第十話 神話、堕つ23
「イストからの伝言だ」
抜き身の長刀を手にし全身から闘志をたぎらせながらも、ジルドはいきなり切りかかることはせずにまずはそう切り出した。
「ほう?聞かせてもらおうか」
イストの名前にシーヴァが反応する。今は決戦の最中。本来ならば長々と話を聞いている余裕などないが、イストからの伝言であれば事情は異なる。
イスト・ヴァーレは「御霊送りの神話には裏があるかもしれない」と言っていた男である。その彼がこの決戦の最中に、恐らくは最も信頼しているであろうジルド・レイドを伝言役として寄越したのだ。この戦い、ひいては統一王国と教会の関係に無関係であろうはずがない。いやがおうでも興味をそそられた。
「『戦いの最中に異変が起こる。どう対応するかはそちらの勝手だが、一度退いて原因を調べることを勧める』。以上だ」
「その異変とやらはイストが起こすのか?」
「『世紀のイベントには最高の舞台を』だそうだ」
なるほど、シーヴァは苦笑した。いかにもイストの、ベルセリウス老の弟子の言いそうなことである。「最高の舞台」とはこの決戦のことであろう。血を流し命のやり取りをするこの戦場を“舞台”呼ばわりするのは不謹慎なのだろうが、不思議とシーヴァがその事に怒りを覚えることはなかった。
「なるほど。覚えておこう」
そう答えるだけにシーヴァは止めた。“異変”とやらがどの程度のものなのかはっきりと分らないからだ。大きなものであれば軍を退くことも考えなければいけないが、些細なものであれば戦い続けることになるだろう。そもそも対応はこちらに任せるといっているのだ。確約を得ることなど、最初から求めてはいないはずだ。
「さて、ここからはワシの用事だ………」
そう呟いたジルドは長刀を両手で正面に構え、少し腰を落として臨戦状態を作る。抑えられていた闘志はもはや何の遠慮もなく解き放たれ、シーヴァの皮膚をピリピリと焼いた。彼は獲物を前にした獅子のように、獰猛な笑みを浮かべている。
(いや、獅子は獲物を前にして笑うまい)
獲物を、戦いを前に笑うのは、鬼か修羅の所業だろう。そしてシーヴァは自分がジルドと同じ笑みを浮かべていることを自覚した。
「存分に、付き合ってもらうぞ………!」
ゆっくりと振り上げられた長刀が、残像が尾を引く神速で振り下ろされる。間合いは明らかに遠く、刃はシーヴァに届いていない。しかし、鮮血が舞った。
大量の血を吹き上げ、馬が悲しげな鳴き声をあげながら倒れる。ジルドの放った斬撃により首筋を切り裂かれたのだ。倒れる馬の下敷きにならぬよう、シーヴァは素早く宙に身を躍らせ何とか二本足で着地する。
「ちぃぃ!」
着地したシーヴァは舌打ちをしながら漆黒の大剣を下から振り上げ、振り下ろされる長刀の刃を迎え撃つ。間合いを詰めたジルドが、着地のタイミングを狙って仕掛けてきたのだ。
着地で体勢が崩れ無茶な姿勢で刃を受け止めたせいか、だんだんとシーヴァのほうが押し込められていく。それでも彼は四肢に力を込め、全身のバネを使って下から突き上げて一瞬だけジルドを浮かせ、そして後方に押し戻した。
押し戻されたジルドは、あろうことか地に足がつく前にまるで風に乗るようにして再び間合いを詰めてくる。そして今度は鍔迫り合いを演じることなく、縦横無尽に動き回り全方位からシーヴァに襲い掛かる。
ジルドの動きは速すぎた。正面からの攻撃を防いだかと思えば、次の瞬間には後ろに回りこんでいる。神速の攻撃すべてに対処することは不可能で、シーヴァの鎧には斬撃痕が一瞬ごとに増えていく。ただシーヴァもさるもので、致命傷はもちろん動きに支障がでるような傷は一つも負っていない。
「リオネス公に伝令!指揮権を一時預ける!」
嵐のような攻撃に身を曝しながらも、シーヴァは声を上げてそう命令を出した。ジルド・レイドは自分を狙ってくる。彼を避け兵士たちに足止めさせるのも選択肢の一つだが、それでもジルドは自分を追ってくるだろう。逃げ回っていてはどのみち指揮など取れないし、そのような無様をさらすなどシーヴァの矜持が許さない。
そしてなによりも、この戦いを途中で放り出すことなどシーヴァには出来そうにない。迫り来る凶刃が彼の背筋を寒くする。全身の肌があわ立っているくせに、全ての感覚が極限まで研ぎ澄まされ体がいつもより軽い。間違いなく恐怖を感じているのだが、顔だけはなぜか笑っていた。
「ハアアアァァァアァアアア!」
シーヴァは漆黒の大剣に魔力を喰わせた。そのまま体を一回転させて黒き風で全方位をなぎ払い、ジルドの動きを牽制する。ジルドは「万象の太刀」の能力を使って黒き風の魔力に干渉しこれを切り裂いて霧散させるが、そのために一瞬だけ足が止まり攻撃に間隙ができる。その隙を見逃さず、シーヴァは黒き風を纏わせた「災いの一枝・改」を振り上げ足を止めたジルドに襲い掛かった。
黒き風を纏わせた一撃を防ぐには、シーヴァの魔力に干渉し霧散させ続けなければならない。しかしそのためには高い集中力を必要とし、足を止めなければならなくなる。
それを嫌ったのか、ジルドはシーヴァの一撃を受けることはせず後方に跳んでかわそうとした。しかし、「災いの一枝・改」の刃がジルドの胸の高さまで振り下ろされた瞬間、シーヴァは纏わせていた黒き風を解き放ちジルドを襲わせる。その攻撃をジルドは「万象の太刀」を使って防いだが、勢いまでは殺せず吹き飛ばされてしまう。
ジルドはその勢いに逆らわず、体が浮いたらそのまま風に乗るようにして宙を駆け、シーヴァから距離を取った。アルテンシア軍からジルドめがけて矢が放たれるが、速すぎる彼を捉えることはできない。
(あの動き、やはり魔道具か………!)
というよりそれ以外にあるまい。魔道具の力なくして翼のない人間が空中を移動することなどできないのだから。
(やっかいな………)
恐らくはイスト・ヴァーレの作であろう。ジルドの神速の動きが、あの魔道具によってさらに極みに至っている。
「奴に手を出すな!隊列が乱れるぞ!」
今戦っている主たる相手はアルジャーク軍である。ジルドに動きに翻弄され、隊列を乱したところをアルジャーク軍に狙われては本末転倒だ。それにジルドの狙いは自分のはず。周りが余計な手出しをしなければ自分に釘付けにしておくのは容易、とシーヴァは判断した。
ただそうするとシーヴァは自分で軍勢の指揮をとれなくなる。リオネス公がアルジャーク軍の将相手にどこまでやれるか、一抹の不安が残る。
「ちっ!」
距離を取ったジルドが、再びシーヴァに接近してくる。すかさず黒き風を放つが難なくかわされてしまう。が、それは織り込み済み。いかにジルドが神速を誇るといえど、回避する方向を限定しておくことで、その動きを御することはある程度可能だ。
予測どおりの方向に回避したジルドに向け、シーヴァはあらかじめ用意しておいた極小の魔弾を連続して放つ。この魔弾は黒き風を圧縮して威力を上げるのではなく、むしろ細分化して数を確保していた。威力が小さい変わりに魔力量の少なく、そのためチャージにかかる時間が短くて済む。「災いの一枝・改」だからこそできる芸当、といえるだろう。
極小の魔弾を立て続けに放ちながらジルドを牽制し、さらにシーヴァはその間に本命の魔弾を用意する。本命に十分な魔力を込めると、シーヴァは用意していた極小の魔弾全てを使ってジルドの逃げ道を塞ぎ、地に足をつけて動きを止めたジルドめがけて本命の魔弾を打ち込んだ。
放たれた魔弾全てが炸裂する、まさにその瞬間。
「ハアァ!」
裂帛の呼砲と共に「万象の太刀」が振り抜かれ、全ての魔弾が切り裂かれて爆裂することなく霧散した。
――――霞切り。
ジルド自身がそう名付けた、「万象の太刀」を用いた剣技である。その技の冴えにシーヴァも感嘆の声をもらした。シーヴァはもちろんだが、ジルドもあのガルネシアでの仕合の後、さらに研鑽を積んだらしい。
太刀を構えなおしたジルドとシーヴァの視線がぶつかり合う。互いに視線は鋭いが、しかしそこには憎悪はおろか疎ましさや煩わしさもない。その目が表すものは歓喜。その口元に浮かべた笑みが意味するものは戦意。
二人は同時に強敵を求めて前に出た。吹き上がり撒き散らされる魔力は、それだけで物理的破壊力を持った暴風だ。二人の男がその中心で剣戟を演じる。
憎いからではない。邪魔だからでもない。いや、それどころか感謝さえしていた。自分が全力を尽くせる相手に。
結局のところ、二人は強すぎたのだ。これまで二人は共通する不満を抱えていたに違いない。
まず、武器がない。二人の腕についてこられる武器がないのだ。それでも、シーヴァはオーヴァ・ベルセリウスから「災いの一枝」を、ジルドはイスト・ヴァーレから「光崩しの魔剣」を与えられ武器に対する不満はなくなった。
しかし今度は全力を尽くせるだけの相手がいなくなってしまった。手に入れた相棒と鍛え上げた力を存分に振るえないことは、彼らにとって呪いにも思えたかもしれない。
そんな中、シーヴァとジルドは出会い、そして立ち合った。全力を出し、それでもなお倒れない相手。自分を脅かすほどの強敵。最初の立ち合いで二人は共に武器を失ったが、それを差し引いておな余りある充足を彼らは感じていた。
そして今、二人は「災いの一枝・改」と「万象の太刀」という新たな武器を手に、二度目の相対の最中にいる。渇きを癒すかのようにして、二人は戦いに没頭していく。出会えた幸運に、感謝しながら。
**********
「おお、凄いな、こりゃ」
アナトテ山の中腹、戦場を向いた斜面でイストは「光彩の杖」を操り空気のレンズを作って戦況を覗いていた。今彼が覗いているのは、シーヴァとジルドの戦いだ。
彼らの最初の仕合は、武器が壊れたことで中途半端な結果に終わってしまった。そのおかげでイストとしては“根源の摂理”への手がかりを得ることが出来たのだが、それとは別の問題として、自分の作った魔道具が仕合の中で使い手の意思に反して壊れてしまったのは、職人として少し悔しい結果だった。
今、ジルドの手には新たに造り上げた魔道具「万象の太刀」が握られている。この太刀ならばジルドの全力に耐えられると自負する魔道具だ。その魔道具を、自分が認めた使い手が思う存分に振るうのを見るのは、やはり職人として嬉しい。
(それに………)
それに、相対しているシーヴァが持つ「災いの一枝・改」はイストの師であるオーヴァの作品だ。つまりこの仕合はイストとオーヴァの師弟対決でもあるわけで、そういう意味でもどこか感慨深いものがある。
(オレも成長できてるってわけだ………)
かつてイストとオーヴァの間には隔絶した差があった。それは経験の差であり、知識の差であり、つまりは技術の差だった。オーヴァに拾われたときイストはまだ子供だったから、その差は今のイストとニーナの差よりもさらに大きかった。
イストにとって、オーヴァの存在は絶対的だった。アバサ・ロットの称号を譲られ、一人前と認めてもらいはした。いつか越えてやると意気込みながらも、それでもどこかで無理だろうなと諦めている部分があった。
それが今、互角のところまで上り詰めたのである。昔、弟子になりたての頃、月よりも遠くに思えた場所に到達したのだ。
「なんのまだまだ」
無意識のうちにイストはそう呟き、そして苦笑した。師匠の言いそうなことだ、と思ったのである。
「さて、勝負の行方に心惹かれはするが、オレもそろそろ行くとしよう」
禁煙用魔道具「無煙」を吹かしながら、イストは腰を上げる。どちらが勝つのか、どのような形の決着になるのか、もちろん気になる。ジルドに勝ってほしいとは思っているが、その反面彼が負けて死んでしまったとしても、それはそれでいいと思っている。
イストとしては、あの二人の戦いが後々の語り草になってくれればそれでよいのだ。自分が魔道具を与えて人物が大事を成す。それがアバサ・ロットとしてのイストの願いだ。そして二人の戦いを見ていれば、その願いは十分に果たされたといえるだろう。
最後にもう一度、イストは二人の戦いを遠目に眺める。二人の動きはよく見えないが、二人の周囲に強風が吹荒れていることは分る。まったく、尋常ではない二人だ。
「じゃ、あの二人並みに尋常じゃないことをしに行きますか」
呑気な口調でそう呟く。だが、イストの口元にはシーヴァやジルドと同じ獰猛な笑みが浮かんでいた。
**********
(今頃、外では戦が始まっているのでしょうか………)
神殿の最奥、神子の住まう一画、そのなかでもプライベートな私室に神子ララ・ルー・クラインはいた。母であり先代の神子でもあったマリアがかつて座っていた椅子に、今は彼女が座っている。
テーブルの上に置かれた紅茶に手を伸ばすが、結局口はつけず受け皿に戻す。ならばと今度は隣に用意された大好きな菓子類に手を伸ばすが、やはりどれをつまむこともなく、結局ララ・ルーは手を膝の上に戻した。今は、どんなものも体がうけつけてくれそうにない。
「ああ、もう………」
ララ・ルーはテーブルの上に突っ伏してだべる。いつもであれば世話係の侍女たちからお小言が飛んできそうだが、あいにく彼女たちはいない。決戦が始まる前に全員避難させた。
「最後まで御側に!」
とほとんどの侍女たちが言ってくれたが、あいにくと「神子」がそこまで尽くされるべき存在ではないことを、ララ・ルーは知ってしまっている。むしろ神子のために神殿に残った彼女たちが、何かしらの悲劇に巻き込まれてはそれこそ申し訳ない。
泣いて残ると言い張るものもいたが、丁寧に説得を重ね最後には全員分ってくれた。そのせいで自分のことはすべて自分でしなければならないが、ララ・ルーにとってそれはつい最近まで当たり前のことで苦にはならない。周りに人の気配を感じられないこの静けさは寂しいが、しかしそんなことで自分の行く末に誰かを巻き込んではいけない。
「死ぬのは、自分ひとりでいい」
口に出したことはない。しかしララ・ルーは内心でその覚悟を固めていた。自分が死ねば、魔力の供給を断たれた亜空間は存在を維持できなくなり、パックスの街が落ちることになる。それで教会は終わりだ。いざとなれば自分の死を持って教会の歴史に終止符を打ち、この戦いを終わらせるつもりだ。
体を起こし、左腕にはめた腕輪を撫でる。その腕輪にはめられた「世界樹の種」は、今も鈍い光沢を放っている。
これが、この「世界樹の種」こそが教会そのものだ、とも言えるだろう。「世界樹の種」と御霊送りの神話に隠された秘密を守るため、教会と神子は存在している。いっそ今この瞬間に全てを暴露してしまえば、戦争も何もかも終わり新たな時代が幕を開けるのではないだろうか。
その新たな時代にララ・ルーの居場所はないのだろうけれど、いつまでも秘密を隠し続けることなど不可能なのだ。ならば多くの命が救えるかもしれないこのタイミングで決断することは正しいことではないだろうか。
(それでもわたしは………)
教会を滅ぼすことに、抵抗がある。この教会は母であるマリアが守ろうとしたものだ。どれだけ汚れていたとしても、それは変わらない。その教会を、子供である自分が滅ぼしてしまうことにはやはり抵抗がある。
(お母様は、きっと気にしないといってくださるのでしょうけれど………)
いや、教会を滅ぼすことに抵抗があるのではない。御霊送りの秘密が暴かれてしまえば、教会の評判は地に落ちる。その存在そのものが人々の悪意と敵意に曝され、これまでの全てが否定的な評価に書き換えられていくだろう。
ララ・ルーにとっては、自分のことなどどうでも良い。しかし先代の神子の、母マリアの誇りと名誉を傷つけ、彼女が成し遂げた功績に泥を塗りつけてしまうのが最も恐ろしくて申し訳ないのだ。
「身勝手、ですね………」
本当に身勝手なことだとララ・ルーは思った。自分が死者を守っているがために、今外では軍勢がぶつかり合い多くの血が流されているのだ。どうしようもないあの真実を隠すためにこの戦いを避けることができなかったのだと知れたとき、人々はどんな断罪の言葉を口にするのだろうか。
『それじゃまるで神々が子供たちを殺したみたいじゃないか』
不意に、イストという人物から言われた言葉が耳に響いた。彼の物言いに習えば、神々がこの戦いを望み、流血を欲したことになる。
しかし、ララ・ルーは教会が教える神々など、本当は存在しないことを知っている。少なくとも、教会は神々の祝福など受けていない。ならば戦いを望み流血を欲したのは一体誰なのか。
ララ・ルーは頭を振った。考えることが柄にもなく哲学的になりすぎている。観念的なことを論じる段階は、すでに過ぎているのだ。誰か一人が責任を取って終わるほど、この戦争は簡単でもなければ単純でもなくなってしまった。しかしそう分ってはいても、彼女の頭は考えることを止めてはくれない。
『なあ、なんでなんだ?なんで、あいつらは死ななきゃいけなかったんだ?』
かつて問い掛けられた言葉が、今も頭を離れない。死に対する理由。問い掛けられたあの日からずっと、考え続けているが答えは出ない。それが求められているのは、この戦いも同じだというのに。
――――コンコン。
不意に、ノックの音が部屋に響いた。その音で妙な思考を断ち切れたことにララ・ルーは少し安心する。しかし、扉の向こうにいるであろう人物の顔を想像して、さっきまでとは別の意味で億劫そうにため息をついた。
――――コンコン。
二度目のノックが響く。できるならば居ないことにしたいがそうもいくまい。仕方なく入室を許可すると、入ってきたのは思ったとおりの人物だった。
「失礼いたします。神子様」
「テオヌジオ卿………」
テオヌジオ・ベツァイ枢機卿。ここ最近、何度もララ・ルーの元を訪れてくる客人である。用件はいつも同じで、それゆえララ・ルーもいつも同じ拒否の返答を返す。それでもめげずにこうしてやってくるのだから、内心では辟易もしているララ・ルーである。
まあそれはともかくとして。枢機卿たる人物を立たせたまま話をするわけにもいかない。テオヌジオに席を進め、さらにお茶を入れて彼の前におき、さらに自分用にもう一杯用意する。
ララ・ルーが席につき、お茶を一口飲んで喉を湿らせてから、テオヌジオは迂遠な言い方をせず率直に用件を言った。
「………もう一度、考え直してはいただけませんか」
やはりその話か、とララ・ルーは思った。口元が歪みそうになるのを、ティーカップに口をつけることで隠す。そうやって数秒時間を稼ぎ、その間に神子としての心構えを持ち直す。
「何度来ていただいてもわたしの答えは同じです、テオヌジオ卿。『世界樹の種』が赤い光を放っていない今、神界の門を開くことは出来ません」
神界の門を開き、神殿に残った敬虔な信者たちを神々の住まう天上の園に導いて欲しい。それが、テオヌジオが最近ララ・ルーに求め続けていることであった。
「彼らは救われるべき人々です、神子様」
自分の頼みごとが拒否されても、テオヌジオの態度と口調は変わらず穏やかであった。しかし同時に彼の目に光る、強い意思の光もまた変わってはいない。
「それはもちろんその通りでしょう。ですが、救われるべき敬虔な方々は大陸中におられます。神殿に残ってくださったからと言って、彼らだけを特別扱いしてよいものでしょうか?」
それに、もしそうやって神界の門を開き彼らを迎え入れることが神々のご意志であるならば、「世界樹の種」が赤い光を放っているはずである。そうでないということは、テオヌジオ卿の求めていることは神々のご意志ではない、とララ・ルーは説いた。
詭弁である。「世界樹の種」が放つ赤い光にそのような意味はない。秘密を隠すため嘘を塗り重ねることに、ララ・ルーは罪悪感を覚えた。しかしだからといって神界の門を開きテオヌジオの願いをかなえるわけにはいかない。そんなことをしてみたところで、救われる人など誰もいないのだ。
「枢密院をご覧ください、神子様。私とカリュージス卿のほかは、誰も神殿には残っておりません。そんな中でも彼らは残ってくれたのです。他の誰にもまして、彼らは救われるべきではないでしょうか」
「救いは神々が与えるもの。人の身でそれを成すなど、おこがましいことです」
その言葉を言ってから、ララ・ルーは内心で盛大に顔をしかめた。神々などいはしない。では、一体誰が救いを与えてくれるというのか。
「………どうしても、聞き入れてはくださいませんか」
「残念ですが………」
そうですか、とテオヌジオは頭を振った。それを見てララ・ルーは内心でほっとする。今までの例からすれば、テオヌジオはこれで退席する。
「本当に、残念です」
しかし、そういって立ち上がるテオヌジオの気配は、明らかにいつもとは異なっていた。彼の尋常ならざる気配に圧されるようにして、ララ・ルーも席から立ち上がる。
「どうしようというのです、テオヌジオ卿。そんなものを取り出して………」
テオヌジオが懐から取り出したものを見て、ララ・ルーの顔が強張る。彼が取り出したのは「ミセリコルデ」。戦場で重傷を負った騎士を苦しませないよう止めを刺すための短剣で、別名「慈悲の剣」とも呼ばれている。
その短剣について、ララ・ルーはおろかテオヌジオさえも詳しいことは何も知らなかったであろう。もとよりこの場において重要なことはただ一つ。それが短剣であり、人の命を奪い得るものだということだ。
「早まったことはお止めなさい、テオヌジオ卿」
後ずさりながらララ・ルーがそういうと、テオヌジオは悲しそうに頭を振った。
「もはや、時間がないのですよ、神子様」
言い終わるが早いか、テオヌジオは意外な素早さを見せてララ・ルーの眼前に迫った。そして彼が右手に握った短剣が低い位置から突き出される。
次の瞬間、ララ・ルーは腹部に灼熱を感じた。「刺された」と理解するより前に、血を吐いて崩れ落ちる。受身も取れずに床に倒れこむが、不思議と痛くはない。お腹に感じる痛みが、全てを凌駕していた。
「……テ、テオ、ヌジ、オ、きょ……う……」
「罪深いことだとは、分っています………」
血を吐き出して声を上げるララ・ルーを見つめながら、悲しみを滲ませた声でテオヌジオがそう呟く。彼の右手に短剣は握られていない。ララ・ルーの腹に突き刺さったままになっている。
「ですが、神子様の協力が得られないのであれば、もはやこれしかないのです」
テオヌジオは沈痛な声でそう語る。しかし彼の声に後悔はいささかも感じられない。言葉を選ばなければ、「罪を犯してまでも人を救う」という行為に彼は酔っていた。
「全ての罪は、私が背負いましょう………」
そう呟くとテオヌジオはララ・ルーの傍らにしゃがみこみ、彼女の左腕から「世界樹の種」がはめ込まれた腕輪を外した。
「おお!これは………!」
腕輪を手にしたテオヌジオが歓声をあげる。ララ・ルーが渾身の力を振り絞って視線を上げると、彼が手にした腕輪、そこにはめ込まれた「世界樹の種」が煌々と赤い光を放っていた。
「これはまさに神々が私の信仰と誠意を祝福してくださった証!」
神々が神界の門を開いて信者たちを救うようにと私に命じているのです!とテオヌジオは喜びの声を上げた。
(ちがう………、それは………!)
赤い光、それは「世界樹の種」に亜空間を維持するための十分な魔力が供給されていないことを示す警告だ。しかしララ・ルーの口は血を吐き出すばかりで、言葉をつむぐことが出来ない。それに、今のテオヌジオに何を言っても無駄であろう。
「早く彼らにも教えてあげなければ!」
全身で歓喜を表現しながらテオヌジオが神子の私室を出て行く。もはや彼の目には血を流すララ・ルーの姿は映っていない。
テオヌジオが出て行ってしまうと、部屋は痛いほどの沈黙に包まれた。床に力なく横たわるララ・ルーの耳に入るのは、やたらと大きな自分の心臓の鼓動だけである。一つ鼓動が響くたびに、短剣が刺さったままのお腹から血が流れ出ていくのが分る。死が這い寄って来る気配をララ・ルーは感じた。
(お母様………、今、御側に………)
不思議と、死への恐怖は感じない。また看取ってくれる人がいないことも寂しいとは思わない。母マリアも、一人で寂しく死んだはずだから。
ゆっくりと目を閉じる。床が冷たいのか、それとも自分が冷たくなっているのか、それももう良く分らない。
コツコツコツ、と足音がする。幻聴だろう。それとも死神の足音だろうか。
「随分と、予想外の展開になってるじゃないか」
その声に驚いてララ・ルーは目を開けた。かすんでしまった視界の中、それでもかつて出会った人物の姿を認める。はっきりとは分らないが、その顔は苦笑しているように見えた。
「イ、スト、さん………?」
「おや、覚えていたか」
意外だな、とイストは呟いた。だがララ・ルーからすれば忘れられるわけがなかった。あの日からずっと、あの問い掛けの答えを探してきたのである。
「お伝え、したいことが………、あります……」
「ああ、聞こう。いや、聞かせてくれ」
そういってイストは片膝をついてララ・ルーを抱き起こす。
「あなた、から、言われた………問い、かけを、ずっと………考えて、きました……」
『なあ、なんでなんだ?なんで、あいつらは死ななきゃいけなかったんだ?』
その問い掛けへの答えは結局出せなかった。けれども考え続け、その中で感じたことはある。それを伝えなければならない。
「子供、たちが………。死ななければ、いけなかった理由は、私には………、分りませんでした」
それでもその子供たちがあなたと一緒に笑い、泣き、怒り、喜んだことは決して無意味でも無価値でもないと思います。死んでしまったことに意味はなくても、生きていたことにはきっと意味があると思います。
息が絶え絶えになりながらも、ララ・ルーは必死に言葉をつむいだ。自分のこの死に意味はなくとも、自分が遺すこの言葉にはきっと意味があると信じて。
「そうだといいな。そう考えれば、救われた気分にもなる」
少し困ったように笑いながら、イストはそういった。どう見ても助けが必要なのはこの少女だろうに、ララ・ルーはイストのために言葉を遺した。
「………はい………!」
いや、それでも彼女は救われたのかもしれない。最期に涙を流し、ララ・ルーは満面の笑みを浮かべた。そして彼女の体から力が抜け、冷たい顔がイストの腕にもたれかかる。
(まさか神子を二代続けて見取ることになるとはね………。しかも親子だ………)
まったく奇妙な縁だな、と苦笑しながらイストはララ・ルーの亡骸を横たえる。ともすれば自分が殺していたかもしれない相手だと思えば、数奇というかなんと言うか、ともかく苦笑するしかない。やはり運命の女神は相当な暇人で悪趣味だ。
ララ・ルーの髪を整え、腕を組ませる。その遺体で目を引くのは、やはり腹部に刺さったままになっている短剣、ミセリコルデだ。
(果たしてそれは慈悲だったのか………?)
埒もない、と呟いてイストはその短剣を引き抜き、ティーカップが出しっぱなしになっているテーブルの上に置く。
「あいにくと葬送の花は用意してこなかった。代わりと言ってはなんだが、墓標を用意しよう」
気に入ってくれるかは分らんがね、とイストは呟く。最後に短く黙祷を捧げると、イストはその部屋を後にした。
神子にふさわしい墓標。それは、すなわち――――。