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乱世を往く!  作者: 新月 乙夜
第十話 神話、堕つ
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第十話 神話、堕つ⑪

「では条件面はこれで合意と言うことで………」

「はい………、大丈夫です………。これでお願いします」


 片や満足感を漂わせる張りのある声。片や疲れきったかすれた声。対照的な声が部屋に響いた。


「それではこちらの書類にサインを」


 アルジャーク帝国宰相ラシアート・シェルパに促されるまま、教会の交渉役であるルシアス・カント枢機卿は渡された条約締結の書類にサインする。さらに両者はお互いの書類を交換して、もう一度サインをする。こうして二通の書類に二人のサインがそろい、正式に条約が締結されたのである。


 東の大国アルジャークと教会が条約を締結したのだ。本来であれば盛大な式典でも開くべきなのだろうが、今回に限って言えばそのようなことをしている時間はない。アルテンシア軍はすでに神聖四国の一つサンタ・ローゼンの国内に侵入しており、目指すアナトテ山まで距離はもうそれほど残されていない。アルテンシア軍の侵攻を防ぐため、アルジャーク軍の派兵は一刻を争うのである。


 そう、「アルテンシア軍に対抗するためアルジャーク軍を担ぎ出す」。それこそが、ルシアスが結んだこの条約の目的であった。


「そ、それで、援軍は………!」


 ラシアートに縋り付くようにしてルシアスは尋ねる。条約の締結が目的なのではない。アルジャーク軍がアルテンシア軍を撃退して初めて、教会は生き延びることができるのである。つまりアルテンシア軍がアナトテ山を制圧してからアルジャーク軍が到着するようなことになれば、この条約にはほとんど何も意味がないことになってしまう。


「可能な限り速やかに」


 心休まらない交渉を重ね心労で疲れ果てたルシアスの肩に手を置いて、ラシアートは言い聞かせるようにそういった。


「左様、ですか………」


 ルシアスとしては納得できる答えではない。しかし軍をどのように動かすかはすべてアルジャークが自身の裁量で決めるべきことで、教会の枢機卿であるルシアスが口を挟むことはできない。ラシアートがそういうのであれば、それを受け入れるしかない。


「くれぐれも、よろしくお願いします………」

「はい、全力を尽くすことをお約束します」


 少し休ませていただきます、と言ってあてがわれた客室に引き上げていくルシアスの背中を、ラシアートは苦笑気味に見送った。


(ずいぶん衰弱しておられるな………)


 その責任はアルジャーク側の交渉役であったラシアートにあるだろう。ラシアートが必死の懇願とも言えるルシアスの要請をことごとくかわし続けてきたせいで、彼は加速度的にやつれていってしまったのである。


(未熟者の相手をするのは、楽なことは楽なのですが、少々心が痛みますね………)


 苦笑しながらラシアートは廊下を歩く。彼の小脇には、先ほどラシアートとルシアスが署名した書類がある。彼が向かっているのは、皇帝であるクロノワの執務室だ。そして恐らくはアールヴェルツェもそこにいるはずである。


「陛下、ラシアートです」

「どうぞ」


 部屋の前を守っている兵に軽く手を上げてから部屋の扉をノックすると、すぐに答えが返ってきた。兵が扉を開けてくれ、ラシアートは室内に入った。


「ルシアス枢機卿との交渉は?」

「今さっきまとまりました。ベルベッド城が落ちたと言う知らせがよほど利いたのでしょうね。こちらの要求をほぼ丸呑みさせることができました」


 教会とアルジャークの交渉は、当初条件面での折り合いがなかなかつかなかった。金欠でできるだけ安くしておきたい教会に対し、援軍をだして傭兵扱いされるのならなるべく高く売りつけたいアルジャーク。両者の溝はなかなか埋まらなかった。


 状況が動いたのは通信用の魔道具である「共鳴の水鏡」を用いた連絡により、ベルベッド城陥落の知らせが届いた時である。


「ベルベッド城に籠城してアルテンシア軍を防ぐ。そしてその間にアルジャークを動かし援軍を出させることができればなおいい」


 それが今回のアルテンシア軍の侵攻における十字軍の基本的な方針であることは当然ルシアスも知っているし、アルジャーク側も「それ以外には無いだろう」と見ている。


 それなのにベルベッド城がこうも簡単に落ちてしまった。それはつまり、なんとしてもアルジャーク軍を引っ張り出さない限り、もはや教会の生き残る道はないことを意味していた。結果、ルシアスはアルジャーク側の要求を丸呑みしてでも、早期に援軍を出してもらえるように決断したのである。いや、正確には「させられた」と言ったほうが正しいのだが。


「宰相殿も人が悪い」

「いえいえ。できるだけ高く売りつけてやれ、というのが陛下のご命令でしたからな」

「おや、私のせいですか?」


 アールヴェルツェ、ラシアート、クロノワ。アルジャーク帝国を率いる三人は揃って苦笑した。


「とはいえこうも簡単にベルベッド城が落ちたのは、こちらとしても想定外ですな………」

「左様。これでアルテンシア軍とは、ほとんどサシで戦わなければならなくなりました」


 ラシアートは決して、ベルベッド城が落ちるまで交渉を引き延ばしていたわけではない。最終的には援軍を出すことがほとんど決まっていたから、防衛の拠点としてベルベッド城は健在なほうがいいに決まっている。ただ長引けばそれだけ十字軍は苦しくなり、そうすれば交渉がアルジャークに有利になると踏んでいたに過ぎない。


「まあ、なんにせよアルテンシア軍とは野戦で雌雄を決することになったでしょうから、それほど問題はありませんよ」


 クロノワは気楽にそういった。確かにベルベッド城が健在だったとしても、アルジャーク軍までそこに立て籠もることはなかったであろう。十字軍と合流し打って出るか、あるいは奇襲を狙って側面か背後を突くか。なんにしてもアルジャーク軍は野戦を挑むことになる。


「でもまあ、遅れて間抜けを曝すのは、遠慮したいところですね」


 クロノワは静かにそう呟いた。さんざん交渉を引き延ばした挙句、援軍をつれて到着したとき、すでに教会が崩壊していたらそれは確かに間抜けであろう。


 ただ、クロノワ個人としてはそれでもいいと思っていた。そうなったらさっさと逃げ帰るのみである。後世の歴史家からは「間抜け」のレッテルを貼られるだろうが、アルテンシア軍との正面衝突を避けられるのならそれでもいい。


 しかしどのような思惑があるにせよ、教会との条約はすでに締結されたのだ。援軍を出す代わりに多大な見返りを貰うことを約束したのである。ならばそのために全力を尽くすのが筋と言うものだろう。


 クロノワの口元には先ほどまでと同じく気楽そうな笑みがあるが、目は笑っていない。彼の鋭い視線が空気を引き締める。主君の雰囲気が変わったことを察し、アールヴェルツェとラシアートも表情を改めた。


「アールヴェルツェ、軍の準備は?」

「すでに整えてございます。主力部隊はすでにオムージュ領のラキサニア国境近くにて待機しております。我が軍がラキサニアを通過する許可もすでに取っており、あとは我々が合流すればすぐにでも動けます」

「後方部隊は?」

「万事抜かりなく」

「兵站については神聖四国も最大限協力してくれることになっています。普通に補給線を伸ばすよりは楽に済むでしょう」


 アールヴェルツェとラシアートの言葉にクロノワも頷く。


「………本当に、親征なさるのですか?」


 少し心配そうにアールヴェルツェはクロノワに尋ねた。彼の懸念はクロノワにも分かる。今回の遠征は今までのものとはわけが違う。敵はかの英雄シーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍である。これまでで最も危険な相手であると断言できる。


 さらに、現在アルジャークの帝室はクロノワ一人である。万が一彼が戦死でもしたらアルジャーク帝国は内部分裂を起こしてしまう。危険な戦場には出ず、安全なところで待っていてほしいというアールヴェルツェの気持ちはクロノワにもよく理解できた。


「ええ、そのつもりです」


 しかしそれでもクロノワの決意は翻らない。彼は今回どうしても親征すると決めていた。

 それらしい理由はいくつかあげることができる。しかしそのような理論武装とは違った区別の部分で、クロノワは今回は親征しなければならないと感じていた。


 一言で言えば、直感である。この戦いは何かが起こる。そしてその何かが起こったとき、シーヴァ・オズワルドと同格であるこのクロノワ・アルジャークがそこに居なければいけないような気がしたのだ。


 とはいえ、クロノワに未来を見通す力などない。だからただの予感に過ぎないこの直感は誰にも話してはいない。ありきたりな理論武装でゴリ押しして、アールヴェルツェとラシアートの二人に親征を納得させたのだ。


 アールヴェルツェが不承不承ながらも引き下がったのを見て、それからクロノワはラシアートのほうを向いた。


「後のことはラシアートに任せますので」

「は、お任せください」


 後のこと、というのはもちろんクロノワが国を空ける間の内政のことだ。しかしクロノワがラシアートに任せたのはそれだけではない。


 アルジャーク帝国は今回教会に援軍をだす対価として、教会が大陸の中央部に作り上げた物流網の使用権を獲得している。これはこの先、アルジャーク帝国が交易の分野で勢力を拡大していくのに大いに役立つと期待されていた。


 そしてその物流網の基点となっているのが、エルヴィヨン大陸南西の端に位置する貿易港、ルティスである。


 ルティスは大陸でも間違いなく三本の指に入る大きな貿易港である。実際、

「世界の富はルティスに集まる」

 とさえ言われており、その繁栄ぶりには輝かしいものがある。ルティスがそれほどまでに繁栄できた最大の理由が教会との蜜月にあることは、周知の事実だ。


 ルティスはもともとオークランドの一都市でしかなかった。しかし教会と強く結びつくことで半ば独立し、そして貿易港としても地位を不動のものにしていった。立ち位置としては独立都市ヴェンツブルグに似ていると言える。


 ただ、ヴェンツブルグが現在はアルジャーク帝国によって自治権を保障されているのに対し、ルティスの自治権を保障しているのは教会である。つまり教会はルティスを押さえることによって大陸中央部における物流を支配していた、と言っていい。


 そこへアルジャークはこのたび進出しようと言うのである。しかもラシアートがまとめた条約の中身は「使用権」などという生易しいものではない。実質的にこれまで教会が築き上げてきた物流網の乗っ取りに等しいもので、この先ルティスはアルジャークのもの、と言っても過言ではない。


「可能な限り早く、フィリオをルティスにやるつもりです。」


 フィリオ・マーキスはシラクサとの通商条約をまとめた人物で、現在アルジャークで海上交易の分野に最も通じている人材の一人である。一緒に机を並べて勉学にはげんたこともあるクロノワにとって、彼は数少ない同年代の友人であり信頼できる腹心だ。


「ルティスさえ掌握してしまえば、あとはどうとでもなります。フィリオには頑張ってもらいましょう」


 ラシアートの言葉にクロノワも頷く。実際問題として、教会がどれほどもつ(・・)のかは怪しいものがある。アルテンシア軍を退けたとしても、それで教会が持ち直すのかと言われれば答えは否だろう。遅かれ早かれ教会は組織としての呈を保つことができなくなって崩壊する。クロノワやラシアートはそう見ている。そうなったとき、貰った大陸中央部の物流網が使えなくなっては困るのだ。


 そこで重要になってくるのが、物流網の基点となっている貿易港ルティスである。仮に物流網が使えなくなったとしても、そこさえ抑えていれば新たな物流網を築くことは容易である。


 それにクロノワが特に力を入れているのは海上の交易であり、ルティスはそのための得がたい拠点でもある。ルティスをアルジャークのものにできるだけでも、今回援軍を出す価値があるかもしれない。


 クロノワは一つ頷いた。後のことはラシアートに任せておけば何も問題はない。今自分が集中すべきはアルテンシア軍との、ひいてはシーヴァ・オズワルドとの戦いのほうである。


「では行くとしましょう、アールヴェルツェ。戦場へ」

「………御意」


 まだなにか言いたそうではあったが、それは飲み込んだのだろう。アールヴェルツェは頭を下げた。彼はクロノワとは長い付き合いである。クロノワの決意が固く、なにを言っても無駄だと分ったのだろう。


「陛下の御身はこの帝国にとって何よりも大切なもの。なにがあっても生きてご帰還してください」

「ええ、分っています」


 ラシアートの言葉にクロノワも頷く。仮にアルテンシア軍に負けて敗走したとしても、皇帝たるクロノワさえ生き残っていればアルジャーク帝国は安泰である。大国としての、また極東の覇者としての地位を失うことはない。


 しかし、逆に勝ったとしてもクロノワが戦死するような事態になれば、帝国は内部分裂してしまうだろう。そうなれば全てを失うといっても過言ではいない。つまりクロノワの生き死には、戦場での勝敗よりはるかに重要なことなのだ。


「アールヴェルツェ将軍も陛下のこと、くれぐれも宜しく頼みましたぞ」

「この命に代えましても」


 ラシアートの頼みに、アールヴェルツェも胸に拳を当てて答える。それで多少は安心したのか、ラシアートの表情が少し柔らかくなった。


 そのおよそ二時間後、アルジャーク帝国帝都オルスクのボルフイスク城から五百騎ほどの軍勢が出立した。それらの軍勢は土煙を上げながら進路を西へと取る。目指すは教会の総本山たるアナトテ山。


 舞台に役者が揃おうとしていた。


**********


 教会とアルジャーク帝国の間に条約が締結されたちょうどその頃、サンタ・シチリアナの王女シルヴィアは三千のシチリアナ軍を率いてアナトテ山の近くまで後退してきた十字軍に合流した。十字軍の総司令官は未だにラウスフェルドの後任が決まっておらず、参謀長が一時的に全軍の指揮権を預かっていた。


 十字軍に合流したシルヴィアは、しかし総司令官になることはできなかった。アヌベリアスが危惧し、そしてシルヴィア自身も覚悟していた通り、女性であるがゆえになめられたのだ。


 シルヴィアを総司令官にしなかった十字軍は、その上総司令官の不在を理由に動こうともしない。そのような十字軍にシルヴィアはさっさと見切りをつけてシチリアナ軍を率いて独自行動を開始した。本来ならば許されないのだろうが、こういう時、神聖四国の王女という肩書きはなかなか便利である。


 ただ、やはり印象は良くない。


「ふん。軍略を知らぬ小娘が、五千にも満たぬ寡兵を率いてなにができるというのか」


 十字軍の上の方、特に年寄り連中がこの手の陰口を叩いていることはシルヴィアも承知している。しかしながら彼女に言わせれば、


「これまで大軍を率いながらも、三度にわたり敗北した者どもが何を言っても負け惜しみにしか聞こえぬ」


 ということらしい。どうやら毒舌のやり合いではシルヴィアの方に分があったようだ。


 さて、ふがいない十字軍に見切りをつけ独自行動を開始したシチリアナ軍は、南西の方向へ向かいアルテンシア軍を求めた。


「アルテンシア軍の様子はどうじゃ?」


 アルテンシア軍の歩みは遅い。しかしゆっくりでありながらも、確実に前進してきている。サンタ・ローゼン国内の砦や城を一つずつ、まるで見せ付けるかのように落としながらアナトテ山へと向かっているのである。


 いや、見せ付けるかのように、ではない。見せ付けているのだ。


 アルテンシア軍の城砦の落とし方は、ひどく単純である。ベルベッド城の場合と同じように、シーヴァが「災いの一枝・改ディス・レヴァンテイン」を用いて城壁か城門を破壊し、そこから全軍が流れ込み敵の拠点を制圧するのである。


 ベルベッド城の場合と異なっているのは、シーヴァは落とした城砦を拠点として用いることはせず、完全に破壊しつくしているところだろう。


 これは示威行動である、とシルヴィアは見ている。つまり圧倒的な力を見せ付けることで、教会勢力下にある国々を威嚇しているのである。


「これ以上教会に協力するのなら容赦せんぞ」

 とつまりはそういうことであろう。


 それに加え、わざと速度を落としてゆっくりと行軍することにより、シーヴァは各国に教会と手を切る時間を与えている。アナトテ山を制圧する前に、可能な限り教会の勢力をそいでおきたいのだろう。


 このシーヴァの目論見は現在かなり成功していると言っていい。今では神聖四国だけが教会の味方をしているような状態だ。十字軍が動こうとしないのは、アルテンシア軍に野戦を仕掛けるのを躊躇っているのもあるが、各国からの兵の補充が思うように行かず数が足りていないのが大きい。


「どんなに小さくてもいい。まずは勝利を拾うことじゃ」


 シルヴィアはそう考えている。十字軍はシーヴァにこれまで負け続けている。その上、一度として勝てたためしがない。そのせいで十字軍の兵士たちは、「アルテンシア軍には何をしても勝てない」と最初から諦めている節がある。


 だからこそどんなに小さくても些細でもいいので勝利を拾い、「勝てるのだ」ということを証明しなければならない。勝てると思えれば兵の士気は上がるだろうし、また兵を出し渋っている各国もまた教会に味方をしてくれるかもしれない。


 そしてなによりも、無敵のアルテンシア軍に土をつけたとなれば、シルヴィアは大きな武功を手にすることになる。その武功さえあれば、頭の固い十字軍の仕官どもを黙らせて総司令官になることができるだろう。なれなかったとしても、確実に十字軍内におけるシルヴィアの発言力は増す。


 アルテンシア軍を足止めしアルジャーク軍がやってくるまでの時間を稼ぐには、どうしても十字軍の力が必要である。そのためにも、早く十字軍を動かせる立場にならなければならないのだ。


 急く心を抑えてシルヴィアは手ごろな相手を求めて軍を進める。そんな彼女の前にまさしく手ごろと思える敵が現れたのは、シチリアナ軍が独自行動を開始してから四日後のことであった。


 四方に放っていた斥候が持ち帰った情報によると、アルテンシア軍の分隊を発見したと言う。その数、およそ千。シチリアナ軍の三分の一程度だ。


「ちょうどよい規模の敵じゃな」


 シルヴィアは目を輝かせた。敵の戦力が千程度ならば、勝つことはそう難しくはあるまい。なにしろシチリアナ軍は三千の兵を有しているのである。


 ただ逆を言えば、同じ数であれば恐らく勝てないということでもある。それほどまでに兵の質が違うのである。そういう意味では、見つけた敵部隊が千程度であったことはまさしくシチリアナ軍にとっては僥倖であったと言える。


 ちなみにこの部隊を率いていたのはガーベラント公であった。彼はシーヴァの率いる本隊から分かれ、先行するかたちでサンタ・ローゼンの地を進んでいたのだが、その時シルヴィア率いるシチリアナ軍とかち合ったのである。


 当然、ガーベラント公はシチリアナ軍の接近を察知していたし、その戦力が自分の部隊の三倍近いことも知っていた。


 敵部隊の接近に際し、ガーベラント公は迷った。


 今、自分の部隊は本隊よりも先行しているが、それは戦略的に考えてこの先どうしても必要というわけではない。まして敵の戦力は、数だけ見ればこちらの三倍近い。ならば戦う前に撤退して本隊に合流したほうが良いのではないか。


 しかし、アルテンシア軍は現在のところ連戦連勝で、非常に士気が高い。ここで戦わずに後退したとなれば、連勝に水を差すことになりかねない。また、十字軍ははっきりと弱い。三倍の敵と言えど、撃破は十分に可能なようにも思える。


 あれこれと考えているうちに、ガーベラント公率いるアルテンシア軍はシルヴィア率いるシチリアナ軍に接近してしまった。彼は決して優柔不断な武将ではない。この場合、アルテンシア軍分隊の存在を知ってから神速果断に行動したシルヴィアとシチリアナ軍を褒めるべきであろう。


 なにはともあれ、互いを視認できるほど近づいてしまっては、いきなり背中を見せて後退するのは危険である。ガーベラント公は慌てることなく、すぐさま全軍に戦闘隊形をとるように命じた。


 ガーベラント公は勝つ気でいた。隙を見て撤退する、などということは考えていない。十字軍は弱い。それはこれまで戦ってきた中で十分に分っている。たとえ兵の数で劣っていようとも、十分に勝機はあると計算していた。


 しかし実際に戦闘が始まってみると、ガーベラント公は考えを改めなければならなくなった。別にアルテンシア軍が劣勢になったわけではない。現状でも五分五分、いやそれよりも多少優位に立っているだろう。


 しかし、シチリアナ軍は今までの十字軍のように簡単に崩れてはくれない。確かに兵は弱いのだが、士気の高さがそれを補っている。その点だけ見ればシチリアナ軍はアルテンシア軍を凌駕していると言っても過言ではない。そのせいで戦況では優位なはずなのに、精神的にはなんだか追い詰められているかのような、そんなチグハグな感覚さえ覚えてしまう。


(指揮官が変わったのか………?)


 ガーベラント公はそう思った。指揮を見る限り、戦術面においてはまだまだ未熟な指揮官であろう。しかし兵に命を捨てさせる、捨ててもいいと思わせる指揮官だ。シーヴァ・オズワルドという英雄を間近で見てきたガーベラント公は、そういう将が一番危険であることを良く知っている。


(退くか)


 ガーベラント公はそう決断した。最後まで戦えば、勝つことはできるだろう。しかしここでの勝利は、戦略的に考えてあまり意味がない。ならば無意味に兵を失う前に後退するべきであろう。


 ガーベラント公はまず、自分の周りに精鋭を集めた。それからその精鋭部隊を率いて突出して敵を押し戻し、その隙に後ろの兵から順に後退させていく。そしてそれを数度繰り返して全軍を後退させ、シチリアナ軍との距離が開くと一気に撤退を開始した。


 シチリアナ軍はその後を追わなかった。いや、追えなかった、と言ったほうが正しい。整然と後退していくアルテンシア軍に隙はなく、うかつに手を出せば手痛い反撃をくらうことが容易に想像できた。


 また戦場に横たわる死体は、アルテンシア兵よりもシチリアナ兵のほうが多い。あのまま戦っていれば恐らく最後には負けていたであろうということは、シルヴィアにも良く分っていた。


(それでも勝ちは勝ちじゃ)


 たとえそれが譲られたものだったとしても。兵たちの歓声を聞きながらシルヴィアはそう思った。


 勝てるのに退いたということは、先ほどのアルテンシア軍の指揮官はこの場での戦いに意味を見出さなかったのだろう。確かにアルテンシア軍にとってはそうかもしれない。しかしシチリアナ軍、ひいては十字軍にとってこの拾った勝利には大きな意味がある。


 敵にしてみればすぐにでも取り返せる負けだろう。いや、むしろ戦略的には撤退したほうが良かったとさえ考えているかも知れない。しかし十字軍にとっては幸運のすえに拾った得がたい勝利なのだ。


(せいぜい利用させてもらうかの、シーヴァ・オズワルドよ)


 シルヴィア自身のため、ひいては教会と神聖四国のために。


 シルヴィアが十字軍を率いても、おそらくアルテンシア軍には勝てないであろう。それは今日の戦闘からも分ってしまう。見せ付けられた、と言ってもいい。しかし、シルヴィアの目的は勝つことではない。アルジャーク軍が到着するまで時間を稼ぐだけならば、やりようはある。


 後に“聖女”と呼ばれる少女の戦いが、始まった。


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