第十話 神話、堕つ⑥
ニーナ・ミザリは読んでいた資料から目を離すと、落ち着かない様子で茂みの向こう側に視線をやった。そこに何かがあるわけではない。ただ、自分の勉強に集中できないだけだ。
ニーナたちがキャンプを張っているのは、かつてパックスの街があったとされる湖のほとりに広がる、森の中に少し入ったところだ。ここからは見えないが湖を挟んだ対岸には神殿があり、今は御霊送りの儀式の真っ最中だろう。
「イストなら、もうすぐ帰ってくるのではないか」
「ええ、そうだと、思うんですけど………」
二人分の紅茶を入れたジルドが、ティーカップをニーナに差し出す。ちなみに煙を出して見つかると悪いので火は使わず、「マグマ石」でお湯を沸かしている。
差し出されたティーカップを受け取ったニーナは、そのまま紅茶を啜る。甘い香りとは裏腹にすっきりとした味わいだ。どうやらニーナの好みに合わせて淹れてくれたらしい。その紅茶を飲んで一つ息をつくと、少し気分が落ち着いた。
「師匠は、本当にやるつもりなんでしょうか………?」
――――パックスの街を、落とそうと思う。
ニーナの師匠であるイスト・ヴァーレは、まるでとびきりの悪戯を思いついた子供のような顔でそう言った。それを聞いたとき、ニーナは思わず悲鳴を上げてしまったものである。
「さて。やるといった以上やろうとするだろうな、イストならば」
どこか他人事のような口調でジルドは言う。ニーナは思わず非難の目を向けるが、ジルドは肩をすくめて苦笑するだけだ。とはいえジルドを責めてもどうにもならない。パックスの街を落とそうとしているのは、イストであってジルドではないのだから。
それはニーナも分っているから、ジルドに向けられた視線はすぐに力を失い彼女はため息をついた。とはいえ、ニーナが今回の計画に反対なのは変わらない。
パックスの街が落ちればどうなるか、ニーナに詳細な予測は立てられない。だけど、きっと大きな混乱が起こる。そして混乱は戦禍に直結し、沢山の人が死ぬだろう。そしてニーナなどよりよほど世界を知っているイストは、そういったことを十全承知しているに違いない。
「………お遊びにしては、度が過ぎますよ………」
その上、ニーナの見るところイストに政治的、宗教的、もしくは哲学的な動機は一切ない。イストがパックスの街を落とそうと思ったのは「できるから」であり、そして「面白そうだから」である。
もちろん、何か深い理由があれば賛成する、ということはない。どんな理由があるにせよ、多くの人が苦しむようなことはするべきではない、とニーナは思っている。しかしイストにとってはそんなことは完全に埒外だし、ジルドも積極的に反対する様子はない。そんな二人に挟まれて、ニーナはまるで自分が間違っているかのような錯覚に陥る。
「気に入らないなら帰れ」
言い募るニーナに対して、イストはそう言い放った。修行を終えない中途半端なこの状態で家に帰っても、実家の工房「ドワーフの穴倉」を継いで魔道具職人として活躍することなどできないだろう。
それに、ニーナが興味を持っている義手や義足の研究もまだまだ全然形になっていない。歴代のアバサ・ロットの一人、セシリアナ・ロックウェルが残した魔道人形の資料は難解を極め、おそらくはまだ一割も理解しきれていない。
またセシリアナが作った魔道人形はほとんどが動物を模したものだったが、ニーナが作ろうとしていうるのは人間の義手や義足である。セシリアナとまったく同じものを作ればいいわけではなく、彼女が遺したものをもとに独自の魔道具を設計することになる。それにどれだけの時間がかかるのか、現時点では予想もつかない。
つまりニーナが自分の夢をかなえるには、今はまだイストの弟子でいる必要がある。苦渋の思いでその場は引き下がったのだが、なんだか自分の都合を優先してしまったようで心苦しい。その日以来、ニーナはまるで悪魔と契約した咎人のような気分を味わい続けているのである。
(まあ、師匠は悪魔みたいな人ですけど………)
そんなふうに思わないとやってられないのである。
「ほい、ただいまっと」
そんな軽い言葉とともに、若い男がキャンプにやってきて適当に腰を下ろした。ニーナの師匠であるイスト・ヴァーレ、パックスの街を落とそうとしている張本人である。イストは未だに苦い顔をしているニーナのことを、恐らくは意図的に無視してジルドに紅茶をねだった。
「それで、どうだった?」
「ん、ちゃんと入れた。やっぱり“根源の摂理”はすごいよ」
本来、パックスの街を収めている亜空間には鍵、つまり「世界樹の種」がなければ入ることはできない。しかしイストは“根源の摂理”を利用してその亜空間のパラメータともいうべきものを解析したのである。
「もともと、ロロイヤが書いた『空間構築論』は空間のあり方について記述するためのもの。解析自体は簡単だったよ」
そしてその結果をもとに、亜空間に干渉することができる術式を組み、亜空間の側面に対していわば抜け道を作ることでその内部へと侵入したのである。
「その、『空間構築論』というのは何だ?」
「ロロイヤが書いた空間系理論をまとめた論文らしいよ。アッチで神子サマが教えてくれた」
イストはおどける様にしてそう答えた。実際のところ、マリアとララ・ルーの話を盗み聞きしただけなのだが、そのあたりのことをイストは気にしない。
「中に入れるか確かめるだけで良かったんだけどな。思わぬ収穫だよ」
やっぱりこの日にして良かったな、とイストは笑う。彼が御霊送りの儀式が行われるこの日にこの亜空間に侵入したのは、狙ってのことである。もっとも、それらしい理由などない。それこそ「面白そう」だったからだ。
御霊送りの儀式を見守り神界の門の向こう側を夢見る人々を尻目に、天上の園へと踏み込みその真実を暴く。イストの好きそうなお遊びだ。それに加えて秘密を守ろうとしてきた教会を出し抜くという楽しみもある。
「ま、なんにせよこれで御霊送りの儀式に種も仕掛けもあることが分った」
これでパックスの街を落とせる、とイストは壮絶な笑みを浮かべた。もしも御霊送りの神話すべて事実で、儀式が本当に現世に残された最後の奇跡だとすれば、ただの人間であるイストには手を出す術がない。
しかし幸か不幸か、御霊送りの儀式は魔道具という種と、亜空間という仕掛けを用いた一種のトリックであった。それがどれだけ大事業であろうともそれが人間の仕事である以上、ただの人間であるイストにも手が出せる。
「核になっているのは『世界樹の種』。あれを破壊すれば亜空間は消失し街は落ちる」
メドはついた。あとは実行に移すだけ。
「………本当に、やるんですか?」
イストの壮絶な笑みに若干押されながら、ニーナは尋ねた。もしかしたら御霊送りは本当に奇跡で、イストには手の出せないものかもしれない。そんな淡い期待も抱いていたのだが、どうやら彼女の願いどおりにはならなかったようだ。
「やる」
イストの答えは短い。それだけに、誰に何を言われようとも止めるつもりはないことがひしひしと伝わってくる。しかしそれでもニーナは言わずにはいられなかった。
「パックスの街を落とせば、きっとたくさんの人が苦しむことになります!それぐらいのこと、師匠のほうが良く分ってるでしょう!?」
「だから?」
「だから?って………!きっと混乱が起きます!戦争だって起こるかもしれない。そうなったらたくさんの人が死ぬんですよ!?」
確かにニーナだって、教会がひた隠してきた御霊送りの真実に憤りを覚えないわけではない。しかしだからといって多くに人が苦しみ、ましてや死ぬかもしれないと分っているのに、その秘密を暴くことが正しいとはどうしても思えない。
「正しいことである必要はない」
「………っ!」
飄々とはぐらかしていたイストが、突然鋭い視線をニーナに向ける。その視線に押されて、なおも言い募ろうとしていたニーナは言葉を飲み込まなければならなかった。ニーナが黙ったのを確認し、「いいか?」と前置きしてからイストは話し始める。
「秘密のまま終わる秘密はない」
秘密というものはいつか必ず暴かれる。暴かれなかったとすれば、それは秘めておく必要さえもなかったものである。
だから御霊送りの秘密も、いずれかならず暴かれることになる。今イストによって暴かれるのか、それとも百年後に別の要因によって暴かれるのか。それはつまるところ早いか遅いかの違いでしかない。
「………だから今やるっていうんですか?」
「それに、だ」
ニーナの質問には直接答えず、イストは言葉を続ける。
もし教会が最盛期の力を保持しているのであれば、御霊送りの秘密を百年の単位で隠すことができるかもしれない。しかし今の教会は二度の十字軍遠征失敗によって大きく力を失い、衰退とその先の滅亡に向かって転がり落ちている真っ最中である。しかもその坂道を再び登るだけの体力は、もはや残されてはいない。
教会の衰退は、今までその勢力下にあった神聖四国を始めとする国々にも影響を及ぼすだろう。教会の威光によってひとまずまとまっていたその勢力圏は分裂し、そして再編という名の戦争が行われることになる。
その戦争に、西のアルテンシア統一王国や東のアルジャーク帝国が関与してくるかは分らない。しかしいっそ、そういった強大な国が関与してくれたほうが、戦争は早期に終結できるかもしれない。教会の影響下にあった国々は二度の遠征失敗によって国力が弱まっており、そのため決定力を欠いた泥沼の戦争が延々と続く可能性だってあるのだ。
「つまりこのまま何もしなくても、混乱と戦争はほぼ確定済みってわけだ」
それだけではない。教会は己の衰退をなんとか食い止めるようとするだろう。しかし国家ではない、自前の生産能力を持たない教会はやれることに限界がある。教義の厳格化にしろ寄付集めにしろ、やることは極端で過剰になる。
「全財産を教会に寄付せよ」
とか、
「自身を奴隷として教会に捧げよ」
とか、とんでもないことを言い出しそうである。
しかもなお悪いことに、教会が言い出せば従わざるを得ない信者もいるだろう。教会は自分の衰退と滅亡に多くの信者を巻き込むことになる。
教会が衰退の果てに崩壊し、神子の後継者がいなくなれば、亜空間は魔力の供給を受けることができなくなり、結果中に収められているパックスの街は落ちる。行き着く結果が同じならば、早い段階で教会を潰しておいたほうが、結果として苦しむ人の数は少なくて済む。
「………それが、パックスの街を落とす理由ですか………?」
うわべだけ見れば、イストの言葉は正しそうにも聞こえる。しかし、ニーナはいいようのない不快感を覚えていた。まるで百人を殺した殺人鬼から「一万人死ぬよりはいいだろう」と言われたかのような、理不尽でやりどころのない不快感だ。
しかし顔をしかめるニーナに対して、イストは肩をすくめて笑った。
「そういう考え方もあるってこと。オレ個人に限って言えば『面白そうだから』って言ったろ?」
「師匠!」
「嫌なら帰れ。そういったはずだ」
「………!」
睨み付けたわけでもなく、怒鳴りつけて脅したわけでもない。ただいつもの調子でそう言ってイストはニーナを黙らせた。
「それで、いつ実行に移すつもりだ?」
俯いてしまったニーナを横目に見て苦笑しながら、ジルドはイストに尋ねた。しかしそれに対するイストの答えは、少し意外なものだった。
「ん~、しばらくは様子見、かな………」
「そうなのか?すぐに動くものと思っていたが………」
「多分だけど、これから教会が大きな動きに出ると思うから」
というより、大きな動きに出るなら御霊送りの儀式が終わったばかりのこのタイミングしかない、というべきだろう。儀式が行われたことで、教会は一時的にとはいえ力を盛り返している。露骨な言い方をすれば、懐に入り込む寄付の額が多くなっている。
しかしそれはあくまでも一時的な増加に過ぎない。一ヶ月も経てば寄付の額、つまり収入は儀式を行う前の水準に逆戻りするだろう。そして、これがもっとも重要なことなのだが、この先収入が減ることはあっても増えることはない。
だからこそ、大規模な行動を起こすとすれば今しかないのだ。資金的にも少々の余裕があり、さらには御霊送りという“奇跡の再現”を見せ付けることで精神的優位に立っている今この時しか、教会が歴史の主導権を握ることはできない。
「で、だ。“大規模な行動”なんて勿体ぶった言い方してみたが、教会にできるソレなんて一つしかない」
「………第三次十字軍遠征、か」
標的は言うまでもなくアルテンシア統一王国であろう。二度も煮え湯を飲まされた因縁の怨敵を今度こそ屈服させることができれば、確かに教会の権威は回復しその威光はあまねく大陸全土に及ぶかもしれない。
ちなみに統一王国に何か仕掛けるのであれば、経済封鎖、つまり半島に対してモノと金の出入りを禁じるという手もあるが、これは下策だろう。二度の遠征失敗により大陸中央部の各国は財政が悪化している。経済封鎖などすれば、相手が降参する前に自分たちが窒息してしまう。
それに最近では、交易の分野でもアルジャーク帝国が急速に勢力を拡大している。下手に教会勢力が半島から手を引けば、アルジャークが喜び勇んでその隙間に入ってくるだろう。それは統一王国のみならず、どのような相手の場合においても同じことが言える。
それに経済封鎖はいかにも地味で、派手好みの教会の趣味には合わないだろう。趣味に合わず実利もないとなれば、やはりやることは第三次十字軍遠征しかない。
「勝てるのか?」
「勝てるわけがない」
イストはそう言い切った。そしてジルドのほうもその答えに異論はないらしい。寄付金が増えたと言っても、その出所はこれまで十字軍遠征に直接関わってこなかった東方の国々とそこに住む信者たちだ。
つまり大陸中央部の国々の逼迫した状況は何も変わっていない。神聖四国を中心とする教会勢力の国々は、第一次及び第二次遠征の失敗による国力の低下から未だに回復できてはいないのだ。
二度の遠征にかかった戦費のかげで国庫は空だ。備蓄していた食糧や物資も遠征のために使い失われた。そのため国内ではモノが不足し、物価が上昇しているとも聞く。
なによりも人的被害とそれに伴う生産力の低下がひどい。戦争にかり出されるのは働き盛りの男たちで、彼らがいなくなればありとあらゆる生産活動が滞る。しかも失われたのが人材である以上それは一朝一夕で回復できるものではなく、その傷が完全に癒えるのは、さて五年先か十年先か。
また人的被害は、戦力の低下にも直結する。各国は二度の遠征失敗により多くの精鋭を失っている。仮に同じ数を揃えられたとしても、戦力は決して同じにはならない。訓練の足りない新兵や体力のない老兵では、精鋭と同じ働きはできないのだ。
そもそも、勝率がもっとも高かったのは第一次遠征なのだ。腐ったアルテンシア同盟がいまだに幅を利かせており、それに対抗するシーヴァと半島を二分していた。ゼーデンブルグという大要塞を易々と突破できた十字軍は、歴史上稀に見る戦略的優位にいたのである。
しかし彼らがしようとしていたのは戦争ではなく、ただの狩りであった。より多くのものを奪い、より多くの美食を喰らい、そしてより多くの女を犯す。彼らの頭の中にはソレしかなかったのである。征服後に半島を支配するのだという意識すらあったかどうか疑わしい。仮に支配したとしても、そこで行われるのは一方的な弾圧と差別、そして搾取であったろう。
まあ仮定の話はいい。十字軍はその全員が涎を垂らして獲物にかぶりつくことしか考えていなかったわけだが、その結果は周知の通りだ。彼らはシーヴァに敗北した。軍を三つに分けた十字軍はシーヴァと三度戦い、そして三度叩きのめされた。遠征軍の三分の二以上が帰らず、二十万人近い戦死者を出すという歴史的大敗北を喫したのである。
この敗北により、教会勢力は多くの精鋭を失い戦力を大幅に低下させることになる。第二次遠征は、数だけはそろえたがその中身は第一次遠征に遠く及ばない。その上アルテンシア軍がゼーデンブルグ要塞に籠って戦っていては勝てるはずもない。ならば第三次遠征など、言わずもがなである。
「まあ、十字軍が勝とうが負けようが、お主にしてみればどちらでもいいのだろう、イスト?」
「まあね」
イストとしては、おそらくアルテンシア軍が勝つだろうと思っている。しかし万が一のことが起きて十字軍が勝ってしまっても、それはそれでいい。イストが願っているのは歴史が大きく動くこと、それだけである。
「世紀の一大イベントだ。それに相応しい舞台があるとは思わないか?」
悪戯を企む子供のようにイストは笑う。教会が遠征に失敗して青息吐息になっているところでパックスの街を落として止めをさすのもいい。あるいは戦いが始まる前にやって、十字軍が空中分解する様子を眺めるのも面白そうだ。ありえないとは思うが、三度目の正直でようやく勝利をつかみ狂喜乱舞しているところで街を落として、すべてを台無しにしてやるもの楽しそうだ。
イストのたくらみに教会が気づいていない以上、彼はイベントを起こすタイミングを自由に決めることができる。しかし、歴史がイストに用意した舞台は、この時点で彼が思いもよらないようなものであった。