第十話 神話、堕つ⑨
シャトワールとブリュッゼを下したアルテンシア軍は、さらに東へと進む。その歩みは決して遅くはないが、シーヴァが起こしたアルテンシア同盟に対する革命の初期にあったような疾風怒濤の勢いもない。遠征軍は整然と進み、威風堂々としたその軍威を見せ付ける。
今のところ、アルテンシア軍は十字軍や独自に動く各国の軍などからの襲撃を受けてはいない。意見がまとまらず動けない、というわけではあるまい。逆に意見の統一がなされ、アルテンシア軍を迎え撃つ場所がすでに決まっているからこそ、先走って攻撃を仕掛けてくる部隊がいないのだろう。
(危機的状況は思惑を飛び越えて人々を協力させる、か………)
立場は逆になったが、そういう意味ではかつてのアルテンシア同盟が成立した状況に似ていると言える。十字軍はこれまで、各国の状況や思惑が異なるために意見が統一されず、仲間内で足を引っ張り合うような状態が見られた。しかしシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍という圧倒的な侵略者を前にして、ともかくは手を取り合い全力で協力し合うことができるようになったらしい。
(さて、どこで迎え撃つつもりなのか………)
心の中でそう問いかけつつも、シーヴァはすでに自分の中に答えを持っている。フーリギアにあるベルベッド城。十字軍はその城に集結し、アルテンシア軍に対して決戦を挑んでくるだろう、とシーヴァは予測している。
フーリギアはブリュッゼとサンタ・ローゼンの間にある国で、その版図は四三州。小国であり、神聖四国と教会の威光を笠に、というよりほとんど属国の立場を受け入れることによって、これまで国を維持していた。熱心な信者が多く、教会と神聖四国からすれば使い勝手のいい子分、といったところだろうか。
そんなフーリギアの中央からすこし西よりのところにあるのがベルベッド城だ。交通の要衝に置かれた城であり、完全に敵と戦うことを想定した造りとなっている。それもそのはずで、まだアルテンシア同盟が健全な組織だった頃、半島から出て西進する同盟軍を迎え撃つ目的で作られた城だった。役割としてはゼーデンブルグ要塞に似ていると言える。もっとも、規模は二段階程度劣っているといわざるを得ないが。
結局、同盟が遠征軍を催して半島から打って出ることはなかったが、こうしてシーヴァが軍を率いその城を攻略することになりそうである。ゼーデンブルグ要塞で十字軍を撃退したことといい、どうもアルテンシア同盟がやるはずだったことをシーヴァが肩代わりしているような気もする。もっともそれは彼にとって望むところだろう。シーヴァの根底にあるのは、やはり同盟が掲げた理想なのだから。
それはともかくとして。ベルベッド城でまずは十字軍と一戦交えることになるだろうと予測しているのは、なにもシーヴァだけではない。ガーベラント公とリオネス公、それに腹心とも言える女将軍ヴェート・エフニートも同意見だった。
古来より戦場の選定と言うのは、敵味方の予測が驚くほどの高確率で一致する。もっとも大軍を指揮して動かしやすい場所や、戦略的に価値のある要衝といったふうに条件付けをしていけばおのずと選択肢は限られてくるのだろう。
「さて、十字軍はどう戦うつもりなのか」
馬に揺られながらシーヴァは考える。ベルベッド城を拠点にして野戦を挑んでくるのか、それとも城に籠って守りを固めて戦うのか。あるいは城を拠点にして奇襲や挟撃を狙うのか。
敵がどのようなカードを切ろうとも恐れることはない。シーヴァはごく自然にそう思っていた。しかしだからと言って敵を侮っているわけではない。進軍の速度を上げすぎないのもそのためだ。疲れきっているところを襲撃されれば、どれだけの精兵を率いていようとも敗北は濃厚だ。ゆえに常に余力が残るようにしておかなければならない。
さらにシーヴァは本隊とは別に斥候のための部隊を組織し、常に周辺の状況を探らせていた。加えてこれまで大陸中央部で諜報活動をしていた人員をも連動させることで、彼はかなり広範な地域の情勢を馬上にいて知ることができていたのである。
鋭く前を見据えて進むシーヴァのもとに十字軍発見の報がもたらされたのは、彼がブリュッゼを出立してから五日後のことであった。
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シーヴァの読みどおり、十字軍はベルベッド城に集結していた。その数およそ十二万。十分に大軍であり、実際各国とも出し惜しみをしたわけではない。しかし教会の人間で、この数に不満を覚えるものは少なからずいた。
第一次十字軍遠征の際には、三十万を超える大軍が集結した。第二次遠征の際にも二十万を超えていた。それが今回はわずかに十二万である。
客観的な事実として、回を重ねるごとに十字軍の戦力は十万ずつ減っている。それがそのまま教会の衰退を表しているようで、教会の上のほうにいる人間ほど頭と胃の痛い思いをしていた。
ただ、雰囲気は今までで一番良いかもしれない。欲望丸出しだった第一次遠征や足並みが揃っていなかった第二次遠征とは異なり、今回は祖国を侵略者から守るという単純明快で誰もが納得する理由がある。その大義名分は国や思惑の違いを超えて兵士たちを団結させていた。
さらに今回、総司令官として十字軍を率いるのは、神聖四国の一つサンタ・ローゼンの第一王子であるラウスフェルド・サンタ・ローゼンであった。神聖四国の王族が十字軍を率いるのはこれが初めてで、それだけ情勢が悪いことの裏返しなのだが、それでも兵士たちは沸き立ちその士気の高さは間違いなく過去最高であった。
それに、これは皮肉なことなのだろうが、規模が小さくなったことで全体の統率が取れるようになっていた。これまでのようにサボったり怠けたりする兵士は見られない。一人ひとりの意識が高く、命令が末端にまで行き届いている証拠だ。
加えて、十字軍の兵たちの士気をさらに上げている要素がある。それは斥候によってもたらされたアルテンシア軍に関する情報である。それによると、どうも敵は攻城兵器を持ってきていないようだ、とのことであった。
第二次遠征の際に、攻城兵器が足りずゼーデンブルグ要塞を攻めあぐねたことは、十字軍の中でも記憶に新しい。ゆえに攻城兵器を持たないシーヴァはベルベッド城を攻めあぐねるだろう、ということは簡単に予測できた。
加えてアルテンシア軍は八万。守り手のほうが攻め手よりも数が多いのだ。一般的に敵の防衛拠点を落とそうする場合、敵に対して二倍から三倍の戦力が必要になるといわれている。それを考えればアルテンシア軍は明らかに戦力不足だった。
「なんでもかんでも力押しで何とかなると思ったのか。愚かなことよ」
「左様。シーヴァ・オズワルドは勝利に慢心し、さしたる準備もせず今回の遠征に踏み切ったと見える」
「奴らはこのベルベッド城を落とせず、疲れ果てて退却することになるじゃろう。その背中を襲うときが楽しみじゃ」
斥候がもたらした情報をもとに行われた戦況予測は終始十字軍に有利であり、指揮官たちは大いに胸をなで下ろした。さらにその予測は一般の兵士たちにも知れ渡り、十字軍の士気はさらに上がった。
「異教徒どもが神聖なる我らの祖国を踏み荒らすことを、神々はお許しにならなかったのだ」
「強欲な異教徒どもに神々の裁きを!」
三度目の対決で、ようやく勝機が見えてきたのである。話をする十字軍兵士たちの表情は明るい。
ゼーデンブルグという大要塞には及ばないが、ベルベッド城は十分に堅牢な城砦である。しかも数は十字軍のほうが多いのである。野戦では分が悪いかもしれないが、城に籠ってしまえば十字軍のほうが圧倒的に有利であることは誰の目にも明らかであった。
つまり、
「アルテンシア軍、恐れるに足らず!」
という十字軍内の雰囲気には一応の根拠があった。
しかし、その根拠には穴があったと言わなければならない。彼らは見落としていたのである。シーヴァ・オズワルドが操る漆黒の大剣「災いの一枝・改」のことを。
古来より、たった一つの強力な魔道具が戦況を左右してしまった例は、少ないとはいえ確かに存在する。シーヴァの持つ漆黒の大剣がその類の魔道具であることを、十字軍はいやというほど思い知らされていたはずである。それが意識的であったのかあるいは無意識であったのかは分らないが、なんにせよ「災いの一枝・改」という強力な魔道具を排除して考えていたことは迂闊だった、と言わざるを得ない。
もっとも、シーヴァがその魔道具を攻城兵器の代わりとして用いたことは無く、そこに関しては未知数だった、という面もあるのだろう。あるいは「災いの一枝・改」について考えてはいたが、兵の士気を上げるためにあえて黙っていた、という可能性もある。それが正しい選択だったのかは、また別の問題になるが。
まあ、内部にどのような思惑があったにせよ、ベルベッド城に籠って防戦に徹する以外の選択肢は十字軍になかった。兵と兵がまともにぶつかり合う野戦では、兵の質で大きく劣る十字軍は勝ち目が薄い。兵の数でどれだけ上回っていようとも、だ。羊を千匹集めたとしても、一頭の獅子には敵わないのである。
また奇襲をかけるのも難しい。兵士たちの訓練が足りていないからだ。例えば夜間行軍したり、気づかれないように敵に接近したりするにはそれ相応の訓練が必要になる。しかし二度の遠征失敗により精兵の多くを失った十字軍には、それら必要な訓練を受けた兵士が絶対的に足りていない。
加えて指揮官の数も足りておらず、結局全軍をひとまとめにしてベルベッド城に立て籠もるのが最も確実な戦術であり、その方向で準備は進められた。
「いつでも来るがいい。返り討ちにしてくれる」
総司令官のラウスフェルドが豪語する。そう言えるほどに、十字軍は出来る限りの準備を万端に整えていた。
「人事は尽くした。後は天命を待つのみ」
十字軍は、いやともすれば教会勢力全体がそういう心境であった。しかしそうなると、もしこの戦いで十字軍が敗北した場合は教会の滅亡こそが天命であることになるのだが、彼らは果たしてそれを理解していたのであろうか。多少の想像が許されていい。
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アルテンシア軍の先頭を行くシーヴァがベルベッド城とそこに翻る教会の旗を視界に収めたのは、十字軍発見の報が彼のもとにもたらされてからさらに三日後のことであった。
その三日の間にシーヴァはさらに詳細な情報を集めさせていた。ベルベッド城で待ち構えている十字軍の数、およそ十二万。ただしその多くは訓練の足りない新兵と体力のない老兵である。また総司令官としてサンタ・ローゼンの第一王子ラウスフェルド・サンタ・ローゼンがいることも掴んだ。
「ついに神聖四国から王族が出てきましたな」
ラウスフェルドの名を聞くと、ガーベラント公は少し意外そうな顔をして顎を撫でた。確かに彼ならば十字軍の兵士たちを団結させる象徴としては申し分ないだろう。兵の数と質に不安が残る以上、士気を上げるためにも神聖四国の王族を担ぎ出すのが効果的であるということはガーベラント公にも分っている。
しかしその一方で神聖四国の王族を担ぎ出さなければならないほど、十字軍にとっては分が悪いと言うことでもある。そのような分の悪い戦いに温室育ちの王族がはたして出てくるのか、とガーベラント公は少なからずいぶかしんでいたのだ。
まあ、結果としてラウスフェルドは戦場に出てきたのだから、もしかしたら彼は結構な傑物かもしれない。もっとも、さんざんぐずった挙句に尻を蹴り飛ばされてきただけかもしれないが。
「それで、ラウスフェルド総司令官殿はこちらに野戦を仕掛ける胆力をはたしてお持ちかな」
多少皮肉のスパイスを利かせてそういったのは、ガーベラント公と同じく五公爵の一人であるリオネス公であった。年長で優れた武人でもあるガーベラント公などと比べると線が細く一見して軽薄にも見えてしまうが、ユーモアのセンスがあり頭の回転は非常に速い。五公爵の中では最も早くに同盟に見切りをつけてシーヴァに協力しており、その先見性には卓越したものがある。
無論、リオネス公は十字軍が野戦を仕掛けてくることはないと確信している。少なくとも真正面からは。それは総司令官であるラウスフェルドの胆力の問題と言うよりは、むしろ十字軍の兵士の練度の問題である。
十字軍を構成している兵のほとんどは新兵と老兵だ。それに対してアルテンシア軍は精鋭の中でも選りすぐりの兵を集めてきた。数で劣っているからと言って、そう簡単に押し切られることはない。
「二倍程度までなら、問題なく勝てる」
アルテンシア軍の内部ではそういわれていた。決して敵を侮り楽観しているわけではない。経験と知識にもと基づく推測である。さらに「災いの一枝・改」を操るシーヴァ・オズワルドがいるのである。もしかしたら三倍近い数が相手でも問題ないかもしれない。
もっとも、敵もそれは承知しているはずで、だからこそリオネス公は野戦で真正面からぶつかることはないと考えているのである。
仮に十字軍がベルベッド城から出てくるとすれば、それは奇襲を仕掛けるためであろう。どれだけ精強であろうとも、油断しきっているところを襲われれば敗北は必至である。しかしシーヴァに気の緩みは無い。彼は斥候の数を増やして周辺をくまなく探らせ、警戒を強めて行軍した。
結果として奇襲を受けることなく、アルテンシア軍はベルベッド城に迫った。堅牢な城壁を持つその城には、教会の旗が数多くたなびいている。
「想定通り、といったところですね」
シーヴァの左隣でリオネス公が楽しそうにそういう。彼の口元は笑っているが、しかし目が笑っていない。
ベルベッド城の城門は固く閉じられアルテンシア軍を拒んでいる。二枚扉の城門は木製だが、その後ろには鉄でできた格子の鎧戸も下ろされていることだろう。城壁の上には沢山の兵士たちの姿が見える。
しかし、城から出て城門の前に展開されている部隊はない。十字軍は全て城内にいるようだ。
アルテンシア軍が攻城兵器を持っていないことは、十字軍にしてみれば僥倖であったろう。単純にベルベッド城の防衛が楽になるだけではない。攻城兵器を破壊するための部隊を城の外に展開し、局地的とはいえ野戦を戦う必要がなくなったのだ。十字軍にしてみれば、これはありがたいことであったろう。
もっとも、それはアルテンシア軍にとって始めから想定していたことだ。
「それで陛下、すぐに仕掛けますか?」
リオネス公がシーヴァに問う。日は高く、ちょうど正午といった時間だろうか。まだまだ日の長い季節だから、日暮れまではだいぶ時間がある。
「ガーベラント公、兵たちの様子は?」
「急いだわけではありませんからな、余力は十分に残っているでしょう。あとは陛下次第、でしょうなあ」
試すように、そして面白がるようにガーベラント公はシーヴァを見た。シーヴァは視線を正面に戻し、ベルベッド城の城壁を鋭く観察する。それから彼は馬の腹を軽く蹴ると、ただ一騎で悠然と前へ進み出た。
迫ってきたアルテンシア軍が少し遠い位置で停止する。城壁の上からとはいえ、弓を射てもあそこまでは届かないだろう。そしてそこからただ一騎のみがベルベッド城に向かって歩を進めてくる様子を、城壁の上にいる十字軍の兵士たちは緊張して見ていた。
ゆっくりと近づいてくるその騎士は、黒で統一された鎧を身にまとっている。遠目だが、一般の騎士が装備している鎧と大差はないように見えた。ただ冑はかぶっておらず、無造作に伸ばした髪の毛が風にもてあそばれてなびいている。
そして何よりも目を引いたのは、その騎士が背中に背負っている大剣だ。鞘に納まっているため刀身は見えないが、アルテンシア軍の騎士で大剣を持っている人間となると、皆心当たりは一人しかいなかった。
「シーヴァ・オズワルド………」
誰かがポツリともらしたその呟きが、十字軍の中に広がっていく。シーヴァの名が囁かれると兵士たちの緊張はさらに高まり、彼らは落ち着かない様子で武器を握りなおしたり唇を湿らせたりした。
城壁の上で弓を構える兵士たちに、攻撃の指示はまだない。いかなシーヴァ・オズワルドとはいえ、ただ一騎のみでこのベルベッド城に攻撃を仕掛けるような無謀な真似はしないだろう、とその城にいる十字軍の誰もが思っていた。
「恐らくは何かしらの接触があるはず」
城門の真上、他の城壁と比べて一段高くなったところからシーヴァが進み出てくるのを見ていた総司令官たるラウスフェルドはそう思っていたし、他の十字軍の参謀たちも同じように考えていた。
彼らが予想していたのは、言葉による接触であったのだろう。戦いの前の宣誓かあるいは勧告か、そのようなものをシーヴァはするのでは、と彼らは考えていた。
両軍の大将同士が戦いに先立って言葉を交わす。そういう儀礼的な手順は、たとえば吟遊詩人が謳う物語の中ではよくある。
教会は形式美を重要視しているがその傾向は十字軍にもあるらしく、ラウスフェルドなどはまるで役者のように胸をそらして気取り、シーヴァの言葉を待っていた。彼にとってはそれが予定調和的に取るべき行動であり、常識的な対応であった。だからこそ敵の大将がただ一騎で前に出てくるという、因縁の怨敵を討ち取る絶好の機会であるにもかかわらず攻撃を命じていないのだ。
しかしシーヴァがした接触のしかたは、彼らが考えていたのよりもはるかに非友好的で、そして非常識だった。彼は背負った大剣を抜くと、その切っ先を空へと向けた。
その様子を、ラウスフェルドを始めとする十字軍の兵士たちは、半ば呆然としながら見つめていた。
「レヴァン、テイン………」
誰かがポツリと呟いた。しかし、あいにくとその認識は古い。シーヴァが今手にしている漆黒の大剣の名は「災いの一枝・改」。魔道具職人オーヴァ・ベルセリウスが作り上げた、「災いの一枝」を超える魔剣である。
漆黒の刀身に印字された黄金の文字が、陽光を浴びて輝いている。その文字が古代文字であることは見ている者全てが理解したが、あいにくとそれを読むことができた人間はいなかった。
――――万騎を凌ぐ。
そこにはそう記されていたのである。それを読むことはできなかったとはいえ、彼らはその意味を間もなく身をもって知ることになる。
漆黒の大剣を掲げたシーヴァは、一瞬だけ不敵に笑うとその魔剣に魔力を喰わせる。すると彼の周囲に風が巻き始め、さらに魔剣の周りに五つの黒い球体が表れて浮かんだ。十字軍が攻撃を仕掛けてくる様子は、まだない。
シーヴァが魔剣に魔力を込めるのを、ラウスフェルドはただ唖然としながら見つめていた。思い描いていた予定調和があっけなく崩れてしまった今、一時的とはいえ彼の思考は停止してしまっている。
今、シーヴァがしていることは見えている。彼が何をしようとしているのかも分る。だがその情報が行動へと繋がらない。シーヴァが放つ威圧感にのまれ、ラウスフェルドはただそこに立って見ていることしかできなかった。
シーヴァは「災いの一枝・改」を通して黒き魔弾へと魔力を注ぎ続ける。城壁の上から矢を射掛けられることも覚悟していたし、そうなったらなったで対処法も考えていたのだが、幸運なことに彼を邪魔するものは誰もいなかった。アルテンシア軍は言うに及ばず、十字軍にもなんら動きは見られない。まさにシーヴァの独壇場だ。
(楽ではあるが、興醒めでもあるな………)
内心でシーヴァはごちる。とはいえ激戦や手ごわい相手を求めるのは、彼のエゴだろう。シーヴァに心酔しているアルテンシア軍の兵士たちでさえ、楽に勝てるならそれが一番いいと思っているに違いない。もちろんシーヴァだって、王あるいは指揮官としてなら同じように考えている。
(それでも心のどこかで強敵を求めるのは、あるいは私の業かも知れぬ………)
ジルド・レイド。「災いの一枝」を砕きシーヴァと互角に戦って見せた、あの男。心踊り魂が吼えた、あの仕合。この先ああいう戦いにめぐり合うことは、果たしてできるのだろうか。
それを望むのは、アルテンシア軍を率いるものとして間違っている。だがこのまま西進を続ければあるいは、とも思ってしまう。
(そのためにも、まずはこの城を落とす)
この遠征が順調に行き問題なく終わるのであれば、それは国王として非常に望ましいことである。しかし仮に強敵が立ち塞がるのであれば、それはシーヴァ個人として嬉しいことだ。
つまりどちらに転んでも良い。そう結論付けると、シーヴァは改めてベルベッド城の城門と城壁に鋭い視線を向けた。黒き魔弾には、すでに十分な量の魔力を喰わせている。あとはこれを叩き込むだけである。
無造作に、シーヴァは漆黒の大剣を振り下ろした。それに呼応して、宙に浮かんでいた五つの黒き魔弾が一斉に打ち出される。
城門に一つ。そしてその左右に二つずつ。着弾した黒き魔弾は封じ込められていた黒き風を撒き散らして爆裂し、その威を存分に発揮した。
アルテンシア軍が攻城兵器を用意してこなかった理由がこれである。いや、彼らは攻城兵器をきちんと用意していた、といったほうがいいだろう。シーヴァ・オズワルドが操る魔道具「災いの一枝・改」。それこそが、アルテンシア軍が用意した最強の攻城兵器だったのである。
その時、ベルベッド城の城壁はまるで巨大な地震に襲われたかのように激震した。激しい振動はそこに立っていた兵士たちを振り落とす。立っていられた兵士は一人もいなかった。
城門の上にいたラウスフェルドもまた、立っていることができずに倒れこんでしまった。振動が収まってから何とか立ち上がり、城壁の様子を見て彼は絶句する。
先ほどの一撃で城門が吹き飛ばされている。木製の二枚扉だけではない。その後ろにあった鉄製の鎧戸までもひしゃげてしまい、もはや敵軍の侵入を防ぐ能力を失っていた。万が一のことを考えて、城門の後ろに待機させていた部隊にも被害が出ているだろう。大きく口を開けた城門は、アルテンシア軍を招いているようにさえ見えた。
被害は城門だけではない。打ち込まれた魔弾によって城壁は左右に二箇所ずつ大きくえぐられた場所ができている。貫通にはまだ至っていないが、さらに何発も魔弾を打ち込まれれば、城壁自体が崩れてしまう。
ラウスフェルドは恐る恐る城壁からその向こう、シーヴァ・オズワルドのほうへ向ける。その視線の先で、シーヴァは再び黒き魔弾を宙に浮かべてそこに魔力を注いでいた。
「あ……、ああ………、あ、ああ、ああ………」
それを見たラウスフェルドは腰を抜かせて尻餅をつくと、そのまま目頭に涙を浮かべて後ずさった。そして大声でこう喚いた。
「こ、殺せ!!は、早くアイツを殺すんだ!!」
しかし彼の命令に従いシーヴァに矢を射掛ける兵士は一人もいなかった。皆、シーヴァの攻撃の、その理不尽な威力を前にして恐怖で身がすくんでいるのである。
そこに再び黒き魔弾が打ち込まれる。先ほどとは違い、一箇所に集中して打ち込まれた魔弾は、ついに城壁の一部を破壊し城砦内部への通り道をこじ開けたのだ。
それを見て頷いたシーヴァは、「災いの一枝・改」を振り上げそして振り下ろす。それを確認したガーベラント公は声を張り上げた。
「全軍突撃!!」
アルテンシア軍の兵士たちは鬨の声をあげてベルベッド城に突進していく。彼らの士気はすでに最高潮に達している。彼らを阻むはずだった城壁はシーヴァに破壊されてもはや用をなさない。
アルテンシア軍が動いたことを確認したシーヴァは、自身もまた「災いの一枝・改」を構えてベルベッド城に向けて駆け出した。黒き風をまとい、十字軍の雑兵を文字通り撥ね飛ばしながら猛進する。さらにその後ろから、破壊された城門や城壁を通ってアルテンシア軍の兵士たちが次々に城内に侵入していく。
そこから先は、もう一方的な展開だった。
一度乱戦になってしまえば、アルテンシア軍の兵士のほうが圧倒的に強い。その上、士気が違った。士気が最高潮に達しているアルテンシア軍に対し、十字軍は城壁とともに戦う意思さえもシーヴァによって砕かれてしまったようだ。
一人、また一人と逃げ惑う十字軍の兵士たちが倒れていく。ゼゼトの巨兵たちは鉈をそのまま巨大化したかのような大剣を振り回して敵兵を真っ二つにしていく。一振りで三人の敵兵を吹き飛ばす者さえいた。返り血を浴びて不敵に笑うそれらの巨兵たちは、味方にとってはまことに心強く、敵にとっては脱糞するほどの恐怖であった。
そもそも十字軍はベルベッド城の堅牢な城壁を頼りにアルテンシア軍と戦うつもりだったのだ。攻撃を防いで防いで防ぎきり、敵が疲弊して撤退するのを待つという戦術だった。それなのに頼りの城壁があっけなく破壊されてしまった。勝利の大前提が崩れ去ってしまっては、戦うための意思を維持することさえ難しい。城壁が崩れた時、十字軍の勝利も一緒に崩れてしまったといえる。
結局、十字軍はそのまま本格的な壊走に移った。兵士たちは無秩序にバラバラの方向へと逃げ去っていく。その先頭に立って逃げていくのは、なんと総司令官たるラウスフェルドだ。まるで死人のように顔を青白くして逃げていく彼が感じているのは、屈辱でも怒りでもなく、ただ圧倒的で暴力的な恐怖だ。
「一秒でも早く、一歩でも遠く、あのシーヴァ・オズワルドから遠ざかりたい」
その原始的な願望が、ラウスフェルドの体を何とか動かしていた。震える膝は鐙の上に彼の体を支えることができず、ラウスフェルドは馬の首にしがみ付いてベルベッド城から遠ざかっていくのであった。