第三話 糸のない操り人形⑫
パタリ、と後ろ手に自室の扉を閉めた。すでに日は完全に沈み、夜の帳が世界を支配している。ランプの火はつけない。カーテンを閉めていない窓からは月明かりが差し込み、書物を読むのでもない限りはとくに不自由しないだけの明るさがある。
「・・・・・・・・」
机の引き出しを開け、奥からあるモノを引っ張り出す。それは、アズリアの決して大きくない手のひらに、なんとか収まるくらいの大きさの木箱だった。
「わたしに、どうしろと言うのだ・・・・・」
あの時、イスト・ヴァーレが去り際に残した言葉が、頭から離れない。
『忘れるなよ。オレはその魔道具を、「糸のない操り人形」をお前に預けたんだ。フロイトロース・フォン・ヴァーダーではなく、アズリア・フォン・ヴァーダーに。それを決して忘れるな』
そういって彼が残していった魔道具、「糸のない操り人形」。フロイトの足を動かすことのできる魔道具。けれどもその魔道具を今手にしているのは、必要としているフロイトではなくアズリアだった。
「こんなものをわたしに寄越して、どうしろと言うのだ・・・・・」
答えは出ない。出ないまま、既に二日が過ぎてしまった。
**********
あの日、イスト・ヴァーレという流れの魔道具職人は「やめろ!」と叫ぶアズリアを無視して言葉を続けた。
「・・・・・フロイトロース・フォン・ヴァーダーが歩けるようになれば、ノラ夫人やヴィトゲンシュタイン伯は当然、自分たちの息子であり孫である彼を次の魔道卿にしようとする。そうなればアズリア・フォン・ヴァーダーは用済みどころか邪魔者以外の何者でもない」
実際にフロイトが次の魔道卿になれるかどうかは、彼らにとってさして重要ではない。というよりもそこまで考えてなどいないだろう。さらなる利権と権力を求めて邁進するのが貴族と言う生き物である。目の前にぶら下げられたソレを諦めることなど考えもしないだろうし、そもそもできないだろう。
「あの手この手を使って侯爵家から追い出そうとするだろうよ」
その光景はいとも簡単に想像できた。否定する要素はなにもない。そしてまた、妨げる要素もないだろう。
「よかったな、侯爵家から出られて。嫌いだったんだろう?貴族」
酷薄な笑みを浮かべて、イストが笑う。
「・・・・ふざけるな・・・・・」
湧き上がるようにして言葉は出た。もう、止められない。
「ふざけるな!自分勝手な都合でわたしの人生を狂わせておいて、用済みになれば捨てるのか!?ふざけるな!ふざけるなよ!」
こぶしを硬く握り締める。最後にアズリアは搾り出すようにこういった。
「・・・・・わたしの今までの努力は、一体なんだったのだ・・・・・!」
自分で言って、殴られたような衝撃を受けた。
いま侯爵家を追い出されたら、今までの努力がすべて無駄になる。この一年半の努力だけではない。考えようによっては士官学校に入校してからの彼女の努力、その全てが水泡に帰すのだ。
アズリアは言いようのない苦さと共に、ようやく理解した。イスト・ヴァーレのあの問いの意味を。
『フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになるとはどういうことか、一度良く考えてみることだ』
そう、フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになるとは、アズリア・フォン・ヴァーダーが全てを失うということなのだ、と。
呆然とするアズリアを無視するように、イストは口を開く。いやになるくらい自然で、どこか突き放すような響きだ。
「選択権はお前が持っている。どうするかは、お前が決めるといい」
そういわれて、アズリアは木箱とそこに入っている魔道具、「糸のない操り人形」の存在を思い出した。フロイトが歩けるようになるための魔道具。逆を言えば、これがなければフロイトは歩けない。
「・・・・・っつ・・・・!」
黒い欲望が頭をもたげる。自分の醜い心を、苦い思いと共にアズリアは自覚した。
そして去り際に、イスト・ヴァーレは先の言葉をいい残したのだ。
「忘れるなよ。オレはその魔道具を、『糸のない操り人形』をお前に預けたんだ。フロイトロース・フォン・ヴァーダーではなく、アズリア・フォン・ヴァーダーに。それを決して忘れるな」
それは初めて聞く彼の真剣な声だった。
**********
「わたしは、どうすればいいのだ・・・・・?」
言葉は夜闇にとけて消えていく。答えはどこからも帰ってこなかった。
ありきたりなハッピーエンドが好きだった。
貧乏ながらも心優しく、そして王子様に見初められた少女。約束を交わし、離れ離れになっても再会を果たす少年と少女。
逆境を乗り越え、苦難を克服し、そして最後にはみんなが幸せになる。そんなありきたりなハッピーエンドが好きだった。
けれども今現実に突きつけられた二択は、一人分の幸せしか約束していない。誰も彼もが幸せになれる、そんなありきたりなハッピーエンドが一番難しいと、現実は声ならざる声をもって彼女に宣告する。
手のひらに載せた木箱が、どうしようもなく重く感じた。
「二人分の運命だ。重いに決まっている・・・・・」
この魔道具を、「糸のない操り人形」をフロイトに渡せば、あの子は歩けるようになるだろう。一度自分で試してみたが、イストの言ったことは本当だった。右手に使ってみたのだが、確かに腕ではなくて魔道具を動かすことで、結果的にわたしの右手は動いた。フロイトの足も本当に動かないだけで、関節などには異常はないから、この魔道具で動くようになるだろう。扱う感覚が少々掴みにくかったが、それは慣れればいいだけの話だ。
あの魔道具「糸のない操り人形」をフロイトに渡せば、あの子は歩けるようになる。これはもう確実だ。だからこそこんなにも悩んでいるのだ。
「・・・・いやになる・・・・・」
悩めば悩むほどに、自分の醜い部分を突きつけられた。
なぜこの魔道具は今自分の手の中にあるのだろう。なぜあの男はこれをわたしに渡したのだろう。自分の手の届かない場所ですべてが決まってしまえば、どんなにか楽なことだろう。
自分で自分のことを決める。ただそれだけのことが、こんなにも辛いとは思わなかった。
立って歩く。ただそれだけのことを、フロイトがどれだけ望んでいるか。その心のうちは慮るだけでもおこがましように思う。
まさに渇望。
まさに羨望。
それを叶えられるはずのアズリアはしかし、躊躇っている。
「・・・・嫌な女だな、わたしは・・・・」
それを責められる人間はいないだろう。フロイトの人生をのせた天秤の反対側、そこにのせるのはアズリア自身の人生だ。これまで決して恵まれていたとはいえない環境の中で、必死に努力を積み重ねてきた今までの人生。ヴァーダーの姓を捨てることは、同時にそれさえも捨てることになる。
「それだけなら、まだいいが・・・・」
ヴァーダーの姓を捨てクリークの姓を再び名乗ったとしても、彼女がビスマルク・フォン・ヴァーダーの娘であるという事実は消えない。一度日の目を見たその事実を、再び闇に葬ることなど不可能だ。侯爵家と無関係の存在になったとしても、その血はどこまでもアズリアについてまわる。彼女自身が気にしなくとも周りが騒ぐ。ある者は彼女を遠ざけ、ある者は利用しようとし、またある者はいわれのない軽蔑や妬みを抱くだろう。
ビスマルクの、魔道卿の力を使えば、あるいは平穏に暮らすことはできるかもしれない。しかしそれはアズリアのあらゆる可能性と引き換えに得る平穏だ。今までの人生を否定することに変わりはない。
それが嫌ならば、この国を離れるしかない。
「わたしは、どうしたいのだ・・・・?」
魔道卿になりたいわけではない。魔導士になりたかったわけではない。軍人になりたかったわけでもない。
士官学校に入ったのは、端的に言ってしまえばお金がなかったからだ。無料で学を得られる場所がそこしかなかったからだ。魔道科に進んだのも、その延長であったと言える。
「状況ゆえに、か・・・・・」
自らの人生を思い返し、思わず苦笑が漏れる。
しかしだからといって腐っていたわけでは、無論ない。選択肢の少ない状況であろうとも、確かに自分で求め、そして選び、研鑽を重ねてきたのだ。そんな今の自分を誇りこそすれ、自ら蔑むことなど決してない。
「ああ、だからこそいやになる」
自分は精一杯やってきた。そう自負している。けれどもその果ての二択がこれかと思うと本当にいやになる。約束された幸せは一人分。自分か、フロイトか。
「なんにせよ決まっているのは・・・・」
なんにせよ決まっているのは、どちらを選んだとしても自分は後悔するだろうと言うことだ。
「糸のない操り人形」をフロイトに渡せば、落ちぶれた自分の状況を嘆き後悔するだろう。あの時渡していなければこんなことにはならなかったのに、と。
渡さなければ、一生自分はフロイトに罪悪感を持ち続けるだろう。なぜあの時、わが身を優先したのだろうかと、ベッドに横たわるあの子を見るたびに後悔するのだろう。
「ああ、もう本当に・・・・・」
渡すか渡さないか。なぜ選択肢はこの二つしかないのだろう。ありきたりでもいい、物語のようなハッピーエンドを迎えるための、一種劇薬じみた出来事が起こればいいのに、と本気で願った。
そろそろ第三話も佳境。
感想をいただけると嬉しいです。