている。だが時折浮かぶ、映画館内の一コマは、僕に後ろめたいものを感じさせた。偶然共犯者にされた人物の心境である。彼女の軽くウエーブした栗毛が揺れている。
「映画つまらなかったかな?」
「ううん。面白かったわ」
「……ああいうことって、以前もしたことあるの?」
「ああいうことって?」
「その…つまり、映画館で抱き合ったり」
サクラは「ああ」というと、足を止めた。子ども達がはしゃぐ声が遠くから聞こえる。
「もちろん初めてよ」
彼女は僕の瞳をじっと食い入るように見つめて言った。言葉を失い、何も言い返すことができなくなっていた。微笑み、右手で髪をかきあげる仕草をした。日差しがまぶしく、自分の目を突き刺す。天真爛漫なその対応は魅力的に見えた。
「ねえ、ホテル行かない?」
彼女はそう言うと手を引き、街の中へと連れて行った。
ラブホテルは商店街を通り抜けた奥にあった。彼女の探す手際も良かったが、何よりも商店街のすぐそばにその建物があることに驚かされた。小学生らしい子ども達が自転車で通り過ぎる。家族連れが、商店街を楽しそうに手をつなぎ歩いている。
休日であることを改めて感じた。ごく普通の日曜の生活がここにはあった。商店街を抜けると、サクラはその建物の中へと入っていった。ラブホテルとさえ言わなければ、質素な旅館といわれても分からない佇まいだった。白塗りの建物の外観には、日本風の廂と雨戸が取り付けられていた。
鍵を受け取り部屋に入ると、純和風の室内が待っていた。誰が使うのか、部屋の角には鹿おどしや手水鉢がある。感動など何も無い。そこには、日中にホテルに入ることに対しての罪悪感だけがあった。
「時間がもったいないわ。すぐに脱いで」
声がする方を向くと、サクラは服を脱ぎ始めていた。ムードなど何も無い。欲望を満たすためだけに今日待ち合わせて会ったようなものである。だが、言いなりにホテルへと来ている自分には、反論する余地は無かった。白く締まった尻と、小さな胸に乗る乳首が、薄明るい室内灯の中から浮かび上がる。僕も裸になり、バスルームへと入っていった。
絹の布に巻きつけられる感覚がある。体温が伝わってくる。思考力の全てがなくなっていく。僕は素足で砂浜を歩き、岸にある木製の小さな桟橋に立っていた。そして、軽く息を整え青い海へと飛び込む。
洞穴の中に隠れていた性欲は、人格を歪めてしまいそうなほど、突出していた。
もはや制御不可能な獣であった。
彼女は僕の体を掴むことだけで必死の状態だった。
抑えようとする声が耳にこだまする。外には平凡な日曜日の午後があった。この壁の向こうには、商店街で買い物をする家族連れや、映画の感想を語り合うカップル、老夫婦、小学生の子供達等、幸不幸に関係なく、一日を楽しく過ごそうとする人々がいるはずである。そしてここには、刹那を獣のように生きる二人がいた。
ゲームは終了した。
僕は煙草を吸いながら、蒲団の上で横を向く彼女の白い背中を見つめていた。それは一見すると少女のように綺麗なものだったが、何故か背負う不幸についても考えずにはいられなかった。離婚し子供をとられた過去だけではない。何処か年を重ねるごとに深くなる悲しみのようなものを感じた。彼女は起きているはずだったが、しばらく背を向けたままだった。
帰り際、交通費といい五千円を持っていった。駅のホームで、彼女の背中の幻影を追い求めていた。夕暮れの街並みの中、一人きりであることを痛感させられるようだった。
Tが僕の家にやって来たのは、その日の夜のことだった。
サクラとの出来事があまりにも印象深く、まだ部屋に戻ってもまだぼんやりとしていた。電話が来てから三十分も経たないうちに、彼は自分の部屋のベルを鳴らした。右手にはワインが一本下がっていた。Tは休日出勤の帰りだといった。
ワインのコルクを抜き、僕等は最近あったそれぞれの出来事をとりとめもなく語り合った。
「『御見合いパーティ』はどうだった?」
頭の中にサクラの白い背中が浮かんだ。だが、そのことを話す気にはなれなかった。ただ笑ってごまかすしかなかった。
「久しぶりに合コンにでも出た感じだったよ」
「何人ぐらい来ていたんだ?」
「女性が百七人、男性は百二十人ぐらいかな」
サクラの番号は百七番だった。
「お目当ての女性は見つかったかい?」
「いいや。それどころではなかったよ。小さいフロアーに二百人以上いるんだ。熱いし、息苦しいし、気分が悪くなって、少しだけ覗いて早めに帰ったよ。本当悪いな」
サクラとの関係があまりにも急展開し過ぎている。そのことを話す気にもなれなかった。
Tはワイングラスを口に運んだ。
「そんなことだから、彼女が出来ないんだぞ。積極的にならないで、恋なんてつかめるものか。優しさと消極的とは違うものだぞ」
「ああ、わかっているよ」
「この間、親戚の家に行った時、初めて養蚕の様子を見たんだ。お前見たことあるか?」
「ん? 無いよ」
「繭を編む蚕は幸不幸を考えると思うかい?」
「蚕?」
「そうだ。感動的な光景だったよ。蚕の行動にあるのは本能だけなんだ。閉鎖的な狭い空間の中で、生き抜こうという思いだけが、自分を動かす」
パーティ会場で見かけた男女の瞳が浮かぶ。
「話が飛躍し過ぎだろう?」
「まあ、聞けよ。考えても見ろよ。恋愛ドラマの結末はいつも結婚の場面ばかりだ。でも、結婚が全ての結末と言えると思うかい。現代みたいに離婚率の多い世の中で、真の幸福が結婚だと断言できると思うか? いやそうじゃない。大切なことは本能のままに生きることさ」
「極論過ぎないか。随分と自己中心的だな」
「そう。確かに極論かもしれない。でも、恋愛は結局、何処か本能に突き動かされるものだ。好きなら好き。一緒にいたいから結婚する」
「そんな単純なものではないだろう?」
「見方によっては、意外と単純なものさ。お前は深く考え過ぎだ。オレが言いたいのは、理由を考える前に行動することだ。結末だけが恋愛を正当化する」
サクラの裸体が脳裏に浮かんだ。僕等は互いによく知らないまま、付き合い始めている。
「とにかく、男が女を求めることは自然なことだ。恋愛を掴むにも努力が必要だ。自分を越え、必死に求めなければ何も手には入らない」
Tはワイングラスをテーブルにゆっくりと置いた。
「考えてみる、ではなく、行動あるのみだ」
その後もTの話は続いた。彼は自分を納得させるかのようだった。何度も頷き、時折嘲笑するかのごとく顔を引き攣らせた。
蚕は成虫となり、繭を食い破る。今の僕には、情熱や貪欲さもないように思えた。まともな繭すら編めていない。怠惰だけが自分を深く包み込んでいるようだった。
数日後、僕はサクラに電話をかけた。そして、横浜駅ビル内にあるレストランで待ち合わせることになった。彼女の熱海まで帰る負担が、少なくなればと配慮してのことだった。
昼下がりのレストランは、客足もまばらだった。料理を頼み、大きな窓に広がる海原を見つめた。遠くに白い船が見える。
彼女は約束の時間を過ぎても来なかった。
これは、愛とは違う。互いに求め合っているものがずれたままである。流されるまま、こうしてこの場所に来ている。
前回会った時のサクラの仕草を思い出す。映画館での出来事。吐息をつく彼女の白い肌。それを考えると、僕の一部分は熱くなり、またサクラを抱きたいと正直思う。樹を離れた落ち葉のように、思考はあてもなく揺ら揺らと風に舞うようだった。
一時間をまわった頃、海の景色をバックに彼女が店に入ってきた。僕のテーブルの前に座り、アイスティーを注文すると、すぐに仕事の話をした。今は父の不動産の仕事を手伝っており、交渉等も自分でしなければならない。急に午前中に交渉が入り、対応に追われていた……。
彼女の声はレストランの中でひときわ目立った。
少し高いトーンと勢いよく現れる言葉の数々が、仕事に対する苛立ちを感じさせた。父の仕事に対する姿勢や、取引先のわがままな注文への応対など、止まることなく続く。話を聞きながら、僕の心が空虚になって行くのが分かった。何か一つでも優しい言葉があれば違ったのかもしれない。開かずの踏切で絶え間なく続く電車群を見つめる少年のように、ただじっと待つしかなかった。
サクラの口が止まったのは、グラスの中の氷が小さくなり、大量の汗をかいている頃だった。突如僕の顔をじっと見つめ出した。
「私が父の仕事を手伝う前、何の仕事をしてたかわかる?」
「さあ、わからないな」
「芸者よ」
彼女はストローを徐にグラスに差し込むとかき回し始めた。僕は「そう」とだけ微かな声で言った。芸者をしているイメージなど、まるで湧かなかった。固定的なイメージでは、着物姿に白塗り日本髪、三味線を弾いている。小説『雪国』に出てくる駒子のような存在だ。何処か上品なイメージもある。まさに偏見かもしれない。
「芸者って、客にお酌したりする、あの……」
「そうよ」
彼女の話は何時も唐突で、驚く暇を与えてくれない。着物を着てお酌をするサクラの姿など想像できなかった。
「離婚してから今年の春まで、二年ぐらいかしら。芸者の仕事していたのは……。知り合いに紹介されてはじめたの。最初は抵抗あったけれど、お金も欲しかったし、すぐに仕事は覚えていったわ」
彼女はストローを口に運んだ。背後には青い海原が広がっている。僕は客と一緒に寝ることがあるのか訊きたかった。でも、あまりにも愚問過ぎる気がした。
「かなり大変な仕事なのよ。夜遅いし、朝も早くて、ほとんど年中無休状態よ。御指名がかかるとあちこち廻らなければならないし。多少はお金にはなるけど、心が休まる暇がないの」
「三味線は弾くの?」
「古いわね。日本舞踊は習ったけど、弾けない娘が無理したって意味がないでしょう。お金持ちがよく来たわ。特に大変だったのは、仲間うちで常連客をとった、とらないでよくもめることよ。どう、驚いた?」
「ああ」
以前彼女が言っていた「援助」とは、芸者を囲う金持ちのような男を探していたのかもしれない。だとすれば、彼女の希望に最も外れた男なのかもしれない。
サクラの向こうには、海に浮かぶ白いフェリーが小さく見えた。海鳥が左右に揺れながら飛んでいる。
四
僕の鼓膜が破れることになったきっかけは、サクラと出会ってまもなくのことだった。
先輩教師が職員室に女子生徒を呼び、指導をしたことが発端だった。
その教員は突然のように逆上すると、人影疎らな職員室で無抵抗の優秀な生徒に対し、声を上げて暴力を振い出した。誰が見ても、教員の指導力不足だった。すぐに数人で止めに入り事態は収まったが、その場にいた教員は事件に対して固く口を鎖した。そのため、僕だけが事実をありのままに上司に報告する形となった。その発言がもとで、先輩教師の退職は免れたものの、厳重注意処分となった。
一ヶ月も経つと、自分の中でその記憶がほとんど消えていた。
ところが、職場の懇親会の帰り、事件は起きた。
先輩教師が二人きりになるのを見計らい、自分の耳の辺りを背後から全身の力を込め殴りかかってきたのだ。激痛と共に右耳の奥に異変を感じた。彼の襟を掴んだが、酒も入っていたため力が入らなかった。怒鳴りつけたが後の祭だった。道につばを吐くと口の中が切れたのか、血が混じっていた。僕の前に立つ男の瞳には、満足気な笑みが浮かんでいた。
翌朝、職場を休み病院へ行くと、医者は鼓膜が破れていると冷たく告げた。
部屋に戻り、ベッドの上でぼんやりと考え込んだ。怒りがおさまることは無い。時折、先輩教師の笑みが浮かぶ度に憂鬱な気持ちになった。日頃の事なかれを重んじる職場での我慢は既に限界に達していた。
僕は電車に乗り、サクラのいる熱海へと向った。
もう熱海駅に着いた頃には、午後十時をまわっていた。途中で連絡をとったこともあり、サクラは改札口で待っていた。薄桃色のセーターに赤いミニスカートをはいていた。すぐに、彼女の車に乗った。
「何かあったの?」
「いや、何故か君に会いたくなったんだ」
「変わった人ね」
夜の海岸沿いを眺めた。イルミネーションに映し出された海岸は美しかった。オレンジ色のライトに浮かぶ海岸道路は幻想的だった。
「泊まれる所、知らないかな?」
車は市街地を抜け、坂道を走っていく。しばらくすると、古いアパートの前で車は止まった。
「そうね。ここ倉庫代わりに使っているところなの。とても綺麗なの。一泊五千円にまけておくけど、どうかしら?」
黙って頷いた。
彼女は靴音を立て、その錆びた階段を上っていった。
2DKの部屋の一室は、書類の入ったダンボールやテレビなどが無造作に置かれていた。彼女は布団を奥から取り出して渡した。僕は部屋の窓を開け、外に広がる景色を見つめた。遠くにホテルらしき高い建物が並んでいるのが見える。微かに潮の香りもする。彼女は浴室に入り風呂を沸かして始めているようだった。
「どう、借りてみる気ない? 私と会う時はいつもここで会うの。どうかしら……」
サクラの声が壁越しに聞こえてくる。僕は答えようとはせず、肌寒い夜の空気を感じていた。浴室から部屋の中央に彼女のセーターやスカート、そして下着が投げ出された。
微かな耳鳴りの中、何故ここにいるのだろう、と思った。
性欲が全ての感情を支配しているのかもしれない。しかも、何かに身を任せたいという甘えと怠惰がそこにはある。彼女の深い悲しみを考えることもない。
サクラはバスタオルを身にまとい、風呂場から出てきた。そして、服を脱ぐようにと身振りをした。僕は窓を閉め、カーテンを閉じた。豆電球の淡い光の中、薄茶色の乳首が浮かんだ。それを唇で挟むと、微かな声で「痛いわ」と言った。良い香りが鼻の奥に突き刺さる。会話はほとんど無い。ゆっくりと体中にキスしていった。彼女は、僕の一部分をトランクスから取り出すと口に含んだ。
二人は何処かの戦場で死を待つ者たちのようだった。絶望感が体中を占め、刹那的で、何処か互いに同志を労わる優しさもある。無表情なまま体は揺れ動く。
静かな闇の中に二人の吐息は溶けていった。
翌朝、彼女の寝言で目を覚ました。それは言葉というよりは塊のようなもので、理解することは出来なかった。カーテン越しの朝日に照らし出されるサクラの体を見つめた。滑らかな白い肌に薄い陰毛が見える。この女性を抱いたのだなと思う。だが、何の感動も無かった。
「おはよう、昨日は気持ち良かったわ」
しばらくすると、サクラは目を覚まし、笑顔を見せた。
サクラはゆったりめのTシャツを着ると、台所でコーヒーをいれ始めた。剥き出しになった白い尻が見える。
「ねぇ、本当は何があったの? 顔も少し腫れているようだけど……ケンカでもしたの?」
顔に触れると、確かに少し腫れているようにも思えた。
「ケンカというか……。一方的に殴られたようなもんだよ」
「それでお母さんのおっぱいが恋しくなったわけ?」
「違うよ。君に会いたかっただけだ」
「そうかしら」
言葉が胸に突き刺さる。何か言おうとしたが、返す言葉が浮かばない。彼女はコーヒーを差し出した。部屋の中にその香ばしい香りが広がる。それを飲むと、口の中が少し痛んだ。
「私も芸者の仕事をしていた時、同僚に殴られたことがあるのよ。こうやって」
スローモーションのように動かされる握り拳が、僕の頬の前で止まった。
「グーで思いっきりよ。彼女の方が新入りだったのだけど、何故か急に客が私を指名するようになって、嫉妬したみたい。本当に思いっきりだったわ。私、その時どうしたかわかる?」
首をただ横に振った。
「彼女に抱き着いて『仲良くやりましょうね』と言ったわ。人間関係が上手くいかないと芸者の仕事なんて出来ないから……。おかげで、首を痛めてしばらく通院」
彼女はそう言うと下着を履き出した。白い尻が隠れていく。しばらく着替える姿を眺めた。
サクラに連れられ、熱海の海岸沿いの道を散歩した。ライトアップされた昨夜の景色とは違い、潮風の中に穏やかな波が見えた。季節外れで人のいない、寂しいビーチである。中央には監視員用の白い監視塔があった。大きなホテルが海岸道路に面している。その建物群と海岸を結ぶ大きめの歩道橋の側には巨大な蘇鉄の並木が風に揺れていた。
人影は疎らだった。海鳥が孤を描いて気持ち良さそうに飛んでいる。僕等は砂浜に出ると腰を下ろした。青空の下、爽やかな風が吹きこんでくる。
何処からともなく白い犬が僕らの前まで来ると、匂いをかぎ出す。そして、サクラの手をしきりに舐め出した。遠くで犬の名を呼ぶ声が聞こえた。少女と両親の三人連れが、こちらの方を見ている。少女が走って来ると、犬の首輪にロープをかけ、「すいません」というと通り過ぎて行った。その後ろを夫婦が手をつなぎながらゆっくりと歩いている。
「幸せそうね」と、サクラは言う。
波の音が広がる。僕等は犬を連れた家族連れの姿を目で追った。
「私、離婚した後に、何度か御見合いしたの」
彼女はそう言うと砂を軽く掴み、そっとこぼした。
「でも駄目ね。会う男の殆どが最悪なの」
家族連れの姿は次第に小さくなり、見えなくなっていった。
「顔や性格が?」
「……違うわ。私を御見合いに選ぶ男の殆どが、目的が違うの。その多くが親の資産目当てよ。対象が私ではないの。親がどんな仕事をしているかが重要なの。中には『お父さんと事業を拡大できたら』と露骨に言うのもいたわ。その大体が、結婚するとわがまま放題のはず……。間違いないわ」
彼女の父に資産があるなど、初めて聞く話だった。
「バツイチで、子供を産んだ過去がある女性と結婚したがる男なんて稀よ。私、一人娘だから将来的に資産が転がり込むかもしれないと考える下司な男ばかり。さあ、行きましょう」
彼女の離婚の原因を聞きたい気がしたが、言葉にならなかった。そして、季節外れの砂浜を歩き続けた。
「ねぇ、あなたは御見合いの経験ってあるの?」
「『御見合いパーティ』なら、一度だけあるよ」
サクラは少しだけ微笑んだ。
「……正式な御見合いしたいと思う?」
「遠慮しとくよ。それほどタフじゃないし、資産も無いから。相手にされないよ」
「そんなことないわ。良い所だってあるはずよ」
「例えば?」
立ち止まると僕の姿を上下に繰り返して見つめ、考えるふりをした。
「……浮かばないわ」
サクラは吹きだした。僕もつられて笑ってしまった。
波の音が遠くから聞えてくる。互いに笑い合ったのは初めての気がした。
五
僕はよく母の語る
「蜜柑箱」の話を思い出す。
実父は熱心な宗教家でもあった。
幼い頃、記憶の中の父は優しかった。両親の離婚の歯車が音を立てて廻り出したのは、僕が小学四年の夏頃だったろうか。
幼い頃、近所に住んでいた女性と不倫関係を結び、その真面目さ故かその女性と逃避行をしたのである。一時は自宅に戻り、やり直そうと努力をした。だが、やはり外れたレールは修正しにくかった。結局、実父はクリスマスの夜、家族を残して出て行った。僕が覚えているのは両親と買い物に行き、楽しく食事をしたその日の光景である。
翌朝、長い手紙を一通だけ残し、父の姿はなかった。
母のよく語る「蜜柑箱」の話は、父の消えた翌日の話である。
実父の手紙を持ったまま、年末のにぎやかな商店街に出かけた母は、子供を抱えた生活を思うと絶望的になったと言う。そして、近くにあった木製の「蜜柑箱」に座り、半日以上考え続けたそうだ。当然、子供たちに語る母の話には脚色がある。だが、少なくともそれは絶望の色が濃いものであったに違いない。もし母が気弱な女性であったら、子供たちの未来を悲観し、新聞の三面記事を賑わせていたのかもしれない……。でも、幸いなことに母は強い女性だった。
その翌日から、母の巻き返しが始まった。すぐに安アパートを見つけて引越し、大工の手伝いの仕事を始めた。気丈に子供たちに接し、泣き顔を見せることはなくなった。彼女の反骨精神が子供たちを育てたといっても過言ではない。
母は「蜜柑箱」に座り、何を考えたのだろうと思う。僕は時折、何かに行き詰るとその光景を考える。
仕事の状況は最悪だった。極端に減らされ、何一つ自分の判断で行動できない日々が続く。生徒に関しての対応がすぐに職員会議やミーティングなどで議題に上り、その度に反省を促された。誰かが上司に悪い情報を与え続けている気がした。ただ、それを特定しても仕方が無かった。苦境に入るほど、生徒の反発も激しくなった。
母のように強くはなかった。今も「蜜柑箱」の上に座ったまま、答えを出せずにいるようなものだ。それは恋愛であれ、仕事であれ、自分の行動の大半を占めていた。何もかもを曖昧にしたまま、結論が導き出されるのを待ち焦がれている。それは、先行きの見えない家庭を捨て、愛人の元に走った実父の遺伝なのかもしれない。
何かを越えたかった。しかし、その何かが分からなかった。満たされない欲望を越える力が欲しかった。ロマンチストを大切に育てるほど、社会の風潮は甘くないのは分かる。人生への過剰な希望は、すでに失望へと変わってきていた。
久しぶりに田舎の母から電話が来たのは、鼓膜が治り始めていた頃だった。受話器の向こう側で、もうあと数年で年金生活だと言って笑っていた。以前のような厳しい母ではない。他愛の無い話をしていると、自然と涙がこぼれ始めた。
「どうしたんだい? 声が変だね。風邪でも引いているのかい」
「いや何でもないんだ」
「まあ、自分で決めた人生だから、しっかりやりなさい」
「わかってる」
止めようとすればするほど、涙が溢れてきた。
「蜜柑箱」の上に座り、途方に暮れている自分の姿がはっきりと浮かぶ。涙が次から次と頬を伝った。
しばらくして、静かに受話器を置いた。
数日後、サクラと渋谷で待ち合わせした。有名な画家の絵画展が開かれるのに合わせて誘ったのだ。
一時間ほど遅刻して、彼女は待ち合わせ場所に到着した。心なしか不機嫌そうだった。
「どうかした?」
「別に」
僕は「そう」と答えた。何時の頃からか、話し出すのを待つようになっていた。
「前の夫にあったのよ」
しばらく飲み物の前で考え込んでいた。
「磨り減った靴のような人生は嫌なの。あっさりと捨てられるような……」
彼女は遠くを見つめた。
「前の夫は本当にわがままだったわ。自分の思い通りにならないと、許すことが出来ないの。結婚をして一年も経たないうちに仕事を勝手に辞めてきて、働こうともしないの。一日中、家にいたわ。子供が出来ても優しい言葉の一つも無い。私が一人で子供を育てたようなものよ。SEXも同じ。自分が満足すればそれでおしまい」
何も答えられず、サクラの顔をじっと見つめた。
「早く別れたかったわ。離婚の話を切り出してから、一年近く話し合い。最後には『離婚してやるから、子供をよこせ』よ。あきれてものも言えなかったわ」
休日の渋谷の街並みは、多くの人々で賑わっていた。その誰もが僕達のことを知らない。人々と知り合うことも、運命について語り合うこともない。また、一人ひとりが抱える悩みや悲しみも多様だ。
「昨日、子供に会ったの。元気そのものだったわ。今年で六歳になるの。よく『親がなくても子は育つ』って言うでしょう。あれは本当ね。会う度に大きくなって行くの。でも、感覚的にはついて行けないわ。桜の花が咲く頃にはもう小学校の入学式よ」
寂しい表情だった。僕はテーブルに頬杖をついて言った。
「一つだけ、質問してもいい?」
目をじっと見つめると、彼女は「ダメ」と言い、化粧室へと入っていった。街には多くの人の群れが動いている。一つの通過点のように、それはとどまることは無かった。外の景色に集中するほど、二人の存在がどこか不明確になるように思えた。
どれぐらい経っただろうか。彼女が「おまたせ」と言って近づいてきた。目の辺りが微かに赤かった。
「桜の咲く頃が待ち遠しいね」
「そうね。その頃には盛大に花見でもしましょう」
彼女は窓に浮かぶ人の流れを見つめると、少しだけ微笑んだ。そして、すぐに立ち上がり出口まで行くと、手招きをした。
展覧会を見た後、従うまま綺麗なラブホテルの中に入っていった。その日のサクラは何時になく激しく声をあげた。まるで何かを忘れようとするかのように、また、どこかへ訴えかけるように。白い肌が、吸い付いて離れない。体が彼女の中に引き込まれていくようだった。足の指が小刻みに震える。声が僕の鼓膜を刺激する。次第に快楽は一つの塊のようになっていく。
その直後、激しい痺れが全身に走った。
Tと待ち合わせしたのはそれから数日後のことだった。二人の馴染みの店で酒を飲んだ。彼は先日、旅行中の山で撮ったという写真を数枚くれた。そのどれもが光の入り具合や雲の位置、角度などで印象がまるで違った。
「山は最高の被写体だ。気まぐれな女性のように表情が急変する。どれも同じ場所なのにだよ。自然の神秘とでも言うのかな、捉え所がなくて困ってしまう。ところで話って……」
「実は気付いたことがあるんだ」
何時になく真剣な僕の表情に、Tは戸惑っているようだった。
「どうした?」
居酒屋の中、二人の間にだけ沈黙だけが走った。
「実は今、ある女性と付き合っているんだ」
Tはほっとした顔つきで、僕の顔を見た。
「それはめでたいじゃないか。久し振りの彼女の登場を祝わないと」
「……君がくれた『御見合いパーティー』の会場で知り合った」
「それなら、なおのことめでたいじゃないか。乾杯しなくちゃ。あの券が役に立つとはな」
彼はグラスを持ち笑顔を見せた。肩を叩き何度も祝福する。
「どんな娘なんだ。もったいぶらないで紹介しろよ。可愛いのか。結婚の話は出ているのか?」
「……とんでもない娘だよ。バツイチで、前の夫との間に子供が一人いて、元芸者。お金やブランドものが大好きで、とにかくわがままだ」
Tは再びビールを口にすると黙ってしまった。
「子供は前の夫が面倒を見ているそうだ。今は父の仕事を手伝っているらしい。多分、彼女とは長く続かないと思う。友情に近いものはあっても、恋愛ではない」
「そうか」
「今日の話は別なんだ」
「何?」
「彼女と付き合ってから、自分の中で一つ分かったことがあるんだ。この数年間、目標を見失ったまま、追い詰められるように仕事をしてきた。それは、答えを出すのが怖かったからなのかもしれない。教師といえば安定職だろう。じっと耐えれば、それなりの信用ができると信じてここまで来たよ」
「誰もがそんなものだろう。自分に合った職を手に入れている人など少ないし、大きすぎる夢に潰される人間は掃いて捨てるほどいるものだろう」
「……今の職場に長く居過ぎた気がする」
「おいおい、冗談はよせよ」
「本気だ。ずっと答えを引き伸ばしにしてきた。その答えを出すきっかけは、彼女がくれたのかもしれない。来春、桜の花が咲く前に、今の仕事は辞めようと思う。何もかも振り出しに戻して見たくなったんだ。自分の我慢強さにも驚いたよ。この職場に一生は無理だ。もう三十になる。このままでは一生この職場に居たまま、自分の次のステップも見出せずに終わってしまう」
「……でも、転職は早計のように思うぞ」
「就職した年も、三年目も、五年目も、ずっと言われて来た。でも、幾ら鈍感な自分でも分かる。このままの方がもっと大変だ。このことに早く気付かなかった自分の方が哀しい。憐れだ」
「あてはあるのか?」
「いや、ない。これから探すつもりだ」
「大変だぞ」
「多分な」
「お前がこんなことを言い出すなんて、随分変わった女と知り合ったもんだな」
「彼女だけじゃない。いろいろな人に考えるきっかけをもらったよ。良くも悪くも」
「お前のことだから、決意は固いかもしれないが、行動の選択までにはまだ間がある。じっくりと考えた方がいい。明日になって考えが変わろうと、それはそれでいいじゃないか。賢明な選択を期待するよ。山だって角度を変えてみれば、全く違う見方だってできる。そうだろう」
確かに出そうとする決断は、遥かに無謀だった。Tの言葉が痛いほど心に響く。だが、自分にはこの現状を打破する何かが欲しかった。
僕は「蜜柑箱」の上に座っていた。これからの道を模索する一人の男として……。確かに箱の上でミイラのように生き続けるのも悪くはない。だが、心は
「ノー」と言う言葉を繰り返していた。
六
新年を迎えるとあっという間に時は過ぎて行った。一月末に辞表を書き、校長に手渡した。
誰にも相談せず提出したことで、周囲の騒ぎは大きくなった。長い間、連絡もとらなかった親戚から突然のように怒りの電話があり、中には自宅まで押しかけて来る者までいた。その誰もが理由を求めた。最初は丁寧に対応していたが、そのうち対応が面倒になり、適当な理由をあれこれもっともらしく並べるようになった。
受験を控えた生徒を混乱させることを恐れ、内密に事務的な手続きを進め続けた。学校側も多少困ったようだった。暴行事件は、どこからともなく話題には出たが、先輩教師の家族のことも考えてあえて表には出さなかった。医療費だけ損をした計算になるが、辞めるには気持ち良く別れた方が良いと思い我慢した。後は三月の卒業式を待つだけだった。
予想外だったことは、二月に入り、急に校長室に呼ばれたことだった。教頭が学校宛に届いた母からの手紙を読み始めたのだ。内容は、息子をどうかクビにしないで欲しいと言う嘆願書のようなものだった。
老いつつある母が手紙を書いている姿を想像すると、涙が浮かんだ。校長は困ったような顔をして尋ねた。
「この手紙は学校側に対して、誤解があるように思えるが。どうだろうか」
喉が震える。奥歯が痛くなるほど噛み締め、今にもこぼれ出しそうな涙を我慢をした。
「……申し訳ありません。母には良く伝えておきます。辞意は今でも変わりません」
「そうですか」
退職金をもらったところで、銀行口座には大した額は入っていなかった。まさに「焼け石に水」状態だった。これからのことを思うと、暗澹たる気持ちになった。もし辞めると分かっていたのなら、対応もあったであろうにと思うと切なかった。悔やんでも仕方がない。
何よりも、新たな道を見つけることが先決だった。
校長の冷たい視線をあとに、廊下を歩いた。どこまでも続くようだった。このまま僕は歩きながら息絶えてしまうのかもしれない、そんな思いが湧いては消えた。
直情的な愛よりも、その愛を持続させることの方がより困難を極めるものなのかもしれない。
幼い頃の父母は実に仲の良い夫婦だった。
僕は子供心に、理想の家庭のイメージを両親から感じ取っていた。離婚の直前まで、ケンカらしいものは無かった。思い出の中の両親は、幸せな家庭そのものだった。ある日、父の存在が消えた時、偉大なものを失った気がした。曲が終わり動かなくなったオルゴール人形のように、哀愁とかつての余韻だけが家庭には残されていた。
その頃から自分に芽生えたのは、愛は欺瞞を含んでいると言う感覚だった。まず、愛とは最初から暗示をかけなくては始まらない。
――それは、相手を愛していると思い込むこと。
幼い僕は両親の離婚を目の当たりにして、この真実は大人になればわかるものだと思った。でも、実際は記憶が不明確になるだけで、何一つ答えとなるものは無かった。むしろ、それは大人になることで狡猾になり、弁明をするのに長けてくるだけのことに思えてならなかった。離婚と言う事実は当事者にしかわからない。父母の間にあった感情の動きはもう分からない。
サクラに幼い頃の母の姿を重ねたのかもしれないと思った。そして、彼女の心の奥に隠されている哀しみと、SEXをめぐる快楽に、身を溺れさせていたかっただけだったのかもしれない。
自分を変えたかった。現実を乗り越え、更に世界を広げたいと強く思った。
東京に例年より早めの桜の開花がニュースで報告され始めた頃、僕等は上野駅で待ち合わせした。卒業式も無事終わっていた。残された仕事は、二、三の引継ぎ業務だけだった。
とにかく、サクラに事実を伝えなければならなかった。そして、別れ話も出さねばならなかった。
その日、サクラは予定時間より早く来ていた。すぐに彼女は腕を組むとアメ横街を歩き出した。上野公園と方向は反対側だったが、引きずられるようについて行った。途中、満面の笑みで使い捨てカメラを購入した。魚屋の店主がかすれた声で、通りの人々に威勢良く呼びかける。Tシャツや小物を売る屋台、大量のジーンズが並ぶ店を通り過ぎて行く。
「この通りを少し行った所にね。私の知り合いが小料理屋を出しているの。芸者仕事している時の先輩で、客に資金全部出してもらって始めたらしいの。今日、花見に行くことを言ったら、ぜひ寄って行ってと言われたの」
サクラは何時になく優しく、明るかった。
もしかしたら、電話での応対などで、僕が別れ話を切り出そうとしているのを別な意味で感じとったのかもしれない。しばらく歩くと、ビルの一階に小さな門構えの料理屋が見えた。まだ暖簾はかかっていなかった。店先には電光の看板があり、白い玉砂利が敷き詰められている。気にしなければ、通り過ぎてしまいそうな小さな店である。
「さぁ、入りましょう」
店の中央のカウンターには、四十後半ぐらいの女性の姿があった。和服に薄化粧をして髪を結い、老舗旅館の女将のような品格があった。サクラはその女性の両手を握り締めると、声をあげて喜んだ。今まで、僕等の関係に第三者が入ることはなかった。女将の登場はどこか新鮮な感覚だった。
サクラはその女性としばらく話をすると、
「ちょっと待っていてね」
と、奥の部屋に入っていった。
「ここに座って下さい。ビール飲みますか?」
女将はカウンターに立つと、微笑みながら訊いた。椅子に座りながら返事をすると、瓶ビールと簡単なつまみがそっと手前に置かれた。
「失礼ですけど、あなた学校の先生ですか?」
「えっ、サクラが教えたんですか?」
「いえ、何となくですよ。入ってきた瞬間にそう思ったの。ここに、まだ冷蔵庫にビールが入ってますから、勝手に飲んでもらって結構ですよ。もう少し時間かかると思いますんで……」
「サクラはどうしたんですか?」
「それは後でのお楽しみ」
笑いを抑える仕草をしながら、女将も奥へと行ってしまった。
決して今日は教師の格好はして来ていない。なぜ、すぐに彼女は僕が教師だとわかったのだろう。彼女の眼力だろうか。だとしたら見事なものだ。女性が若くして自分の店を持つためには、それなりの才覚が必要のように思えた。
店の中にはカウンターテーブルと四人席が二つある。全員入ったとしても十五人程度であろうか。まだ開店したばかりなのか、新築独特の木の香りが微かにした。バブル期に乱立したという小料理屋も最近では衰退の一方だという。余程の金持ちに協力してもらわなくては、店など出せたものではない。まさに彼女の眼力とは、男を見る力なのかもしれない。
僕は待ちながら、サクラへの別れ話をどう切り出すかを考えていた。
三十分ほど経ったろうか。奥の部屋から女将に連れられ、桜色の豪華な着物に包まれた女性が出てきた。白塗りの口元に紅が小さく入っている。京都の舞妓を思わせる艶やかさに言葉を飲んだ。銀杏髪には朱塗りの櫛が刺さっている。美しい女性だ。
「随分待たせたわね」
その声はサクラだった。思わず声を上げそうになった。どこか疲れのあるいつもの姿ではなく、時代劇の舞台で主人公を悩ます妖艶な女性がそこにはいた。履物を取り換え、こちらに近付いてくる。
「ねぇ、綺麗でしょう? よく似合うわ、サクラ。私が男だったら、ほっとかないわよ」
女将が彼女の後方で声を弾ませている。
その通りだった。緊張し、何と声をかけて良いのかさえ分からなくなっていた。でも、なぜ彼女はこんな姿をしているのだろう。
「今日は花見に来たんじゃ……」
「そうよ、もちろん」
「この格好で行く気なの?」
「あたりまえよ」
やはり、声はサクラだった。彼女はゆっくりと椅子に座った。
「私、以前からずっと思っていたの。日本人は日本の文化をもっと大切にすべきだわ。花見は日本の心よ。サクラは愛でるものなのよ。単に騒いで飲むだけのものではないわ。そんなことだから、日本の文化は誤解されるのよ。国際文化は正しく伝えるべきよ」
「だからって、君が国際文化交流の代表みたいなことしなくても」
「そんなことだから駄目なのよ。もっと徹底して伝えるべきだと思うわ」
「花を美しいと思えば、それでいいじゃないか……」
「そんなことだから誤解されたままなのよ。だから率先して、若い子たちにも花見の素晴らしさを教えるの。私たちで」
「わ・た・し・た・ち?」
「そうよ。あなたもよ」
「冗談だろ?」
「もちろん本気よ。日本人男性にとって、命より大切なものは何?」
サクラは僕にその白塗りの顔を近づけた。女将がカウンターの奥で笑っている。
「それは……ちょんまげよ!」
「ちょんまげ!」
サクラが一度言い出したら自分の考えを曲げようとしないのは、この期間の付き合いから分かっていた。
さすがに奥の部屋に入り、準備された浪人風の見事な和服を間近に見ると、思わず逃げ出したくなった。その自分の思いとは裏腹に、女将は手際良く着付けをしていった。顔に白塗りを始めたかと思うと、たちまち帯が巻かれていく。鏡台に映る自分の立ち姿が変化していく。耳元で、微かに女将の小言が聞えてくる。
「自毛でちょんまげを結えと言われてもねぇ」
そうだよ止めたほうがいい、と心の中で思った。
「この短髪ではねぇ……。仕方ない、カツラにしましょう」
隣の部屋から女将はカツラを持ってきた。
「サクラの要望は『桃太郎侍』のような浪人風にして欲しいそうよ。でも、白塗りの浪人では、白波物みたいね」
カツラは見事に僕の頭に被さっていった。「桃太郎侍」は、幼い頃流行った時代劇の番組名である。浪人風情の桃太郎と言う男が、痛快に悪人どもを斬って、斬りまくる番組である。キメ台詞「退治てくれや、桃太郎」は当時子供たちの流行語にもなった。その番組のことを思い出しながら、今の状況を嘆いた。女将の声が次第に遠くなっていくのが分かる。そして、鏡に映る自分の姿をただ悲しく見つめた。
着替え終わり店のカウンターに出ると、サクラが一人でビールを飲んでいた。
「さすが姐さん。思った以上だわ。男の人って、化粧すると随分イメージが変わるものね」
彼女は手を叩いて喜んだ。女将は笑顔で、僕の背中を軽く押した。
「それでは、花見に出かけましょうか。桃太郎侍様」
彼女の言葉に一瞬力が抜けそうになったが、流されるまま店の扉を開けた。
小料理屋から一歩出た途端、僕等は注目の的だった。通り過ぎる誰もが、振り返るのがわかる。サクラは別人のように、淑やかに頭を肩に寄せながら歩いた。アメ横の中央に出ると、僕等の前で人並みが分かれた。
「綺麗ねぇ」、
「ちんどん屋か?」等、様々な言葉が飛び交った。母親は子供の手をしっかり握り、近付こうとしない。通りの人々を横目に、平然な顔をして歩くしかなかった。
「桃さん、ちょっと……」
サクラは僕の袖を引くと、耳元に口を近づけた。
「花見の宣伝に寄りたい所があるの」
「どこ?」
「ゲームセンター」
「……おいおい、ちょっと待てよ」
袖を引かれるままに、僕等はゲームセンターへと入って行った。
ゲーム機に夢中になっている若者達は、僕等の登場に驚き、しばらく口を開けたまま見つめた。そして、他人のふりをし、視線を合わさぬようにゲームを続けた。
サクラは店の中央まで、僕を連れて行った。
「皆さん、花見には行きましたか? 花の心は日本の心です。心が荒んだ時には花見です。ねぇ、桃さん」
彼女が僕の裾を軽く引いている。視線が集まっている。体中が熱い。何度も言い聞かす。
――もういい。なるようになれ。
「花の心は、日本の心。花見を嫌う浮世の鬼を退治くれや、桃・太・郎」
「そうでございますわ。桃さん。さぁ、行きましょう」
サクラは微笑みながら、腕を組んだ。
「おう」
何をやっているのか自分でも理解できていなかった。子供の頃に見た桃太郎侍をまねたが、とても似ているとは思えない。その後の若者たちの反応を見る余裕などなかった。ただ、言い終えた時に、職場でのストレスの大半が消えて行くのが分かった。
上野公園への階段を上ると、桜の枝が花の重みで垂れ下がりアーチを形成していた。夕刻の人並みは止むことが無かった。両脇に陣取られた花見客の視線が、自然と集まった。観光客らしい外国人が、しきりに僕達を囲んで写真を撮り続ける。他の外国人も彼女を見つめ、
「キレイ」という言葉を繰り返している。一人の男が、
「サムライ・サムライ」と言って、僕のそばで喜んでいる。
冗談半分で、歌舞伎のように見得を切った。何人かの拍手がおこる。意外な反応に驚きながらも、注目を浴びることに喜びを見出している自分がいた。
「イェース、アイアム、サムライ」
低い体勢をとり、刀を抜くような素振りをしながら言う。外国人のグループは、「グレイト」と声を上げ、再び写真を撮り続けた。スターになった気分だ。彼らはひとしきり写真を撮ると、僕等から離れていった。桜の花びらが風に揺れ、舞っている。
「桃さん、良い桜ね」
彼女の零れ落ちそうな笑顔がある。
「……うん、桜日和だ」
子供たちが走り寄ると、僕達の周囲を囲む。
ゆっくりと上野動物園の入口まで歩き、そこから折り返し、小さな鳥居の並ぶ神社を抜け、弁天堂から不忍池へ歩いて行った。見ている人の大半は、サクラの艶姿に惹かれているようだった。執拗に後をつけて来る者もいれば、完全に酔っ払ったまま無視をする者など、様々だった。その人の群れも不忍池を越える頃には疎らになっていった。
「ねぇ、写真撮りましょう。今日の記念に」
彼女は使い捨てカメラを取り出すと、近くに歩いていた中年男性に頼み写真を撮ってもらった。その笑顔は完全にその場に溶け込んでいる。花びらの舞う中に、満開の花が咲いているようだった。だが、逆に僕はどういう表情をしていいか分からず緊張したままだった。微かにフラッシュが光る。
その後で、二人で公園のベンチに腰を下ろした。
「今年の花見も終わりかな? そろそろ戻ろう」
彼女は首を横に振った。
「ねぇ、ホテル行こう?」
甘えた声だった。
「えっ、無理だよ。帯だってあるだろう?」
「帯ぐらい平気よ。私、元芸者なんだから……。ねぇ、行きましょう」
そういうと、サクラは近くに見えるラブホテルの看板へ向い歩き始めた。
建物の小さな窓にいた受付の男は、何度も瞬きを繰り返し、僕達の姿を何度も訝しげに見つめた。
「ご利用ですか?」
「はい」
僕は小さな声で答えた。恥ずかしかった。
「お泊りですか?」
受付の小さな窓に顔を近づけ、男は尋ねる。どう答えて良いか分からなかった。
「いいえ、もちろん休憩で!」
サクラの明るく大きな声がフロント内に響き渡った。
部屋に入り、僕等はしばらく抱き合ったまま時を過ごした。まるで逢瀬を楽しむ江戸時代の話みたいだ。
彼女は解いた帯を横へ引いて欲しいといった。「あれぇ」と叫びながら、両手を天井に向けたまま廻った。その仕草が可笑しく、二人でしばらく笑い続けた。
着物が床に落ちる音がする。そこには生まれたままの姿のサクラがいた。
結局、僕は何も伝えることが出来なかった。職場を辞めることも、別れ話もだ。彼女は最後まで陽気だった。
七
サクラと別れたのは、翌月のことだった。というよりは、僕が一方的に別れ話を切り出したといった方が正しい。
熱海駅のホームで、彼女に手紙を渡した。中には僕の現状と別れについて事細かに書いてあった。だが、彼女は封を開けようとはしなかった。
「何が書いてあるの?」
サクラは目をじっと見つめたまま、動かなかった。電車の音に時折かき消されながら、これまでの自分の気持ちと旅立ちについてありのままに話した。
「また、落ち着いたら会えるかしら」
サクラは無表情だった。
「……多分、もう会うことは無いと思う」
僕はホームに入って来た電車に飛び乗った。彼女の姿を確認することなくだ。そんな行動をとらせたのは、怠惰な自分へ戻る気がしたためかもしれない。
彼女と別れた後、すぐに中国留学の手続きを始めた。心細かったが、親戚が仕事上の関係で強い援助を約束してくれたことが決断の後押しとなった。周囲も、失業者よりはまだましということで了解してくれた。
その年の桜は異例の早咲きだったという。例年より早く咲き、そして散っていく花びらは儚いものがあった。まさに彼女との関係はそれと似ていた。咲きはじめた頃には、一方で散り始めているようにだ。最初から散ることがわかっている結末が、そこにはあった。
互いの存在は平行に描かれた線のように、結び合うことはなかった。哀しみが喜びへと変わることもだ。
全ての桜の花が散った公園には、枝ばかりの木々があるばかりである。
――僕等のパーティは終わった。
※
写真を見つめながら、近いようで遠い数年前の記憶を思い返していた。
今の僕は留学を打ち切り、台湾で仕事を続けている。紆余曲折はともかく、日々、次のステップをまだ模索して生きている。その意味では、あの頃と何の変化も無いのかもしれないと思った。
人生に得点はつけられるものではないと思う。評価を決めるのは自分しかいない。
窓から見えるあの陽明山にも桜の木があるという。以前、日本統治時代の名残りだという。でも、僕の中に繰り返し思い出されるのは、あの時見た桜の花だ。もう一度日本へ戻る時は、かつてサクラと名のつく女性と歩いたあの並木道を歩いてみたいと思う。
時は過ぎて行く。台湾での暮らしも、日々積み重ねられていく。僕はその中で、ただ窓に広がる景色を見ているに過ぎない。
写真はテーブルの上で何も考えずに、静かに休んでいるようだった。
〈 了 〉
|