第十話 神話、堕つ⑬
「敵部隊、視界から消えます」
遮蔽物の陰に隠れていく十字軍の部隊を見送りながら、シーヴァはその報告を聞いていた。
「追撃をかけますかな、陛下」
「不要だ」
ガーベラント公の問いにシーヴァは短く答える。ただし、全軍の警戒を緩めたりはしない。ないとは思うが、先ほどの部隊が奇襲をかけてくるかもしれないからだ。
「ここ三日で、すでに七回目の遭遇。多いですな」
「偵察に放った斥候が発見したものも含めれば、全部で十回目の遭遇です。ガーベラント公」
シーヴァの脇に控えたリオネス公がそういった。遭遇する敵部隊の規模は三千から多くても五千程度。攻撃を仕掛けてくることはなく、姿を見せるとそのまま逃げていくのが常である。
しかしながらこうも頻発しているのだから、間違っても偶然などではあるまい。アルテンシア軍の周りに十字軍の複数の部隊が蠢動しているのは確実だ。恐らくだが、十字軍の総司令官が変わったのだろう。
問題は、その意図である。
「どう見る、リオネス公」
「………本隊の後ろに回りこみ、補給線を切るのが狙いかと」
シーヴァに視線を向けられたリオネス公は顎に手を当ててしばらく考え込み、それからそう答えた。
つまり、寄っては離れていくこれらの部隊は全て囮で、それらの部隊に紛れた本命がアルテンシア軍の背後に回ろうとしているのだろう、とリオネス公は考えた。
「ガーベラント公はどう思う?」
「リオネス公と同意見でございます」
ふむ、とシーヴァは頷いた。真正面から戦って勝てないのであれば、敵補給線を叩いて撤退させる。それは極めて常識的な兵法だ。ならば逆算的に考えて、これらの十字軍の部隊は囮である、というリオネス公の推測には筋が通っている。
「ヴェートはいるか?」
「ここに」
呼ばれたのはアルテンシア軍の女将軍、ヴェート・エフニートだった。彼女は器用に馬を寄せてシーヴァのもとにやってくる。
「五千の兵を率いて補給部隊の護衛に回れ」
「御意」
胸に拳を当てて一礼し短く答えると、ヴェートはすぐに馬を返して離れていく。
「五千で足りますかな」
ガーベラント公がポツリとそう呟いた。
「囮の中に紛れさせるのであれば、本命とて規模は同じ程度にしているはずだ」
ならば敵本命部隊の数は、多くても五千。ヴェートに任せるのだ。兵の数が同じであれば、まず問題なく対処してくれるだろう。
「複数の部隊が合流し、それから仕掛けてくるかもしれません」
「それはないな」
リオネス公の指摘をシーヴァは気楽に笑って否定した。
「そんな複雑な軍事行動ができるのであれば、補給部隊よりも本隊に一撃離脱の奇襲を繰り返してくる」
アルテンシア軍は現在、フーリギアにあるベルベッド城を拠点として用いている。補給部隊が叩かれたとしても、ベルベッド城まで戻れば補給はいくらでも可能である。つまりアルテンシア軍を撤退させることが目的であれば、補給線を叩くだけでは少々弱い。どうしても本隊にある程度の損害を与える必要があるのだ。
「それに補給部隊を襲うのであれば、規模よりも速度が肝要。わざわざ合流に時間を割いたりはしないだろう」
むしろ気がかりな点があるとすれば、それは「ヴェートが間に合うのか」という点であろう。十字軍の部隊と遭遇するようになってからすでに三日も経っている。当然、その間にも敵の本命部隊は味方の補給部隊に迫っていると考えるべきであり、ヴェートが無事に合流できるのか少々心配ではある。
(埒もない)
そう思ってシーヴァは頭を軽く振った。
今回のアルテンシア軍の遠征は、ここまであまりにも上手く行き過ぎている。それ自体は歓迎すべきことなのだろうが、上手くいっているがゆえに小さな失敗さえも気にしすぎてしまっているフシがある。完璧にやろうとして気持ちが急いている、と言えばいいのかもしれない。
(すでに手は打った。仮に間に合わなかったとしても取り戻せない失敗ではない)
そう考え、シーヴァは意識して姿勢を正した。王たるものは常に泰然としていなければならない。特にシーヴァ・オズワルドの場合は。
アルテンシア統一王国は、いうまでもなく建国したての若い国だ。それは、国家としてはまだまだ未熟で脆い部分を多く抱えている、という意味でもある。実際、現在の統一王国はシーヴァ・オズワルドという英雄がいるからこそ一つにまとまっている、といっても過言ではない。
ゆえに国と人民を導くシーヴァは、常に泰然とし何が起こっても動じてはいけない。彼が不安を表に出せば、国そのものが動揺してしまう。だからこそ背中にどれほど冷や汗をかいていようとも、それを悟られてはいけないのだ。
数秒だけ目を閉じる。そしてその間に、さまざまなものを背負いなおす。
「行くぞ」
目を開けたシーヴァに、揺らぎは微塵もなかった。
**********
作戦が決まり部隊の編成が終わると、シルヴィアはすぐに行動を開始した。彼女が指揮する部隊は五千の兵をようしている。大きなくくりで見れば十字軍なのだが、その内訳を見るとシチリアナ軍三千、ローゼン軍二千となっていた。
シチリアナ軍はもともとシルヴィアの直轄のようなものだから、彼女と一緒に来るのは当然だ。そしてサンタ・ローゼンの領内を動き回るためには土地勘のあるローゼン軍もいた方がいい、ということでこういう構成になったのだ。
「同規模の部隊を複数、アルテンシア軍の周りで蠢動させ、それに紛れた本命が敵補給部隊を強襲する」
それが今回の作戦である。そしてシルヴィアが率いているのは、その敵補給部隊を強襲するための本命部隊であった。
移動を開始したシルヴィアの部隊は、実は一度アルテンシア軍と遭遇している。もちろん攻撃を仕掛けるような無謀な真似はせず、すぐさま遁走したのだがその際彼女は南東に向かって逃げた。
敵にこちらの意図を悟らせないためだ。そのせいで随分と大回りをすることになったが、そのおかげで最初の遭遇以来、敵の部隊と鉢合わせしたことはない。ここまでは順調に進んでいる、と言っていいだろう。
「今はこの辺りじゃな………」
草原の草の上に広げた地図を見下ろし、適当に拾った細い木の枝でその地図上の一点を指し示す。時刻はすでに夕暮れ。沈みかけの太陽が空を赤く照らしている。
シルヴィアの率いる部隊が今いる場所は、サンタ・ローゼンの南の国境付近である。これから国境線に沿って西に向かい、フーリギアとの国境付近を目指すことになる。そしてフーリギアからサンタ・ローゼンへと続く街道を進んでいるであろう、アルテンシア軍の補給部隊を強襲するのだ。
(シーヴァはもう動いたのじゃろうか………)
できればまだ動かないで欲しい。シルヴィアはそう願った。
恐らく、いやほぼ間違いなくシーヴァ・オズワルドはシルヴィアの策を看破してくるだろう。この状況下で十字軍が狙えるのは補給線の寸断だけであることは、多少頭の切れる用兵家であればだれでも達しえる結論だ。
問題は、何時気づくのか、である。
幾つの部隊が蠢動しており、そのうちのどれが本命なのか分らない以上、闇雲に動き回ってそれらの小うるさい部隊を全て叩き潰すことなど、シーヴァはするまい。そんなことをするより、補給部隊に護衛をつけたほうがはるかに効率的だ。
つまり、シーヴァがシルヴィアの狙いを見破るのが早ければ早いほど、それだけ早く補給部隊に護衛がつくことになる。
数百程度の戦力であれば、数に物言わせて押し切ることも可能だろう。しかし三千以上の部隊が護衛についていたら、よほど上手く奇襲をかけない限り補給部隊は潰せまい。それどころか、逆にこちらが叩き潰されてしまうかもしれない。
(ここから先は時間とも戦わねばならぬな………)
本当であれば、夜の間も可能な限り進みたい。それができれば時間は気にしなくても良くなるだろう。しかし実際問題としてそれは不可能であった。
兵たちの体力が持たないのだ。シルヴィアの部隊は奇襲を仕掛けるための本命である。よって十字軍のなかでも兵士たちの質はいいほうだ。
しかしそれでも、精鋭と呼ぶには程遠い。訓練の不足は明らかで、日の出から移動を続けていれば夕暮れにはもう動けなくなってしまう。とてもではないが、これ以上行軍するのは無理だった。
(私自身、この有様じゃ………)
シルヴィアは自虐的に笑う。
体力が続かないのは何も兵士たちだけではない。指揮官であるシルヴィアもまた、一日の行軍を終える頃にはクタクタに疲れ果ててしまい、動けなくなっていた。
(自分の足で歩いているわけでもないのに、情けない………)
指揮官であるシルヴィアは当然馬に乗って移動している。そのため自分の足で歩いている兵士たちに比べれば、はるかに楽であることは明らかだ。にもかかわらず同じように動けなくなってしまうとは、一体どういうことなのか。
とはいえ、それは仕方のないことでもある。
シルヴィアは王女なのだ。王城で大切に育てられてきた、剣よりも花が似合う姫君なのである。当然、軍に入って訓練を受けたことなど一度もない。ましてや女の身。男に比べて体力で劣っているのは当たり前である。
野宿だって初めてだ。一日の行軍で疲れ果てていなければ、固い地面の上で眠ることなどできなかっただろう。お風呂に入るどころか、水浴びをすることさえ満足にできない。分ってはいたことだが、あらゆることが今までの生活とは違う。
しかしシルヴィアは決して不満や文句を口に出すことはしなかった。部隊の皆が同じ状況にいるのだ。まして自分は望んでここにいて、さらに指揮官として優遇さえされている。その上で泣き言や不満を口にするなど、言語道断である。姫として、王女として扱われたいのであれば、戦場ではなくアルジャークに行けばよかったのだ。
無論、辛いことは辛い。それは否定しない。しかしそれを超える使命感が彼女を支えていた。
「シルヴィア姫、お食事をお持ちしました」
シチリアナ軍の参謀の一人が、椀に入ったスープとパンを持ってくる。温かい食事を食べると、すこし活力が戻ってくるように感じた。
「のう、夜も移動できぬか?」
無理と知りつつ、つい尋ねてしまう。気が急いているのだろう。未熟なところを見せてしまった、と内心で少し後悔する。
「今は殿下のお体のほうが大切です」
シルヴィアが倒れでもすれば、敵と戦うどころの話ではなくなる。どのような形ではあってもアルテンシア軍に唯一勝利を収めたシルヴィアの名前は、彼女が自分で思っているよりもはるかに大きくそして重いのである。
「今はご自愛ください」
慇懃に頭を下げる参謀を、シルヴィアは少し呆れた顔で見ていた。回りくどい言い方をしているが、彼が言いたいことは至極単純なことである。
「………そんなにひどい顔をしているか、私は」
「早くお休みになられたほうがよろしいかと」
つまりそういうことである。「疲れているのだからさっさと休め。敵と遭遇したときに役立たずでは困る」とそう言いたいのである。この目の前の男は。
「大きなお世話じゃ!」
ついつい大きな声を出してしまう。してやったりな顔をしている参謀の態度が気に喰わない。自分がまだまだ子供だとからかわれているような気分だった。
王族として戦場に立つ以上、子供だからという理由で許されることは何一つない。シルヴィアはそれを無自覚のうちにわきまえて自分を縛っている。それは覚悟の表れである反面、大きくて慣れないストレスとして彼女に圧し掛かっていた。
そんな状態の中で、こうして軽くからかってくれる相手がどれだけ大切で必要としていたのか、シルヴィアが気づくのは随分と先のことである。
**********
「ようやく見つけたぞ………!」
戦いに先立つ熱く燃えるような感覚とそして同じくらいの安堵を感じながら、シルヴィアはその報告を聞いた。シルヴィアの部隊はようやく、目的であるアルテンシア軍の補給部隊を捕捉したのである。
しかし、ここで喜んでばかりもいられない。事態はすでに一刻を争うところまで来ている。シーヴァが補給部隊の護衛に差し向けたと思しき部隊が、街道上を近づいてきているのである。
その数、およそ五千。数だけ見れば同じだが、構成している兵の質には雲泥の差がある。つまりまともに戦えば負ける相手である。
しかし、今回の目的は敵補給部隊への強襲である。わざわざ合流してもいない護衛の部隊に攻撃を仕掛ける必要はない。ぐずぐずしてはいられないが、まだ運に見放されたわけではなさそうだ
「できれば物資を奪いたかったところじゃが、諦めるしかあるまいな」
十字軍の物資の不足は深刻である。それを解消するためにも、敵補給部隊が運んでいる物資は奪取したかったのだが仕方があるまい。余計な欲を出して戦闘を察知して駆けつけてきた護衛部隊と鉢合わせでもしたら、この千載一遇の好機を無駄にしてしまうことになる。ここは最低限、敵の物資を始末できればそれでよしとすべきだろう。
「全軍に火矢と油、それに種火を用意させるのじゃ」
「御意」
それらの用意が整えられる間、シルヴィアは目をつぶって心を落ち着かせていく。当たり前だが、戦いは慣れないしそれ以上に怖い。しかしそこから逃げることは決してしない。シルヴィアがここで逃げれば、それは教会と神聖四国、つまり祖国の滅亡に直結する。それを防ぐために彼女は今ここにいるのだから。
「用意、整いました」
「よし、では行くぞ」
シルヴィアは全軍に前進を指示する。駆け出したい気持ちを抑えて早足程度の速さで進む。いざ敵に襲い掛かるときに疲れ果てていては話にならないからだ。
(早く早く早く………!)
分ってはいても、急く心はどうしようもない。ましてや護衛部隊と合流される前に叩かなければならないと言う時間的な制約まであるのだ。
シルヴィアは何度も駆け出しそうになったが、そのたびに左右にいる者に止められる。そんなことを繰り返しながら、ついにシルヴィアの部隊は敵の補給部隊を捕らえた。
「全軍突撃!!」
言うが早いか、シルヴィアは馬の腹を蹴って駆け出した。半瞬遅れて全軍がその後に続く。幸いにも敵の護衛部隊はまだ肉眼で見える範囲にはいない。
「狙いは敵が運んでいる物資じゃ!雑兵など捨て置け!」
シルヴィアの部隊は敵補給部隊の側面を突く形で強襲した。敵の総数は二百から三百と言ったところか。この程度ならば数に物言わせて押し切ることも十分に可能だ。
「殿下!」
「種火!」
追いついてきた護衛にシルヴィアは短く単語で命令する。護衛が差し出した種火で矢に火をつけると、その火矢を弓につがえて構える。馬を走らせているのだから、当然揺れて狙いはつけにくい。
(的は大きい。外すものか………!)
飛距離をかせぐため、水平ではなく放物線を描くようにして火矢を放つ。放たれた火矢は綺麗な孤を描き、馬車の荷台においてあった麻袋に突き刺さった。
それを合図にしたように、シルヴィアの後ろから次々と火矢が放たれる。見た限り人的な被害はほとんどでていない。しかし食料の詰まった麻袋や樽、またそれらを運んでいる馬車そのものに火矢が突き刺さり、そこから火が燃え広がっている。
補給部隊の兵士たちは迷った。突撃してくる敵と戦うのか、それとも火を消すのか、あるいは無事な馬車を逃がせばよいのか。そうやって迷っているうちに敵部隊の接近と突入を許してしまった。
突入を果たしたシルヴィア率いる五千の部隊は、混乱してバラバラに動くアルテンシア兵には目もくれず、馬車や物資に油をかけて次々に火をつけていく。立ち上る黒煙はアルテンシア兵に劣勢を印象付け、混乱に拍車をかける。
意外な敵の脆さに、シルヴィアは少し拍子抜けした。しかしすぐに頭を切り替える。敵が混乱し組織的な抵抗をしてこないのであれば、それは彼女にとっては僥倖である。その間に可能な限り物資を始末してしまわなければならない。
しかし、幸運は何時までもは続かない。
「殿下!街道上を敵部隊が西から接近中!」
その報告に、シルヴィアは思わず舌打ちをもらした。恐らく黒煙が上がっているのを見つけて駆けつけてきたのだろう。もう少し時間をかけて処分したかったが仕方がない。護衛部隊が合流すれば敵の混乱は納まってしまうだろう。そして今度はこちらが劣勢に立たされることになる。
「全軍撤退じゃ!」
舌打ちをしながら声を張り上げると、シルヴィアは真っ先に駆け出した。向かうのは北。煙が流れていく風下だ。煙に紛れて姿をくらまそうと言うのである。
シルヴィアに導かれるようにして、彼女の部隊の兵士たちはその場から遁走する。隊列を乱し無秩序とも思える格好で、そのかわり全速力でシルヴィアの部隊はその場を離れていく。疲れているはずなのだが、それを超える興奮が兵士たちの顔に喜色を浮かばせている。敵に追撃されることはなかった。
(やられた………!)
燃え上がる炎と黒煙、そしてその黒煙に紛れて逃げていく十字軍の見ながら、ヴェートは苦虫をかみ殺したような顔をした。奥歯を強く噛締め、力いっぱいに革の手綱を握り締める。
今回の彼女の任務は補給部隊の護衛である。つまり、補給部隊が強襲されることは、当然想定しておくべきことであったのだ。
いや、彼女はその事態をきちんと想定していたし、また油断があったわけでもない。単純に敵のほうが一足早かった。ただ、それだけである。
(しかしだからと言って!)
しかしだからと言って、任務失敗の事実が軽くなるわけではない。せめて敵部隊だけでも叩こうと思うが、襲撃者たちはすでに煙に紛れて遁走を開始している。今から追っても間に合わないだろう。
(なんということだ………!)
歯軋りしたいのを必死に押さえ、ヴェートは冷静さを保つ。敵が逃げたからと言って彼女の仕事が終わったわけではないのだ。
「早く火を消せ!まだ火の手が上がっていない馬車を避難させろ!」
矢継ぎ早に指示を出し、少しでも損害を広げないようにする。とはいえ物資の七割以上は焼かれてしまった。アルテンシア軍は補給のため、一度ベルベッド城まで戻らなければならなくなるだろう。
(いや、食料を得るだけなら周りの村や町を略奪すればいいのだが………)
ヴェートの主君たるシーヴァ・オズワルドはそのような真似はするまい。彼は高潔な人間で民衆が虐げられることを何よりも嫌う。だからこそ彼はアルテンシア同盟に反旗を翻したのだ。そんなシーヴァが、たとえ敵国の民であってもそこから略奪するようなことは決してない、とヴェートは確信している。
(敵も、それを分った上での今回の作戦だな………!)
そう考えると本当に腹が立った。主君の善意につけ込まれたような、恩を仇で返されたような、そんな感じがしてならない。
(まあいい)
ヴェートは怒りを押し殺して平静を保つ。ここで一度撤退しても、アルテンシア軍の戦略的優位は変わらない。
防衛に使えそうな敵の拠点は、すでにほとんど破壊してある。仮に残っていたとしてもシーヴァが操る「災いの一枝・改」の前では意味をなさない。またアルテンシア軍が撤退している間に、十字軍の兵士たちの練度が飛躍的に上がってアルテンシア兵と拮抗してくる、ということもないだろう。
補給物資もベルベッド城に戻れば十字軍が残して行ったものがまだ大量にある。それに統一王国本土からの補給も続く。
ここでの敗北は戦局全体の逆転には結びつかない。結局のところ、時間稼ぎにしかならない。そう思えば、ヴェートとしても余裕を持つことができた。
「隊列を整えろ。本隊と合流する」
してやられた苦々しさは消えない。次にまみえることがあればこうも簡単に勝たせてはやらぬぞ、とヴェートは心に誓う。
(そういえば、あの部隊を指揮していたのはシルヴィア姫だったのだろうか………?)
温室育ちの素人と侮っていたが、もしそうだとすればなかなかの傑物かもしれない。特にこちらを確認してからすぐに煙に紛れて遁走した、その決断の速さは賞賛に値する。もしかしたらここに至る一連の策を考えたのも彼女かもしれない。
女でありながら軍に身をおくことの大変さは、ヴェートも良く知っている。ましてやシルヴィアは正規の訓練を受けずにこの作戦の指揮を執っているはずだ。それがどれだけ大変なことなのか、ヴェートには良く分る。
「負けたくはない、な………」
同じ女として。そしてそれ以上に、シルヴィアよりも長く戦場に立っている先達として。
十字軍の部隊が逃げていった方向を見るヴェートの目は、少しだけ優しかった。