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乱世を往く!  作者: 新月 乙夜
外伝
177/187

外伝 ユニコーンのあくび

「ひとつ、お願いがあります」


 正式に結婚を果たし初めて閨を共にした初夜のこと、クロノワはシルヴィアにそういった。


 緊張していたからだろうか、シルヴィアはあの夜のことを今でも鮮明に思い出すことができる。開け放たれた窓から吹き込む風の臭い。部屋の中を青白く照らす月の光。少し気恥ずかしそうなクロノワの微笑みと、優しい声。その全てが、彼女の脳裏に焼きついている。


「私のことは、名前で呼んでください」


 そのお願いを聞いた瞬間にシルヴィアが感じたのは、深い納得の気持ちだった。


 シルヴィアには二つ名がある。「聖女」とか「救国の聖女」というのがそれだ。その二つ名それ自体に関して思うことはない。しかし「聖女様、聖女様」と呼ばれるたびに、彼女は自分が「シルヴィア」という名の一人の人間ではなく、「聖女」という名の人形であるかのように思えてならなかった。


 そういう経験があったからだろうか。シルヴィアは「名前を呼んで欲しい」というクロノワの願いを、特に不思議に思うこともなく受け入れることができた。


 その願いの深い意味を考えるようになったのは、それから少ししてのことだ。


 クロノワもまた、「陛下、陛下」と呼ばれることに疲れることがあるのだろうか。自分が仕事をするだけの空虚な人形に思えてしまうことがあるのだろうか。アルジャーク帝国皇帝ではない、ただのクロノワに戻りたいと思う時があるのだろうか。


 そう考えた瞬間、自分の胸の中に芽生えた感情に、シルヴィアはまだ名前をつけられないでいる。


**********


 パックスの街が落ちてから、およそ一年がたった。あの事件のことを巷では〈大崩落〉と呼んでいるが、〈大崩落〉以後、世界は大きく変化した。


 世界の変化とはつまり、個々の人々の変化であり、国々の変化であり、価値観の変化である。そのなかでも自分ほど大きく変わった人間はそういない、とシルヴィアは思っていた。


 ほんの少し前までは、普通の王女だった。そして戦場で少し功績を挙げた途端、今度は「聖女」に祭り上げられた。そして今はアルジャーク帝国の皇后になっている。


 クロノワとシルヴィアが正式に結婚したのは、およそ三ヶ月前のことである。実はこの時、ちょっとした問題が発生した。


「一体誰に式を執り行ってもらえばいいんでしょうね………?」


 クロノワが呆れ気味にもらしたその言葉が、問題の中身を的確に表している。


 今までこのエルヴィヨン大陸において、結婚式を執り行うのは教会の聖職者たちであった。それは皇族や貴族といった上流階級の人々だけではなく、一般庶民の人々の結婚式においても慣例となっていた。


 しかし〈大崩落〉以後教会の権威は失墜し、聖職者たちは信者たちから敬意を払われることがなくなった。それどころか自分たちを騙していたとして、今では憎悪の的となっている。中にはそれまでの献身的な奉仕活動が認められて、〈大崩落〉後も住民から慕われている聖職者もいるが、そういう人格者はあくまでも少数だ。


 アルジャーク帝国はまた、〈大崩落〉後にすぐさまその原因を調査して報告をまとめ、その中で御霊送りの神話がまったくの嘘であったことを、間接的にとはいえ指摘した国である。いわば教会の欺瞞を暴いた張本人であるわけだ。そのような国が、しかも皇帝の結婚式において聖職者を司式者にするわけにはいかなかったのである。


 また、皇后となるシルヴィアのほうにも聖職者を司式者にするわけにはいかない理由があった。


 シルヴィアは「聖女」として十字軍を率いた人物である。そのため〈大崩落〉後はかなり危うい立場に立たされることになった。シチリアナにおいて彼女に対する同情論とも言うべきものが沸き起こり、祖国を救った「救国の聖女」としての評価が得られなかったならば、教会の手先たる「魔女」として処刑されていてもおかしくなかった。


 アルジャークに来てからはシルヴィアの立場はだいぶ良くなっている。皇帝クロノワと共に戦場に立った勇ましいお姫さまに対して国民は総じて好意的だ。それに極東はもともと中央部に比べ教会の影響力が弱く、そのためか教会に対する怒りもそれほどでもない。


 しかしだからといって油断はできない。それに式にはシチリアナはもちろんのこと、旧神聖四国からも賓客が招かれている。それら招待客をとおして式の様子が中央部に伝わることは間違いなく、聖職者を司式者などにすれば教会と「聖女」の繋がりを疑われてしまうだろう。


 クロノワはシルヴィアの祖国シチリアナを足場にして、交易の分野で大陸中央部にも進出しようとしている。そんな中、彼の妃であるシルヴィアが教会と未だに繋がっているのでは、などと疑念をもたれるわけにはいかないのだ。


 そのような状況や思惑により、教会の聖職者を司式者にするわけにはいかない。しかしだからといって皇帝と皇后が挙げる結婚式の司式者に相応しい人物など、そうそういるものではない。


 結局、二人の結婚式は司式者をおかずに執り行われた。壇上におかれた宣誓書にクロノワとシルヴィアの二人が署名をし、それを宰相のラシアートが立会人として見届けるという形で、式は無事に執り行われたのである。


 式の後、三日間に及ぶ盛大な披露宴が催された。文字通り大陸中から客人要人が招かれた披露宴はそのまま政治的な駆け引きの場ともなったが、その事が逆にアルジャークが超大国となったことを広く知らしめていた。一挙手一投足にいたるまでも注視されるのは、大国について回る宿命であろう。


 華やかだが気の抜けない披露宴が終わっても、各国から招かれた賓客たちはまだ帝都オルクスに残っていた。というよりも彼らにしてみればここからが本番であろう。それぞれに交渉を重ね情報を交換し、外交行脚に精を出すはずだ。


 クロノワとシルヴィアの二人も、望む望まざるとに関わらず、彼らの外交活動に巻き込まれていく。というよりこの二人が中心であった、というべきだろう。二人は日々訪れる来客を時には個別に、時には一緒に対応し捌いていった。もとより政略結婚の意味合いも強いのだ。それに付属するイベントとして諦めてもらうしかない。


 ようやく各国の賓客たちが帰国をはじめ、クロノワとシルヴィアの二人が一息つけるようになったのは式から一ヶ月ほど経ってからのことだった。ちょうど夏の暑い時期に差し掛かっていたこともあり、クロノワは休息もかねて避暑地へと出かけた。無論、新妻であるシルヴィアも伴って。


 彼らが向かった避暑地は、名をアームセン高原という。旧帝都ケーヒンスブルグのさらに北に位置する高原で、何代か前の皇帝が夏の宮殿(アームセン宮殿という)を建ててからは帝室の避暑地として用いられてきた。


 ただ、大併合前のアルジャーク帝国はもともと北国で、南国に比べればもともと夏は涼しい。だから先帝のベルトロワなどは即位してからというもその宮殿を利用することは無かったし、クロノワもそこへいくのはこれが初めてである。


 アームセン宮殿には夏の間中滞在する予定であり、当然そこでもクロノワは執務をおこなわなければならなかった。無論いつもに比べ量は減っているが、彼でなければ裁決できない問題も多いのだ。そもそも彼がこうして避暑地で半分遊んでいられるのは、帝都オルクスで宰相のラシアートがその穴埋めをしてくれているからにほかならない。


 そのようなわけで午前中は執務を行う、というのがクロノワのアームセン宮殿における日課になった。一方で皇后であるシルヴィアの方には処理しなければいけない書類仕事などない。だから馬の遠乗りや散策などその時間は自由に使っても良かったのだが、夫が仕事をしているなか自分だけ遊び呆けていることに心苦しいものを感じずにはいられないのがシルヴィアという女性であった。


「なにかお手伝いできることがあるでしょうか」


 あるいはその言葉がきっかけだったのかもしれない。自分ひとりで仕事をこなすことに効率の悪さを感じていたクロノワは、シルヴィアの申し出をありがたく受け入れた。


 結果から言えば、シルヴィアは非常に優秀だった。意見を求められれば簡潔ながらも核心を突く言葉で答えてクロノワの判断を助けた。他の懸案との兼ね合いや関係性を考え、それによって浮かび上がってくる矛盾点や問題点を指摘し、さらにはその解決策も同時に提示する。


 しかしその一方で、決してクロノワに成り代わって判断を下そうとはしなかった。最終的な判断を下す責任、あくまでも皇帝たるクロノワのものであるとわきまえていたのである。自分の意見が聞き入れられなかったとしても、その事に腹を立てたり小言を言ったりはしなかった。


 無論、せっかく避暑地に来ているのだ、二人とて仕事ばかりをしていたわけではない。ときには一緒に、ときには個々に高原の涼を満喫した。


 思えば〈大崩落〉から結婚式に至るまでの間に、世界は大きく変化した。国の行く末を左右する重大な決断を幾つも下さなければならなかったクロノワは、気の休まる暇も無かったであろう。ギリギリの綱渡りのような修羅場をくぐり抜けてきた彼の精神はそろそろ限界である。


 またシルヴィアにしても正式に皇后の地位に就くまでは、いつ自身の評価が反転して「聖女」から「魔女」へと転落するかも知れぬ恐怖に、心労を重ね続けてきたはずだ。自分ひとりが死ぬだけならば恐ろしくはない。その程度の覚悟など、戦場に立ったあの日より既にできている。しかし自分が「魔女」と呼ばれることで祖国シチリアナや嫁ぐ予定のアルジャーク帝国が被る損失や不利益を考えると心穏やかではいられなかった。


 そんな二人にとって今回の長期休暇は、本当に久しぶりの心休まる時間だった。緊張しっぱなしだった心と体をゆっくりとほぐし、二人はこの休暇を満喫した。使用人たちが気を利かせてくれたのか、二人っきりになれる時間も随分作ることができ、この休暇の間にクロノワとシルヴィアの距離はかなり縮まった。


 皇族や王族の結婚は第一義的に国のための政略結婚だ。本人同士の気持ちよりは国家間の利害関係が優先せられる。クロノワとシルヴィアの婚姻にしても、「国の利益」というのは決して外せない重要な要素だ。この点に関して言えば、いかに皇帝であろうとも、いや皇帝だからこそ個人の意思など無視される。


 ゆえに貴人と呼ばれる人々は、正妻のほかに何人もの愛妾を囲うのだ。正室や側室によって国の利益を満たし、さらにその外に愛妾を囲うことで個人の感情を満たす。この時代皇族や王族と呼ばれる人々にとって、それはごく普通のことであった。


 無論、そのことはシルヴィアも承知している。女性としてはいろいろと面白くない部分もあるが、それが今の世の習いだ。まして祖国シチリアナはアルジャークから一方的に支援を受けている状態で、それを考えればクロノワとの関係は間違っても対等などではない。だからシルヴィアとしてはシチリアナが不利益を被らない限りは、クロノワのすることに不満は言うまい、と思っていた。


 思っていたのだが、クロノワの自分に対する接し方を見ていると、どうも彼が政略結婚以外のものを模索しているように感じることがある。


(これではまるで………)


 これではまるで、初心な恋人たちのようだ。そんなことを感じるときがある。なぜ、という戸惑いはもちろんある。しかしシルヴィアは自分の命と名誉が守られたことの裏にはクロノワがいると分っているし、それを考えると戸惑う以上に甘酸っぱい気持ちになってしまう。今まで経験したことのないその気持ちを、このごろのシルヴィアは持て余していた。


 クロノワの態度は紳士的で、横柄なところは少しもない。すでに夫婦であることを考えれば他人行儀に思えてしまうこともあるが、一緒にいた実際の時間からすればむしろ当然な態度でもある。


(もしかして本当に………)


 もしかして本当に、クロノワはシルヴィアを一人の女性として愛そうとしているのだろうか。だからこそ自分のことは名前で呼んで欲しいと願ったのだろうか。


 この結婚は政略結婚だと、シルヴィアの理性は告げている。しかしもし許されるなら。そしてそれ以上に求めてもらえるのならば。


**********


「シチリアナへの支援策ですが、もう少し充実させてはいただけませぬか?」


 シチリアナへの第三次支援策として組まれた予算案とその内容が書かれた書類に目を通しながら、シルヴィアは斜め向かいに座って仕事をするクロノワにそう声をかけた。


 クロノワとシルヴィアがアームセン高原の夏の宮殿から帰ってきて、およそ一ヶ月がたった。アームセン宮殿でのシルヴィアの働きぶりはどうやら帝都オルクスのボルフイスク城にも伝わっていたらしく、宰相ラシアートの勧めもあって彼女はそのままクロノワの執務を日常的に補佐するようになっていた。


「具体的には?」


 手元の書類にペンを走らせながらクロノワは逆に聞き返した。視線は上げないがこれは決してシルヴィアのことを軽視しているわけではない。単純にこなさなければならない仕事が膨大なのだ。


「安値で輸出する穀物の輸出量を拡充していただければ」

「却下ですね」


 にべも無くクロノワはシルヴィアの案を却下した。途端、シルヴィアが拗ねたような顔をした。普段の表情が大人びているだけに、そういう顔をするとずいぶん幼く見える。もっとも、書類にペンを走らせるクロノワには見えていなかったが。


「今回輸出する穀物は、十字軍遠征などで吐き出してしまった備蓄分を回復するのが目的です」


 元神聖四国の一国であるシチリアナは、二度の遠征を含め三度結成された十字軍に対してかなり積極的に協力していた。それは実際に兵を出して戦力を提供するだけでなく、食料をはじめとする種々の物資を用意することも含まれている。


 十字軍は比較的短期間のうちに三度も結成されており、しかもそのたびに十万、二十万規模の軍勢が集結していた。集まった兵士たちに食料を供給するため、シチリアナは飢饉に備えて備蓄していた分をほとんど全て放出してしまっていたのである。まあ、それでも結果的には足りていなかったわけであるが。


 そこで空になってしまったシチリアナ各地の穀物倉庫を満たすため、小麦などの食料を安値(というよりほとんど原価)で輸出しよう、というのが今回の第三次支援策の中身である。これに加えて、低金利での借款の追加も行われる。前回の支援とあわせ、これでシチリアナは増税をせずとも復興のための資金を確保できるであろう、とアルジャークは目していた。


「輸出量はシチリアナが備蓄していた量に基づいてラシアートたちが決めました。シチリアナの方でも備蓄は始めているでしょうし、この辺りが妥当ですよ」


 余った分を転売して儲けられても面白くないですしね、とクロノワは冗談めかして言った。ほぼ原価の安値で仕入れた穀物を、例えば同じく備蓄分を放出してしまった近隣諸国などに転売すれば、随分な利ザヤが出るであろう。しかしそれは、交易拡大を掲げるアルジャークにとって上客を掠め取られるにも等しいもので、そんなことをされれば面白いはずもない。


 それに、とクロノワは続ける。


「あくまでも不測の事態に備え、自助努力を促すのが支援の目的です。あれもこれもアルジャークに頼っていては底力がつきませんよ?」


 それにシチリアナは直接戦禍に巻き込まれたわけではない。派兵による労働力の喪失とそれにともなう生産能力の低下は確かに問題だが、その反面、街が焼かれたり河川や用水が破壊されたりということはまったくない。社会インフラは無傷で残っているわけで、それでもアルジャークに頼りたいというのは甘えであろう。


 クロノワから諭され、シルヴィアは「むぅ」と可愛らしい唸り声をあげた。彼女とて本心ではこれで妥当だと分っているのだろう。しかし祖国を思うあまり、どうしても過剰な支援を期待してしまうのだ。


 やがて気持ちの整理をつけたのか、シルヴィアは手に持っていたその書類をクロノワに差し出した。書類を受け取ったクロノワは簡単に目を通した後、判子を押してそれを「決裁済み」の、さらに「許可」の書類の上に積み上げた。


 ちょうどその時、執務室の扉がノックされた。入室を許可すると入ってきたのはフィリオ・マルキスであった。決裁済みの書類を取りに来たのであろう。


「お疲れさまです、両陛下。そろそろお昼の時間です」


 フィリオにそう言われ窓の外を見れば、なるほど日が随分と高くなっている。クロノワはペンを置くと、手首と肩の筋肉をゆっくりとほぐした。


「クロノワ様、私は、午後からは茶会がありますゆえ」

「ええ、分りました。楽しんできてください」


 クロノワの言葉にシルヴィアは少しだけ苦笑した。この茶会は当然シルヴィアの主催になるわけだが、内々で開くプライベートなものではない。各国大使の妻や国内の有力者の妻などを招いた、いわば女だけの外交の場なのだ。お茶とお菓子で楽しくおしゃべり、などという気楽な息抜きの機会になど決してならない。


「クロノワ様も午後の執務、頑張ってくださいね」


 釘を刺すようにシルヴィアはそういった。ちょっとした意趣返しである。それが分っているクロノワは苦笑すると、大仰に両手をあげて降参のポーズを示した。政略結婚で結ばれたとは思えないほど、仲の良い夫婦である。


 茶会の用意もありますので、と言って執務室を出るシルヴィアをクロノワとフィリオは揃って見送った。


「それにしても、さすがシルヴィア様ですね」


 決裁済みの書類を見て、フィリオが満足そうに頷く。


「シルヴィア様が執務を手伝われるようになってから、陛下の仕事の能率は三割り増しです」

「私の疲労は五割り増しですが」

「これで後はお世継ぎが生まれれば、帝国の未来は安泰ですね」

「その前に私が過労死してしまいそうです」


 クロノワの愚痴など聞く耳持たず、あさっての方向を向いたままフィリオは感慨深げに頷いている。その仕草が芝居がかっているのは仕方ないだろう。実際芝居なのだから。


「それはそうとして」


 芝居に飽きたのか、フィリオはそう呟くと視線をクロノワの方に向けた。その瞳に映っているのは、思いがけず苦い色だ。


「本当にシルヴィア様がいないからって午後の執務をサボらないでくださいよ」


 そんなことをするのはストラトスさんだけで沢山です、とフィリオは愚痴った。


「外務大臣になっても相変わらずですか、ストラトスは」

「ええ、昨日は見事にすっぽかされましたよ」


 まあグレイス殿に告げ口して折檻してもらいましたけどね、とフィリオは少し邪悪に笑った。どうやら二人の関係も相変わらずなようである。


 クロノワとシルヴィアがアームセン宮殿での避暑から帰ってくると、宰相ラシアートはクロノワと協議した上で三大臣の顔ぶれを決めた。とは言っても人選自体はすでにラシアートが行っており、クロノワは説明を受けて最後の確認と承認を行っただけだが。


 その結果、外務大臣の席についたのが、早くから外交の才を見出されていたストラトス・シュメイルであった。ただ、外務大臣になってからも仕事にやる気を見せたがらない彼のスタイルは変わることがなく、執務を放り出して雲隠れすることが度々ある。


「あれで仕事が滞らないのが不思議だ」

 というのは上司であるラシアートの弁で、

「恐ろしいまでの才能の無駄遣いです」

 というのが逃げるストラトスを追う役回りの、近衛騎士団騎士団長グレイス・キーアの弁である。


 なお、国務大臣の席についたのは先の軍務大臣の息子であるアーバルク・イラニールである。現在彼は大併合によってアルジャーク帝国に併合された国々の組織を一新して一本化するという、制度面で帝国を一つにするための仕事を行っている。税率などは早い段階で統一されていたのだが、これからは教育や刑法、官吏登用制度を含め、広範な分野を一本化していかなければならない。恐らくだが、アーバルクにとって一生の仕事になるであろう。


 残る椅子は軍務大臣だが、その椅子に誰を座らせるかでラシアートは随分悩んだという。軍務大臣は国軍全体を監督するのがその職責であるが、かといって必ずしも軍事の専門家である必要はなかった。実際、先任のローデリッヒは完全な文官であり軍に籍を置いたことはない。


 しかし、大併合によって版図を急激に拡大させた今のアルジャーク帝国においては、少しばかり事情が異なる。軍務大臣となる者は併合された国々の軍隊を一度解体し、アルジャーク軍として再編するという大仕事をこなさなければならない。そのためにはどうしても軍事の専門的な知識が必要になる。


 元々はこの仕事、宰相であるラシアートから依頼されるという形でアールヴェルツェが行っていた。彼はクロノワの信頼も厚いし、なにより名実共にアルジャーク軍の頂点に立っている人物である。彼以上の適任はいなかった。


 しかしそのアールヴェルツェがアルテンシア軍との決戦において戦死してしまった。彼がやり残した仕事は、誰か他の人物に引き継がせなければならない。ラシアートは自分でやろうかとも考えたが、あいにくと彼は軍事の専門家ではなかったし、なによりも抱えている仕事の量が多すぎた。


 やはり専門家に任せるしかない。そう思った瞬間、ラシアートの脳裏には三人の顔が浮かんだ。いずれも若手の、アルジャーク軍の将軍たちだ。


 カルヴァン・クグニス。

 レイシェル・クルーディ。

 イトラ・ヨクテエル。


 アールヴェルツェがやり残した仕事を引き継げるのは、この三人をおいて他にはいないだろう。一応、エルカノ・オークリッドという男も候補に入っていたが、彼にはシラクサ艦隊、ひいてはアルジャーク海軍全体の面倒を見てもらわなければならない。こちらは完全に手探り状態で、これ以上の負担は負いきれまい。


 最初、ラシアートはこれら三人のうちから一人選んで、アールヴェルツェと同じように自分が依頼する形で仕事をしてもらおうかと考えていた。しかしこの三人は有能ではあるが若手で、それゆえ古参の将軍たちからのやっかみや嫌がらせ、また同年代の士官たち(特に残り二人の将軍)からの嫉妬が容易に想像できた。


 仕事をやり易くするためには、軍務大臣という明確な肩書きがあったほうがよい。しかし完全に現場の人間である彼らにこの権限を持たせること、ラシアートはなかなか決断できなかった。


 軍務大臣の主要な役割は、軍隊という暴力装置に手綱をつけてコンロトールし、さらには押さえつけて暴発することを防ぐ、というものだ。この辺りのことをアールヴェルツェは言われずともわきまえており、それゆえにラシアートも彼を全面的に信頼していたのだが、この若手三人が彼並みの認識を持っているのか、どうしても不安だったのだ。


 クロノワに相談しようかとも考えた。しかし三大臣の選定は宰相であるラシアートの責任である。年下の彼に放り投げてしまうのは、年長者としてあまりにも無責任に思えた。


 悩んだ挙句、このままでは仕方がないと考えたラシアートは、三人を呼び出し自分の考えを率直に告げた。


「方々のうち一人に、軍務大臣となりアールヴェルツェ将軍の仕事を引き継いでもらいたい。ただし、軍務大臣となるに当っては条件がある」


 その条件とは、「金輪際、現場での栄達は求めない」ことであった。つまり兵を鍛えることも、その兵を率いて戦場に赴くことも、軍務大臣になるのであれば今後はしないでもらいたい、というのがラシアートの出した条件であった。


 その条件に、三人はさすがに戸惑いとためらいを見せた。これまでの経歴の全てを否定することにも繋がりかねないからだ。またもっと人間的な部分で、自ら鍛え上げ共に戦場を駆け巡った部下たちに三人とも深い愛着がある。その全てを放り出せと言われれば、戸惑って逡巡するのが当然であろう。


 そんななか真っ先に、そしてただ一人手を上げたのがレイシェル・クルーディだった。手を挙げた理由を、後に彼はこう語ったという。


「あの三人の中で、自分が一番兵士たちには好かれてはいなさそうだったから」


 嫌われているから、と言わなかったのは彼なりの矜持だろうか。もっとも、嫌われていたことを示す証拠など、何一つ見つかってはいないが。


 まあ、そのようなわけで新たな三大臣の顔ぶれは以下のように決定した。


 外務大臣ストラトス・シュメイル。

 国務大臣アーバルク・イラニール。

 軍務大臣レイシェル・クルーディ。


 なお、三大臣が決まった後もラシアートは宰相位を辞さなかった。クロノワが慰留したということもあるが、なによりも軍務大臣としてのレイシェルの手腕が未知数だったからだろう。上位者として助言や監視、あるいは勧告が行えるよう、ラシアートは宰相位に残ったものと思われる。


 ちなみにフィリオ・マルキスは大臣職には就かなかったが、侍従長と侍中を兼務することになった。皇帝クロノワにとって側近中の側近というべき存在で、「重大な案件で、クロノワが彼に諮らなかったものは一つもない」とまで言われている。


 権限の大きさでは三大臣に二歩、いや三歩ほど劣るが、皇帝への影響力という意味では頭二つ分ほどもずば抜けていた。クロノワの信頼も厚く、彼が帝都を離れるときには必ずといっていいほどフィリオに留守居役をさせた。また三大臣の間を取り持って動くことも多く、この時期アルジャーク帝国が政を滞らせることなく行えたことの陰に彼の存在を指摘する歴史家も多い。


 フィリオはもともとクロノワにとって数少ない同年代の友人である。気の置けない友人である彼をクロノワの傍に置いたのは、ラシアートなりの気遣いだったのかもしれない。


 もっとも、気の置けない間柄というのは遠慮しない間柄、という意味でもある。つまり何がいいたいのかといえば、万事につけてフィリオはクロノワに容赦が無かった。


「ああ、それと陛下、これが今日中に処理していただきたい案件です」


 ドサリ、と音を立てて机の上に置かれた新たな書類の山を前にしてクロノワは頬を引きつらせた。


「あとで追加分も来ると思いますのでよろしく」


 クロノワの無言の抗議はフィリオの鉄壁の笑顔によって撥ね返された。思わず泣きそうになるクロノワに、フィリオは生温かい苦笑を向ける。


「午後からは私もコッチに来ますから、一緒にお仕事しましょうねー」


 まったく気持ちのこもらない激励にクロノワはジト目を向けた。それからふと悪戯でも思いついたかのようにニヤリと笑う。


「あんまり残業が長引くと、リリーゼ嬢とお食事に行けませんもんねー」


 憎からず思っていることがバレバレな女性の名前を出してやると、フィリオは大げさに咳払いをして視線をそらした。ちなみにボルフイスク城におけるリリーゼの人気は結構高く、思いを寄せている男もちらほらいるのだとか。


「早いとこ言うこと言っちゃわないと、とられちゃいますよ?」


 反応が面白かったのでさらにからかうと、フィリオはさらに大きな咳払いをして「それはそうと」といって話題をそらした。


「昼食を終え次第、私もこちらに来ますので」


 それだけ言うとフィリオは決裁済みの書類を抱えさっさと遁走した。半分部屋を出たところで「そうそう陛下」といって、顔だけ扉の向こう側から覗かせる。その顔に邪悪な笑みが浮かんでいたのは、クロノワの見間違いではあるまい。


「過労死する前にお世継ぎだけは残しておいてくださいね」


 それだけ言うと今度こそフィリオは行ってしまった。暴言に苦笑しつつも、最近自分の扱いがひどくなっているような気がしてならないクロノワであった。


**********


 今回シルヴィアが主催した茶会は、そう大きなものではない。女性ばかりを十人ほど招いた、どちらかといえばこぢんまりとして落ち着いた雰囲気の茶会だ。ただし、招かれているのは全てアルジャークに送り込まれた各国大使の妻たちだ。


 ここ一年で、帝都オルクスに大使を駐在させる国が急増した。直接国境を接していない国々も競い合うようにして大使を送り込んできており、それはつまりアルジャーク帝国が外交上無視することのできない大国になったことの証拠である。


 それらの大使たちは帝都やその近くで適当な物件を購入して大使館とし、日夜情報収集と外交行脚に精を出している。もっとも全ての国が適当な物件を入手できたわけではなく、例えばホテルなどのワンフロアを貸しきって当座を凌いでいる国もある。


 オルクスはもともと、小国モントルムの王都だった都市だ。そのため大国アルジャークの帝都としては少々手狭で、今後三十年ほどかけて拡張していく計画も立てられている。正式な区画割が発表されれば、各国の大使たちも土地を購入して正式な大使館を建てることだろう。


 まあ、それはともかくとして。今回の茶会はそれら各国の大使の妻たちの顔合わせの意味合いが強い。シルヴィアが見ている範囲でも、それぞれ積極的に挨拶を交わして顔を広げている。当然、彼女の元にもひっきりなしに挨拶に来る。


「シルヴィア皇后陛下、お久しゅうございます」

「ノイシュハイト伯爵夫人!」


 人の波が途切れたのを見計らって挨拶に訪れたのは、元神聖四国のローゼン王国の貴族、ノイシュハイト伯爵の妻であるアマーリア夫人だった。シルヴィアとは彼女がまだ「聖女」と呼ばれる前から面識を得ている。


 昔の顔見知りと思わぬところで再会し、シルヴィアも顔をほころばせた。しかしあくまでも顔だけだ。


(ノイシュハイト伯爵は百戦錬磨の外交家………)


 つまり相当の腕利きを送り込んできたわけで、それだけでもローゼン王国の本気度が窺える。


(それも当然じゃな………)


 ローゼンは神聖四国と呼ばれた国々の中では唯一、アルテンシア軍に国土を蹂躙された国である。シーヴァは村や町を略奪するような真似はしなかったが、幾つもの城砦が破壊された。


 実際に戦禍による被害が出ているため、シチリアナ以上に外からの援助を必要としている。しかし、周りの国々は皆同じように疲弊しているため、援助を行える力のある国となると実質的に二つしかない。すなわち、西のアルテンシア統一王国と東のアルジャーク帝国である。そしてつい最近まで争っていた統一王国に援助を求めることは、流石にできなかったのだろう。ノイシュハイト伯爵はアルジャークへとやって来た。


 シルヴィアは一瞬、「お国の様子はいかがですか」と尋ねようかと思ったが、やめた。ローゼン王国が苦しい状態なのは聞かずとも分るし、さらにいえばその話題こそアマーリア夫人が望んでいる話題であろう。代わりに別のことを尋ねることにする。


「ノイシュハイト伯爵は息災ですか?」


 アマーリア夫人は穏やかな微笑を崩さなかった。ただ、その表情が心情を表していると判断することはできない。百戦錬磨の外交家であるのは、伯爵だけでなく夫人もまたそうなのだから。


「ええ、おかげ様で夫も元気ですわ。あの人ったらやりがいのある仕事を頂けたと年甲斐もなくはしゃぎましてね、毎日動き回っておりますわ」


 アマーリア夫人は口元に手を当てると上品に笑った。ノイシュハイト伯爵が精力的に動き回っているのは事実だろう。というより、この時期精力的に動いていない他国の大使などいない、と言ったほうがいい。皆、これから交易を拡大させるアルジャークの力を自国に呼び込もうと必死になっている。


「それはなにより」


 あたりさわりなくシルヴィアはそう応じる。それから二言三言世間話をしてから、アマーリア夫人は「それでは」といって離れて行った。


 その背中を見送りながら、シルヴィアはつくづく思った。「時代は変わったものじゃ」と。


 一昔前まで世界の中心といえば、経済的にも文化的にも神聖四国と教会のことであった。それゆえ大陸中央部の国々、特に神聖四国の貴族や王族にとって「アルジャーク帝国に行け」といわれることは、すなわち「地の果てに行け」といわれることと同義であったろう。ようは左遷、いやともすれば流罪の如くに感じたかもしれない。


 アルジャークの兵の精強さは確かに大陸中に轟いていたが、しかし逆を言えばそれだけである。外交上の重要な相手にはなりえなかった。


『辺境の田舎者』

 それが一昔前のアルジャークの評価であった。


 それが今やどうであろう。アルジャーク帝国は大陸を二分する大国の一つとなった。もう一つはもちろんアルテンシア統一王国だが、経済規模や国内の情勢などを勘案すればアルジャークの方が頭一つ飛びぬけているといえる。もっとも、クロノワの自己申告によれば主君の器はシーヴァ・オズワルドのほうが圧倒的に勝っており、近い将来必ずや追いついてくるであろう、というのが彼の見立てだ。


 まさに、今やアルジャーク帝国は世界の中心であり、外交の最前線だ。大陸の全てが帝都オルクスの動向を注視している、といっても過言ではない。そして両大国どちらからも距離のある大陸中央部は辺境となってしまった。一昔前では考えられないことである。


(私がここにこうしていること自体、“考えられないこと”だったのじゃろうがな………)


 神聖四国の姫がアルジャーク帝国に嫁入りするなど、シルヴィアの生まれた当時であればありえなかったに違いない。しかしそのありえないことが現実に起こってしまった。


(これから先の歴史は面白くなりそうじゃな)


 そう心の中で呟いたシルヴィアは、しかし自分の言葉に殴られたかのような衝撃を感じた。


 なにを傍観者然としているのか。今の自分はアルジャーク帝国の皇后である。つまり十分に歴史を動かしえる立場にいるのだ。


 そう考えた瞬間、シルヴィアの体が震えた。恐怖か。いや違う。武者震いだ。しかも戦場ですら感じたことのない衝撃を伴っている。


 口元が獰猛な笑みをつくり体が戦場の空気を発するのを、シルヴィアは必死に抑える。しかし爛々と輝く目だけは抑えることができなかった。


 シルヴィアは望んで戦場に立ったが、望んで「聖女」と呼ばれるようになったわけではない。しかし「聖女」と呼ばれたがために今ここにこうしていることも、また一面の真実であろう。


 今までそんなふうに考えたことはなかった。シルヴィアの周りはともかく、彼女自身は自分が「聖女」であってよかったと思ったことはほとんどない。しかし「聖女」と呼ばれることで、一介のお姫さまでは手の届かないチャンスを得られたのであれば………。


(そう考えれば、「聖女」の名もそう悪いものではない、か………)


 かつてシルヴィアが戦場に出たいといったときに、父であるアヌベリアスはそれをよしとはしなかった。「それは男の仕事だ」と彼は言ったものである。


 予想していた答えだったとはいえ、流石に悔しかったのを覚えている。生れ落ちたときの性別が違っただけで、なぜこうも生きるべき世界が違うのか。王女でありながら、いや王女であるがゆえの無力さに歯噛みする想いだった。


 ただ綺麗なだけの人形でいることに、初めて息苦しさを感じたのはいつのことだろう。きっとそのとき同時に感じてしまったのだ。日々歴史を積み上げていく、そんな世界の存在を。その世界に通ずる鍵が「聖女」の名だと言うのならば………。


(面白い。背負ってやろうではないか)


 済ました顔でお茶を啜り、シルヴィアは抑え切れなくなった口元の危険な笑みを隠す。そのまま意識を外に向けると、足音が近づいてくるのが聞こえた。どうやら次の客人が挨拶に来たらしい。


「聖女様、本日はお招きに預かり………」


 自分のことをそう呼ぶということは、大陸中央部の国の出身だろうか。中身のない挨拶を聞き流しながらシルヴィアはそう当たりをつけた。


(さて、これも仕事のうちじゃな)


 今頃はクロノワも執務室で書類を相手に格闘していることだろう。ならばシルヴィアもまた、この場で自分の責務を果たさなければならない。クロノワの傍らに立ち世界を見据えたいのであれば、それに相応しい人物でなければならないのだ。


 そして、そういう人間でありたいと、シルヴィアはずっと前から願っていたのだ。


**********


 腕の中で眠るシルヴィアの髪の毛を、クロノワは手でそっと梳く。妻である彼女と閨を共にした回数は、もう両手の指だけでは数え切れない。


 シルヴィアの髪を梳く手を止め少しだけ抱き寄せる。こうしていると、クロノワは愛おしさと同時にある種の感慨深さを感じずにはいられない。


「ん………」


 かすかな呻き声と共に、シルヴィアが少しだけ体を震わせる。それから目を薄く開けて、寝惚け(まなこ)を夫に向けた。普段の凛々しさとはかけ離れたその無防備な姿に、クロノワはそっと苦笑をもらす。


「起こしてしまいましたか」


 そう言うと、やはり眠いのかシルヴィアはクロノワの胸に顔をうずめる。そのまま眠ってしまうのかとも思ったが、不意に彼女はこんなことを聞いてきた。


「なにか、考えていらしたのですか………?」

「いえ、つまらないことです」

「……聞かせて、いただけませぬか……」

「そうですね………」


 では子守唄代わりに聞いてください。つまらない話ですから。そうクロノワは言った。腕の中でシルヴィアが頷くのを感じてから、彼は話し始める。


「知っていると思いますが、十五の頃まで私は帝室とは関係のないところで暮らしていました」


 アルジャーク帝国が大国となった今では、知らぬもののほうが少ない逸話であろう。当時ミュレットの姓を名乗っていた彼は、母と二人、政争の騒音が届かぬ静かな場所で暮らしていた。


「別に、生活が苦しかったということはないんです」


 クロノワの母であるネリア・ミュレットは、当時帝都であったケーヒンスブルグを離れる際に、彼の父である皇帝ベルトロワから相当額の資金を援助してもらっている。無駄遣いしなければ母子二人が問題なく暮らしていける額で、実際クロノワも食べるに事欠いた記憶はない。


 そういう意味では恵まれていたとすら言えるだろう。そして餓える心配がなかったためなのか、クロノワは次第にあることについて考えるようになる。


「いつのころからだったんでしょうね………、顔も知らない父親に反発を覚えるようになったのは」


 やや苦笑気味にクロノワはそういった。彼は“反発”という言葉を使ったが、実際にはそんな生易しいものではない。憎悪していた、というべきであろう。


 父親がいないこと。周りに親族はいないこと。そして自分と母親がお金に困っているわけではないこと。その三つの事実から「自分の父親は結構な財力あるいは権力を持つ人間である」という推測を引き出すことは、クロノワ少年にとってそう難しいことではなかった。


 卑怯者、という単語がクロノワ少年の脳裏に閃いた。確かに自分の父親は卑怯者だ。守るべき人を守らず、果たすべき責任を果たさなかった。少なくとも、あの頃はそう思っていた。


「まあ、今になってみれば父の考えも理解はできるんです」


 実際、クロノワとネリアがケーヒンスブルグの宮殿か、あるいはベルトロワの庇護を受けられる場所にいたとして、その生活がはたして快適であったかといわれれば否だろう。クロノワとネリアの親子が皇后から一方的な迫害を受け、ともすれば命までも危険に曝されていたであろうことは、想像に難くない。そういう意味では守られていたとさえいえるだろう。


「まあ、納得はできませんけどね………」


 少し拗ねるような口調でクロノワはそう続けた。少年時代に抱いた憎悪は、薄れはしたがまだ心の奥底でしこりのように残っている。ベルトロワが死んでしまった今となっては、それを完全に解決することはできないだろう。


 ふと腕の中に意識を向けてみるが、シルヴィアから反応はない。もう眠ってしまったのだろうか。そう思いつつも、クロノワは言葉を止める気にはなれなかった。


「だから、なのかもしれませんね………。自分が夫になることを、そして父親になることをなかなか想像できませんでした」


 実際、もう二、三年は妃を迎えないつもりだった。表向きいろいろな理由を並べ、もちろんそれも本当のことなのだが、しかしもっと個人的な部分でクロノワは自分が良い夫に、そして良い父親になれるのか自信がなかったのだ。


 帝室内で起こる問題は、必ずや権力闘争に直結する。いや、権力闘争が帝室内に問題を引き起こす、と言ったほうがいいかもしれない。ともかく権力と利害が絡むゆえにそれらの問題は複雑で、片方には必ずといっていいほど悲劇的な結末が用意されている。


 その事を、クロノワは身にしみて知っている。彼自身、異母兄弟であるレヴィナスと帝位をかけて争ったからだ。そして自分の子供こたちが同じことを繰り返すかもしれないと思うと、クロノワとしてはやりきれない気持ちになる。


 無論、クロノワはまず名君になるべきであって、よい父親になる必要は必ずしもない。しかし自分の後継を巡って争いが起こっていては、名君とは呼べないのではないだろうか。


「まあ、結局のところ、イメージできなかったんですよ。幸せな家庭と、そこにいる自分を」


 結局のところ、それが全てだろう。その一方で起こるかもしれない問題は次々に浮かんでくる。これでは妃を迎えたくないと思っても仕方がない。


「………今は、どうなのですか?」


 どうやらシルヴィアは起きていたらしい。しかも口調がはっきりしてきている。しかしクロノワはその事にあえて気づかない振りをした。


「そうですねぇ。努力はしているつもりですよ、いろいろと」


 クロノワの言う“努力”にはシルヴィアへの接し方も含まれているのだろう。


(クロノワ様………)


 きっとクロノワが望んでいるのはとてもささやかな幸せで、それゆえ王族や皇族には縁のないものだ。王族として育てられたシルヴィアにとっても、その幸せは物語のなかにしか存在せず、どこか遠い世界の話としてしか実感はない。


 父や母に愛されてはいたのだろう。しかしそれ以上に国の利益というものが勝る環境だった。その事に不満を覚えたことはないし、また不満に思ってはいけないのだろうと思う。それが国民の税によって養われてきた者の責任だ。


 けれど、そのことを寂しく思ったことはある。冷たい机上の計算で自分の人生の全てを決められてしまうことに、一抹の寂しさを感じたことは数限りない。


 王族とて人間だ。王女とて少女だ。愛されたいと、そして満たされたいと願うのは許されないことなのだろうか。


(許されないと、そう思っていた………)


 いや、諦めていた、というべきだろう。しかしクロノワの方から歩み寄ってくれるのならば。手を差し伸べてくれるのならば。近づいてその差し出された手を取ることは、許されるのではないだろうか。


「………クロノワ様は、どうして私を妃にしようと思われたのですか………?」


 シルヴィアは聞いてから「しまった」と思った。しかしそれはずっと気になっていたことでもある。


 クロノワは妃になったのがシルヴィアだったから、「名前で呼んで欲しい」と願ったわけではないだろう。多分、嫁入りしたのがどこの姫であったとしても、同じことを言っていたはずだ。


 ではなぜ、シルヴィアだったのか。


 いや、いろいろな思惑があることは分っている。しかしそれはシチリアナとアルジャークの思惑だ。けれどもこれまでの話を聞いていると、クロノワは彼なりの理由があってシルヴィアを選んだ気がするのだ。


「そうですねぇ………」


 そう小さく呟いてクロノワは少し考え込んだ。早く妃を迎えるようにせっついていたアールヴェルツェへのはなむけ、というつもりもあった。しかしそれだけならば、なにも危うい立場にいたシルヴィアを選ぶ理由にはならない。


(ああ、そういえば………)


 イストの弟子のニーナ。彼女はシルヴィアについてこんなことを言っていた。


『シルヴィア様は、報われていい人だと思います』


 その言葉がきっかけになったのは事実だ。しかしニーナのこの言葉をそのままクロノワの理由にしてしまうのはあまりにも無責任だろう。彼の中にはこの言葉に動かされる、あるいは共感する何かが確かにあったはずなのだから。


「頑張った人には報われて欲しい。頑張った人が報われるような国にしたい」


 そんなふうに思っただけです、とクロノワは言った。そしてシルヴィアが何か言う前に冗談めかしてこう付け加えた。


「もちろん、私を含めて、ね」


 それを聞いてシルヴィアは少しだけ笑った。おかしな話かもしれないが嬉しかったのだ。一方的に報われてきたわけではない。一方的に与えられてきたわけではない、とそう思えたから。


「きっとクロノワ様も………」

「ん?」

「きっとクロノワ様の努力も、報われると思いますよ」


 言葉の後、数瞬の沈黙があった。何かまずいことを言ってしまっただろうか。シルヴィアが不安で体を硬くしていると、その体が少しだけ強く抱きしめられた。


「そうですね。そう、願いたいものです」


 伸ばされた手をつかんだ瞬間、どちらが手を伸ばしていたのかなど、もはや意味はないのだろう。なぜならもう手は繋がれているのだから。


(ならば与えられるだけでなく、与えることもできるはず………)


 シルヴィアのその思いを、触れ合う肌の暖かさが確信に変えてくれた。



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