復讐のカタチ縦書き表示RDF


復讐のカタチ
作:ミズキシホ



俺は、あの女を不幸にする、と心に決めた。

*****************************************

玄関のドアが閉まり、男は消えた。

幸子は、ほうっと息をついた。

そして、
以前通りの秩序が戻った部屋を満足げに見渡した。

男と共に消えた、
無秩序なガラクタたち。
男にとっては秩序があり、
立派な存在意義のある品々なのだろうが、
幸子にとっては、
景色の悪い眺めでしかなく、日々苦々しく思っていた。
そう、二人の仲がうまく行っていた頃でさえ。

「はあー、せいせいしたねー!」

幸子は飼い猫にそう話しかけながら大きく伸びをすると、
出かける支度を始めた。

身支度が済み、
時計をし、
指環を……。

「あれ……? どこへ置いたのかしら、あたし……。」

もうかれこれ何年も、
出かけるときには必ず、
お守りのようにはめている指環が見当たらないのだ。

幸子は決して迷信深い人間ではないのだが、
以前に一度、
指環をはめずに出かけた際、
それはもう散々な目にあった。
偶然だとは思っているのだが、
それ以来、
また何かよからぬ事が起きる気がして、
指環をはめずに外へ出たことはない。

幸子は必死で探した。

昨日の記憶を辿る。
「帰宅して、時計を外してここにおいて、
 その横に指環も……。」

散々探したが、
結局、指環は見つからなかった。

「おかしいわ……。
 外で失くすはずがないもの。
 イタズラするような猫じゃないし……。
 まさか……、あの男が……?
 そうだ。きっと、あの男だわ……。
 あの男が持っていったんだわ……。
 ああ、あたしは、あの男に呪い殺される……。」

指環がない=「あの男が持っていった」と短絡するのには訳がある。

幸子の脳裏には、
あの男が得意げに語っていたあの日の情景が、
ありありと蘇ってきた。

「憎い、どうしても赦せない相手を、
 自分で直接手を下さず、
 八つ裂きにしてやりたい!
 と思ったことはないかい?
 とびきりの苦痛を与えたい、破滅させてやりたい、と。
 一撃では面白くないから、
 徐々に徐々に、少しずつ、じわじわと、
 自分が受けた苦しみを思い知らせてやりたい、と願ったことはないかい?
 俺にはあるよ。
 そして俺は実際に天罰を下してやったんだ。」

そう言うと、心の底から楽しそうに男は笑った。

「やり方?
 やり方は簡単だよ。
 憎い、呪ってやりたい相手が大事にしているものや、
 始終身に着けている物を握り締めて、
 そいつの不幸を願うだけ。」

「結果?
 そりゃー、大成功だったね!
 俺自身、半信半疑だったんだけどね、実は。
 みるみる不幸になっていったよ。
 そう、坂道を転げ落ちるように……!
 しまいに発狂して自殺さ!
 俺は、家で酒でも呑みながら、
 ただ、ヤツの不幸を願っただけ。
 こういうのを安楽椅子殺人とでも言うのかな?
 アハハ。」

「あ、びっくりした?
 アハハ。
 冗談だよ、冗談!
 そんなので人を殺せたら、
 人類なんかとっくに滅亡してるさ!」

幸子の複雑な表情と顔色を見て、
男は「冗談だ」と笑って取り繕ったが、
幸子にはそうは思えなかった。

――このひとは本気だわ……。

その時のあの男の顔を思い出すと、寒気がした。

口許に薄ら笑いを浮かべ、
自慢げに、自分に陶酔しきって楽しげに話す男。
ランランと光る目だけが笑っていなかった。

――ああ、あたしはこれからどんな目に……。

その時、携帯電話が鳴った。

「キャッ!」

幸子は思わず叫んだ。
携帯電話にそろそろと手を伸ばす。
ディスプレイには「非通知」の文字。

鳴るがままにまかせ、出ないでおこうかとも思ったが、
着信音が鳴り続けるこの状態に、いま我慢がならない。
出ないで切ってしまったとして、
のちのちずっと気にかかるに違いない。

幸子は、通話ボタンを押すと、恐る恐る耳に当てた。

「……もしもし……」

相手は無言だ。

「もしもし?!」

相変わらず無言。
でも、切れる気配はない。
息遣いが聞こえるような気もした。
幸子は、さらに電話の向こうの気配に神経を集中した。
何かの音が聞こえる。
カラン、カランという乾いた音が。
幸子は耳を澄ませた。
カラン、カラン……。

――なにかしら、この音は。
――聞き覚えのあるこの音は……。

幸子はハッとした。

――これは……、この音は……、
――氷がグラスに当たって鳴る音……!

――やはりあの男が……!
――あの男があたしの指環を握り締めながら、
  酒のグラスを傾けつつ、
  あたしの不幸を願い、切望し、
  ニヤニヤしているのだわ……!

これから儀式をするんだよ、と。

自分のプライドを傷つけた者への制裁。
決して赦しはしない、と。

幸子は、恐ろしくなり、震える手で慌てて電話を切った。

すぐに、
携帯電話の設定を「非通知の電話を受けない」に変更する。

心臓がまだ痛いほど早く打っている。
幸子は必死に落ち着こうと努めた。

「大丈夫、大丈夫……。」

自分に言い聞かせるために呟く。

やがて、パニックから抜け出した幸子は、
さっきの電話のことを考えていた。
そして、
あの電話があの男からだ、
という思いつきになんの根拠もないことに気付き、
臆病な自分に腹が立った。

「気のせいよ、気のせい!」

嫌な気分を祓い、自らに言い聞かせるように、
幸子はそう声に出した。

その時、
また携帯電話が鳴った。
幸子はビクッとしたが、
「非通知」の電話を受けないように設定したことを思い出し、
少し安堵する。
ディスプレイを見ると、
「公衆電話」と表示されている。

鳴り続ける電話を手に、幸子は立ち尽くしていた。
幸子の母は携帯電話を持っていないので、
公衆電話からかけてくることがある。
これは、母からなのか……、それとも……。
母からであれば、急ぎの用である。
母からでありますように、と祈りながら、
幸子は通話ボタンを押した。

「……もしもし……」

電話の相手はやはり無言。

「……もしもし……? お母さん……?」

応答はない。

「なんなの、一体!
 誰なの?!」

相変わらず無言だが、
クスッと笑い声が聞こえた気がした。

「いいかげんにしてっ!」

幸子はそう叫ぶと、電話を切った。

幸子はすぐに実家へ電話をかけた。

「……もしもし、あたし、幸子。
 いまね、公衆電話からの電話が鳴っていたのだけど出られなかったから。
 お母さんかもと思ったけど、
 家にいるんだから違うわね。
 え? ううん、大丈夫。
 間違い電話よ。
 じゃなかったら、用があったらまたかかってくるでしょ。
 うん、うん。
 わかった。
 じゃあ、またね。」

母ではなかった。

――では、誰が……。
――やっぱり、あの男が……?

――いえいえ、そんなわけがないわ、考えすぎ!

と、幸子は自分に言い聞かせる。

――さて、早く出かけなくっちゃ。
――嫌なことは考えないようにして、
  楽しい晩を過ごしてこようっと。

幸子は嫌な気持ちを払拭させるかのように、
勢いよく玄関のドアを開けた。

「ヒッ……!」

声にならない声が出る。
一歩踏み出そうとした足を、
辛うじて踏みとどまり、
慌ててドアを閉める。

驚きすぎて声も出ない。
手がわなわなと震えている。

玄関のドアの前には、
10匹くらいの虫の死骸が散らばっていた。

――あたしの大嫌いなあの虫……。
――カマドウマと言うのよ、確か。
――あのやたらと長い脚と、テラテラと光るあの色、
  じっとしていたかと思えば、急に跳び、
  しかも、どこに跳ぶか分からないあの動き……。
――なにもかもが気味悪く、おぞましい……。

――誰の嫌がらせかしら……。

1匹や2匹ならともかく10匹以上はあった。
嫌がらせ以外には考えにくい。

幸子は、
泣きそうになる気分を抑えて、
深呼吸をすると、
ほうきとチリトリを手にした。

ドアノブに手をかけ、
もう一度大きく深呼吸をする。
そして、覚悟を決めてドアを開けた。

「……えっ……。」

幸子は自分の目を疑った。

ほんの何分か前まで散らばっていたあの虫の死骸が、
跡形もなく消えているのだ。

――幻覚?
――これは夢?
――あたしがおかしいの?

――ちがうわ、幻覚なんかじゃない、夢でもない。
――しっかりするのよ、あたし!

幸子は玄関の外へ出ると、
辺りを見回した。
特に人影はない。

――見られているのね……。
――あたしは見張られている……。

幸子の部屋はマンションの5階である。
エレベーターは1階で止まっている。
幸子は階段も見に行くことにした。
廊下を進み、階段の少し手前まで行くと、
何かが落ちている。
近寄ってよく見ると、
あの虫の死骸だ。

――あの虫の死骸をばら撒き、回収した人間は、階段を通ったのね。

幸子は階段を下り始めた。
その人間はよほど慌てていたのか、
階段のところどころに、
ポツン、ポツンと、虫の死骸が落ちている。
虫の死骸を辿り、
4階まで降りた。
死骸はさらに下へと続いているようだ。
3階への階段を下り始める。
虫の死骸は、相変わらず、
道しるべのようにポツリポツリと落ちている。

そして、
3階まで降りると、
道しるべは階段から外れ、
部屋のある廊下へと向かっている。
幸子は、虫の案内どおり、
3階の廊下へと進んでいった。

注意深く廊下を進む。
道しるべは、ある部屋の前で途切れていた。
それっきりその先にはない。

幸子はその部屋のドアに向き直った。
表札は出していない。

――罠ね。これは罠だわ……。

幸子の中で何かが警鐘を鳴らす。

――分かってる。これが罠なのは分かっているわ。
――でも、ここまで来て引き下がれない。
――罠だと分かっているのだから、心してかかれば大丈夫。

幸子はその部屋の呼び鈴を押した。
中で鳴っているようだが応答はない。
もう一度押す。
やはり応答はない。
ノックをする。
応答はない。

幸子は、さすがに少し迷ったが、
ドアノブに手を伸ばした。

――気をつけて、気をつけて……。

回して、引いてみる。

カチャッ。

――開いた……。

恐る恐るさらに引く。
中が覗けるくらい開けた。
玄関の中は暗いので、目が暗がりに慣れずよく見えない。
隙間から目をこらして見る。
目が暗さにだんだん慣れてきた時、
玄関の中にひとが立っていることに気付いてギョッとした。

「キャッ!
 す、すみません!」

相手は何も言わない。
しかも、微動だにしない。

なんだか奇妙な感じがして、
幸子は大きくドアを開け放った。

「ヒィッ……!」

辛うじて、悲鳴を噛み殺した。

その「ひと」は、
床から浮いていた。
正しくは、
天井からぶら下がっていた。
ロープを首にかけて。

幸子は、逃げることも叫ぶことも出来ず、
ただただ立ち尽くしたまま、
眼をそらすことも出来ず凝視していて気がついた。

「人」ではない。

「マネキン」だった。
ご丁寧に服も着せられて、ぶら下げられていた。

――あたしの行動を見越して、これを仕掛けた人間がいる、ということね……。

俄かに恐ろしさが込み上げてくる。
ドアを閉めると、
自分の部屋へと急いだ。

幸子は、自分の部屋の玄関へ入り、鍵をかけた。

ゼイゼイと肩で息をしている。
階段を駆け上ったせいだけではなさそうだ。

――誰が……。一体誰が……。
――やはり、あの男なの……?

靴も脱がず、明かりも点けず、
暗い玄関で考え込む。
幸子は、さっきのマネキンの光景を思い出してブルッと身震いした。

カタン。

「キャッ!」

ドアの郵便差込口が鳴って、幸子はビクッとした。
封筒がストンと床へ落ちる。

恐る恐る拾う。
ごく普通の茶封筒だ。
差出人の名前はもちろん、幸子の名前すらも書いていない。

手で破ろうとしたのを思い直して、
部屋へ入ると、はさみで封を切る。

やっぱり、
というべきか、
カミソリの刃が内側に貼り付けられていた。
封筒の中には折りたたんだ紙が入っている。
そうっと引き出す。
紙と一緒にまたあの虫の死骸が出てきた。

「……!」

ぞわっと鳥肌がたつ。

紙を広げる。

バッと目に飛び込んでくる文字。
その紙には新聞を切り貼りして、こう書かれていた。

『アのひとはおマエのせいで自殺したノだ!!』

――自殺……? 誰が……?
――あの男が?
――まさか、そんなわけがあるはずがないわ。
――あの男が自殺なんてするわけがないもの。
――では誰が……。

その紙を呆然と見下ろしながら考えた。

『アのひとはおマエのせいで自殺したノだ!!』

――もしかして……。
――そうね、きっとそうに違いないわ。

「あのマネキンのことね……。」

新聞を切り貼りした手紙。

初め、幸子は、
ずいぶん前近代的なことを、と思った。
しかし、いま、
この手法は的を射ている、と幸子はぼんやりとした頭で考え、
おかしなことに、
半ば感心していた。

子供騙しのように感じられる、新聞を切り貼りしたこの手紙。
文の内容は問題ではないのだ。

開いた瞬間に目に飛び込んでくる奇抜な文字、文字、文字。
あのショックは尾を引く。
何度もフラッシュバックする。
そして、忘れられなくなる。

幸子は紙を片手にぼんやりとしていた。
短い時間に畳み掛けるように受けた嫌がらせに心身ともにぐったりとしていた。

――ここにいてはダメね。
――出よう、とにかく部屋から出ましょう。
――早く出なくっちゃ。

バッグを持ち、携帯電話を手にした途端、
また着信音が鳴る。

しかし、
だんだん感覚が麻痺してきたのか、
「またか」と思い、
大して驚きもしなかった。

そんな自分が可笑しい。

ディスプレイには見知らぬ番号。
躊躇せず通話ボタンを押す。

「もしもし。」

やはり相手は何も言わない。

幸子はそれ以上何も言わずに電話を切った。

――さて、出かけましょう。

動き出そうとしてふと立ち止まる。
記憶の中で何かが引っかかっている。
さっきの自分の行動を思い返してみる。

――出かけようとして、バッグを手にとって、
  携帯電話を手に取ったら鳴り出したから、
  知らない番号だったけど、出て……。

――『携帯電話を手に取ったら鳴った』……?

――そうだ、そうだわ。
――見られている?! この部屋自体が覗かれている?!

さっきまでの麻痺した感覚は消え去り、
恐怖が蘇る。
大至急、カーテンを閉める。
隙間がないように、しっかりと。

カーテンを閉めきった瞬間、また携帯電話が鳴る。
先ほどとは違う見知らぬ番号。
幸子は、鳴るにまかせたままにしながら、
携帯電話の電源を切った。

――やはり見張られているのね……。
――どうしよう……!?
――とにかく、早く部屋を出なくちゃ。

幸子は部屋を出、鍵をかけた。

数十分後、
幸子は近所の友人の家にいた。

結婚していて子供が二人。
今夜はご主人が出張、子供たちはおばあちゃんの家へお泊り、ということで、
時間に気兼ねなくゆっくり過ごそう、ということになった。

幸子は今日の一部始終を話した。

「……。怖いね、それは……。
 ほんとにあの男なの?
 でも、やりかねないね、あの男なら……。
 幸子、なんかあったらすぐ110番だよ!
 しばらく、ご実家へ戻っていたほうがいいんじゃないの?」

「実家は通勤に不便なのよ。
 大丈夫よ。
 そのうち飽きるわよ。」

「それも、そうね!」

「そうよ!」

その後は、今日のあの一連の嫌な出来事も忘れ、
幸子は友人と楽しい夕べを過ごした。

「……、さあ、そろそろ帰るね。」

「あらっ、もうこんな時間!
 タクシーを呼ぶ?」

「大丈夫よー。
 歩いて15分よ?
 タクシーの運転手さんに悪いもの!」

「そう。
 じゃあ気をつけてね。」

「うん、ありがとう。
 じゃあ、またね!」
 
幸子は友人の家を後にすると、
自分のマンションへと、夜道を歩き始めた。

幸子と友人の住んでいる辺りは閑静な住宅街で、
夜になると人通りもなく、車もほとんど通らない。

マンションまであと5分、というところで、
「コツコツ」という足音を耳にして、幸子は振り向いた。
いままで気付かなかったのだが、
ほんの数メートル後ろにひとがいる。
男性のようだ。

幸子はなんとなく足を早めた。
気のせいか、後ろの男の「コツコツ」という足音も早まった気がする。

――気のせいよ、気のせい。

幸子は何気ない風を装って、もう一度後ろを振り返った。
すると、思いがけず、男はもうすぐ背後まで来ていた。
ギョッとしたが、
男が急いでいるのなら逆に追い越させようと、
幸子は道の端に寄り、歩く速度を緩めた。
男はどんどん近づいてくる。
そして、幸子に並んだ瞬間、
男は襲い掛かってきた。

「キャーーーッ!」

幸子は叫びながらもがいた。
顔を見ると、知らない男だ。
かなり年配のようだ。

幸子はなんとか振り切り男を突き飛ばした。
男が道路に倒れる。
その隙に、幸子は、気付くともう目の前になっている自分のマンションの入り口へと走った。

膝ががくがくして、思うように走れない。
男は立ち上がって追いかけて来るのだろうか。
怖くて振り返れない。

――早く! 早く、部屋へ!

運良く1階にあったエレベーターに乗る。
深夜で他に利用者がいなかったおかげで、まっすぐと自分の部屋のある5階に着く。
エレベーターを降りると、部屋まで走る。
手が震え鍵がなかなか鍵穴へ入らない。

――落ち着いて……、落ち着いて……!

ガチャッ。
やっと鍵が開く。
中へ入り、急いで鍵をかける。

――ハーーーーーーーーっ……

幸子は、深いため息をつくと、靴を脱ぎ、
部屋へ入っていった。

その瞬間、
固定電話の着信音が部屋に鳴り響いた。

トゥルルルルルー、トゥルルルルルー

幸子は凍りついたように立ち尽くす。
そして、携帯電話の電源を切りっぱなしだったことを思い出す。

トゥルルルルルー、トゥルルルルルー

鳴り続ける電話。
この電話の番号を知っている人はそういない。
しかし、あの男は知っている。

――携帯電話の電源が入っていなかったから、これは心配した母からかも……。
――いいえ、でも、こんな深夜に電話をかけてくるはずが……。
――ということは、よっぽど緊急の用なのかしら……。

幸子は思い切って受話器を上げた。

「……はい……。」

小声で恐る恐る電話に出る。

「……フッフッフッフッフ……。」

「え?」

電話の相手は、どうやら笑っているようだ。
そして、やはり、母ではなかった。

「なに? なんなのよ?」

「……だよ……。」

「え? 聞こえない。 なによ?!」

「……あのおとこは死んだよ……。くっくっくっくっく……。」

それだけ言うと、電話は切れた。
低い声で、男性なのか女性なのかすら分からない。
可笑しくてたまらない、というように、始終くつくつ笑っていた。

幸子は受話器をまだ握り締めたまま呟いた。

「あの男が死んだ……?」

――さっきの男のことなのかしら。
――あたしが突き飛ばした、あの男……。
――もしそうだとしても……、

「あれは、正当防衛だわ……!」

――でも、死んだのなら、過剰防衛になるの……?
――見に行く? 
――いえ、また罠かもしれない。きっとそうだわ!
――もし、死んだとしたら、このまま黙っていれば……。
――あの電話の主が警察に言ったところで、あたしがやったという証拠はないんだし……。

――忘れよう……! あれはなかったこと!

幸子はふと思い出して、携帯電話の電源を入れた。

メールが届いている。
さきほどの友人からだ。
無事に着いたかどうか心配だったらしい。

幸子は、何事もなく無事に着いた、という内容のメールを返信した。

返信した瞬間、携帯電話が鳴る。
ディスプレイには、
ついに、
あの男の名前が……。

――やはりそうなのね……。

怒りが込み上げる。

――この嫌がらせ、やめさせるわ!

「もしもし。」

幸子は内心の怒りを抑え、
平常心の声で出た。

「あのー……。」

――えっ……。

予想に反して、
電話の相手は女だった。

「はい。」

幸子は警戒した声で返事をした。

「あ、あの、アタシ、彼……順さんと付き合っているんです。
 だから、もう彼に電話をしたり、
 付きまとったりしないでほしいんですよ……。」

電話の女は今にも泣き出しそうな声でそう言った。
声の感じではかなり若いように感じられる。

「はあ?
 あたしは順とは別れたのよ。
 あたしは電話なんかしないけど?
 付きまとったり、って何のこと?
 嫌がらせの電話をよこされたり、
 いたずらされたりして、
 迷惑しているのはこっちなのよ。」
 
「でも……、いまこの電話に出たじゃないですか……。」

「もういい加減に嫌がらせをやめて! と言ってやろうと思ったのよ。」

「そうですか……。
 順さんは、幸子さんとは別れてもいい友達だから、
 相談に乗っている、と言うんですけれど……。
 別れてもいい友達だなんて、あり得ない……!
 まだ好きなんですか?順さんのこと。
 やり直したいんですか?」

「はあ〜?
 何言ってんのよ。
 あいつは、あたしをストーカーしているのよ。
 あたしに嫌がらせをしているの。
 そして、四六時中、無言電話をしてくるのもあいつよ、あいつ!
 あたしじゃないわ!」

「……。
 じゃあ、掛かってきても出ないでください。
 お願いします……。」

「出ないわよ。
 出るわけないわよ。
 無言か、嫌がらせの電話なんだから。」

「よろしくお願いします……。
 お願いします……。」

そして電話は切れた。
幸子は携帯電話をテーブルに置いた。

――なんなのかしら一体。

瞬間、
俄かに、電話の女に無性に腹が立ってきた。
かけ直して一言言ってやろうと電話を手に取り、
思い直す。

――電話の女もあの男の思う壺なのだ。

「フッ……、お気の毒……笑」

――長い一日だったわ……。

「さて、ネコ、眠ろっか。」

幸子は「ネコ」と名付けた飼い猫にそう声をかけると、
ベッドへ入った。

数時間後、幸子はふと目を覚ました。
固定電話が鳴っている。
時計を見ると、午前二時。

「もー、誰よ、こんな時間に、もー……。」

電話はまだ鳴り続けている。

「どうせまた、嫌がらせでしょ。
 無視よ、無視……。」

しばらくして鳴り止む。
そしてまたすぐに鳴り始める。

「もーっ!」

幸子はベッドから出ると、
電話へと歩いていった。
そして受話器を取る。

「……はい……。」

相手は何も言わない。
が、微かに何かが聞こえる。
幸子は耳を澄ました。

――子供の声?

「……かーごめ かーごめ
   かーごのなーかの とーりーはー
   いーついーつ でーやーる
   よーあけの ばーんに
   つーるとかーめが すーべったー
   うしろのしょうめんだーあれ……」

全身に鳥肌がたった。

「!
 誰?
 誰なの?!
 なんなのよっ!」

「……くっくっくっくっく……

 ひとごろし……くっくっくっくっく……」

プツッ……ツーツーツー……

電話は一方的に切られた。

――ひとごろしひとごろしひとごろしひとごろし……

「……、あたしのせいじゃないわっ……!」

幸子はブルッと体を震わせると、床に突っ伏した。

カタン。
玄関で、郵便の差込口が鳴った。

――また……?!

幸子は玄関へと向かった。
床に茶色い封筒が落ちている。
恐る恐る拾うと、
部屋へ戻り、はさみで開封した。

先ほど同様、ご丁寧にカミソリの刃が貼り付けられ、
紙と一緒に虫の死骸も同封されていた。

紙を開く。

パッと飛び込む奇抜な文字。
新聞を切り貼りしたその文は、

『ヒトゴロシ!』

「もう、やめてーっ!」

また鳴り出す固定電話。
幸子は電話の線を抜いた。

床にへたり込む。

―― 一日中、こんな時間まで電話をかけたり、部屋までやって来たり……。
――『安楽椅子』? どこが……!
――すごい労力、執着、執念……。

幸子はまたブルッと身震いをした。

――本当に殺されるのかも、あたし……。
――その前に、あの男が言うように、気が狂ってしまいそう……。
――……こわい……。

幸子はベッドへ戻ると頭から布団をかぶった。

神経が昂ぶりなかなか寝付けなかったが、
朝方、うとうととしたらしい。
携帯電話のアラームが鳴り、目を覚ます。
アラームを止めようとして携帯電話を手に取る。
メールが届いていた。

見知らぬアドレスだ。

開くと……、

『ひとごろしひとごろしひとごろしひとごろし
 ひとごろしひとごろしひとごろしひとごろし
 ひとごろしひとごろしひとごろしひとごろし』

――ああ、今日も一日が始まってしまったのだわ……。

寝不足もあり、
ぐったりしながら会社へ出かける用意をする。
身支度が整い、玄関へ行くと、
玄関の床に茶封筒がごっそりと落ちている……。
30通はあるだろうか。
開封する気にも拾う気にもなれず、
そのままにして玄関を出た……。

会社へ着くと、
掲示板の前に人だかりがしている。

――人事異動でもあったのかしら。

幸子に目を留めた一人が、
ハッとした表情をすると、
そそくさと去っていった。

幸子は掲示板へと近寄った。

張り紙がしてある。
パソコンで作成したのか、きれいな活字でそこにはこう記されていた。

『経理部会計課の
 三海幸子は
 社内不倫をしています。』

そこにいた数人が幸子に気付き、
じろじろと幸子を見る。

「そんなことありませんっ!」

幸子はそう叫ぶと張り紙をむしりとり、
ロッカー室へと走った。

――会社にまで嫌がらせに来るなんて……。

涙が込み上げてくる。

――泣いてはダメ……。
――仕事、仕事……!

幸子は皆に見られている気がした。
誰かが話しているのを見ると、それは全部自分のことのような気がした。

昼休み、幸子は部長室に呼ばれた。

「三海さん、ちょっと。」

「はい……。」

「この紙なんだがね。」

今朝、掲示板に貼ってあった紙と同じ内容だ。

「身に覚えはあるのかね?」

「そんな……!
 ありません! そんなこと!」

「そうか、分かった。
 でも、火のないところに煙は立たない、というからね。
 
 行っていいよ。」

幸子は唇を噛み締め、涙をこらえた。
幸子が部長室から出てくると、
皆がさっと目をそらす。

幸子は、午後からも針の筵のような状態で仕事をこなし、
終業時刻になるとサッと机を片付け、
早々に会社を出た。

駐車場へ行き、自分の車に乗ると、
携帯電話を取り出す。

あの男からの着信が20件。
仕事中は出られないのを分かっていてかけてきているのだ。
幸子は、あの男の電話番号を着信拒否した。

見知らぬアドレスからのメールが数十件。

『ひとごろしひとごろしひとごろしひとごろし
 ひとごろしひとごろしひとごろしひとごろし
 ひとごろしひとごろしひとごろしひとごろし』

『死ね!』

『順さんと付き合っている者です。
 順さんがまたあなたに電話をかけているようです。
 あなたの家にも行ってますよね?
 もう、いい加減にしてください!
 順さんにちょっかいをかけないで!』

そして、あの男から、『愛してる』と。

――『愛してる』って……。
――あの女が自分の携帯電話をチェックしていることを知っていて、
  わざと送って来たのね……。
――逆上した女がわたしに嫌がらせをするように……。

――もううんざりだわ……。

幸子は携帯電話の電源を切ると、車のエンジンをかけた。

どこをどう走ったのか、
気付いたら自分のマンションの駐車場に着いていた。
ぐったりとした体を引きずるように部屋へ向かう。
玄関へ入り、電気のスイッチを押す。

「あら?」

電気が点かない。
ブレーカーが落ちているのだろうかと思ったが、そうではない。

――停電なのね、そのうち点くでしょう……。

薄暗い部屋へ入る。
カーテンを閉めようとしてハッとした。

――他の部屋は電気が点いている……!
――なぜ? なぜうちだけ?

電力会社に電話をする。
すぐ見に来てくれると言う。

薄暗い部屋で、べったりと床へ座り込む。

ふと、今朝、玄関の床に散らばっていた茶封筒をそのままにしていたことを思い出し、
懐中電灯を手に玄関へ向かう。
朝よりも数が増えている……。
まとめて拾うと、部屋へ戻り、開封せずゴミ箱へ捨てた。

――いつまで続くの……?
――あたしが死ぬまで……?

ピンポーン。
インターフォンを取る。

「――電力ですが。」

「はい、いま開けます。」

「ブレーカーはどこですか?
 あー、異常ありませんね。
 マンションの配電盤かもしれませんのでちょっと見てきます。」

「あー、やっぱり、配電盤でした。
 ここの部屋のだけスイッチがオフになっていました。」

「えっ……。うちのだけ……?
 そこは誰でも入れるところなんですか?」

「ええ、そうですね。
 もう、電気は点くはずですよ。
 ほら。」

「でも、なぜうちだけ……?」

「さあ……。
 隣の隣が空部屋だから、
 大家さんか管理会社が間違ったのかもしれませんね。」

「そうですか……。
 ありがとうございます。
 お手数をおかけしました。」

「いえいえ。」

幸子はまた、床に座り込んだ。

――いつまで続くのだろう……。
――どうしたらこの嫌がらせが終わるのかしら……。
――あの男に泣いて謝れば……?

――いえ、そんなことでやめるような人じゃない……。
――むしろ、思う壺……。
――大喜びで、さらにエスカレートさせるわ……。

――ああ、あたしはどうしたら……。

そのまま眠り込んでしまったらしい。
固いフローリングの床に横になっていたので体が痛い。

時計を見ると22時。

――着替えてベッドで眠ろう……。
――明日も会社だし。

針の筵のような会社での事を思うと、幸子はますます憂鬱になった。

「さ、ネコ、一緒に眠ろう。」

カタン。
また郵便の差込口が鳴った。
重い体を引きずり、玄関を見に行く。

思いがけず、白い封筒が落ちている。

拾って、部屋へ戻り開封する。

カミソリの刃も貼られていない。
虫も同封されていない。

中の紙を開く。
真ん中に活字で一言。

『お悔やみ申し上げます』

「キャッ!」

幸子は思わず叫び、紙を振り落とした。
ガクガクと膝が震えている。

――ついに、ついに……。
――やっぱりあたしは殺されるんだわ……。

そのまま、一睡もできず朝を迎えた。
会社へは行かなくてはならない。
朦朧としたまま支度をする。

あの白い封筒のあと、
一通も封筒は届けられていない。

「ネコ、行ってくるよ。」

会社へ着き、いつも通り仕事をこなす。
皆はやはり幸子によそよそしい。

昼休み、
携帯電話の電源を入れてみる。
メールは一通も届いていない。

ホッとするのと同時に、
津波の前の凪のようにも感じた。

――気のせいよ……!

そしてまた、携帯電話の電源を切る。

午後も、できるだけ余計なことを考えないように、
仕事に没頭した。
定時になり、会社を出る。
自分の車に乗り込み、また、携帯電話の電源を入れる。
やはり、メールは一通も届いていない。

――もう嫌がらせに飽きたのかしら。
――まさか……笑……
――そうだったらどんなにいいか……。

マンションへ着く。
車を駐車し、自分の部屋へ向かう。
鍵を開け、部屋へ入る。

幸子は、一瞬、目の前の光景を理解できなかった。

あの男がいるのだ。
あの男がソファに腰掛け、ニヤニヤしている。

その腕には「ネコ」が。
ネコは、幸子が帰ってきたというのに、身動きすらしない。
よく見ると、首が変な方向へ捻じ曲がっている……。

「……ネコ……?
 ネコぉぉぉっっ!!!??」

幸子は男へ掴みかかった。

「ちょっと、アンタ!
 ネコに何をしたのよっっ!」

幸子に掴みかかられた弾みで男の腕からネコが滑り落ちる。

どさっ。

ネコはぴくりともしない。

幸子はネコに屈み込んだ。

「……ネ、コ……?」

死んでいる。
完全に事切れている。
首がおかしな方向に捩れている。

幸子の中で何かが弾けた。

「……このぉ……!」

男は相変わらず黙ってニヤニヤしている。

「……殺してやる……。
 殺してやるーーーっっ!!
 アンタがネコにしたように、
 縊ってやる……!
 ぎゃあああああああっ!!!」

幸子は男に飛び掛った。
男の首に手をかける。

男は相変わらずニヤニヤしたまま、幸子にされるがままでいる。

その顔が一層幸子を逆上させた。

男の首にかけた手に力が入る。

「殺してやる……、殺してやる……、殺してやる……。
 お前がネコにしたように……!
 縊ってやるっ!!
 苦しめ……、死ね……!」

男の体から急に力が抜けた。
どさっと倒れる。

幸子はハッと我に返った。
男の鼻の前に手をかざす。

息は……、
……していない……。

――あたしは……、この男を殺してしまったのだ……。

幸子は、呆然と床に座り込んだ。

無意識に床をまさぐると、ネコの体を腕に抱いた。

*****************************************

ここまで書くと、俺はペンを置いた。

煙草に火を点ける。

深々と吸い込むと、
長くゆっくりと吐き出す。

――さて、これからどういう展開にしようか。
――簡単には死なせない。
――生きながら、もっともっと苦しんでもらうよ、幸子……。フフフフフ……







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