第十話 神話、堕つ26
突然の地震によって、アルテンシア軍と連合軍の決戦は強制的に中断されていた。何しろ激しい揺れだ。立っていることもままならないのであれば、戦うことなどできるはずもない。バランスを崩して倒れたり馬から振り落とされたりする者が続出したが、その反面ここは平原で崩れて上から落ちてくるようなものは何もない。この地震によってけが人は出ただろうが、死者は出ていないはずだ。
中断させられたのは、なにも軍勢同士の戦いだけではない。戦場のど真ん中で死闘を繰り広げていたシーヴァ・オズワルドとジルド・レイドも、この地震によって仕合を一時中断していた。
「イスト………?」
異変があったと思しきアナトテ山のほうを見て、ジルドが呟く。この地震はパックスの街が落ちたことによるものと見てまず間違いないだろう。なんらかの異変が起こるとは聞いていたが、この規模の地震は流石に予想外だ。街を落とした張本人であるイストは無事だろうか。
「これはイストの仕業か?」
ジルドの呟きが聞こえたらしく、シーヴァがそう尋ねる。彼にしてもここまで大きな異変が起こるとは思っていなかったのだろう。
「残念ではあるが、この勝負預けるぞ」
一時軍を退き何が起こったのかを調べなければならん、とシーヴァは言った。
「承知した」
そういって、ジルドは「万象の太刀」を鞘に戻した。勝敗がつかなかったのはシーヴァと同じく残念ではあるが、今はそれよりもイストの安否のほうが気にかかる。
「いずれ、また」
「ああ、いずれまた」
短くそれだけ言い交わすと、シーヴァは身を翻してアルテンシア軍のほうへ向かっていき、ジルドは「風渡りの靴」の力を駆使してアナトテ山へと向かうのであった。
アナトテ山はひどい有様だった。あちこちで土砂崩れが起き、木々がなぎ倒されている。山道は気や大きな石、ぬかるんだ土砂によって塞がれており、普通であれば歩くことさえ困難であろう。
そんな悪路を、しかしジルドは飛ぶようにして駆けていく。いや、実際彼の足はぬかるんだ地面に対して少しだけ浮いている。「風渡りの靴」の力を駆使して、ジルドは風の上を滑るようにして駆けていく。
今のジルドにとって、道に散乱する木々や大きな石は障害物になりえない。それどころかちょうどいい足場だといわんばかりに、時折そこに足を着いて彼は神殿のほうへと向かっていく。
神殿は、壊滅していた。もとより地震や鉄砲水を想定した設計などしていなかったのだろう。すべてが崩れ去り、潰れていた。積み上げられていたのであろう、四角い大きな石材があちらこちらに散乱している。
「イスト!どこだ!!」
人の気配が感じられない被災現場でジルドは声を張り上げる。彼の内心では焦りばかりが募っていた。
こんな事態になるなど、考えてもいなかった。いや、パックスの街が落ちることでどんな現象が起きるのか、そもそもジルドは真面目に考えたことはなかった。イストのことだからちゃんと考えているのだろうと思っていたし、なによりもシーヴァとの再戦のほうが気になっていた。
(イストがニーナを預けたのは、このせいか………!)
その時点で気づいても良かったはずなのだ。今のこの状態を予見していてそれでも止めないイストもだか、自分の興味にばかり意識が向いていた自分にも、ジルドは腹の立つ思いだった。
「イスト!どこだ!!」
再度、ジルドは声を上げる。
後になって思えば、その声が聞こえていたわけではないのだろう。しかしジルドの声に応じるかのようなタイミングで光球が一つ、宙に浮かび上がった。駆け寄ると、その光球の下にイストがいた。
「ああ、おっさん。ナイスタイミング………」
杖も流さちまってな。コイツがあってよかった、とイストは指にはめた指輪を見せる。おそらくその指輪で光球を出したのだろう。
イストの声は流石に弱々しい。ただ口元には微妙ながらも笑みが見られた。しかしジルドはそんなものを見てはいなかった。彼が見ていたもの、それは瓦礫に挟まれ押しつぶされたイストの左足。
「イスト、左足だが………」
「ああ、ぶった切ってくれ」
まるで大根か何かのように、イストはあっさりとそういった。始めから覚悟していたのだろう。足を片方失うことへの忌避は感じられなかった。
ジルドは小さく「すまん」と謝ってから腰の佩いた「万象の太刀」を抜き、そしてイストの左足を膝の上辺りから切断する。
「………!!」
足を切られた瞬間、イストは大きく体をのけぞらせたが、それでも悲鳴はあげなかった。歯をくいしばって痛みに耐えている。
血を払った太刀を鞘に戻すと、ジルドは上着を脱いで二つに裂いた。そして一つでイストの傷口を被い、一つで傷口の上をきつく縛って止血する。本来であれば、ワインかオリーブオイルなどで傷口を消毒できればいいのだが、あいにくとそのような気の利いたものは持ち合わせていない。ともかく今は、きちんとした治療のできるところへ早く連れて行かなければならない。
ジルドはイストを背中に負うと、再び「風渡りの靴」に魔力を込めて走り始める。ただし、背中のイストに負担をかけないよう速度は抑えながら。
「なあ、おっさん。これからどうしようか………?」
ジルドの背中でイストが弱々しい声でそんなことを言う。普通に考えれば「これから」とは「左足を失ったこれからの生活」ということになるのだろうが、あいにくと今ジルドの背中にいる人物は普通ではない。だからジルドは、こう応じた。
「どう、とは?」
「アレを超える驚きには、この先もうあえないと思うんだ………」
イストのいう“アレ”とは、パックスの街が堕ちたときの、その一部始終であろう。かつて彼は旅の目的を聞かれた際に「面白いものを見るため」と答えたことがあるが、足を一本失ったこの状況でそっちの心配をするとは、やはり変人というしかないであろう。その事を再確認し、ジルドは苦笑した。
「では、自分で作るしかないな」
「はい………?」
「お主は、魔道具職人なのだろう?」
その言葉を聞いてイストが苦笑する気配をジルドは感じた。どうやらこの答えで間違っていなかったらしい。
「そうだな………。オレは、魔道具職人だ………」
小さくそれだけ呟くと、イストは意識を手放した。
次にイストが目を覚ましたのは、見慣れないテントの中、簡易ベッドの上だった。テントの外からは騒がしい空気が伝わってくる。おそらくアルジャーク軍の陣内だろう。イストは血が足りなくて動きが鈍い頭でそう当たりをつけた。
イストは体を起こそうとするが、しかし体に力が入らない。仕方なく、そのまま横になっていることにした。
目を閉じると、パックスの街を落としたときの一部始終が浮かび上がってくる。あまりに強烈であったためか、一瞬一瞬が絵画のように切り取られてイストの脳裏に焼きついている。
砕け散る「世界樹の種」。歪む空。現れそして落下する街。揺れ動く大地。巻き上がる水のしぶき。迫り来る濁流。
その全てが、鮮明に焼き付いている。死を迎えるその直前まで、決して色あせないと断言できるほどに。
「最高だ………!いや本当に」
青白い顔をした怪我人は恍惚の表情を浮かべる。少しばかり危ない表情だ。しかしそれはすぐに消えて苦笑に変わった。
「アレを超える驚きか………」
まいったね、といわんばかりにイストは右手を額に乗せた。しかし口元にはすでに不敵な笑みが浮かんでいる。
「いいね、面白そうだ」
どんな魔道具を作ればいいのか、今はまったく思いつきもしない。そもそも「自分が驚くような魔道具を自分で作る」こと自体、理論的に考えて無理があるような気がする。だがそれでもイストはやる気でいた。
「じゃないと、これから先退屈で仕方がない」
イストはそういった。左足を失った以上、これまでと同じように旅から旅への生活を続けることはできないだろう。自然、これからは腰をすえて魔道具を作る時間が増えることになる。ならば目標は壮大なほうがいい。簡単に達成できてはつまらないから。
そこまで考えると、テントの入り口に人の気配がした。そちらに視線を向けると、ジルドとニーナが入ってくるところだった。
「師匠!!」
イストが目を覚ましていることに気づいたニーナが、枕元に駆け寄ってくる。しかし俯くばかりで何も言わない。責めればいいのか心配すればいいのか、はたまた悲しめばいいのか、彼女の中で整理がついていないのだろう。
「なんだ、泣いてるのか?」
「………泣いてません」
そういうニーナの目じりには涙がいっぱいにたまっている。そんな弟子の強がりにイストは苦笑をもらした。
「随分と元気そうだな」
ニーナの後ろからジルドが呆れたような声をよこす。イストは視線だけニーナからそちらに移してそれに応じた。
「いやいや、力が入らなくて起き上がることもできやしない」
横になったままでイストは大仰に嘆いて見せる。やっていて自分でおかしくなったのか途中で噴き出し、そのせいで傷が痛んだのか顔をしかめた。
「ま、それはともかく、だ」
助かったよ、おっさん。ありがとう、とイストはジルドに礼を言った。ジルドにしてみればイストの事情も、クロノワの事情も、シーヴァの事情も、知ったことではない。異変も何もかも無視して、シーヴァと決着をつけても良かったのだ。
しかしそれを後回しにしても、ジルドはイストを助けに来てくれた。そしてジルドが来てくれなければイストは死んでいただろう。
「少しは借りを返せたか?」
「ああ、完済だよ」
むしろ借りができたくらいだ、とイストは笑った。
「そうか、良い債権になりそうだな」
そういってジルドも笑った。それからすぐに笑みを収めると、ジルドは少しばかり真剣な顔をイストに向けた。
「さて、これからのことだが………」
そう前置きしてからジルドは話し始めた。クロノワにイストの怪我のことを伝え今後のことを相談した結果、ポルトールから補給物資を運んできたランスロー子爵を頼って彼の領地で養生させてもらっては、ということになったらしい。当然のことながら、ランスローにはクロノワからも口ぞえしてくれるとのことだ。
「御前街で治療できればいいのだがな………」
残念ながらパックスの街が落ちたことによる地震で御前街も被害を受けている。濁流に飲まれることはなかったようだが、それでも多くの建物が倒壊しており、それに伴って怪我人も多く出ている。早い話、イスト一人に時間をかけていられるような状態ではなかった。
「それにこの先、混乱も予想される」
これからクロノワは「御霊送りの神話は嘘で捏造されたものだった」と、教会を攻撃し始める。それによって教会の権威は喪失するだろうし、また地震による混乱とあいまって大規模な暴動が起こるかもしれないと予想されていた。そしてその暴動が神聖四国全体に広がる、というのが今のところ最悪の予想である。そのような状況の下に大怪我をしたイストを置いておきたくない、とクロノワは思ったのだ。
「どうやってポルトールまで行くんだ?」
「ポルトールの補給物資を運んできた船団がある。それに乗せてもらう」
それを聞いてイストは頭の中に世界地図を広げた。ラムナール大河に流れ込むかなり大きな支流が、たしかアナトテ山の近くを流れていたはずである。それを思い出して、イストは「ああ、なるほど」と納得した。
「まかせるよ。どの道、満足に動けやしない」
「分った。では、手配はこちらでしておこう」
そういうと、ジルドは身を翻してテントから出て行った。中には横になったイストと、俯いたままのニーナが残る。
「………師匠は、これからどうするんですか………?」
しばらくの沈黙の後、ニーナはそう尋ねた。
「どうするもなにも、魔道具を作るさ」
オレは魔道具職人だからな、とイストは答えた。それを聞いて、ニーナがようやく顔を上げた。目じりにいっぱいの涙をため、そして呆れたような笑みを浮かべながら。
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パックスの街が堕ちてからのことを、語らねばなるまい。
街が落ち、そしてそれに伴って大きな地震が起きた。パックス湖からあふれ出た濁流は幸いにも戦場には押し寄せてこず、この人為的大異変によるアルテンシア軍と連合軍の死傷者はごく少数にとどまった。
突然起こった大地震によって、両軍の戦闘は一時的に中断された。そして揺れが収まった後、戦闘が再開されるよりも早くシーヴァ・オズワルドとクロノワ・アルジャークは全軍に一時撤退を命じたのである。
軍を退いたシーヴァとクロノワは、それぞれ独自に“地震の原因”を調べ始めた。そもそも地震に原因があると考えること自体、この時代ではかなり特異であり彼らが裏の事情を知っていることを暗示していたが、幸いにもそれを口に出す人間はいなかった。(気づいた人間はいたと思われる)
さて、アルテンシア軍と連合軍(いやほとんどアルジャーク軍だが)のうち、先に調査結果を公表したのは連合軍のほうだった。地震発生からわずか二日後のことである。
その調査結果によれば先ごろの巨大地震の原因は、
「パックス湖に大量の土砂と岩塊が落下したため」
であった。
さらに調査結果は続けて述べる。
「パックス湖の周辺に地震による以外の地形的変化を認められない以上、これら大量の土砂と岩塊は突然に湖の中、あるいはその上空に現れたとしか考えられない。常識的に考えてそのようなことはまずありえないが、しかし実際にパックス湖は大量の土砂と岩塊によって埋まってしまっている。そう、まるで最初そこは更地であったかのように」
ここまでであれば、多くの人々はこの調査結果を真に受けることなどなかったであろう。しかし連合軍の、いやこう言おう、アルジャーク軍の調査結果はさらにこう続けている。
「方法論はともかくとして、これら大量の土砂と岩塊がどこから来たのかについて説明しなければならない。我が軍の調査の結果、これらの土砂と岩塊の中には明らかに人工物と思われる石材や木材が混じっていることが判明した。概算ではあるがその総量は、街一つ分程度はあると思われる。
少し話が逸れるがおよそ千年前、確かにここには街があった。御霊送りの神話において神界に引き上げられたとされるパックスの街である。結論から言えば、パックス湖に落下したこれら大量の土砂と岩塊は、パックスの街、あるいは街であったもの、というのが我が軍の目するところである」
ところどころに強引な理論が見られるのは気のせいではないだろう。というよりこの調査結果、最初から結論有りきで論が展開されているのだ。そしてついに、調査結果はアルジャーク軍の主張の肝へと至る。
「神界に引き上げられたパックスの街が現世に堕ちてくるなど、あってはならないことである。しかし現にパックスの街は落ちてしまった。そこから得るべき結論は一つである。『そもそもパックスの街は神界に引き上げられてなどいなかった』」
アルジャーク軍がまとめた調査結果の中で、「教会が神話を捏造し信者たちを騙していた」と直接的に主張する箇所はない。しかしそれはこの調査結果を斜め読みすれば誰でも達しえる結論であった。
さらにアルジャーク軍が調査結果を公表した三日後、ほぼ同じ内容のことをアルテンシア軍も発表する。これはつまり、クロノワ・アルジャークとシーヴァ・オズワルドという、東西の大国の国家元首が「教会が神話を捏造し信者たちを騙していた」と認めた、ということである。
さらに十字軍に配慮する必要のないシーヴァは、こんなことさえ言っている。
「さきの地震ではその揺れに加えパックス湖からあふれ出た濁流による被害も無視できないものがある。この濁流が仮に戦場を襲っていたとすれば、アルテンシア及び連合の両軍は甚大な被害を被ったであろう」
つまり教会がアルテンシア軍を撃退するために、味方に被害が出ることもいとわず街を落として地震と濁流を発生させた、というのである。すくなともそういう憶測が成り立つのは事実であった。
このほかにも色々な憶測が流れた。「神々の怒り」とか、「アルテンシア軍の決戦兵器」とか、「アバサ・ロットの悪戯」とか、実に様々である。とはいえかなり早い段階で一つの説が確定事項として語られるようになる。それは、
「御霊送りの神話は嘘だった」
というものである。
まあ、実際に御霊送りの神話は捏造されたもので、その証拠としてパックスの街が堕ちたのだから人々はあまり抵抗なくこの説を受け入れた。
実のところこれはアルジャーク軍とアルテンシア軍による情報操作の賜物だった。つまり徹底的にそういう噂を流したのである。
まあ、それはともかくとして。神話が嘘であったとすれば、神界の存在さえも眉唾物になる。神界が存在しないのであれば、死後に魂となってそこへ行き救いを得るという話もすべてでたらめということになる。人々がその結論に達しえるのに、そう時間はかからなかった。
本来ならば、アルジャーク軍はここで動いても良かった。教会を批判してその正当性を否定し、「これ以上協力する理由はない」といって軍を本国に撤退させても良かったのだ。仮にそうしたとしても、教会に裏切られた信者たちはそのことに不満を抱きはしなかっただろう。
しかし、クロノワは動かなかった。彼は沈黙を守り、ひたすら事態の推移を見守り続けたのである。そして不思議なことに、アルテンシア軍を率いるシーヴァもまた目立った動きを起こさずにいた。
余談になるが、クロノワとシーヴァが動かなかった理由について考えてみたい。
まずはシーヴァだが、彼の場合、立ち位置として教会の敵対者であり侵略者である。その彼が積極的に教会を批判し始めれば、敬虔な信者であった者たちの中から教会を擁護する一派が現れることも考えられる。その一派がどれほどの勢力になるか定かではないが、自分が動くことで教会が息を吹き返す可能性についてシーヴァは考えていたのかもしれない。
もとより教会の威光は地に堕ちている。放っておけば遠からずその影響力はなくなるのは目に見えていた。またパックスの街が落ちたことで、「教会を無力化する」というシーヴァの目的はほぼ達成させたと言っていい。いつでも動けることを考えれば、リスクを犯す必要はないと考えたのだろう。
次にクロノワである。彼の場合、その立ち位置はシーヴァとは異なり裏切られた側である。そしてなによりも教会と後腐れなく縁を切るためにも、教会を悪役に仕立て上げて叩く必要があった。
しかしクロノワがそれをしなかった理由は、十字軍がすぐ傍にいたためではないだろうか、と言われている。アルジャーク軍が教会に対して敵対的な言動を取り始めれば、当然十字軍との関係は険悪なものになるだろう。
戦えば、およそ確実にアルジャーク軍が勝っただろう。しかし勝てるからと言って戦わなければならない理由にはならない。それが無意味な戦いならばなおのことだ。それにここは本国から遠くはなれた教会勢力のど真ん中である。周りの全てが敵になる可能性を考えれば、やはりうかつにことを構えるべきではない。
どの道、このままであれば教会は滅亡する。しなかったとしても、その影響力と利用価値はなくなるだろう。そうなれば自然と縁は切れる。クロノワとしても、やはり急いで動く必要はなかったのだろう。
アルジャーク軍は動かない。アルテンシア軍も動かない。巨大な二つの陣営が積極的に動こうとしないなか、ついに世論が燃え上がった。
簡単に言えば暴動である。御前街にいた聖職者たちが暴徒に襲われて殺害されるという事件が多発したのである。そしてこの暴動と混乱は神聖四国全体に広がっていくことになる。教会の本拠地たる神殿が崩壊したこと、また説明責任を負っているはずの神子や枢機卿が誰も表に出てこなかったことが、この暴動と混乱に拍車をかけることになった。
これを見てシーヴァは教会の権威が喪失したと判断した。そして遠征の目的は完全に達せられたと考え、軍をベルベッド城まで撤退させたのである。そしてそこでまたしばらく事態の推移を見守ることにした。「混乱した情勢の中、同盟国になったフーリギアを保護する目的もあった」というのが、歴史家たちの一般的な見解である。なにはともあれ、この時点でシーヴァの遠征が終わった、と言っていいだろう。
一方クロノワはアルテンシア軍が撤退したのを見ると、十字軍を解散させた。敵がいなくなったのであれば、これ以上十字軍を維持しておく理由はない。また教会の直属部隊とも言うべき十字軍は、民衆から見れば憎悪を向ける格好の対象である。とばっちりを受けてはたまらない、と思ったのだろう。そして十字軍を解散させると、アルジャーク軍は聖女シルヴィアを伴って彼女の祖国であるサンタ・シチリアナに向かい、そしてしばらくの間そこに留まった。
アルジャーク軍が、というよりクロノワがやって来た頃から、サンタ・シチリアナの教会に対する態度は変化する。これまでは暴徒を鎮圧することで混乱を防いでいたのだが、この時期から暴徒の襲撃対象である聖職者たちを保護(拘束)することで、混乱を未然に防ぐようになった。さらに彼らが蓄えていた財産は押収されて国庫に入れられ、その分一時的に税率を引き下げることで国民にその富が返還された。
この措置はサンタ・シチリアナの国民からかなり好意的に受け入れられた。彼らが許せなかったのは、自分たちを騙し裏切っていた教会と聖職者たちが、それに対する報いを受けることなく、あまつさえ国に取り入って特権を維持し続けることであった。しかし国が彼らに対して厳しい対応を取り、さらに一時的とはいえ税が安くなるのであれば、溜飲も下がるというものである。
ちなみに保護(拘束)された聖職者たちは騒ぎが収束した後、結構な額の支度金を渡されて解放された。さすがに殺してしまうのは目ざめが悪かったのだろう。なんにせよかなり温情的な措置と言っていい。まあ、当の聖職者たちがどう思っていたかは分らないが。
こうした一連の措置のおかげでサンタ・シチリアナは他の三国に比べ、かなり早期に混乱を収束させた。そしてそれは王家の名声を高めることに繋がる。
サンタ・シチリアナの王家は、危うい立場であった。なぜなら王女シルヴィアが「聖女」として戦っていたからだ。いわば教会の「顔」と言うべき存在を身内に抱えているわけで、非難の矛先が向きやすくなるのは当然だろう。
しかし一連の措置を通じて王家が国民の信頼を勝ち得るにつれ、王家に対する“同情論”とも言うべきものが、巷に流布されるようになる。
曰く、
「神聖四国という枠組みの中にあって、サンタ・シチリアナは教会に追従しなければいけない立場であった。もし刃向かおうものなら、この国は他の三国によって蹂躙されていたであろう」
さらにこう続く。
「シルヴィア姫は確かに聖女として教会のために戦った。しかし姫は教会のためだけに戦ったのだろうか。姫は父王に対してこう言ったという。『わたくしは祖国を愛しております。この命、祖国を守るために使いとうございます』と」
そしてこう結論付けた。
「シルヴィア姫は決して教会のためだけに戦ったのではない。いや、それ以上に祖国サンタ・シチリアナを守るべく、着慣れぬ甲冑を身に纏い戦場に立たれたのである」
そして最後にこう問い掛ける。
「シルヴィア姫が我々を騙していたのだろうか。シルヴィア姫が我々を裏切ったのだろうか。聖女の呼び名に相応しくないことを、なにかシルヴィア姫はしたのだろうか」
かなり作為的な“美談”ではあるが、その反面嘘は一片たりとも混じっていない。それゆえにもこの“美談”が広がるのは早かった。ちなみにアルジャーク軍がこの“美談”を広めるのに関わった、という記録は残っていない。
「救国の聖女シルヴィア様、万歳!」
もとより国民感情としては、自分たちのお姫さまが「魔女」と蔑まれるよりは、「聖女」と称えられたほうが嬉しいものだ。サンタ・シチリアナの民衆は声を上げてシルヴィアを称えた。たとえ教会が悪であったとしても、シルヴィアが祖国を守るべく戦ったことに変わりはない。侵略者シーヴァ・オズワルドの魔の手から国を守った彼女を、サンタ・シチリアナの国民は声の限りに称え誇りとしたのである。
機は熟した。クロノワはそう思ったのかもしれない。
アルジャーク帝国皇帝クロノワは、サンタ・シチリアナ王国国王アヌベリアスに対して、王女シルヴィアを妃として帝国に迎えたい旨を伝えたのである。そしてそれに伴い、「シチリアナ王国」と同盟を結びたいと持ちかけた。
シチリアナ王国。この名称には極めて大きな意味があった。これまで名乗っていた「聖」の称号は、つまり教会との蜜月を象徴するものであった。この称号があればこそ、神聖四国は他の国々と図太い一線を画し、そして教会は神聖四国を介することで政治的な影響力を行使していたのである。
つまり「聖」の名を捨てることは、そのまま教会との関係を断つことを意味していた。しかも神聖四国の一国たるサンタ・シチリアナがその決定をするのである。それは教会という組織があらゆる力を失ったことを世間に知らしめるものであった。
アヌベリアスはすぐさまクロノワの申し出を受け入れた。「シチリアナ王国」は衰弱しており、復興のためにはアルジャークの力がどうしても必要だったからだ。
後日、アヌベリアスは国民に対して大々的な発表を行った。シルヴィアとクロノワの婚約。それに伴うアルジャーク帝国との同盟。そして国名を「シチリアナ王国」とすること。その全てが好意的に受け入れられた。この瞬間、教会は息の根を止められた、と言っていいだろう。
そしてまた、クロノワの戦いもこの時点でようやく終わった、というべきだろう。
教会は滅亡し、このさき煩わされることはない。庇護者を失った貿易港ルティスは、思惑通りにこちらの傘下に加わるだろう。アルジャーク軍の勇戦は帝国の名声を大いに高めた。懸念していた戦局の泥沼化は回避された。美しい妃を得て、さらに大陸中央部に太いパイプを作った。
上々の、上々の結果である。
だが失ったものも大きい。クロノワの腹心の将軍、アールヴェルツェ・ハーストレイト将軍が戦死したのである。
余談だが、クロノワは本国に帰還した後、アールヴェルツェの墓碑にただ一言「我が亜父」と刻んだ。本当ならば「我が父」と刻みたかったのかもしれない。だがクロノワの父は先帝のベルトロワだ。さすがに先帝を差し置いてアールヴェルツェを「父」と呼ぶわけにはいかなかったのだろう。
「アールヴェルツェ、全てあなたのおかげです」
静かな部屋の中、クロノワは赤ワインを一本あけた。部屋の中にいるのは彼一人だが、用意したグラスは二つ。クロノワはそこになみなみと赤ワインを注ぎ、一つはテーブルの上におき、そして一つを掲げてから飲み干した。一筋の涙を、流しながら。