第二話 モントルム遠征⑫
結局話し合いは、昼食をはさんで夜まで続いた。大方の内容は決まり、明日にはアルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークに届ける正式な書簡を作成できるだろう。
クロノワ・アルジャークは護衛たちと共に、都市の外に待たせている騎馬隊のところへ戻っていった。迎賓館を用意するつもりだったのだが、
「部下に野営を命じておきながら、私だけ暖かいベッドで眠るわけにもいきませんから」
といってクロノワ自身が断ったのだ。
いまさら暗殺を警戒したわけでもないだろう。それはつまり、兵の信頼を得るすべを心得ているのであり、ただの温室育ちの皇子様ではないということだ。そうディグス・ラクラシアは思った。
いまディグスは家族と共に夕食を楽しんでいた。一日中頭と神経を酷使していたためか、食事にあわせて開けた赤ワインは体に染み渡るようで、彼はなんともいえない倦怠感に身を任せた。
「まぁ、合意文章の作成はそれほど問題なく終わるだろうね」
杯に入ったワインを飲みながら作業の進行状況と今後の見通しを家族に語っていた。
「ではなにが問題なのですか?」
そう尋ねたのはリリーゼだ。ディグスは言いにくそうに苦笑いを浮かべている。
「だれが使者になるか、でしょ?」
代わりに応えたのはアリアだった。
正式な書簡を作成してそれで終わりではない。それをアルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークに届け、そして皇帝の承諾を得て初めて独立都市ヴェンツブルクの立ち位置が決まるのだ。
問題になっているのは、その書簡を持っていくヴェンツブルク側の代表を誰にするか、ということである。本来であれば執政官の一人が使者となって赴くのが筋である。だが、今回だれも行きたがらないのだ。
露骨なことを言ってしまえば、誰も責任を取りたくないのである。
クロノワとの間で合意した条項を皇帝が認めず、その場で無茶な要求を追加してくるかもしれない。通常の国家間の話であればこういう事はありえない。だがアルジャーク帝国と独立都市ヴェンツブルクの力関係は、いっそ笑いたくなるほどで、こういう心配もしなければならないのだ。
そうなってしまえば呑まないわけにはいかないだろう。その責任を誰も取りたくないのだ。
「私に、私に行かせてください!」
そういって立ち上がったのは、なんとリリーゼであった。
一瞬、リリーゼはなぜそんなことを言ったのか、自分でも理解できなかった。だがその言葉はすぐに彼女のものとなり、血脈に沿って体に染み渡っていった。
精神が高揚し体が熱くなる。大仰に言えば運命を感じたのだ。そう、眠っていた自分を叩き起こす、稲妻の閃光のような運命を。
「私に行かせてください、父上。使者としてアルジャーク帝国へ」
誰にも渡さない。この運命は私のものだ。そう決意を込め、ほとんど睨むようにしてリリーゼは父であるディグスに懇願した。
ディグスはリリーゼのその視線をしっかりと受け止め、しかし何も言わなかった。
「だめだ!それならば私が行く!」
声を荒げそういったのは長兄のジュトラースだ。次兄であるクロードも賛同し、妹を説得しようとする。
そんな中、父であるディグスの頭の中では素早く計算がなされていた。アルコールが入っているとはいえ、彼の頭脳は明晰を保っているといっていい。
ヴェンツブルクが、というより執政官たちがもっとも恐れているのは、アルジャーク帝国皇帝が直々に新たな要求をしてくることである。だが、もしされれば使者が誰であろうと、その要求を呑まなければならなくなるだろう。
ディグスは一つ息をついた。諦めが付いたといってもいいかもしれない。
そう、諦めるしかないのだ。国力も武力も財力も発言力も、何もかもが違いすぎる格上の相手になにをしても無駄なのだ。それならばいっそ・・・・・・。
ならばいっそのこと、政も駆け引きもなにも分からない者を使者に立てたほうが、かえって相手の心象はいいかもしれない。それは暗に、すべてを委ねます、といっていることになるのだから。
「・・・・・いいでしょう」
「父上!?」
ジュトラースとクロードが悲鳴に似た声を上げる。彼らとしてはまず真っ先にこの人が反対するだろうと思っていたのだ。
息子たちの悲鳴を無視してディグスは話を進める。
「ですが、私の一存で決めてしまうことはできません。執政院に諮ってからです。もしそこで許可が下りなければ諦めなさい」
いいですね?とディグスは末娘に言った。リリーゼは視線をそらすことなく彼を注視している。
「分かりました」
一瞬の迷いもなく彼女は応えた。その目は自身が使者になることを微塵も疑っていないように思われた。そんな末娘の様子をみて、ディグスは内心苦笑をもらした。
(やはり育て方を間違えたでしょうか・・・・?)
彼はこの末娘を花よ蝶よと育てた覚えはない。自分の娘が一般的な良家の令嬢の枠に収まりきらないことを悟った彼は、自らの人生を彼女自身の手に委ねたのだ。それが間違っていたとは思わない。
しかし、自身の人生を手にした彼女は、ディグスの知らぬ間に大きな翼を育てていたようだ。そしてその翼でこの狭い鳥かごから飛び立っていくのだろう。そんな娘をディグスは眩しく、また誇りに思う。しかし、一抹の寂しさはどうしても消えなかった。
次の日、クロノワ・アルジャークとヴェンツブルグ執政院の間で合意文章が作成された。その中ではまず、アルジャーク帝国が独立都市ヴェンツブルグの宗主権を持つことが明記されている。
さらに、その内容を要約すると以下のようになる。
一つ、独立都市ヴェンツブルグはこれまでと同程度の自治権をもつ。
一つ、アルジャーク帝国より執政官を一人派遣し、九人で合議をおこなう。
一つ、アルジャーク帝国より派遣される執政官の権限は、他の八人の執政官たちと同じとする。
一つ、戦時などの緊急事態においては、独立都市ヴェンツブルグはアルジャーク帝国に最大限協力する。
これらの内容に加えてさらに細々とした取り決めが幾つか記載された。
また、執政院でリリーゼ・ラクラシアを使者とすることが承認された。もちろん使者団を組んで帝都ケーヒンスブルグへ向かうことになるが、中心は彼女だ。クロノワは少し驚いた様子だったが何も言わなかった。
会合の後、クロノワはディグス・ラクラシアから声をかけられた。
「娘をよろしくお願い致します」
「承知しました。ご安心ください」
思いつめた様子で頭を下げるディグスに、クロノワは当たり障りのない返答しか出来なかった。親心の機微はクロノワには理解しがたい。死んだ母もきっとこんなふうに自分のことを心配してくれていたのだろう。そう考えると少しこそばゆい。
ふと思った。父親たる皇帝もそうなのだろうか、と。彼は頭を軽く振ってその問いを追い出し、答えは不明のままになった。
出立は明日の朝。一度オルクスまで戻り、そこから帝都ケーヒンスブルグへ向かうことになる。