あーゆーさはぎん?
蓋をしても蓋をしても溢れてくる心の寒さをどうにかしたくて、有給を取ってどこか暖かい場所にでも行こうと思った。
残念ながらパスポートは持っていないし、申請するにしても今からでは時間がかかりすぎるので、結局は国内旅行が精々だけれど、それでもこの寒さの原因から少しでも離れられるのなら何でも良かった。
まぁ、よくある傷心旅行というやつだ。
長年付き合っていた彼氏にフられた。
それだけのこと。
文字にすればこんなにも簡単に説明が終わってしまう事実に、乾いた笑いが出てしまう。
もう少し詳しくいえば、大学時代から七年付き合っていた彼氏に結婚についてそれとなく聞いてみたら、私の知らない間に私の知らない女と結婚して子どもまでいるらしいことが判明した。
そのついでのように、そろそろ切ろうと思ってたんだと言って、あっさり捨てられた。
私の人生そのものを丸ごと否定されたような気がした。
それでも、なけなしのプライドをかき集めて、何とか仕事はこなしたけれど……。
旅立ち当日。
天候にも恵まれ、予定時刻通りに降り立つ飛行機。
昼過ぎに出発の便だったので、到着した今は夕方より少し前くらいの時間だ。
予約していたレンタカーでそこから更に南のホテルを目指して海沿いの一般道を走れば、一時間半を過ぎた辺りで夕焼けが水面を照らして美しく輝いているシーンに出くわした。
そんな雄大な景色に誘われるようにしてハンドルを切り、気が付けば久しく聞いていない波の音をバックに浜辺の上に立っていた。
ホテルのチェックイン時刻までは余裕があるし、その他に決まった予定もないので、この程度の寄り道くらいは許容範囲だろう。
少し見回してみたが、寒い冬の時期であるせいか、人の姿は疎らなようだ。
頭を空っぽにして、落ちていく太陽を追うように静かに海岸沿いを歩いていく。
今にして思えば、なぜそこまで頑なに先を目指したがったのか分からないが、やがて砂が途切れ、ゴツゴツとした岩肌の隙間を縫うようにして、それでもひたすら真っ直ぐ進んだその場所で、私は信じられないものに遭遇してしまった。
最初は趣味の悪い人形か何かかと思ったが、すぐにそれは違うと理解する。
背格好は成人男性とほぼ同じくらい。
全身がわかめのような濃い緑色の鱗に包まれ、頭のてっぺんから背中を通って地面に伸びる尾の先まで光の加減で虹色に瞬く骨ばったヒレが生えている。
また、同様のヒレが人間の耳とほぼ同じ位置、腕の肘辺りから手の甲にかけて、あとは足のふくらはぎ、腰の側面にも少し生えていた。
指の間には皮膜が張られており、骨が尖ってそのまま指先から飛び出たような鋭く黒い爪が伸びる。
そんな野生的な右手には、いかにもな三叉の銛が握られていた。
そこまではまだ分かるのだが、なぜかソレは人間用の灰色のボクサーパンツと、少し派手めの雄牛デザインなシルバーバックルの付いた黒の革ベルトを装着している。
そして、そのベルトには巾着より少々大きい程度のミニチュアサイズの投網が下げられていた。
網の中には防水携帯と防水財布、白い狐のキャラクターキーホルダーのついた鍵束が入っている。
私の脳は過去最高に混乱した。
無駄に現代ナイズされた本来ファンタジー世界の住人であるはずの半魚人然とした生物が、ハッキリとした存在感を持ってそこに立っていたのだ。
これが幻覚にしたって、夢にしたって、あまりに酷すぎる内容だと思った。
未だに理性は戻って来てはいないが、本能的な恐怖によるものか、ひとまず、未知の生物から目を離さないように、ゆっくりと後ずさる形でその場を脱しようとする私。
が、ダメ。
現実は非情だった。
砂の付着した靴が岩に擦れ、ザリザリと無遠慮に音を立てて、魚特有の濁った眼球がこちらを捉えてくる。
すぐに飛び掛って来られることこそなかったが、どこかナマズじみた表情の読めない顔を向けられて、私はいよいよパニック状態に陥ってしまった。
「……っあーゆーさはぎん?」
混濁しまくった思考回路で何がどうしてそういう結論に到ったものか、歪に引き攣る己の口が、いきなり謎生物に向かいそんな言葉を放っていた。
バカか、死ぬ気か、と僅かに残った理性がその意味不明な選択を罵倒する。
幽霊にしろ、妖怪にしろ、宇宙人にしろ、見てはいけない存在と遭遇してしまった者の、その末路のほとんどは哀れな姿へと成り果てるのが常道だ。
けれど、目の前の未確認不明生物は、エラのある辺りから僅かに頭部を曲げるという、人でいう首を傾げるような仕草を見せた後、あろうことか私のとんちんかんな問いに対し見事に的確な答えを返してくる。
「ノー、アイムマーマン」
ひぇっ!?
「しゃべった!?」
「そりゃ、しゃべるでしょう。マーマンなんですから」
にっ、日本語ペラペラじゃないですかーやだーっ!
マーマンだったらしゃべるって、どういう理屈なんですかーー!?
しかも、意外とイケボで見た目とのギャップが気持ち悪ぅーーーいっ!
あばばあばばばばあばばばあばばッ!
まずは私が落ち着け!
プリーズギブミーミネラルウォーター!
……脳内の混乱は最高潮だ。
そんな中、魚の化け物が再び餌をねだる鯉のようにパクパクと口を開いた。
「それにしたってサハギンだなんて、人をゲームのモンスターか何かみたいに」
「えっ」
「ただの冗談なのかテレビでそういうネタでも流行っているのか知りませんが、初対面の人間相手に口にするのは止めたほうが良いと思いますよ」
「あ……はい、すみません」
流れで謝ってしまった。
うん、まぁ、怒らせたいわけじゃないので。うん。はい。
でも、初対面の人間って……貴方マーマンですよね、人間じゃないですよね。
もしかして、分類的には人類なのだろうか? 魚類じゃなく?
せめて某有名大海賊アニメの魚人くらい人間らしい姿なら分かるけれど、どこからどう見ても魚寄りのこの生物が人類?
冗談はヒレだけにして欲しい。
そもそも見た目だけでいったら、サハギンとマーマンなんてほとんど同じようなものなのに、どこに不愉快になる要素があるのか分からない。
アジア人の見分けがつかない白人から中国と韓国と日本辺りを一緒くたにされて、それに憤る感覚?
もしくは、イエローモンキーってバカにされたみたいなもの?
半魚人の普通なんて人間が知っているわけもないのに、まるで理解していて当たり前みたいな態度で接されても困ってしまう。
この分じゃいつまた無意識で彼の地雷を踏んでしまうか……。
いや、待て。
今一番大事なのは、真に考えるべきは、そこじゃない。
マーマンなんていう不思議生物と遭遇したからには、私はもっと重大な問題に差し掛かっているのかもしれないのだ。
「あの……ここって、鹿児島……ですよ、ね?」
まさか、ボーっと海沿いを歩いている間にうっかり次元を超えて異世界トリップしていました系の話じゃあないですよね?
だって、海と反対側を見ればちゃんと道路だってあるし、背後を振り返ればごく疎らだけれど普通の人間だっているし、ここに来るまでに変な違和感だって覚えなかったし、おかしいのは目の前のこの半魚人の存在だけだ。
あ、でも、そうなると異世界というよりパラレルワールドにトリップの可能性が出てきちゃうのか。
えっ、どうしよう。だとしたら、この世界での私の存在ってどうなるの。
いや、私が知らなかっただけで、普通にマーマンが実在している可能性もないとはいえない。
だから、まだトリップとは決まったわけじゃあないんだけど、でも、どうしよう。えっ、どうしよう。
などとツラツラ考えごとをしている私へ、半魚人は予想外のことを聞かれたとばかりに魚にあるまじき白い瞼をパチクリと瞬かせて、それから動かしづらそうに無い首を縦に振った。
「おぉ、そいじゃが。かごんまじゃっど。
おじゃったもんせー」
いやあああ、ちょっと待って何でいきなり日本語ログアウトぉーーーー!?
今の今までちゃんとお話できてたじゃないですかーーやだーーーっ!
「わわわワタァシ、魚類語ワッカリマセェーンっ」
「……いくら海辺に住んでいても我々マーマンは魚じゃなくて人ですし、ついでに鹿児島の方言を魚類語なんて、先ほども言いましたけど、冗談にしても失礼ですからね」
「度々すみません」
はい、ただの訛りでした。
鹿児島県南部にお住まいの皆々様、大変申し訳ありませんでした。
即座に腰を直角に曲げて謝る私へ、身体の重心を右足と銛にずらして、マーマンは呆れたようにため息を吐く。
まだ少し頭脳が間抜け状態から脱しきれていないだけで、けして冗談の類ではなかったのだけれど、彼の立場からすると捨て置けない発言だったらしい。
連続で不快にさせてしまったが、それでも怒っていない様子なのは、せめてもの救いだ。
しかし、そうか……方言か……。
こんなのは言い訳にしかならないけれど、いきなり未知の言語でペラペラしゃべられたら、誰しも混乱を悪化させるというものではないだろうか。
急に外国人旅行者から英語で話しかけられるだけで、いったい何人の日本人が瞬間的記憶障害に陥っていると思うのだ。
例えそれが沖縄のめんそーれ的な歓迎の現地語だったとしても、元よりそういうものだと認識していなければ、きっと多くの者は戸惑いしか覚えないだろう。
無駄に年を食って自己弁護の方法ばかり上達した私の脳がそんなくだらない思考を重ねて余計なエネルギー消費をしていると、目の前のマーマンがどこかバツが悪そうな様子で左手を後ろ頭に置いて、小さく腰を曲げつつ口を開いた。
「いえ、まぁ、私もすみませんでした」
「え?」
「貴女って、多分アレですよね。本州から来た観光客とか、そういう人。
だったら、マーマンなんか見たことないだろうし、ある程度仕方ないっていうのは分かってますから」
…………ほわっつ?
「ええーと、まるで九州ではマーマンが普通に生息しているかのようなお話に聞こえたんですが……」
「生息?」
「あっ、あっ、すみませんっ」
うおお、学習しないマぁイブレイぃン。
これ多分最初に注意されたサハギン扱いというのをしてしまったパターンだ。
やばいやばいどうしよう。
もし乙女ゲームだったら、とっくにバッドかノーマルルートが確定してしまっているだろう。
いや、間違ってもこんな半魚人を攻略なんてしたくないし、そもそもヒーロー枠として絶対認めないけれども。
せいぜいイケメンたちの好感度を教えてくれる友人枠だ、こんな生臭いゲテモノキャラ。
「まぁね、してますよ。普通に、生息。
九州全土の沿岸部で確認できるんじゃないですかね、えぇ、はい」
ぐえっ。ほとんどない肩を竦めながらイヤミを言われてしまった。
しかし、甘んじて受け入れよう。
私だって、何度も注意しているのに、ひたすらチンパンジー扱いなんてされた日には普通にキレるだろうし。
怒られたら慌てて謝るくせに、口を開けば即チンパン発言とか、むしろバカにされているとしか思えない。
そう考えると、赤の他人に煽られ続けながらも怒らずに質問にもちゃんと答えてくれるこのマーマンは、実はかなりの善人なのではないかと推測できないこともないような気がしないでもないような……。
「あぁ、でも、特に猫の多い地域だとさすがに数は少ないみたいですよ。
あの猫好きの聖地として有名な福岡の藍島とか相島なんてレベルになるともう一人もいないんじゃないですかね。
血液型がO型の人間が蚊に喰われやすいように、マーマンは猫に襲われやすい体質みたいですからね」
体質っていうか、めちゃくちゃ魚扱いされてますよね、ソレ。
あと蚊の話はまだ学術的にハッキリしているわけじゃないはずだから、例えとして適当ではないような。
いや、言いぶりからしてマーマンの体質の方も科学的根拠があるわけではないようだし、それなら一緒に並べておかしくないのか。
「で、もう少し先に行った関門海峡辺りには、河豚好きが集まっているという噂です」
「え、密漁?」
「いや、ちゃんと河豚調理の免許を持っている料理人のお店でお金を払って食べていると思いますけど?
当たり前じゃないですか、どんな犯罪者集団ですか」
九州全土とか言いながら微妙に本州側の山口県にもハミ出しているし、普通に魚を食べるマーマンとか共食い的な意味でどうなのって感じだし、ていうか、そもそもの話。
「…………日本円持ってるんだ」
「は?」
「うあ、またっ! すみません、私ホントにあのっ、よく知らなくて!
ごめんなさい、ごめんなさい!」
私ってヤツは、どうしてこう考えていることをそのままポロポロと口に出してしまうのか。
しかし、私の脳の処理速度だと、言って良いか悪いかを判断している間に話が進んでしまいかねないから、改善するにも難しいところだ。
もしかしたら、アイツも私のそういう部分がずっとイヤだったのかもしれない。
例えそれが事実でも、勝手に人を浮気相手としてキープしていい理由には絶対にならないけれど。
思わぬ失言に慌てて何度も頭を下げれば、硬そうな唇からこれまでで一番深く長いため息が落ちてきた。
見上げると、俯いて額に左手を当てたマーマンが、哀愁を帯びた声色で告げてくる。
「……こんな根本的なこと本当は言いたくないですけど、我々だってきちんと戸籍を持っているし、学業にだって従事するし、税金も、何ならエネッチケーの受信料だって払っているんですからね。
国民の三大義務を負った、れっきとした日本人ですからね」
ホワイ、ジャパニーズピーポー!?
「こ、戸籍っ!? ていうか、テレビ見るんですか!?」
「これだから都会人は、すぐ地方民を猿人扱いして」
「いや、そんなつもりは……」
「まったく、群馬じゃないんですからね」
「うわぁ。ネット民だ、このマーマン」
「何ですか、マーマンがネットカフェのゴールド会員だったらダメなんですか」
「ニートの人ですか?」
「漁師の人ですけど?」
「天職じゃないですか」
「泳げないマーマンもいますし、必ずしもそうとは限りませんよ」
「はぁ、さいで」
ここまで話してみて、とりあえず、この魚男は最初に考えたような食人種の生物じゃないんじゃないか……と思えた。
本気で私が今まで知らなかっただけなのか、そういう世界観のパラレルワールドにトリップしてしまったのかは分からないけれど、ここではマーマンは一般的な人種のひとつなのだ。
ということは、こんな海辺で声からしておそらく十代後半から二十代前半の見知らぬ男に唐突に話しかけた私は、もしかして一冬のアバンチュールを楽しもうとするビッチでこれは逆ナンなのだと勘違いされている可能性もあるかもしれない……のだろうか?
イヤだ。それだけは勘弁だ。断固拒否だ。
仮に逆ナンするにしたって、鱗だとかヒレだとかがある男は遠慮させていただきたい。
私はあくまで普通の人間の男が好みなのだ。
いや、まぁ、彼の態度からして、男女としてのやりとりを楽しむだとかそういう雰囲気は全く伝わってこないから、単に余所者に話しかけられて無視しない程度に律儀だったり親切だったり、そういったお人好しな性格というだけなのだろうとは推測できるけれど。
見ず知らずの痴呆老人に延々話しかけられても、ずっと相手とかしてあげちゃうタイプ、みたいな。
となると、私のような通りすがりの女に長々付き合わせてしまって、結構可哀相だったかもしれない。
「えっと、漁師の人ってことは……もしかして、その格好、お仕事中だったりしました?
それなら、あの、すみません。ずいぶん邪魔してしまってますよね、私」
よし。これで本当に仕事中にしろ、そうじゃないにしろ、自然とお開きムードの流れになるだろう。
「……いえ、今日の仕事はもう終わっているし、帰宅前に少し時間を潰していただけなので大丈夫です。
それに、太陽もない視界の悪い中で潜るなんて自殺行為に等しいですよ。
自分は命知らずではないので、そういった漁のやり方はしません」
「ええと、なるほど……?」
あれ、魚ってそれなりに夜目が利く生き物じゃなかったっけ。
そこだけ人間寄りなのかな。不便そうだ。
「そういえば、貴女、こんな時間にそんな軽装で足場の悪い危険な岩場までフラフラと……いったい何しに来たんですか?」
「えっ」
ゆっくり落ちていく夕陽がついに彼方へ沈もうかというタイミングで、残り僅かな光を背負ってシルエットのみになったマーマンが問いかけてきた。
それに対して明確な解答を持ち合わせていない私は、どこか後ろめたいような気持ちで視線を揺らして、途切れ途切れに応えを返す。
「いや……その、ボーッと歩いてたら、いつの間にか……ってだけで……特にそんな、目的があったわけじゃ……」
「あー、はい。そっちのパターン」
「そっちのパターン?」
問答の間にすっかり闇色に染まった海岸で、道路沿いの街灯の頼りない明かりに照らされた緑の鱗が妖しく光っていた。
「本人的には完全に無意識なんですけど、危険なシチュエーションを目の前にして唐突に『アレ、これって楽になれるんじゃね? いい考えじゃね?』って妄執に取り付かれて、実際は別に死にたいなんて思っているわけでもないのに、マトモな理性も働かないままノリでウッカリ自殺しちゃうパターン、ですかね」
「なっ!? 止めてください縁起でもないッ!」
淡々となんてことを言う魚なのだッ。
そりゃあ、私は確かに傷心旅行中だし、気付いたらここにいたけれど、だからって自殺なんてとんでもない話だ。
サハギン扱いの意趣返しにしたって酷すぎる。
「実際そんな縁起でもない顔してましたし、貴女」
「はい?」
「キレイな景色に夢見心地で、というよりは、ハイライトのないレ○プ目でフラフラ歩いていたので」
「レっ、んなっ……み、見てたんですか!?」
私が気付くよりももっとずっと前に彼はこちらの存在を認識していたというのか。
なんだか、パニックになりながら必死に逃げようとしていた自分がバカみたいに思えてしまうじゃないか。
「えぇ。
だから、遊泳禁止区域を示す浮き的にというか、危険地帯の境界線代わりにでもなればと思って立ってたんですけど。
でも、結局考え違いだったようで安心しました。
まぁ、さすがにいきなりのサハギン扱いには驚きましたけどね」
「えっ? えっ?」
「それじゃあ、自分はそろそろこれで。
明日も朝早いので、帰ります」
いやいやいやいや。えっ。
つ、つまりこのマーマンは、いや、彼は、○イプ目でフラフラ歩いている全く見ず知らずの不審者を心配して、あるかないかも分からない万が一に備えてこんな岩場に立っていた、と。
あまつさえ、その不審者に一方的に差別用語を吐かれまくりながらも彼にとって無駄でしかない話に貴重な睡眠時間を削りながら付き合っていた、と。
さらに、今、善意を押し付けることも、恩を着せることも、見返りを求めることも、ましてや名前を告げることもなく、親切にするだけして颯爽と去っていこうとしている、と。
どうせ自殺だなんだってあえて言葉にしたのも、自分がいなくなった後のことを考えて多少の抑止力になればとか思ってのことなんでしょう。
なによっ、こっちの事情なんか何も知らないくせに、分かったような顔で勝手に優しくなんかして、こっ、この半魚紳士!
ブロークンハートにクリティカルでキュンとなんて、きてないんだからねっ!
「貴女も道中お気を付けて」
「あっ、ま、待って!」
段々その魚顔が妙にイケメンに見えてきたりなんか全然してないから連絡先を教えてくださぁいっ!
と、まぁ、そんなこんなで、その数分後、愚痴を話す相手もいない哀れで切羽詰った女を装い、彼の善意を利用する形で半ば無理やりスマホの赤外線通信を交わした。
翌日から、早速メールで窺いを立て、時間を合わせて毎日のように電話を掛けてしまったけれど、さすがにコレはがっつきすぎだったかもしれない。
今日もですかと呆れながらも、きちんと相手をしてくれる辺り、彼は本当に人が好いと思う。
他愛ない雑談の合間に元彼や職場の愚痴を吐いてスッキリさせてもらったりなんかしつつ、その対応の丁寧さに、やっぱりそういう意味で好きになってしまったのかなぁと、出会った当初より少しは冷静になった頭で自らの心を分析する。
そして、迷惑な連日の長電話の末、お互いの家族構成まで知る程度の仲となった四泊五日の旅行最終日には、私から誘って一緒に御飯を食べに行ってもらったりもした。
無駄に声が良いだけに、数日ぶりに彼の半魚っぷりを目の当たりにして、改めてギョッとしてしまった……なんていうのは内緒の話だ。
もちろん、すぐに慣れたけれど。
彼の馴染みだという素朴な食堂で、その昔串木野にいたらしい店長の常連限定裏メニューだという『まぐろラーメン』を奢ってもらったが、その名前の生臭さに反して、普通に美味しいラーメンだった。
ただ、店長や女将さん、他にも彼と仲の良いらしい人間の常連さんたちは、もはや宇宙語にしか聞こえない濃厚な鹿児島弁を操っていて、私一人だけ全く何を言っているのか理解できず、非常にいたたまれなかったとだけ追記しておく。
とりあえず、先のことはまだ分からないけれど、もしここに嫁いで来るような状況にでもなったら、少なくとも外国に移住するのと同程度の覚悟は必要そうだと思った。
時間があるから家の近くまで送ってあげると恩着せがましく彼をレンタカーの助手席に押し込んで、アクセルを踏み込み数分後、ふと、このまま別れたら少なくとも数ヶ月は会えないのだなという事実が頭に浮かんだ。
そのまま軽く雑談をしながら運転を続けていたのだが、気が付いたら、私たちの乗っているレンタカーがいつの間にやら大人の休憩所の駐車場に停まっていた。
私もビックリしたけれど、彼もものすごくビックリしていた。
元彼と付き合っていた七年間、一度だって他の誰かに目移りしたことなどなかったのに、たった二回会っただけの半魚人をこんな場所に連れ込んでいるだなんて、とてもじゃないけれど自分で自分が信じられなかった。
彼がもし卵生の生物だったら、どうすることも出来はしないというのに、早計すぎる。
いや、何を考えているんだ私は。全くもって正気じゃあない。
どうする。どうしたらいい。非常に気まずい。
唾を飲み込む音すら聞こえそうな緊張感溢れる空気の中、半ばパニック状態に陥った私は「せっかくなので食べていきませんか」とか何とかバカみたいなことを口にしてしまう。
意味が分からない。
や、分からなくもないけれど、分かりたくない。
途端、再起動を果たした彼はジトリとした半目になり、私はそれから滔々と諭され始めてしまった。
曰く、元彼へのあてつけ行為ではないのかとか、傷付きすぎて自棄になっているのではないかとか、精神的に不安定な状態でたまたま話し相手になった男に依存しかけているだけではないかとか、旅先という非日常の中で気分が高揚しているだけではないかとか……あとは、マーマンは見目の問題であまり同種の女性以外に好かれることがないから、ただでさえ数時間後には空に発つ予定の私に下手に期待させて欲しくない、という本音も聞かされた。
そして、最終的に「とにかくもっと自分を大事にした方が良い」と締め括り、ため息を吐かれる。
真面目だ。
安っぽいドラマを真似たわけでも、自分に陶酔しているわけでもなく、この魚は本気でそんなセリフを口にしたのだ。
天然記念物だ。
彼がこんな手のかかる通りすがりの女にとことんまで誠実であろうとするなら、私もやたらと混乱なんてしている場合じゃあないなと思った。
なるべく同じだけの熱量を返したくなって、深呼吸で自らの気持ちを落ち着かせる。
それから、与えられた言葉をしばらく黙って推考していって、やがて、自分は彼にそのどれとも違う感情を抱いているという結論を導き出した。
今後、しばらくか、それとも永遠にか、会えなくなってしまう好いた男の存在を、ただ自分に深く刻み付けておきたかっただけなのだ、私は。
そもそも、例えこれきりの関係になるにしろ、逆に長く付き合いを深めていくにしろ、彼が精神的にも肉体的にもこちらを大事にしてくれないことなど有り得ないのではないかと思えた。
妙に悟ったような凪いだ心持ちで、そのまま素直に想いを伝えてみれば、男は頭を抱えて小さく唸り出してしまう。
結果からいってしまえば、三ヶ月後、私と彼は夫婦となった。
本人たちもビックリのスピード結婚だった。
あの後、私はマーマンという人種の持つ鱗とヒレが、とにかく最凶にヤバイという事実を知り得ることとなったのだ。
どれくらいヤバイかというと、鹿児島帰りの飛行機の中ですでに退職願を書き終わっている程度にはヤバイ代物だった。
また、引継ぎの問題なども考えれば最低でも二ヶ月は辞められないが、その間の休日のどこかで少なくとも二回は絶対に会いに行こうと決意しているぐらい、それはもうヤバかった。
もはや中毒だ。
ヤバすぎて、語彙力は死んだ。
ただし、マーマンなら誰でもそうなのかと問われれば、私は違うと答えるだろう。
だって、男の人に大事にされるという意味を、彼と接することで、私は初めて心の底から理解したのだ。
少なくとも、元彼などとは比べるべくもない。
もちろん、旅行のきっかけとなった心の寒さなんていうのは、とっくの昔に解消されている。
物理的な体温はともかく、彼の傍はとても暖かかった。
まぁ、そんなこんなでごくごく身内だけの簡素な式を挙げて、一人暮らしをしていた夫の陸上生活用の家に転がり込んだ私は、適度に在宅ワークをこなしつつ、ゆっくりと鹿児島の地に馴染んでいった。
いつかの未来で「あの頃の自分のどこに惚れたのか」なんて尋ねた時に、「か弱い女の子を守ってあげたくなるような精神的な意味じゃなく、何をしでかすか分からないという物理的な意味で放っておけないと思ったから」などという微妙すぎる返答を聞いて、結婚後初の大喧嘩に発展してしまったなんてバカ丸出しのエピソードは、今の私には全くもって関係のない話である。
ちなみに、その日の内には、ちゃんと仲直りしたのでご心配なく。
……なーんて、ね。
誰に言ってるのか分からないけれど、とにかく私は半魚人の旦那様と末永く幸せになりましたってことで。
はい。
おわりっ。