外伝 遠方より友来る
な、なんと!
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まさか10000を越えられるとは思いませんでした。
本当にありがとうございました!
「や、遊びに来たよ」
「………いや、いいけど。いいけどさ………」
清々しいまでの笑顔を浮かべる来客に対して、イスト・ヴァーレは彼にしては珍しくげんなりとした声を返した。
「おとう、おとう!おきゃくさん?」
そんなイストの足元にシラクサの民族衣装を着た幼い女の子が走り寄って来る。女の子は父親の足にしがみ付いたまま客人を見上げると、人見知りすることなく少し恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「こんにちは。始めまして。クロノワ・ミュレットといいます。お名前は?」
堂々と偽名(いや全くの偽名というわけでもないのだが)を名乗る友人に、イストは小さくため息をついた。ちなみにこの友人の本名はクロノワ・アルジャークといい、つまりアルジャーク帝国の皇帝陛下である。
「………華翠」
少女がはにかみながら答えると、クロノワは膝をかがめて視線を合わせ、優しく微笑みかけながらその柔らかい髪をなでた。なでてもらったカスイは少しくすぐったそうだ。
「スイ、お母さんにお茶二人分、って言ってきて」
イストがそう頼むと、カスイは元気よく返事をする。クロノワにきちんとおじぎをすると、それから奥のほうへかけていった。
「礼儀正しい子だね。奥さんの教育の賜物だ」
クロノワがしみじみと呟く。その横で演技がかったその仕草を、イストがジト目で見ている。
「なんでオレの教育だと思わないんだ?」
「君が………、教育………?」
やはり芝居がかった仕草でクロノワが大仰に絶句する。それを見たイストは呆れたように苦笑してから、この突然の来客を家に招きいれた。
イストの後についてクロノワは歩く。前を行く彼の歩き方に不自然なところはないが、しかしよく聞くと左右で足音が異なる。それはイストの左足が義足だからだ。
「左足の調子はどう?」
応接室に通され椅子に腰を下ろすと、クロノワはまずその事を聞いた。〈大崩落〉の際にイストが大怪我をしたと聞いてからずっと気になっていたのだ。ランスロー子爵などから話は聞いていたが、それでも〈大崩落〉直後からずっと直接会いに行く機会がなく、クロノワはずっとそのことを気にかけてきたのだ。
「ぼちぼち、だな。一時間程度なら問題なく歩ける。まあ、それ以上は痛みが出てくるから、流石に旅に出るわけにはいかないけどな」
そう言いながらイストは左足に装着した鋼の義足をなでた。この義足は彼の弟子であるニーナ・ミザリが作り上げた「魔道義肢」という魔道具である。普通の義足に比べればはるかに性能は良いが、それでも生身の足にはまだ及ばない。きっとその辺りのことがニーナの一生の研究テーマになるのだろう。
「ずっと、礼を言いたかった。あの時は本当に助かった」
ありがとう、とクロノワは頭を下げた。極端なことを言えば、あの時〈大崩落〉が起こったおかげでクロノワとアルジャーク帝国は、シーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア統一王国と争い続けずに済んだのだ。泥沼の戦場を回避できたことで、今のアルジャーク帝国があるといっても過言ではない。
さらに〈大崩落〉よって教会と神聖四国の権威が失墜し、相対的にアルジャークの名声が高まることになった。それもまた今アルジャークを強国たらしめている一因といえる。
つまりアルジャーク帝国は〈大崩落〉を起こしてくれたイストに、とても大きな借りがあるのだ。少なくともクロノワはそう思っている。
「いいよ、別に」
しかしイストはそんなふうには思っていない。それどころか、後始末を押し付けられてラッキー、ぐらいにしか考えていないだろう。もとより〈大崩落〉を起こしたのは趣味であって、それゆえに他人にやらせるつもりなどなかったのだから。
クロノワもそれは分っている。分っているからこそ、国を挙げて報いる、などという真似はしなかった。しかし全く何もなしというのも心苦しく、それゆえこうして頭を下げているのだ。
クロノワが小さく苦笑をもらしてから頭を上げると、イストの細君である翡翠がおぼんにお茶とお菓子をのせて応接室に顔を出した。その足元には、カスイが子猫のようにじゃれ付いている。
イストはヒスイとクロノワにそれぞれお互いを紹介する。ただクロノワの素性を完全にバラすわけにもいかないので、「旅をしていた頃の友人」とだけ話した。
「魔道具工房『へのへのもへじ』の話を聞きましてね、あの根無し草がなにを正気に戻ったのか、と確かめに来たんですよ」
クロノワのその物言いを聞いて、ヒスイはおかしそうに笑った。笑いながらも滑らかな手つきでお茶とお菓子、それにおかわりのお茶が入ったティーポットをテーブルの上に並べていく。
「なんで『正気に戻った』なんだよ。そこは普通『血迷った』とかだろう?」
「君はもともと血迷っていたじゃないか」
クロノワがそう指摘するとヒスイはさらに笑い声を上げ、イストのほうはただ苦笑して肩をすくめた。どうやら心当たりがありすぎて反論は出来ないらしい。
その間、話が良く分っていないカスイはその間に父親の膝の上にのぼり、イストの前に置かれた皿から菓子を一つまんまとせしめていた。イストはそんな娘の髪の毛を一つなでてからカスイを抱き上げ、そのままお盆をからにしたヒスイに手渡す。受け取ったヒスイは娘を抱いて「それではごゆっくり」と綺麗に一礼してから応接室を後にした。久しぶりに会った旧友同士なら積もる話もあるのでは、と気を利かせてくれたのだろう。
「娘さん、何歳?」
「今年で四歳だな。あと、二つ下に弟がいる」
ちなみに弟の名前は奏翡という。字面から分るように、姉弟共に母親の翡翠から一文字ずつ貰っている。
「ウチはまだ一人だなぁ。長男が三歳になる」
「知ってるよ」
大国アルジャーク帝国の帝室は常に注目の的だ。ましてシラクサはアルジャーク肝いりの貿易港。その手の情報は何もしなくても耳に入ってくる。ちなみにクロノワの嫡子の名前はアリズエルという。
「そうだ……、カスイちゃんをウチの息子の許婚にしない?」
最近売込みがはげしくってさ、とクロノワは苦笑いを作った。アリズエルが皇太子であることを考えれば、むしろ生まれたときから許婚が決まっていてもおかしくはないが、それにしても三歳児のお相手探しか、とイストは呆れた。
「アリズエル坊がスイを口説き落とせたら考えなくもない」
「……なるほど、そうくるか」
そういってクロノワは面白そうな笑みを浮かべた。そしてしばらく何ごとかを考え込み、それから大仰に両手をあげた。
「残念。アルジャークを魔道帝国にする計画はしばらくはおあずけだね」
「止めておけ。勇者サマに討伐されちまうぞ」
「大丈夫だよ、ウチには聖女様がいるからね」
得意げに笑ったクロノワに、イストが呆れたような笑みを浮かべて応じる。
「そういえばカスイちゃんといえば、腕輪をしていたみたいだけど、アレも魔道具?」
先ほどヒスイがカスイを抱き上げたときに見えたのだ。細い銀色の鎖を何本も束ねたデザインで、シンプルながらも上品であり、子供につけさせるには少しもったいないように見えた。
「ああ。名前は『安全腕輪』。効果は体外への魔力の放出を一定量抑えること」
例えば100の魔力を抑えるように「安全腕輪」を設計したとする。すると100以下の魔力しか持たない人間は、体の外に魔力を放出することが一切できず、つまり魔道具が全く使えなくなる。ちなみに101の魔力を込めれば、1の魔力だけが体外に放出されることになる。
カスイのつけている「安全腕輪」の上限値は、彼女の保有魔力量を大きく上回っており、すなわちカスイは今、魔道具を使うことができない。
ちなみにこの辺りが、随分とデザインに凝っている理由だ。見ようによっては拘束具のような魔道具であり、そんなものを娘につけておくのは親としてやはり心苦しい。せめてカスイが喜んでくるように、アクセサリーとしても一級品のデザインにしたのだ。素材は聖銀を使用しており、また着脱も自分の意志で可能になっている。
幸いなことにカスイはこの腕輪がお気に入りで、片時も離さずに身につけている。
「なんでまたそんなものを」
「じゃないとアイツ、工房の魔道具に悪戯するんだよ」
それを聴いた瞬間、クロノワは噴き出した。いかにもイストの子供がやりそうなことだと思ったからだ。
「仕方がないね。子供はそういうものだよ。というより、君にも経験がおありだろう?」
「………怪我してからは気をつけるようになったさ」
工房「狭間の庵」には、歴代のアバサ・ロットたちが作り上げし渾身の魔道具たちが数多く保管されており、そしてそのほとんど全てが大量にホコリをかぶっている。好奇心の強い子供にとっては(随分と危険だが)格好の玩具だろう。ふと、クロノワは師匠であるオーヴァもイストの悪戯に苦労させられたのかと思ったが、どうしてもその様子は想像できなかった。
「師匠はオレが吹っ飛んで目を回しても爆笑してるだけだったけど、スイが怪我したらヒスイが泣くからな………」
「おいおい………」
自分の娘に無責任すぎやしないか、と少し呆れた目でクロノワはイストを見る。しかしイストは思いかけず真剣な表情でこういった。
「痛い目を見なきゃ、分らないこともある」
「それも君の経験上、かい?」
やたらと実感のこもったイストの声に、クロノワはそう尋ねた。案の定、イストは「ああ」と肯定の返事を返す。それからニヤリと笑ってこう付け加えた。
「オレが庵の資料を読み漁るようになったのも、もともとはどれなら安全なのかを調べるためだったからな」
今思えば自発的に勉強してたようなもんだから師匠の企み通りだったのかもな、とイストは軽い口調で続けた。そういう彼だって、娘のカスイに対して同じようなことを企んでいるのだろう。クロノワはそう感じた。
「まったく、君らしいよ」
ひとしきり二人で笑った後、クロノワは出されたお茶を一口飲んだ。お茶は「緑茶」と呼ばれるシラクサのお茶だ。
「おや冷たい………」
見ればおかわりの入ったティーポットが汗をかいており、その中には氷がいくつか浮かんでいる。
「その氷は魔道具で?」
クロノワの言葉は質問というより確認だ。もとよりシラクサは南国。自然に水が凍ることなど、一年を通し起こることはない。
「まあね。ついでにウチの工房で氷屋もやってる」
アイディアを出したのはヒスイだけどな、とイストはお茶を啜りながら言った。
「さすが、しっかりしてるねぇ………。ちなみに売り上げは?」
「ボチボチ、だな」
イストはそういったが、それは「へのへのもへじ」の収入に比べれば「ボチボチ」ということだろう。なにしろ南国のシラクサ。冷たい氷の需要は大きいだろう。水は豊富だし魔道具は自家製。ちょっと考えてみただけでも儲かる要素しかない。
ちなみに「氷屋」という発想自体は新しいものではない。冬の間に氷や雪を氷室に入れて保管しておくことは昔からされてきた。また氷結系の魔道具を持つ魔導士が、引退後にそのまま魔道具を使って氷屋を営む、という例も多い。とはいえ魔道具の絶対数が少ないので必然的に氷屋の数もそう多くはならず、暑い時期に氷が贅沢品であることは昔から変わらない。
「………それで?今日は何のようで来たんだ?」
一杯目のお茶を飲み干し、それぞれが勝手におかわりを注いだところでイストがそう切り出した。
「おや、遊びに来た、といったはずだけど?」
「………それが本当でもオレは困らないが、お前とお前の部下は困るんじゃないのか?」
シラクサは帝都オルクスからそう簡単に遊びに来られるような距離ではない。ましてクロノワはこの世界で最も多忙な人間の一人だ。「ちょっとシラクサの友達のところに」などといった日には、周りの臣下たちが悲鳴を上げて止めるだろう。
「そもそも、お前、仕事はいいのか?」
「うん、シルヴィアとラシアートに押し付けてきた。それに前々からシラクサには直接視察に来たかったしね」
おいおい、とイストは苦笑する。おそらくは大量の仕事を押し付けられたであろう二人に、イストは心の中で生温かいエールを送った。
「ま、私的にはコッチが本命なんだけどね………」
そういってクロノワは「ロロイヤの腕輪」から大き目の封筒を取り出した。それはイストも見覚えのある封筒である。
「確認するけど、これは君が書いたものだね?」
「ああ。オレが書いて、艦隊の提督殿に渡したものだな」
そのレポートに書いてあることを実現するには、さすがにイスト一人では力不足だったのだ。そこでシラクサにおいて最も大きく力のある組織で、なおかつ興味を示すであろうアルジャーク海軍シラクサ艦隊にイストはレポートを持ち込んだのである。
幸いなことに魔道具工房「へのへのもへじ」の名前は大きいようで、さして面倒な手続きを踏むこともなく艦隊提督のエルカノ・オークリッドと面会することができた。簡単な挨拶の後、エルカノはイストからレポートを受け取り目を通したのだが、読み進めるにつれて彼の顔はだんだんと強張っていった。
普段、温厚な表情を崩さないエルカノが難しい顔をしているのを見て、彼の部下であるエバン・ライザックは内心で少なからず驚いていた。しかしエルカノから手渡されたレポートを読んだ瞬間、彼の顔もまた強張ることになる。
「………このレポートだが、しばらく預からせていただきたい」
エルカノはしぼり出すようにして何とかそれだけ言った。その後、彼は「自分の手には余る」と判断して、このレポートを帝都オルクスのクロノワのところまで送っていたらしい。
「ちなみに読んだ感想は?」
「絶句したよ。その後はこう思ったね。『よくもまあこんなものを』って」
少しばかり苦い声でクロノワはそういった。ちなみに周りの反応も似たようなものだったらしい。
「気に入ってもらえたようでなによりだ」
涼しい顔でぬけぬけと言い放ったイストに、クロノワは恨みがましい目を向けるがすぐに真剣な表情に戻る。そして封筒からレポートを取り出し、すでに何度も目を通したそれをパラパラとめくりながら確認していく。
「………ここに書いてあるようなことが、本当に可能なのかい?」
「理論的には」
イストがレポートの中で提案したのは、三つの魔道具を用いた船舶の誘導システムとでも言うべきものだ。彼はこの三つの魔道具に、仮称ではあるが「無明の灯台」と「導きの羅針盤」そして「共鳴石」と名付けている。
イストが提案したこの誘導システムは、仕組みとしては単純なものだ。
まず、「無明の灯台」と呼ばれる目印を目的地となるそれぞれの港に設置する。そして「導きの羅針盤」にそれぞれ目的地に対応する「共鳴石」(例えば「シラクサの『無明の灯台』」と対応する「シラクサの『共鳴石』」)をセットして魔力を込めれば、羅針盤が目的地の方角を指し示す、というものである。つまり「導きの羅針盤」と必要な「共鳴石」を船に積んであれば、羅針盤が指し示す方角にしたがって船を進め、確実に目的地に着くことができるのだ。
この説明から分るとおり、この誘導システムは船舶でしか使えない、ということは決してない。馬車に積んで陸上で使うことも十分可能だ。ただ、「船舶で使用するのが最も効果的」というのがイストの見立てである。
この誘導システムとそれを実現するための三つの魔道具だが、実はイストがシラクサに腰を落ち着けるようになってから考えたもの、ではない。机上の理論はニーナを弟子にする前からできていた。
ただし、そのサイズが問題だった。
通信用の魔道具など、二点間を結ぶ魔道具のサイズは、その結ぶ距離に比例して大きくなる。こういった魔道具は原理的に二点間で魔力のやり取りをしているのだが、距離が大きくなると魔力が減衰してしまい、それを受信するためにサイズを大きくしなければならないのだ。当然、これら三つの魔道具も例外ではない。
設置後はほとんど動かすことを想定していない「無明の灯台」はともかく、「導きの羅針盤」と「共鳴石」がとてもではないが船につめるサイズではなく、そのため「要改良」として積み上げられていた。なかばお蔵入りしかけていたのだが、そんななかブレイクスルーをもたらしたのが、他でもないロロイヤの遺した「根源の法」であった。
イストが「根源の法」と名付けた四つの術式と、それを系統立てて説明した「空間構築論」は、すなわち空間のあり方について記述するためのものだ。ロロイヤはそれをもとに亜空間設置型の魔道具や空間拡張型の魔道具を遺したが、「根源の法」の可能性はそれだけにとどまらない。
そもそも「空間構築論」は実空間を説明し記述したものだ。つまり「根源の法」は実空間に対しても干渉することができるのだ。
無論、目に見える形で空間を歪めたり、あるいは空間に穴を開けたりするには膨大な魔力が必要になる。イストが試算してみたところ、空間をゆがめて一メートルの距離を短縮するために、平均的な魔導士がおよそ二百万人分の魔力が必要になる、と出た。とてもではないが実用的とは言いがたい。
しかし、実体を持たない魔力に対して見かけ上の距離を短くするだけならば、そう難しいことではない。そこでイストは「根源の法」を出来上がっていた術式に組み込み改良することで、三つの魔道具を実用可能なサイズに作り上げたのである。
「形にするまで三年かかったよ」
まったくのゼロから始めたわけではないのに、である。ただ、イストの声からにはある種の自負が浮かんでいた。
彼にとってこれが「根源の法」を用いた空間系の最初のオリジナル魔道具である。これまではロロイヤが遺した魔道具をコピーすることしかできなかったが、これからは自分で空間系魔道具を設計することができるのだ。少なくとも、その一歩目を踏み出したのである。
アバサ・ロットの名を継ぐ魔道具職人たちにとって、初代たるロロイヤはやはり特別な存在だ。遺された資料を調べれば調べるほど、彼がとんでもない天才であることを思い知らされる。
「負けるものか」
と意気込みながらも、心のどこかでかなわないと諦めていた職人が一体何人いるだろう。その伝説の職人たるアバサ・ロットたちにとって、まさに伝説であるロロイヤ・ロットの背中を、イストは今まさに捉えたのである。
まあ、それはともかくとして。今はイストが提案した誘導システムである。
イストが書き上げそしてエルカノを経て自分のもとにたどり着いたこのレポートを読んだ瞬間、クロノワはこう直感した。「これは航海術に革命を起こす」と。
イストが提案した誘導システムは、原理的にはただ目的地を指し示すだけだが、使い方はそれだけではない。
例えば、ルティスとヴェンツブルグの二箇所に「無明の灯台」を設置したとする。そして「導きの羅針盤」と「共鳴石」を使い、まず片方の方位を測定し灯台を始点にしてそれを地図上に記入する。そしてもう片方も同じようにすれば、地図上には直線が二本引かれその交点によって現在位置を知ることができる。そして現在位置さえ分れば、目的地に「無明の灯台」が設置されていなくても、無事にたどり着ける可能性は高くなる。
船乗りが常に知っておきたいことの一つが現在位置であるというのは、航海術について全くの素人であったとしても想像がつく。目印などない大海原、自分が今どこにいるのか分らなければ、どの方向に向かって進むべきかを決めることができないからだ。
だからこそ例えば「天測」などの技術があるのだが、これは夜晴れていて星が見えなければ使えない。それにどう考えてもこの誘導システムを使った方法のほうが簡単だ。そして簡単な方法のほうを人々は受け入れるだろう。
また、海賊の被害を減らすことも期待できる。
海賊の被害割合において、航海の途中、つまり大海原のど真ん中の襲撃というのは実はそれほど多くない。海の真ん中では、そもそも獲物となる商船を見つけること自体が難しいのだ。
そんな中、昔から使われる古典的にして有効な手段が、偽装の灯台を使う手口だ。
灯台というのは、明りを目印にしている。その目印めがけて、船乗りたちは船を進めるのだ。そして、当然海賊たちもその事を知っている。
そこで、無人島などにかがり火を焚いて灯台を偽装し、その明りによって船をおびき寄せる、という手口が昔から良く使われている。そしておびき寄せられた船が浅瀬や岩礁で座礁し、動けなくなったところを襲い積荷を奪うのだ。
しかし、この誘導システムが実用化されれば、そのような罠に引っ掛かる危険性は随分と低くなるだろう。なにしろ「導きの羅針盤」で一度目的地の方位を確認すれば、明りが本物の灯台かそうでないかはすぐに分る。仮に羅針盤が明りの方角を指したとしても、現在位置を確認すれば、やはり本物かどうかの見分けはすぐにつく。
つまり、イストが提案したこの誘導システムが実用化されれば、航海の安全性が飛躍的に向上することが見込まれるのである。
「いいこと尽くめじゃないか。何を躊躇うことがある?」
「………それ、本気で言ってる?」
ニヤニヤと笑うイストを、クロノワはやや疲れた表情で睨みつけた。航海の安全性が向上することは、特に海上交易に力を入れているアルジャークにとって喜ばしいことだ。ただしアルジャークと友好国の船だけ、いや商船だけならば、という但し書きがつくことになるが。
「航海の安全性の向上は、そのまま海軍力の底上げにも繋がる」
アルジャークとしては海上権益を守るためにも海軍力が底上げされるのは望ましいことだ。しかしそれは、なにもアルジャークに限った話ではない。
「この誘導システムが実用化されれば、海軍を持つ国々はこぞって『導きの羅針盤』と『共鳴石』を求めるだろうね」
アルジャーク海軍は誕生してからまだ日が浅い。人材やノウハウなど、あらゆるものが足りていない。そんな中で劇薬とも言えるこの誘導システムが実用化されれば、海上のパワーバランスが崩れ、アルジャーク海軍は一気に底辺へと転落してしまう可能性もあるのだ。そうでなくとも航海能力を向上させた他国の海軍が、シラクサやルティスに進攻してくることは十分に考えられた。
「君だってこれぐらいのことは分っているだろう?」
「そういう流れもありうると予想はしている。だがあえて言うぞ。『それがどうした?』」
不遜に言い放つイストに対し、クロノワは大げさにため息をついて見せた。
「君ならそう言うだろうと思ってはいたけれどね………」
もう少しこっちの事情も考えてほしいもんだね、とクロノワは諦め気味に呟き冷たい緑茶を一口で飲み干した。そして三杯目を勝手に注ぎながら愚痴る。
「まったく、おかげでウチは上から下までてんやわんやだよ」
「この程度でてんやわんやとは情けない」
そんなんじゃこの先大変だぞ、と呆れ気味に言った。途端、クロノワは変なものを口に入れたかのような顔になる。
「………まだ何かあるのかい?」
「頭の中に。いろいろと」
後日クロノワは「あの時悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい」と述懐したものだ。
「かなり真面目な話なんだけどさ………」
「ん?」
「オルクスに来ない?」
考えうる限り最高の待遇で迎えるから、とクロノワは言った。優秀な魔道具職人というのはどの国も喉から手が出るほど欲しい存在だが、それを差し引いても今のクロノワは必死だった。イストがなにかやらかす度にシラクサまで出向いていては非効率極まりない。だがお膝ものとオルクスに来てくれれば、今後の対応が非常に楽になる。
しかし、問題児の返答は予想通り非常なものだった。
「断る」
「だろうね」
オルクスに行く気があれば、そもそもシラクサに工房を開くことなどしなかっただろう。予想通りの返答とはいえ、クロノワは「イスト対応係」とでも言うべき役職を新たに作るべきか、一瞬本気で悩んでしまった。
「まあ、とにかく!」
脱線しそうになる思考を、クロノワは少し大きな声を出して引きもどす。もっとも、その声がヤケクソ気味だったことは否めない。
「君が提案してくれた誘導システムだけど、『コレをやらない手はない』っていうのが大多数の意見だ」
デメリットは確かにあるが、メリットはそれを上回っている。海軍を擁する他の国々が不穏な動きを見せるかは現時点では見通せないし、計画と平行して外交努力を尽くせば、そうそう最悪の結果にはならないだろう。
なによりアルジャークが蹴ることで、イストがこの話を別のところへ持って行ってしまうのではないか、という疑念が払拭できなかったのだ。イストのことを見知っている(いや見知っているからなのかもしれないが)クロノワでさえ、「まさかそんなことは」と思いつつも、「アイツならやりかねない」と頭のどこかで考えてしまう。
ならばアルジャークが積極的に計画を主導しコントロールすることで国益を確保し各国を牽制したほうがよい、という結論に落ち着いたのだという。
「その辺は任せるよ」
クロノワの予想通り、興味なさそうにイストはそういった。もとより国家間の利害や思惑など、イストにとっては埒外である。自分の作る魔道具にそういうものが絡むとしても、彼自身がそこに関わることはほとんどない。むしろ一歩引いて傍観者の立場を取り、物事がどう推移していくのかを楽しんでいる節がある。
「ま、君がそういう権謀術数に興味を示さないのは、コッチとしてはむしろありがたいよ」
クロノワは苦笑しながらそういった。この計画に関してイストが口を挟み始めれば、アルジャークとしてもそれを無視することはできない。計画を主導するという観点からすれば、それは好ましい事態ではないだろう。
「でもまあ、君にはいろいろと手伝ってもらうことになると思うけど」
何しろ肝心の魔道具を作れるのは「へのへのもへじ」だけだ。魔道具がなければ計画が進まない以上、「へのへのもへじ」と工房主であるイストは否が応でも計画に関わっていくことになる。
「分ってるよ。提案した以上、人任せにはしないさ」
一端言葉を切り、お茶を啜ってからイストは「それに」と続けた。
「コイツでまた世界は変わる。そいつを間近で見られるのは面白そうだ」
その物言いにクロノワは苦笑した。その言葉が冗談ではなく本気でそう思っていると分っているからだ。
イストは一度、〈大崩落〉によって世界の在り様を変えている。そしてこの誘導システムによっても、世界は大なり小なり変化することだろう。しかしその変化を求める理由が「面白そうだから」だというのは、なんともまあはた迷惑でイストらしい。
なにはともあれ計画に協力してもらう旨、イストから言質を取ることはできた。断られることはまずないだろうとは思っていたが、何しろ彼の協力が得られなければ計画は動きようがない。これでクロノワがシラクサに来た目的の半分は達することができた。
ふう、と一息つきクロノワは少しぬるくなってしまったお茶を一口で飲み干した。冷たいお代わりを注ぎながら、クロノワは前々から疑問に思っていたことを尋ねた。
「ところでイスト、君はまだアバサ・ロットなのかい?」
「ん?そうだな……、『狭間の庵』はまだ誰にも継がせていないから、そうなるな」
そういってイストは左腕につけた腕輪を見せる。この腕輪こそがアバサ・ロットの工房である「狭間の庵」であり、これを受け継いだものが次のアバサ・ロットになる。
「誰に継がせるか、もう決めてあるのかい?」
「いや、今はまだ何も考えてない。工房の弟子の中から選ぶかもしれないし、スイかソウに継がせるかもしれない。ただ………」
「ただ?」
聞き返されたイストはにやり、と悪戯を思いついたように笑った。
「一番性格の悪い奴が継ぐことになるだろうよ」
さもありなん。呆れると同時になぜか納得してしまったクロノワであった。