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乱世を往く!  作者: 新月 乙夜
第十話 神話、堕つ
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第十話 神話、堕つ⑲

 イスト・ヴァーレ、ジルド・レイド、ニーナ・ミザリ。アルジャークの陣の最奥に突然現れた三人の不審者はそれぞれそう名乗った。


「彼は私の友人です」


 クロノワがそういって四人の将軍と兵士たちを宥め、その場はなんとか落ち着いた。それでも不審者たちに対する警戒をあらわにする面々に、イストは気軽な調子でこういったのだ。


「教会と縁を切れるかもしれないぞ」


 その言葉を聞いた瞬間、将軍たちの顔に警戒とは別のものが浮かんだ。教会と縁を切るための正当な理由があれば、アルジャーク軍は堂々と本国へ撤退することができる。ここまでの遠征が丸ごと無駄だったことになるかもしれないが、それでもアルテンシア軍を相手に泥沼の戦争を戦うよりはよほどましだ。


「どうだ、話だけでも聞いてみないか」


 イストと名乗った男が、悪戯っぽく笑う。将軍たちは忌々しげに舌打ちしたが、聞かないという選択肢はないようだ。


「興味深いね。是非聞かせて欲しい」


 将軍たちの様子を面白そうに眺めながら、クロノワがそういった。四人の将軍たちはいまだにイストを睨みつけているが、しかし反対の声は上がらなかった。


 クロノワの指示によって、席が新たに三つ設けられる。ただ警戒が解かれたわけではない。ジルドが腰にさしていた「万象の太刀」とイストが持っていた「光彩の杖」は没収され、今彼らは丸腰である。さらに周りには警備の兵が居並び、三人が少しでも不審な挙動を見せればすぐにでも鎮圧できる態勢になっていた。


 物々しい雰囲気の中、ニーナは居心地が悪そうに身じろぎした。師匠であるイストがアルジャーク皇帝クロノワと友人同士であるというのは本当だったらしく、兵士たちに囲まれはしたが殺されはしなかった。それどころかこうして席が用意され、不審者であるはずのイストの話をクロノワとアルジャークの将軍たちが聞くという。


 しかしながら状況は少しも良くなっていない。少なくともニーナにとっては。将軍たちは相変わらず忌々しそうにこちらを見ているし、周りを取り囲んだ兵士たちも何かあればすぐさま不審者を誅殺すべく殺気をたぎらせているように感じる。こうもあからさまに敵意をぶつけられるのは、彼女の人生の中で始めてだ。「視線だけで人が殺せる」とはよく言ったもので、刺々しい視線のなか針のむしろに座らされたニーナは、この上罵詈雑言を浴びせられれば本当に死んでしまいそうな心境だった。


(師匠~!!)


 恨みがましい目で彼女の前に座るイストを見る。彼女がこんな殺人的に雰囲気の悪い場所に連れてこられたのは、すべてこの男のせいである。かくなる上は師匠がこれ以上反感を買わないように話を進めてくれることを願うばかりである。


「お茶も出ないのか」


 緊張感の欠片もないイストのその言葉に、アルジャークの将軍たちと兵士たちが色めき立ち、ニーナは胃が締め付けられて顔から血の気が引くのを感じた。しかし彼らが爆発する前に、クロノワが呆れながらこういった。


「この雰囲気の中で飲んでもおいしくないと思うよ?」


 クロノワの意見にニーナは激しく同意した。この状況下ではたとえ水の一滴であっても彼女の体は受け付けてくれないだろう。


「それはそうと、どうやってここまで?」


 少しだけ眼差しを真剣なものにして、クロノワはイストに問い掛けた。ここはアルジャーク軍の陣の、しかもその最奥である。そう簡単に侵入できる場所では決してない。


「魔道具を使った」


 こともなさげにイストはそう言った。彼の言う魔道具とは、おそらく彼らが目深にかぶっていたあのローブのことだろう。どんな能力を持っているのかイストは語らなかったが、その力の一端はクロノワも先ほど目にしている。


「世の中には出さないでくれよ、危ないから」


 暗殺を生業にしている者が手に入れたら、大喜びしそうな品である。悪用しようと思えば、いくらでも出来るだろう。というより、悪用するためにあるような魔道具だとクロノワは感じた。


「売らないよ。オレが作ったものじゃないし」


 ということはあの魔道具を作ったのは歴代のアバサ・ロットの誰か、ということだ。もっともそれが通じたのは、ジルドとニーナそれにクロノワだけだったが。


「頼むよ。ああ、それと売りたくなったらウチに持ってきて。高値で買い取るから」


 イストの言質が取れたことでクロノワは安心した。彼に売るつもりがないというのであれば、そうなのであろう。だから最後の言葉はクロノワなりの冗談であり、それが分っているイストは肩をすくめて苦笑しただけで何も言わなかった。


「さて、と。それじゃあ本題に入るけど………」


 クロノワが居住いを正す。視線も若干鋭くなり、先ほどまでの会話で少し緩んでいた空気が引き締められる。この辺り流石に皇帝だな、とイストは内心でそう思った。


「どうやって教会との縁を切る?」


 それはクロノワ自身もこれまで考えてきたことだ。力を失った今の教会は、アルジャークにとって重荷でしかない。貰うものは貰ったとはいえ、今回のこの遠征だって国益には直接結びつかない。あまつさえ戦局が泥沼化するようなことがあれば、アルジャークは多大な損失を被ることになる。クロノワとしてはそうなる前に軍を撤収し、本国に帰ってしまいたい。


 しかし教会はそれをよしとはするまい。教会はもはや統一王国とシーヴァが存在している限り安心できないのだ。脅迫まがいのことをしてでもアルジャーク軍を止めアルテンシア軍と戦わせようとするだろう。


 無論、クロノワとアルジャークにはそこまで付き合ってやる義理も意思もない。しかし教会はそうは思ってくれないだろう。となれば軍を撤収させるためにそれ相応の理由が必要になる。つまり教会と縁を切るための理由だ。


 アルジャークに非があるような理由は好ましくない。それはつまり教会に対して貸しを作ることに繋がる。教会が生き残ってしまったら、この先また無理難題を吹っかけられることになってしまう。


 また神殿がアルテンシア軍に占拠され教会の威光が地に落ちた場合、信者たちの目にはアルジャークが見捨てたがゆえにそうなったと映るだろう。当然国内の信者たちは帝国に不満を募らせ、それは内戦の火種へと成長していく。


 これが教会という宗教組織のやっかいなところだ。例えばアルジャーク帝国の国民であれば、国の利益になることであれば喜び、損失になることであれば憤る。それが普通だ。


 しかし教会の場合はそうではない。教会は特定の領土を持たない代わりに、その信者が大陸中にいる。少ないとはいえアルテンシア半島、さらには海の向こうのシラクサにさえいるのだ。


 そしてその信者たちにとって、特に敬虔な信者たちにとって、教会の地位は祖国よりも上なのである。彼らは祖国が損害を被ろうとも教会を支持する。教会が不利益を被ろうものなら、祖国であろうとも彼らは裏切るだろう。この信者たちからの絶対的な支持こそが、教会の絶大な影響力の根源なのだ。


 もっとも、今の教会に最盛期ほどの威光はない。絶大な影響力も今は陰りが見えている。シャトワールやブリュッゼ、それにフーリギアといった国々が統一王国よりになったのがその良い例だろう。国民が、より正確には国内の信者たちが、教会と距離を置く選択をしてもそれを支持してくれるだろうと判断しての決定なのだ。信者たちの中で教会の地位が下がっている、と言ってもいい。


 しかしアルジャーク、つまり大陸極東部においてはまた事情が異なる。第一次及び第二次十字軍遠征に関係してこなかったこの地域において、教会の影響力は無視できない程度にはまだまだ強い。


 加えてアルジャーク帝国の事情もある。ここ最近、アルジャーク帝国はオムージュ、モントルム、テムサニス、カレナリアという四カ国を一挙に併合した。国内は一応のまとまりを見せているが磐石とは言いがたく、特に国民の国家への帰属意識は低い。極端な話、悪政を行っていないから消極的に帝国の支配を受け入れている、といった感じだ。


 帝国への不満がたまれば、それは容易く内戦に結びつく。そして教会への裏切り、少なくとも信者たちがそう解釈しうる行動は、彼らにその“不満”を抱かせるだろう。こういう側面から見れば大国であるはずのアルジャークの立ち位置は、ともすればフーリギアなどの小国よりも微妙であるといっていい。


 だからこそ、アルジャークが軍を撤収するにはそれ相応の理由が必要になってくる。それもできることなら教会の側に非があるような、アルジャークが「裏切られた」と主張できるような、そんな理由があればそれが最も良い。そういう理由があれば国内の信者たちも「しかたがない」と納得してくれるだろうし、アルジャークは後腐れなく教会と縁を切ることができる。


 しかし、それは相当に難しい。


「教会は、言ってみればそれ自体が『正義』」


 教会という組織を構成している人間個人の善悪はともかくとして、教会の教えは単純で分りやすく、それゆえに万人が「正義」と認めうるものだ。裏でどれだけ汚い事をしていようとも、それは個人の過ちであり教会の主要目的ではないといわれてしまう。そして「正義」を前面に押し出されればそこに非を見つけることは出来ない。


 つまり教会はつねに「自分が正義である」と主張できる立場にあるのだ。であれば教会に相対するものは必然的に「悪」になってしまう。これほど分りやすく民衆受けする構図はないだろう。人々は熱狂的に「正義」であるところの教会を支持し、「悪」である敵対者を非難する。


 教会に非があると主張するということは、「正義」であるはずの教会を「悪」であると論破しなければならない、ということだ。そしてそのためにはどうしても確たる証拠が必要になる。


 まあ、そのような都合のよい証拠がそうそう転がっているはずもなく、だからこそクロノワは頭を悩ませていたのだが………。


「御霊送りの神話が捏造されたもので、まったくの嘘だとしたらどうだ?」


 イストがちょっとした悪戯を提案するかのようにそう言った。


 御霊送りの神話は教会の教えの根幹を成している部分だ。


「敬虔な信者は死後、神界の門を通って神々の住まう天上の園へ導かれる」


 教会の信者たちはこの教えを固く信じ、また貧しい生活の中の希望として暮らしている。極端なことを言えば、死後に天上の園へ行きたいから敬虔な信者をやっている、といっても過言ではない。


 この教えが全くの嘘であったとすれば、信者たちは教会に対して憤怒し、アルジャーク軍が軍を撤収したとしてもそのことに不満を抱くことはないだろう。


「我々がそう主張したとして、一体誰がそれを信じる?」


 呆れたようにそういったのはレイシェルだった。他の将軍たちも彼に同意するように頷いている。


 確かにアルジャークが「御霊送りの神話は嘘である」と声高に主張したとしても、多くの信者たちは「何を馬鹿なことを」と相手にもしないだろう。何しろこの神話は「御霊送りの儀式」という、現世に残された最後の奇跡によってその真実さが実証されている。おりしもその儀式はつい最近行われたばかりで、この状況ではアルジャークにどれだけの力があろうとも人々がその主張を信じることはないだろう。


「それなら心配は要らない。パックスの街を落とすから」


 イストは何気ない口調でそういったが、ジルドとニーナ以外の面々は皆なんともいえない顔をしている。音は理解できたのだが、意味が理解できなかったような、そんな顔である。


「………何を、落とすって?」


 その場にいる全員の気持ちを代弁する形で、クロノワがイストに問い掛ける。その頬が微妙に引きつっているのは決して見間違いではあるまい。


「パックスの街を、だ。神界の門の向こう側に引き上げられたはずの街が突然コッチに落ちてくれば、神話が嘘だったと主張するには十分だろう?」


 クロノワは唸るようにして押し黙った。確かにイストの言うとおりパックスの街が落ちてくれば、神話が嘘であると主張するには十分だ。


 しかし、はたしてそれは実行可能なのだろうか。神話というのは人間の手が届かないから「神話」なのだ。今まで神話だと思っていたものにケチをつけてちょっかいを出すなど、クロノワたちの思考の範疇を超えていた。


「………どうやって、落とすというのだ?」


 なんとも言いがたい沈黙の中、最も早く回復したのは最年長のアールヴェルツェだった。彼はほとんど呻くようにしてイストに尋ねた。


「『世界樹の種』を砕く。恐らくはあれが魔道具の核だろうからな」

「………魔道具?」

「そ。原理的にはソイツと同じ魔道具だ」


 そういってイストが指差したのは、クロノワの腕についている魔道具「ロロイヤの腕輪」だ。この魔道具は用意した亜空間の中にさまざまなものを収納しておける、非常に便利なものだ。


 つまりイストは、

「御霊送りの神話は、用意した巨大な亜空間の中にパックスの街を収めただけだ」

 と言いたかったわけだが、それがきちんとクロノワたちに伝わったかは怪しい。ただ魔道具という小道具がでてきたことで、話が少し理解しやすくなったようだ。


「………真偽の程はともかく、話は、まあ一応分った。でも、君がこんなところまで来た理由は?」


 話が一区切りついたところで、クロノワがそう尋ねた。


 パックスの街を落とす。それは出来るのか出来ないのかそれさえも定かではないようなことだが、ここまでのイストの話を聞く限りできるのであれば彼一人でも実行は十分に可能だろう。しかしだからこそ、イストがアルジャークの陣の最奥にまでやってきて、この話し合いの場を設けた目的が分らない。


「確かに街を落とすだけなら、オレ一人でもできる」


 というよりも他人にやらせるつもりなどない。こんな面白そうなことを他人にやられてしまうなんてイストの趣味に反する。


「じゃあ、一体我々に何を求めている?」

「街が落ちた後、教会を徹底的に叩いて息の根を止めてもらいたい」


 パックスの街が落ちれば、教会の影響力は激減しその威光は地に堕ちるだろう。しかしもしかしたら教会は生き残ってしまうかもしれない。その可能性は絶対にないとは言い切れないのだ。


 御霊送りの神話という絶対の拠り所を失った教会が、それでもなおゾンビの如くに生き続ける。それはイストの望む結末ではない。そんな中途半端な結末など、イストは求めてはいないのだ。


 パックスの街が落ちたならば、教会は滅亡しなければならない。おもにイストの自己満足のために。


 そしてそのためには、街が落ちた後に教会を徹底的に批判する必要がある。教会を完膚なきまでに叩き潰すべく、「嘘だった、過ちだった、騙された、裏切られた」と大規模に批判を展開し、なおかつその批判を民衆に受け入れさせなければならない。


 しかしそれをするのにイスト一人では限界がある。それは規模の問題でもあるし、彼の発言の信憑性の問題でもある。


 そこでアルジャーク帝国皇帝、クロノワ・アルジャークの出番というわけである。クロノワならば批判を広範囲に展開することが出来るし、また民衆もアルジャーク帝国皇帝の言葉ならば信じるだろう。


 そうやって批判を繰り返して嘘吐きのレッテルを貼り付け、教会が持っていた影響力と発言力をそぎ落とすのである。教会が手足をもがれてもはや何も出来ないほどに弱体化すれば、イストとしてもおおよそ満足できる結末ではある。御霊送りの儀式がもはや行えなくなる以上、教会が息を吹き返すこともないだろうし。


「なるほどね。君は自己満足のために我々を利用し、我々は教会を悪役に仕立て上げて叩くことで縁を切ることができる」


 悪い話ではないね、とクロノワは言った。イストの話が全て本当であれば、アルジャークが動くのはパックスの街が落ちてからになる。落ちる前に批判を展開すれば教会と真正面から対立することになるのだろうが、「街が落ちた」という事実はそれ自体が教会が嘘をついていたことの証拠になる。確たる証拠があれば批判は真実味を増し、人々はアルジャークの主張を信じてくれるだろう。


 逆にイストの話が全て嘘であったとすれば、パックスの街は落ちないのだから教会を批判する必要もない。つまり現状のままなんら変わることはないのだ。


 つまりアルジャークが動くかどうかは、状況を見極めてから決めることができる。状態が悪化する心配がないのであれば、イストの案に乗ってみるのも一つの手である。


「お前の言うとおり街を落とすことができるとして、だ………」


 胡散臭そうな態度を隠そうともせず、イストに鋭い視線をぶつけたのはイトラであった。彼が、いやこの場にいるイストら以外の全員がこの話を信じ切れていないのは当たり前だろう。しかしだからと言って「馬鹿馬鹿しい」と切り捨てるには、教会と縁を切れるかもしれないというこの話は魅力的過ぎる。それほどアルジャークは今後の展開に行き詰っているのだ。


 話を聞く限り今のところアルジャークにとって失うものは何もない。ならばもう少し聞いてやろう、というのが彼らの気持ちだった。


「一体いつ、街を落とすつもりだ?」

「アルジャーク軍とアルテンシア軍が戦っている、その決戦の最中に」


 芝居がかった口調でイストはそう答える。


「………我々に道化を演じろというのか」


 押し殺した声でカルヴァンが唸った。彼が不快に思うのも当然だろう。教会と縁を切れるならばアルテンシア軍と戦う必要はない。戦いが始まる前に街を落とせば無益な戦死者を出さずに済むのに、イストはあえて決戦の最中にそれをやるという。


「いやなら自分たちでやればいい」


 そんなことできるわけがない。仮にこの話が嘘だった場合、「世界樹の種」を破壊したアルジャークは教会を完全に敵に回すことになる。それで教会との縁は切れるだろうが、国内では信者たちが蜂起して内戦状態に陥り帝国は分裂する。そのようなリスクを犯すわけには行かない。パックスの街はあくまでもアルジャークとは無関係のところで落ちなければならないのだ。


「汚れ役を引き受けてやろうというんだ。タイミングくらいはこちらの好きにさせてもらう」


 それに、とイストは内心で笑う。舞台の幕が上がる前に仕掛けを動かす馬鹿はいない。仕掛けはやはりその相応しいときに動かすべきだ。最高の仕掛けには最高の舞台を。この点に関して、イストに譲る気は全くない。


 将軍たちは忌々しげにイストを睨みつけるが、反対意見は出なかった。もともとアルテンシア軍と一戦するつもりでここまで来たのだ。そういう意味では予定通りであるとさえ言える。


 それにアルテンシア軍と戦う前に街が落ちれば、アルジャーク軍の関与を疑う者が必ずでてくる。人々がどこまでその話を信じるかはともかくとして、そういう噂が立つのは防げないだろう。アルジャークにとってそれは好ましい事態ではない。しかしアルテンシア軍との交戦中に街が崩落すれば、そのことにアルジャークはまったくの無関係であると主張するのは容易い。


「街が落ちれば大きな異変が起きる。それを合図に軍を退けばいい」


 そうすれば、戦死者の数は勝つにしろ負けるにしろ、当初想定していたよりも随分と少なくて済むはずだ。


「アルテンシア軍が退かなかったらどうする?」


 腕を組みながらアールヴェルツェがそういった。相手が退かなければアルジャーク軍とて退くわけには行かない。


「そんなもん知るか、と言いたいが、まあ、メッセンジャーくらいはこちらで用意しよう」


 と言うわけでおっさんよろしく、といってイストはジルドのほうに視線を向けた。


「ワシか?」

「そ、よろしく。で、伝えること伝えたら、そのままぶった斬っちゃっていいから」


 イストは気楽に言ったが、実はこれは重大なことである。アルテンシア軍を退かせる権限を持っているのは言うまでもなくシーヴァ・オズワルドである。だから「これから大きな異変が起こる。それを合図にアルジャーク軍は退くからアルテンシア軍も退いてほしい」という話は、当然シーヴァに伝えることになる。


 そのシーヴァを、あろうことかイストは「斬っちゃっていい」と言ったのである。あのシーヴァを!


 もちろんシーヴァが死んだところでアルジャーク軍にはなんら影響はない。それどころかシーヴァが死ねばアルテンシア軍は退くだろうから、好都合であるとさえいえる。しかし根本的な問題として、シーヴァ・オズワルドはそう簡単に切り伏せられるような相手ではない。それどころか、彼一人を殺すために十字軍は万の軍勢をつぎ込んできた、といっても過言ではないのだ。


 そんな相手を、ただ一人で斬れという。しかも「斬っちゃっていいから」などという軽い言葉で許可するというのは、その場にいるアルジャーク軍の面々にとって衝撃的なことだった。


「ほう………?」


 できるわけがない。何を馬鹿な。そんな声が上がることは、しかしなかった。突然ジルドの気配が変わり、彼の体から噴き出る覇気がその場を一瞬にして支配したからだ。物理的な圧力さえ感じるその空気に圧されて、誰一人として口を開くことが出来ない。


「もう一度やり合いたかったんだろう?あのシーヴァ・オズワルドと」

「………本当に、斬ってしまっても良いのだな?」

「ああ。そのための『万象の太刀』だ。思う存分にやればいい」

「よかろう」


 そう言ってジルドが頷くと、抜き身の刃を喉もとに突きつけられるかのような気配が霧散する。誰かがついたため息は、間違いなく安堵のものであったはずだ。


「………本当に、伝えられるのか?」


 少し青い顔をしながらもそう尋ねたのはレイシェルだった。今さっき体験した気配だけでこのジルドという男が只者ではないのは明らかだが、彼としてはその実力を実際に目にしたことはない。レイシェルの本能は納得していたが、理性のほうを納得させることはできていなかった。


「不安があるならアルジャーク軍のほうからも密使を出せばいい」


 イストにそういわれレイシェルも押し黙る。そのまま数十秒、その場に沈黙が流れた。


「………どう思いますか、アールヴェルツェ」


 その沈黙を意見が出尽くした証拠と判断したクロノワは、ここまでの総括として信頼する腹心に意見を求めた。


「アルテンシア軍と一戦構えるのは、予定通りでありそのことに否やはありません。その戦いの最中に異変が起これば、その程度に応じて対処することになるでしょう。大きな異変であれば軍を退くこともありえます。そして異変と教会が関係しているのであれば、説明を求め責任を追及することになるでしょう」


 注意深く言葉を選びながらアールヴェルツェはそういった。言質を取られるような真似はしない。すべてはパックスの街の崩落という大異変が起きてからの話だ、というスタンスを崩すことはない。街が落ちる前にアルジャーク軍がイストに協力することはない。


『全てはお前が動いてからだ』


 そういう意志を込めて、アールヴェルツェは鋭い視線をイストに向けた。その視線をイストは真正面から受け止め、そして面白そうに笑った。アールヴェルツェの言葉はイストにとって満点解答に近い。


「お前が動くまでは我々も動かない。お前が動いたら、それに応じてこちらも対応する」


 イストはアールヴェルツェの言葉をそう解釈したし、それでおおよそ間違ってはいない。ということは、イストはパックスの街を落とすのを邪魔される心配がなく、また落とした後の後始末はアルジャークがやってくれる、ということである。


「イスト、それでいいかい?」

「ああ、それでいい。よろしく頼む」


 クロノワが最終確認をし、イストが頷く。この瞬間アルジャーク軍とイスト・ヴァーレ個人の間に密約が結ばれた。書面はおろか口約束さえなされていない密約だが、両者はたしかに約を交え未来の展望を共有したのだ。


「ああ、それと。これはオレの個人的なお願いになるんだけど………」


 席を立ち上がったイストが何かを思い出したようにそういった。


「コイツを預かってくれないか」


 そういってイストが指差したのは、弟子であるニーナだった。「特に歓待する必要もないし、後方の安全圏に置いといてくれればそれでいい」とイストは続けた。


「師匠!?」


 驚いたように声を上げたのはニーナだ。彼女としてはパックスの街を落とすのに付き合わされると思っていたのに、思わぬ展開になった。


「お前はオレの弟子だ。魔道具職人としてのオレの、な」


 だから関係のない趣味にまで付き合う必要はない、とイストは言った。言われたニーナは少し悔しそうに俯き、数瞬沈黙してから「………はい」と答えた。


「じゃ、よろしく頼むわ」

「ああ。彼女の安全は保障するよ」


 イストとクロノワ。二人は最後にかわした言葉はそれだけだった。イストとジルドの二人は預けていた武器を返してもらうと、再びローブを目深にかぶってその場を後にした。


 ちなみに。クロノワが後で確認したところ、二人がアルジャークの陣を離れるところを目撃した兵士は一人としていなかった。


「唐突に現れ唐突に消える。まったく、本当に君らしいよ」


 クロノワのその呟きは、風に溶けて誰にも聴かれることはなかった。



区切らないでこんなに長いシーンを書いたのは初めてかもしれません。


あと、今後の大まかな予定ですが、七月中には完結できそうです。

最後までお付き合いください。

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