第三話 糸のない操り人形⑥
ノラ・フォン・ヴァーダーにとって自身を取り巻く昨今の状況は、決して面白いものではなかった。
「すべてフロイトロースが悪いのです」
自身の息子であるフロイトロースの足が不自由で、魔道卿になるのが不可能であることや、その後釜に座ったのがアズリアなどという、どこの馬の骨ともしれない娘であったことも、すべてが面白くなかった。
ノラの父はヴィトゲンシュタイン伯爵といい、カンタルク王国において由緒正しい家柄である。彼は自身の娘を愛してはいたが、貴族としてごく普通に彼女に政略結婚をするよう求めたし、またノラ自身もそのことを当然と思い受け入れていた。
ヴィトゲンシュタイン伯爵が愛娘の嫁ぎ先として目を付けたのは、政治と軍の両方に強力な発言力のある魔道卿、ヴァーダー侯爵家であった。当時結婚などするつもりのなかったビスマルクに、彼は強引に娘を娶らせ、またノラもおしかけるようにしてビスマルクのもとに来たのであった。
魔道卿の義理の父として権勢を振るうつもりでいたヴィトゲンシュタイン伯爵のもくろみは、しかしすぐに崩れた。ビスマルクは彼の介入を、政治であれ軍事であれ一切許さなかったのだ。
「これは魔道卿の責ゆえ、口出しは無用に願いたい」
そういうビスマルクのプレッシャーに押され、ヴィトゲンシュタイン伯は引き下がらざるを得なかった。ビスマルクにしてみれば、たかだか姻戚関係ごときを盾にして、国の行く末に関わる決定に口出しをされてはたまったものではなかったのだろう。魔道卿の権力は、有象無象の貴族どもがゲーム感覚で玩ぶそれとは図太い一線を画しており、それゆえに資格の無いものが関与することは許されないのである。
しかしヴィトゲンシュタイン伯は諦めなかった。目の前の権力を諦められないという意味で、彼は正しく有象無象の貴族でしかなかったわけだ。
「ノラよ、男の子を産むのだ。次の魔道卿をな」
彼が次に目を付けたのは、魔道卿の祖父という地位だった。幼い頃から自分の影響下に置き、魔道卿になった暁には傀儡にしようという魂胆だった。しかしここでも彼は浅はかであったと言うしかない。魔道卿とは血筋よりも実力が重視される役職だ。ビスマルク自身もそうして選ばれたし、またそういう基準で後継者を選ぶだろう。
今、後継者として育成しているアズリアでさえ、不適格と思えば躊躇なく切り捨てるに違いない。そもそも彼女が後継者として選ばれたのも、王立士官学校の魔道科を首席で卒業するという秀逸な成績を残したからであり、ただビスマルクの娘だからという理由ではないのだ。
だが、ノラやヴィトゲンシュタイン伯にはそれがわからない。フロイトロースの足が動かなかったから、次の魔道卿になれないから、これ幸いと自分が下働きの女に産ませた娘に後を継がせようとしていると、そう考えた。
「足さえ、フロイトロースの足さえ動けば・・・・・」
そう思うヴィトゲンシュタイン伯親子の思いは怨念に近い。
ノラはフロイトロースが次の魔道卿にならない限り、自分がビスマルクと政略結婚した意味がないと正しく理解している。ならば今の自分はただの役立たずではないか。そんなこと、彼女のプライドが許さない。
ヴィトゲンシュタイン伯にしてみれば、絶大な権力まであと一歩なのだ。少なくともそう思っている。ヴィトゲンシュタイン伯は有象無象の貴族らしく権力に対する執着心は人一倍で、そんな彼がこの現状で諦めが付くはずがないのだ。
ヴィトゲンシュタイン伯は早く次の子どもを産むようノラをせっついた。ノラはまだ十分に若く魅力に溢れた女性だ。二人目はすぐにできると彼は思っていた。しかし、彼女はどうしてもそうしようとはしなかった。
欠陥品も一人だけであれば偶然ですむ。そして自分は少なくとも人々から同情を受けることはできるだろう。だがもしも、もしも次の子供も、体が不自由な欠陥品であったとしたら・・・・?
(わたくしまで、まるで欠陥品みたいではありませんか・・・・!)
その言い訳のできない欠点を、彼女のプライドは恐れる。故に彼女は二人目の子どもをつくらない。否、つくれない。
それぞれが、それぞれに思惑を持っている。複雑に絡み合ったそれは、一見どうしようもなく堅牢そうに見える。そういう現状の上に、アズリアとフロイトロースの姉弟は立っている。
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フロイトロースが目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。窓からは光が差し込んでおり、まだ十分に明るい。
(お昼を食べて、そのまま・・・・・)
寝てしまった。寝起きのぼんやりとした頭でもそれはすぐに分かった。
体を引きずるようにして起こす。枕を重ねて背もたれにし、体重を預ける。
窓に目をやる。ほんの数メートルしか離れていないはずの窓が、ひどく遠く感じた。姉上に頼めばすぐに外に連れて行ってくれるだろう。いや外に出るだけなら、この屋敷の侍女に頼めば出られるだろう。
(でも、僕一人じゃ、できない・・・・)
その事実は少年の心を重くする。
姉のアズリアが来てからは楽しかった。毎日外に連れて行ってもらい、たくさんのものを見た。けれでもそんな毎日は、押し殺したはずの夢を思い出させる。
歩こうと練習したことはある。だが、結局一度として立つことすら出来なかった。どれだけ念じても願っても、彼の両足はそれを無視した。あざと失望ばかりが増え、歩くことを諦めるまでにそう時間はかからなかった。
(でも、本当は・・・・)
歩きたい。自分の足で立って、歩き、そして走りたい。そうすればきっと・・・・。
俯き奥歯を食いしばり掛け布団を握り締めて、フロイトロースは小さな体を震わせた。
無性に、叫びたかった。
「歩きたいか?」
突然、声をかけられた。誰もいないはずなのに。
驚いて顔を上げると、魔法使いがいた。たぶん魔法使いだ。なにしろそれっぽい杖を持っている。だけど黒いローブも着ていないし、細長いパイプのようなものを吸っている。
フロイトは自分の直感を信じ切れなかった。
「あの、どなたでしょうか・・・・?」
「ああ?そうだな、魔法使いだ」
男はそう答えた。それからニヤリ、と笑って、
「それも、極悪非道で意地悪な」
と、付け加えた。
はあ、と答えるしかない。どうやら自分の直感は間違っていなかったらしいが、最近の魔法使いはみんなこうなのだろうか。お話に出てくる魔法使いたちは、もっと真面目と言うか、こんなに軽いキャラではなかったように思う。良いヤツか悪いヤツなのかは別としても。
「魔法使いなんてこんなもんだぞ。みんな自己中で軽いヤツばっか」
そうなのか、とフロイトは納得した。何しろ魔法使い本人がそういうのだから間違いない。
こうして極悪非道で意地悪な魔法使いことイスト・ヴァーレは、純朴な少年を騙した、もとい、からかったのであった。大きくなってこの世に本当の魔法使いなどいない、ということを悟ったとき、彼は自分がからかわれたことに気づくのだろう。
「それはそうと、歩きたいか?」
魔法使いは最初の質問を繰り返した。
「治せるんですか!?」
魔法使いならあるいは、とフロイトは期待のこもった目で彼を見た。
「治すのは無理だ。なにしろ極悪非道で意地悪だからな。オレは」
男はフロイトの期待をバッサリと切って捨てた。
「が、ただ動くようにはできるかもしれん」
フロイトが失望するよりも早く、魔法使いはそういった。ただフロイトには「治す」ことと「ただ動く」ようにすることの違いは良くわからない。
「分かんなくていいよ。結果的に同じだから」
とりあえず足を見せてみな、と言って魔法使いはフロイトの足を見た。フロイトは思わず目をそらした。動かない自分の足を見るのは嫌いだった。
「ふむ、外傷は特になし。関節も正常。痩せすぎていることを除けば、特にへんなところはないな」
膝や指を曲げながら魔法使いはそう呟いた。
「触られているのは分かるか?」
軽く叩くようにして、魔法使いはフロイトの足に触れた。
「はい」
触覚は正常、と呟いた。そして、
「痛っ」
つねられた。
「痛覚も正常、っと」
恨みがましい目を向けるが、恐らくは意図的に、魔法使いはスルーする。白い煙のようなものを吐きながら、なにやら考えているようだった。
「・・・・・動くようになりますか・・・・・」
一縷の望みを込めて、尋ねる。
「過去は未来を保障しない。そして否定も」
「・・・・・よく、分かりません・・・・・」
「諦めるな、ってことさ」
寝具をフロイトに掛けなおし、魔法使いは彼の頭をワシワシと撫でた。少し痛い。
「じゃあな」
そっけなくそう言うと、魔法使いはフロイトに背を向けた。その背中はだんだんと透けていき、そして唐突に魔法使いは部屋からいなくなった。なんともそれらしい帰り方だと思った。
寝具の下の、自分の足を見る。何も変わってはいない。けれども、フロイトの心は少し軽くなっていた。
「諦めるな・・・・・か・・・・・」
可能性を否定されなかった。今は、それだけでいい。そう思った。
さっきまでいた、フロイトロース・フォン・ヴァーダーの部屋を外から見上げている男がいる。魔法使いことイスト・ヴァーレである。
「ありゃ、本当に動かないだけ、だな」
なぜ、動かないのかはさっぱり解らない。が、イストはそんなことは微塵も気にしない。なぜなら彼は医者ではなく、魔道具職人だから。そして、
(治すことは無理でも、動かすだけならできる。そういう魔道具なら造れる)
そう考えているから。
(でもまぁ、歩けるようになるかは、結局フロイトロースの手の届かないところで決まるんだけどな)
そういう魔道具を作ることはできる。イメージは既に頭の中で出来上がっているし、そもそもアバサ・ロットの名を持つ彼にとって、それほど難しい魔道具ではない。
だが、出来上がった魔道具をフロイトロースに、あの歩くことを渇望している少年に、直接わたす気は、毛頭ない。そう、なぜなら彼は極悪非道で意地悪なのだから。
(すべてはアズリア・フォン・ヴァーダーしだい・・・・・)
彼女はどんな決定を下すのだろうか。そして、その過程で何を思うのだろうか。
(楽しくなってきたじゃないか・・・・・!)
邪悪に、彼は笑う。これから起こるであろう、苦悩に満ちた喜劇を思い、彼は笑う。
全ては、彼がアバサ・ロットであるがための、その名を継いでいるが故の、茶番だ。けれどもそれはアバサ・ロットが、アバサ・ロットであるためにどうしても必要な茶番なのだと、そうイストは考える。
(さて、お前は認めさせてくれるのかな)
すべては彼女しだい。「アバサ・ロット」とはそういう名で、そういう存在なのだから。