第三話 糸のない操り人形⑤
「フロイト、入るぞ」
そう声をかけて部屋に入る。つい最近会ったばかりの弟は、大きなベッドから上半身だけを起こしていた。そして、こちらを見て満面の笑顔を浮かべた。
「姉上!」
まだ声変わりしていない、かん高い子供の声。同じ年頃の子どもと比べればおとなしい声だ。いや、「おとなしい」という評価は正しくない。「弱々しい」というのが正しい。
ビスマルクもノラも、アズリアのことを彼に知らせていなかった。彼女がヴァーダーの姓を名乗るようになってから、既におよそ一年半がたつというのに、だ。それでも、フロイトは数日前に突然できたこの腹違いの姉に、無邪気に懐いてた。
フロイトの満面の笑顔に、自然とアズリアの表情も緩んだ。
「ん、顔色はいいな。今日はどうする」
「庭に出たいです」
今日もまた、同じお願い。
八年という決して長くないこれまでの人生のほとんどを、ベッドの上で過ごしてきた少年にとって、ほんの数歩先の「外の世界」でさえ、驚きと発見に満ちた新世界であった。
「分かった。車椅子があるから、下まで行こうか」
はい、とフロイトが返事をする。弟の背中と膝に手を回し抱き上げる。フロイトもアズリアの首に手を回して体を固定する。
抱き上げたフロイトは軽い。特に動くことのない足は、本当に細く骨と皮だけだ。
「今日は天気がいいぞ。湖の方まで足を伸ばしてみようか」
一瞬胸の中に生まれた哀れみをフロイトに悟られぬよう、アズリアはことさら明るい声を出した。きっと、自分には彼を哀れむ資格などないのだから。彼女の提案にフロイトも喜ぶ。
車椅子は、屋敷の侍女が階段の下に用意していた。その車椅子にフロイトを座らせる。
「さあ、行こうか」
待ちきれない様子のフロイトに、後ろから声をかける。彼の興奮が、車椅子を押す手に伝わってきた。
**********
およそ二ヶ月前、アルジャーク帝国がモントルム王国とオムージュ王国を滅ぼして併合した。カンタルク王国はオムージュと北東の国境を接している。ともすればアルジャーク帝国の脅威が、このカンタルク王国にも及ぶかもしれない。
カンタルクの宮中は大騒ぎになり、人々は意味もなく右往左往した。アルジャークの版図は二二〇州。カンタルクの実に三倍以上だ。もしもアルジャークが牙をむけば、カンタルク一国で抗することは不可能だろう。
「この事態に際し、対応を協議する」
という名目で、王都フレイスブルグでは連日、主だった貴族たちを集めて会議がおこなわれている。
「このカンタルク一国でアルジャークと事を構えることは不可能である。いざ戦端が開かれる前に同盟を締結すべきでござろう」
「馬鹿な。わざわざ格下の相手と同盟を結ぶ国がどこにある。よしんば結べたとして、それは属国の立場に甘んずるということだ」
「左様。ここは周辺諸国に呼びかけ、対アルジャーク同盟を締結することが最善であろう」
「それは南のポルトールにも声をかけるということか」
「馬鹿馬鹿しい!我がカンタルクとポルトールは因縁の間柄。かの国の力を借りるくらいならば、アルジャークの属国に甘んじるべきであろう!」
「それは暴言が過ぎますぞ!そもそも・・・・・・」
まとまるはずのない会議だ。とはいえその立場上、魔道卿たるビスマルクはこういった会議に出席せざるをえない。
「しばらくはそちらにかかりきりになるだろう。お前がこの家に来てからまともな休みはなかったし、いい機会だ、しばらく休むといい」
国家の大事を「いい機会」とは不謹慎な気もするが、実際アズリアがヴァーダー侯爵家に来てからのおよそ一年半、文字通り休日など存在しなかった。
そんなわけで、アズリアは彼女の意思や都合とはまったく関係のない理由で、しばしの休暇を得ることになった。そして、休暇を取るのであれば、この機会に腹違いの弟に当たるフロイトロースに会っておきたいと、そう彼女は思ったのだ。
ゆえに、今彼女はここ、ヴァーダー侯爵家の領地であるサンバント州にある別荘に来ている。
**********
昼食の後、午前中にフロイトを連れてきた湖に、アズリアは一人で来ていた。魔道具の訓練をするためだ。
午前中のフロイトのはしゃぎようはすごかった。目を輝かせて視界に入るもの全てに興味を示し、なんにでも手を伸ばした。危うく車椅子から落ちそうになったことも、一度や二度ではない。
午後も来たいといっていたが、やはり疲れていたのだろう、お昼を食べたら眠ってしまった。幸せそうな弟の寝顔を思い出し、自然とアズリアも微笑を浮かべた。
「さて・・・・」
黒いケースから魔弓を取り出し、意識を訓練のほうに集中する。この魔弓はアズリアがヴァーダーの姓を名乗るようになったとき、彼女が自分で選んだものだ。以来、約一年半の付き合いになる。勧められて魔剣も一緒に選び、そちらも訓練を積んでいるが、やはり合っていると思えるのは魔弓のほうだ。
魔弓は二種類に分けることができる。矢を用いるものと、用いないものだ。前者は矢の飛距離や威力を上げる魔道具で、後者は使用者の魔力を練り上げて放つタイプのものだ。アズリアの使っている魔弓は後者に当たる。
「ようやく手に馴染んできたな」
そう実感する。
彼女がヴァーダーの姓を名乗るようになってから今日までのおよそ一年半、文字通り一日として欠かさず訓練を積んできた。いつも稽古を付けてくれるエルマーや、「時間があれば相手をしてやる」といったその言葉通りにしてくれているビスマルクといった教師たちは、いずれもアズリアよりも格上の強兵たちだ。彼らの稽古は厳しいが、確実に糧になっているという実感がある。
「ふぅぅぅぅ」
息を大きく吐き、集中に入る。余計な思考が消え、神経が研ぎ澄まされていく。
手ごろな大きさの石を湖の水面に向かって投げる。左手に持っていた魔弓をすぐさまかまえ、弦を引き魔力を練り上げて矢を形成する。石が水面に落ちる寸前を見計らって射る。
―――――ピィィィィン・・・・・
射抜かれた石は粉々に砕け、いくつもの波紋を水面に作り上げた。弦の奏でる音だけが余韻に残る。
同じ動作を何度も繰り返す。石を投げては射り、また投げては射る。石を投げる高さや距離を変えながら、何度も何度も同じ動作を繰り返していく。
「ふむ」
四十射ほどしてからアズリアは手を止めた。命中率は八割半ばといったところか。
「まだまだ甘い」
額に浮かんだ汗を拭う。大きく深呼吸してから、後ろに意識を向ける。
「それで?わたしに何か用か」
「あれ、気づいてたのか」
「なにを白々しい」
気配を隠そうともしていなかったくせに。
後ろを振り返る。そこにいたのは一人の男だった。年の頃は二十代の始めくらいで、背丈は170半ばといったところか。整った目鼻立ちをしているが、取り立てて美形というわけでもない。だが、黒にちかい藍色の瞳は皮肉っぽい光と強い意思を放っており、彼の存在に生気を与えていた。
右手で抱えるようにして、杖を寄りかかった木に立てかけている。彼の身長より少し長いくらいの杖で、先端の歪曲した部分にはところどころ金属のコーティングがなされている。そして左手には、なにやらパイプのようなものが白い煙を吐き出していた。
「タバコは遠慮してもらいたい」
アズリアはタバコ嫌いだ。臭いはしていないが、それでも気持ちのいいものではない。
「ん?ああ、これか」
そういって男は左手に持ったパイプのようなものをもてあそんだ。
「こいつは煙管型禁煙用魔道具『無煙』。タバコじゃないから大丈夫だよ」
煙も水蒸気だしな、と男は笑った。そういう問題ではないと言おうとしたがやめた。なにを言っても無駄な気がしたのだ。
内心ため息をつく。
そんなアズリアの心のうちを、恐らくは意図的に無視して、男は「無煙」とかいう煙管型の魔道具を吹かした。白い煙(本人の言を信じるならば水蒸気)を吐き出す。忌々しいがその姿は様になっている。
「それで、お前は何者だ」
少々うんざりしながら、男に正体を尋ねる。
「イスト・ヴァーレ。しがない流れの魔道具職人さ」
肩をすくめて男は飄々と答えた。頭が痛くなってくる。こういう手合いにはさっさとお引取り願うとする。
「ここはヴァーダー侯爵家の私有地だ。関係のない者は立ち去ることだ」
「お前がそんなことを言うのか?アズリア・クリーク」
「・・・・・・もはや意味のない名だ」
アズリアは答えるまでに数瞬の沈黙を先立たせた。そうかい、と言ってイストは肩をすくめ、白い煙(水蒸気らしいが)を、フゥ、とはいた。彼が手に持った「無煙」とかいうらしい魔道具の火皿からも同じものが立ち上っている。
なぜこの男は、今更私を「クリーク」の姓で呼ぶのだろう。ヴァーダーの姓を名乗るようになっておよそ一年半。ようやく違和感がなくなってきた。だが、それは同時にクリークの姓を名乗っていた頃の自分が、消されていくかのような、そんな気持ちになることがある。
名の否定は、存在と過去の否定だ。
ヴァーダーの姓を呼ばれるたびに、過去の自分が、思い出が、消えて聞くように感じる。母が精一杯育ててくれたことも、自分が努力したことも、全て消されて無かったことになるようで、虚しさと寂しさを感じることがある。
だからと言うのは変かもしれない。けれどもクリークの姓で呼ばれることに、鈍い痛みが伴うのは、どうしようもない事実だ。
「そういや、お前の弟・・・・」
「フロイトがどうかしたのか」
言葉に険がこもる。フロイトには会ってからほんの数日しかたっていないが、アズリアは事情を良く知らない他人が彼の話をするのを嫌っている。足が動かなくてかわいそうとか、そういう安っぽい同情はたくさんだった。
だが、イストが口にしたのは、アズリアが予想しなかった言葉だった。
「足、動かすだけなら方法はあるかもしれないぞ、と」
「フロイトの足を治せるのか!?」
アズリアは思わずイストに詰め寄った。
「治すのは無理だ。オレは医者じゃないからな。だが、結果的に動くようになるだけなら、意外と方法はあるもんだ」
実際に見てみないとわかんないけどな、とイストは付け足した。
「なんだっていい。あの子の足が動くのなら・・・・・」
きっと、喜ぶだろう。日陰者扱いの生活も変わるに違いない。
「嬉しそうだな」
意外そうにイストはそういった。アズリアとしては、彼がなぜそんな反応を示すのか、そのほうが意外だった。
「嬉しいさ。嬉しいに決まっている」
「本当に考えてないのか、考えないようにしているのか・・・・・・。まぁいい」
無煙を吸い、白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出す。それから誰にともなく、呟くようにしてこういった。
「フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになるとはどういうことか、一度良く考えてみることだ」
そういって、イストは背を向けて去っていった。アズリア・フォン・ヴァーダーに、意味深な言葉を一つ残して。