第七話 夢を想えば②
アルジャーク帝国帝都ケーヒンスブルグの宮殿、その一室に三人の男が集まっている。宰相エルストハージ・メイスン、外務大臣ラシアート・シェルパ、軍務大臣ローデリッヒ・イラニールの三人である。
「さて、お二方。すでにご存知のことと思うが、つい先ほどベルトロワ皇帝陛下が崩御された」
年長のエルストハージがまず口を開いた。ラシアートとローデリッヒの二人は頷いてそれに答える。もともと意識不明の状態が長く続いていたせいか、ここにいる三人とも皇帝の崩御についてはかなり冷静に受け止めている。敬愛する主君の死を悲しんでいないわけではないが、彼らの思考はすでに次のことに移っている。
「時間が時間であるため、陛下の遺書の開封は日が昇ってから、そうだな、朝食を食べた後くらいになる予定だ」
「あの、遺書ですか………」
ラシアートが苦い顔をした。開封される遺書は、南方遠征が始まる少し前にベルトロワが書き直した、あの遺書だ。アルジャーク帝国でただ三人、ここにいる彼らだけがその内容を知っている。
「ご存知の通り、遺書は二通以上が同時に開封されなければ有効とはならぬ」
それはアルジャークの法に規定されている皇帝の遺書に関する取り決めだ。そこには「遺書は同時に二通以上を開封し、その内容に差異がない場合のみ法的効力を持つ」とある。そのほかにも細かな規定が幾つもあり、それを満たしていない限り遺書は法的な効力を持たない。全ては遺書の偽造を防ぐためだ。
「明日、あ、いやもう今日か、今日開封する遺書は私と陛下が保管していたものを開けるとして、お二人はそれぞれが保管しておる遺書を持って、クロノワ殿下のところへ行ってもらいたい」
エルストハージのその言葉に、ラシアートとローデリッヒの二人は困惑よりは納得の表情を浮かべた。苦渋の、という修飾語が必要になるかもしれないが。
「やはり、皇后陛下はお認めにならぬのだろうか………」
呟くローデリッヒの声は苦い。
「さて。お認め下さるならばそれでよし。しかし、お認め下さらないのであれば………」
それに備えて、打てる手を打っておかなければならない。それが皇帝ベルトロワから遺書を託された者たちの務めというものだろう。
「分りました。では、夜が明けたらすぐにでも………」
「――――何を悠長な」
ラシアートの言葉を、エルストハージは鋭く遮った。その目は静かで穏やかだが、同時に硬い覚悟も秘めている。
「今この時にあって時間は何よりも貴重。夜が開ける前に、いや、準備が出来たのなら今すぐにでも出立するのだ」
可能な限り早く、とエルストハージは二人を急かした。その様子を見て二人は、はたと気がついた。
宰相エルストハージ・メイスンは死を覚悟している。
皇后が皇帝の遺書を受け入れなかった場合、遺書を開封しその正当性を主張する彼の存在は皇后にとって目障りな存在だろう。そうなれば皇后はエルストハージを殺して排除するはずだ。いや、エルストハージだけではない。別の遺書を保管しているラシアートとローデリッヒをも殺そうとするだろう。
そうなってしまえば皇帝ベルトロワ・アルジャークの意思は握りつぶされ、なかったことにされてしまう。そのような事態を避けるために、エルストハージは二人の大臣にクロノワの元に向かえと言っているのである。ケーヒンスブルグに残る自分が、最も危険な役回りであるにも関わらず、だ。
「分りました。必ずやクロノワ殿下に陛下の遺書をお渡しいたします」
「エルストハージ殿も、御武運を」
二人の大臣の言葉にエルストハージは満足そうに頷く。それにしてもローデリッヒが使った「武運」という言葉。これほどこの場にふさわしい言葉はないだろう。エルストハージのみならず、これから三人が赴く場所はやはり戦場なのだから。
**********
「主立った方々は、すべてお集まりいただけたようですな」
場所は謁見の間。日が随分と高くなった時分に、宰相は空の玉座の前に立ってそこに居並ぶ人々を一望した。今この場には帝都ケーヒンスブルグにいる、アルジャーク帝国の主立った人々が全て集まっている。
ここにいない主立った者といえば、レヴィナスとクロノワの両皇子、そして彼らを支える将軍である、アレクセイ・ガンドールとアールヴェルツェ・ハーストレイトだろうか。
クロノワとアールヴェルツェは南方遠征から急ぎ帰還している最中だろう。またレヴィナスも帰還が遅れており、それに合わせる形でアレクセイもこの場にいない。
実はアレクセイ将軍は皇后から通信が入ったときにはオムージュの旧王都ベルーカに居り、彼だけでも帰還してはどうか、という話があった。しかし本人が「レヴィナス殿下を差し置いて自分だけケーヒンスブルグに戻るわけにはいかない」といってレヴィナスを待つことに決めたのだ。この選択が、アルジャークの至宝アレクセイ・ガンドールの命運を決めたといっていい。
さらに二人、この場にいるべき人間がいないことに、人々はすぐに気が付いた。一人がその疑問を口に出す。
「外務大臣のラシアート殿と軍務大臣のローデリッヒ殿がおられないようだが………?」
「急用がありましたので、お二人にはそちらに当たってもらっています」
国の重鎮たる大臣が二人がかりで当たらねばならない急用とは一体何なのか、疑問に思った者もいたがそれを口に出す者はいなかった。
「それではこれよりベルトロワ皇帝陛下の遺書を開封したします」
侍従長がベルトロワの執務室に保管されていた遺書を銀製のトレイにのせて運んでくる。エルストハージもまた、自身が保管していた遺書を懐から取り出す。
エルストハージは二つの遺書を観衆に掲げて見せ、その二通の遺書にいまだしっかりと封がなされており未開封であることを示した。
侍従長とエルストハージは遺書の封を破り、その中身を確かめ、二通の遺書に差異がないか確かめていく。その際、遺書の内容を知らなかった侍従長は、読んだ内容に驚いていたが、しかし声は出さなかった。
遺書の内容に差異がないことが確認されると、エルストハージはその遺書を声に出して読み上げた。そこには………。
――――そこには、クロノワを喪主に、と書かれていた。
この時代、家を継ぐものが当主の葬式において喪主を担当する、ということは以前にも述べた。つまりこれはベルトロワがクロノワを後継者として指名した、ということである。
「委細不備はございませぬ。よってこれが正式な陛下のご遺言となります」
エルストハージが厳かに宣言する。だれも予想していなかったその内容に、観衆は皆呆然とし声を上げることもできない。
「これは陰謀ですっ!!」
静寂を皇后の悲鳴が切り裂いた。
余談になるが、ここでレヴィナスではなくクロノワを後継者に指名したベルトロワの胸のうちを少し考えてみたい。
ベルトロワがクロノワを後継者に指名した理由は、ひとえに「レヴィナスに落ち度があったから」である。その落ち度とは、レヴィナスが「法を過去にさかのぼって適用する」という法治国家における“禁じ手”を使ったことだ。このときベルトロワはレヴィナスに決定的な減点をつけた。
彼はきっとこう思ったことだろう。
「オムージュ総督領だけならばともかく、アルジャーク帝国全体で同じ事をされれば、国が立ち行かなくなる。それに一度禁じ手を使ってしまえば、二度三度と使いたくなる」
ではなぜ、クロノワを喪主に指名する一方で、レヴィナスを皇太子位から廃さなかったのか。それはベルトロワ自身、自分がこんなに早く死ぬとは思っていなかったからだろう。自分が生きている間に、レヴィナスが皇帝としてふさわしい見識を持つことを願っていたのだ。
今回開封された遺書は、あくまでも現状ではレヴィナスよりはクロノワのほうが皇帝にふさわしい、ということであって将来的に事態が変化すればまた書き換えるつもりだったのだろう。
しかし事態が変わる前にベルトロワは死亡し、この遺書が開封されてしまったのだ。
皇后の悲鳴を皮切りに、謁見の間が喧騒に包まれる。皆がみな自分の意見を叫び、収拾のつかない混乱が生まれていく。そのなかで意見に最も力があったのは、やはりというか皇后であった。
「宰相が陛下の遺書を書き換えたのですっ!!」
皇后のその叫び声によって、謁見の間が再び静まり返る。誰もが、まさか、と思いつつ空の玉座の間に立つ宰相エルストハージ・メイスンを見つめた。彼が言葉を発するより速く、さらに皇后が叫び声を上げる。
「殺しなさい!!その大罪人を殺してしまいなさい!!」
皇后が呼ばわると、槍を持った兵士たちが謁見の間になだれ込んでくる。その槍の切っ先が自分に向けられる様子を、エルストハージは穏やかに見つめていた。
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その通知をクロノワが知ったのは、彼がモントルム領の南の砦、ブレンス砦に到着したときのことだった。
曰く「宰相エルストハージ・メイスン、外務大臣ラシアート・シェルパおよび軍務大臣ローデリッヒ・イラニールの三人は共謀してベルトロワ皇帝陛下の遺書を書き換えた大罪人である。ラシアート及びローデリッヒの両名を見つけた場合は、即刻これを処刑せよ」
これを知ったとき、アールヴェルツェは「ばかな………」と呻くようにして声をもらした。受けた衝撃は、クロノワよりも彼のほうが大きかった。
この通知はクロノワとアールヴェルツェにとって二つの重要な知らせを持っていた。
まず第一にこの中では「遺書」という言葉が使われている。つまりこれは皇帝ベルトロワが崩御したことを意味していた。二人は「皇帝が意識不明の重体である」という知らせしか聞いていなかったため、このとき初めてベルトロワの崩御を知ったことになる。
次に「宰相と二人の大臣が皇帝の遺書を書き換えた」という内容である。この三人と面識が薄いクロノワはともかく、アールヴェルツェにとってこれはとても信じられない話であった。
「お三方とも真に国を想う忠臣。とてもそのようなことをするとは信じられませぬ」
眉間にしわを寄せアールヴェルツェはそう呟いた。
「なんにせよ、情報が少ないですね………」
クロノワは手を口元に沿え、考え込む。
通知の内容から皇帝が崩御したことは押して知ることが出来る。しかし、正式な皇帝崩御の布告はまだ出ていないという。そのことが帝都ケーヒンスブルグにおける混乱を思わせる。
さらに通知では「三人が共謀して」遺書を書き換えたはずなのに、即時処刑が命じられているのは二人の大臣だけである。つまり宰相エルストハージはすでに死んでいるか、捕まっている可能性が高い。
ではいつ、死んだ、もしくは捕まったのか。
(恐らくは遺書を開封したとき、でしょうね………)
開封された遺書が偽造されたものだったのか、あるいは本物だったのか、それはこの際置いておくとしても、遺書が開封されたこと自体はほぼ間違いない。その内容が明らかにならなければ、それが偽装されたかどうかなど分らないのだから。そしてこの状況から察するにその内容は、その場にいた誰かにとって都合の悪いものだったのだ。
(それは一体………?)
宰相と二人の大臣、といことはないだろう。偽造したにしろそうでないにしろ、彼らは開封される遺書の内容を知っていたはずだ。偽造したのであれば、自分たちに都合の悪い内容を残しておくとは思えない。偽造していないのであれば、彼らが追われているこの状況に説明が付かない。都合が悪いと知っている遺書を開封し、その後で逃げるってどんな状況だ。
遺書が偽造であると断定しても一定の信憑性があり、なおかつ宰相と二人の大臣を敵に回して追い立てることの出来る人物。
(皇后陛下か、レヴィナス兄上か………)
二人の大臣が大罪人として追われている理由が、本当に遺書を偽造したからなのか、それとも皇后かレヴィナス、あるいはその両者の不興を買ったがゆえなのか、それは現状では分らない。
(ですがこの二人の不興を買う内容というと………)
そこまで考えてクロノワは頭を振った。なんにせよ情報が少なすぎる。そもそも遺書が偽造であると判断した根拠さえも分らないのだ。推測だけを先に進めても仕方がないだろう。
「真っ直ぐケーヒンスブルグに向かうつもりでしたが、一度オルスクに寄りましょう」
旧王都オルスクにはモントルム領の総督府がある。このブレンス砦よりは詳細な情報が集まっていると期待できる。
「殿下………。殿下はこの通知が本当であると思われますか」
「さて。どちらにしても乱暴な通知だとは思います」
本当に遺書が三人によって偽造されたのか、それは現状では判断しかねる。しかし「見つけた場合は即刻処刑せよ」というのはなんとも乱暴である。真偽はともかくとしてもラシアートとローデリッヒの両名が、なにか大きな証言を持っていることは確かなのだ。それを即刻処刑せよというのは、何か後ろめたいことがあるのでは、と勘ぐりたくなる。
「そうですな………。普通ならば捕らえて話を聞きだすのが筋………」
クロノワの言葉にアールヴェルツェは頷く。彼も二人から話を聞きたいと思っているのだろう。
「ストラトス執務補佐官の意見も聞きたいですね」
そういってクロノワはアールヴェルツェを伴い、ブレンス砦の地下にある「共鳴の水鏡」がある部屋へ向かった。そこからオルスクの総督府に通信をつなぎ、ストラトスを呼び出してもらう。主席秘書官であるフィリオもいてくれればよかったのだが、生憎と今はオルスクにいないらしい。
クロノワ、アールヴェルツェそしてストラトスの三人は、「共鳴の水鏡」を使った緊急の話し合いで、モントルム総督府としての方針を決めた。その方針とは、
「モントルム領内でラシアート及びローデリッヒの両名を発見した場合には、可能な限り捕縛すること」
というものであった。ストラトスも今回の通知には不自然なものを感じていたらしく、この方針は案外簡単に決まった。北のダーヴェス砦にはストラトスのほうから連絡してもらうことになり、クロノワとアールヴェルツェの方は急ぎオルスクに向かうということで今後の予定が決まった。
軍に指示を出しておくというアールヴェルツェと分かれ、クロノワは彼の背中を見送った。それにしても、とクロノワは思う。
(アールヴェルツェはショックを受けた様子でしたね………)
忠臣と信じていた三人が大罪人として追われていること、そして主君たる皇帝ベルトロワが崩御したこと。その両方が理由なのだろうが、一方でわが身を振り返ってみれば、彼ほどショックを受けたわけではない。
(覚悟していた。それだけではないのでしょうね………)
自分は薄情なのかもしれない。まして今回崩御したのは皇帝、つまり実の父である。子どもであれば、親の死目に会えなかったことをもっと悔やむべきではないだろうか。それなのにそういった感情がほとんど湧かないのだ。
(結局他人だった。そういうことでしょうか………?)
その結論を受け入れたくはない。しかし心のどこかで納得してしまっている。それに母が死んだときほど悲しくないのは確実なのだ。
そこまで考えてクロノワは頭を振った。これ以上はせん無きこと、と思ったのだろう。だが、他人事ではないはずなのにどこか傍観者の視点で物事を見ている自分を、否定することは出来なかった。
**********
クロノワ率いるアルジャーク軍がモントルム領の旧王都オルスクに到着したとき、事態はすでに動き、そして彼の出番を待っていた。動きがあったのはモントルム領の北の砦、ダーヴェス砦である。なんとこの砦に大罪人として追われている、ラシアートとローデリッヒが投降してきたのである。
「つまり二人は私に会わせて欲しい、と言っているわけですね」
「はい。その通りです」
ダーヴェス砦を預かっているウォルト・ガバリエリはクロノワの言葉に頷いた。二人が投降してきたときには、既に総督府のほうから「可能な限り捕縛せよ」という命令が出ていたので、ウォルトはそれに従い二人を殺すようなことはせずともかく二人を捕らえた。そして捕らえた以上、話を聞かねばならない。その席でラシアートとローデリッヒはこう言ったのだ。
「自分たちの処刑命令が出ていることは知っている。今更命を惜しむつもりはないが、その前にどうかクロノワ殿下にあわせて欲しい」
ウォルトとしてはこの時点で自分の手には余ると判断した。なにしろ外務大臣と軍務大臣だった二人が皇子であるクロノワに会わせて欲しいというのだ。十中八九遺書がらみのことだろう。
さらに二人を殺さずに捕らえるように命令を出したのはクロノワである。つまり彼自身、二人に用があるということだ。
「オルスクまで護送いたしましょうか」
「………いえ、私がそちらに向かいます」
少し考えてからクロノワはそういった。ウォルトは一瞬怪訝そうな顔をしたが、なにも言わずに頷いた。
クロノワが二人に会う場所としてオルスクではなくダーヴェス砦を選んだのは、二人の話の内容如何では軍を動かすことになると考えたからだ。事態の中心は帝都ケーヒンスブルグだろうから、わざわざ護送してもらうよりもクロノワが動いたほうが時間的なロスが少なくてすむ。
「さて、そういうことになりました。あとの万事は貴方にお任せします」
少々意地悪な笑みを浮かべてクロノワはストラトスにそういった。やる気を見せたがらずすぐに仕事をサボるこの男だが、事態が事態だ。ブツブツと文句を言いながらも仕事はこなしてくれるだろう。普段給料分の仕事をしないこの男に大量の仕事を割り当ててやれるのは、少しばかりいい気分だ。
「残業手当その他諸々、後で請求しますので」
ストラトスはぬけぬけとそう言った。自分にそれらの手当てを払うまでは死ぬなということで、彼らしいなんとも皮肉れた激励である。
軍を率いてダーヴェス砦へ向けて街道をひた走る。おもえばこの街道はここ最近で何度も往復しているような気がする。
「モントルム遠征のときのことを思い出しますな」
「あの時は騎兵だけでしたけどね」
騎兵のみを率いてダーヴェス砦へと向かうモントルム軍を奇襲した記憶は、今も鮮明だ。だが一方で遠い昔のことのように感じる部分もある。
(色々あった。そういうことですね)
そしてこれから、そのなかでも最大級のモノが待ち受けているのだ。
ダーヴェス砦に着いたクロノワは、アールヴェルツェをはじめとする主だったものを集め、すぐにラシアートとローデリッヒの二人と面会した。二人の服は汚れていたが、やせた様子もなく健康そうであった。
「私との面会を希望したようですが、どういったご用件でしょうか」
クロノワがそう切り出すと、二人は懐からそれぞれ一通ずつ封筒を取り出した。言うまでもなく、皇帝ベルトロワの遺書である。後で聞いた話だが、ウォルトは二人を牢に入れるときにその持ち物を没収していたのだが、この遺書だけは自分の手に余ると判断し取り上げずにおいたらしい。
「我々がお預かりしたベルトロワ陛下の遺書を、ここで開封させていただきたい」
クロノワは視線だけで先を促す。開封された遺書には、エルストハージが謁見の間で開封した遺書と同じように、クロノワを喪主に、と書かれていた。
「委細不備はございませぬ。これがベルトロワ陛下の最後の勅命となります」
場が、一気に緊張する。ただその中で、クロノワは比較的自然体であった。
「お二人は陛下の遺書を書き換えた大罪人とされています。そのあなた方が開けた遺書を信じろと?」
クロノワはラシアートとローデリッヒの二人に試すような目を向ける。だがアールヴェルツェが、二人が答える前に口を開いた。
「失礼。遺書を拝見させていただいてもよろしいですか」
クロノワが頷くと、アールヴェルツェは二通の遺書を手にとって目を走らせていく。ただ読んでいるような感じではなかった。
「これは間違いなく陛下の御筆跡です」
アールヴェルツェは確信をこめて断言する。
これで遺書が本物である可能性が一気に跳ね上がった。遺書にはサインと印が揃っていなければならない。大臣といえども二人が、ベルトロワが生きている間にその印を使えたとは思えない。そしてベルトロワが自分の意思に反する遺書にサインをして印を押すことなどありえない。だからといってベルトロワが死んでから遺書を偽造したとすると、今度は筆跡が違っているはずである。
筆跡と印。この二つが揃っているのは、本物だけである。
「殿下、いえ、陛下。これは天命ですぞ」
アールヴェルツェは早くも「陛下」という敬称を使って、いまだに煮え切らない顔をしているクロノワに詰め寄った。
「ベルトロワ陛下重体の報をカレナリアで受け取れたこと。ラシアート殿とローデリッヒ殿のお二方とここで相見えられたこと。そして今この瞬間に陛下が十五万以上の軍勢を率いておられるとこ。全ては陛下が帝位に付くべしという天命にございます!」
他の面々からも賛同の声が上がる。モントルム遠征、そして今回の南方遠征でクロノワの手腕を見てきた彼らにとって、クロノワはもはや日陰の第二皇子ではない。十分に魅力があり、そして命を懸けても惜しくないと思える主君になっているのだ。
そしてクロノワを後継者に指名する皇帝の遺書である。これまで共に戦ってきたアールヴェルツェたちが、皇帝の座にクロノワを望むのは自然な成り行きであろう。
「………皇太子は兄上です。兄上が皇帝になるべきでは………?」
「皇帝陛下の法的効力を持ったご遺言は、勅命とみなされます。よっていかにレヴィナス殿下が皇太子であろうとも、陛下のご遺言が優先されます」
ラシアートが整然と説明する。
クロノワは目を閉じる。まさか皇帝の座が転がり込んでくるとは。レヴィナスが皇帝となり放逐されれば、晴れて全てを放り出しイストと旅でも出来るかと思っていたのに。
しかし、日陰者の自分にここまで付いて来てくれた人々を裏切ることなど出来ない。彼らが自分に夢を見ているのなら、それをかなえる義務が自分にはあるのだろう。
「………分りました。成ってみましょう。………皇帝、とやらに」
その場にいた一同が、一斉に膝をつき頭をたれる。その様子をクロノワは苦笑しながら見ていた。
(これは本当に「世界を小さくする」しか、イストに合わせる顔がなくなってきましたね………)
恐らくそれしか、あの約束を破った償いにはならないだろうから。