第十話 神話、堕つ①
――――ゴホッゴホッゴホッ!!
激しい咳が収まると、口の中に鉄の味が広がった。口元を押さえていた手のひらを見ると、赤いものがベットリとついている。
「………」
マリア・クライン、教会の象徴たる神子はそれを無表情に眺めると、その血を拭うこともせず左手の袖をまくる。その腕につけた腕輪、その腕輪にはめ込まれた「世界樹の種」が赤い光を放っている。
「そう………、もう、時間切れなのね………」
暗い部屋の中でそう呟き、マリアは自嘲気味に小さく笑った。文字通り「時間切れ」だ。血がつながっていないとはいえ可愛い愛娘であるララ・ルーには、もう少し年相応の娘らしい生活をさせてやりたかったが、マリアに残された時間はもはやそう長くはない。そして彼女がいなくなれば、ララ・ルーが次の神子にならねばならない。
「結局、私はいい母親にはなれなかった………」
自分の我侭が原因で実の娘であるオリヴィアを失い、そして今またもう一人の娘であるララ・ルーにあの救いようのない事実を負わせようとしている。
マリアは目を閉じて苦悶した。しかしどれだけ苦しかろうとも時は待ってはくれない。差し迫った時間はマリアに決断を要求し、そして彼女がもつ選択肢は一つしかない。選ばないという選択肢は、彼女にはないのだ。
「ひどい女ですね、私は………」
全ての苦悩と後悔を自らのうちに納める。手と口の端から流れた血を手拭で拭い、心に鉄の鎧を着込んで平静の表情をつくってからマリアは口を開いた。
「ララ・ルー、いますか?」
「お呼びになりましたか?お母様」
声をかけると、隣の部屋で待機していたララ・ルーがすぐに顔を出した。ララ・ルーは一週間ほど前から体調を崩しているマリアの看護を精力的に行ってくれているのだが、その優しささえも今の彼女には痛々しい。自分に看病される価値などないことは、マリア自身が一番良く知っているのだから。
だがその一切の感情を封じてマリアは微笑んだ。そう、微笑まなければならない。なぜならこれは喜ばしいことなのだから。
「枢密院に召集をかけてください」
そういうと、ララ・ルーは少し不思議そうな顔をした。形式的には確かに神子が教会の最高権力者であり、枢密院はその補弼機関である。だから神子であるマリアが枢密院に召集を命じても可笑しいところはない。
しかし、マリアを含めここ五百年程の間神子たちが枢密院の傀儡となっていることは周知の事実である。実際、マリアも枢密院に召集を命じるのはこれが初めてで、そして最後になるであろう。
「『世界樹の種』が赤い光を放ちました」
そういってからマリアは左腕をまくり、腕輪とそこにはめ込まれた「世界樹の種」をララ・ルーに見せる。それを見たララ・ルーは歓喜と驚きの表情を浮かべた。
「おめでとうございます、お母様!」
目をつぶって胸の前で手を組み「神々よ、感謝します」と祈りを捧げる愛娘を、マリアは哀れむように見つめる。神子たる彼女は、しかし皮肉なことにこの世に神々などいないことを誰よりも良く知っていた。
ララ・ルーが目を開けるよりはやく、マリアは哀れみの眼差しを消した。そして内心の全てを押し殺し柔らかく微笑む。
「神界の門を開き、御霊送りの儀式を行いましょう」
**********
御霊送りの儀式が行われるというニュースは、教会にとって久しぶりの明るい話題であった。なにしろ第一次十字軍遠征に続き、第二次遠征までも失敗したのである。このまま教会は落ちぶれていくのではないだろうか。あるいはシーヴァ・オズワルド率いる異教徒どもに滅ぼされてしまうのではないか。そんな暗い未来予想図が展開されていたところへ、御霊送りという現世に残された最後の奇跡が行われることになったのである。
「神々はまだ教会を、我らを見放してはいなかった!」
そんな歓喜の声が、アナトテ山にある教会の本部たる神殿のあちこちで聞かれた。神殿内に立ち込めていた重く暗い雰囲気を払拭するべく、人々は儀式の準備に邁進した。
さて、一方の神子である。
御霊送りの儀式を執り行うことを宣言できるのは神子だけであるが、その準備自体は枢密院が中心になって行なうため神子の仕事はほとんどない。さして煩雑でもない手順の確認を済ませてしまうと、マリアとしては本格的にやることがない。彼女の体調は依然として優れず、そうなると自然とベッドの上で過ごすことが多くなった。
しかし、マリアとしては逆にそれがありがたかった。体調が優れなければ、それは人を遠ざける理由になる。儀式が行われるまでの間の最後の時間を、愛娘と親子水入らずで過ごすには都合がよかった。
ララ・ルーはかいがいしくマリアの世話を焼いた。こうしていると、昔自分が熱を出して寝込んだときにマリアが看病してくれたことを思い出す。
(立場が逆になってしまいました………)
そう思うと、知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。
「どうかしましたか、ララ・ルー?」
「いえ、昔、よくこうしてお母様に看病してもらったことを思い出しまして」
そういうと、マリアも当時を思い出したのか口元に手を当てて上品に笑った。ここ最近は体調不良で臥せっているとはいえ、今日は調子がいいようだ。
「小さいときは、あなたは体が弱くてしょっちゅう熱を出していたわね………。その上、甘えんぼさんだったからここぞとばかりに甘えて。『お母様、今日は一緒におねんねして?』って」
「お、お母様!!」
「お風呂が嫌いで、服も着ないで神殿中を逃げ回って、挙句に迷子になって大泣きしたこともあったわね。そんなあなたが今ではのぼせるまでお風呂に入っているんだから。いいかげんにしなきゃダメよ?」
「や、止めてください!昔のことですよぉ~」
ララ・ルーが顔を真っ赤にして慌てた様子で声を上げる。手をわたわたと振ってしどろもどろになりながら必死に弁解する姿がまた可愛らしい。元々ララ・ルーは童顔だったが、そうしているとさらに幼く見える。マリアが笑うとララ・ルーはむくれてしまい、ツンと顔をそむけてリンゴの皮をむき始めた。こうやって娘をからかって楽しむのは母親の特権だろう。
(親馬鹿ですね、私は………)
そっと微笑を漏らす。愛娘のむくれた様子さえも可愛らしい。そのことにある種誇りさえ感じてしまうのだから重傷だろう。それを自覚しつつも、マリアは今更治そうとは思わなかった。
「ララ・ルー………」
いまだむくれた様子の愛娘を、マリアは後ろから優しく抱きしめた。ララ・ルーがそれに気づいてナイフを扱う手を止めると、マリアはさらに強く抱きしめた。
「愛しているわ、ララ。たとえこの世界のすべてが偽りの虚構だとしても、それだけは本当よ」
ララ・ルーの顔がだんだんと緩んでいく。本人は必死に不機嫌なすまし顔を作ろうとしているのだが、表情筋は彼女の意思よりも感情のほうを優先しているようだ。緩んだ愛娘の頬を、マリアはプニプニと突く。
「愛してるわ。ホントの本当に」
ララ・ルーの顔を胸にうずめるようにして抱きしめ、マリアはもう一度ささやいた。胸に感じる温かさが愛おしい。
「お母様………?」
知らず知らずのうちにマリアは涙を流していた。目元を指で拭ってみても、涙は後から後から流れ出てきて止まることがない。
「泣かないでください、お母様。わたしはお母様のような立派な神子になって、きっと神界の門をくぐって会いに行きますから」
私は立派な神子ではなかった。マリアはそう言おうとしたが、涙で喉がつまり声にはならなかった。また、仕方がないこととはいえ、ララ・ルーの勘違いが痛々しい。
ララ・ルーは神界の門をくぐったマリアが、その先で幸せに暮らすのだと信じて疑っていない。しかしマリアはといえば、それが今生の別れになることを知っていた。そう、かつて彼女が恋人であった先代の神子、ヨハネスとの別れを迎えたように。
「待っているわ、神界の門の向こう側で」
そう、言いたかった。だがいえなかった。待っていることなどできない。だから待っているといえば嘘になってしまう。永遠に暴かれないならばそれでもいいが、一度神界の門をくぐってしまえばその嘘は簡単にバレてしまう。そしてなによりも、マリアはこれ以上ララ・ルーに嘘をつきたくなかった。
「ありがとう。ありがとう、ララ・ルー………」
結局、涙で擦れた声でそう言うことしかできなかった。
**********
「御霊送りの儀式、ですか………」
教会が御霊送りの儀式を執り行うという知らせは、東の大国アルジャーク帝国にも届いている。そして今、その皇帝たるクロノワ・アルジャークの手元には、教会から儀式への正式な招待状が届けられていた。
「しかもまさかこのタイミングで、とは………」
「ええ、もし神々がいるとすれば、事態を引っ掻き回して遊んでいるようにしか思えませんな」
そう言葉を交わしたクロノワとラシアートは揃って苦笑を漏らした。延命のためだとすれば、少しばかり手を打つのが遅い。それが二人の正直な感想だった。
二度のアルテンシア半島への十字軍遠征とその大敗によって、教会と神聖四国、そしてその影響下にある国々は危機的な水準で疲弊している。
国家であれば、これから先内政に力を注げば立ち直ることができるかもしれない。ただし、そのためには長い時間と大幅な改革が必要であり、成功すれば歴史に残る偉大な事業になるだろう。一方で失敗すればその国は崩壊して国史に幕を下ろすか、あるいは没落して失敗国家となるか。いずれにしても明るい未来は望めまい。
ただ国家という組織ならば、まだ頑張ってみることはできる。しかし教会という宗教組織は崩壊への下り坂を転がり始めている、というのがクロノワの見方だ。そして教会には、その坂を登るだけの体力は残されていないだろう。
特に第二次遠征のとき、シャトワールやブリュッゼといった小国に対して兵糧などの物資を供出させたのが、しかも教会の権威を振りかざして強制的にそうしたのが致命的だ。そういった負担は国を支える平民たち、つまり教会の信者たちの負担増に直結する。そしてそれは教会への反感につながり、結果として教会は熱心な信者を失い自身の力を弱めてしまったのだ。
ならばだらだらと延命に権力と資金をつぎ込むよりも、さっさと崩壊なり解体なりしてしまったほうがいい。そしてシーヴァ・オズワルドという英雄が率いるアルテンシア統一王国が行動を起こすのであれば、それは比較的短時間のうちに行われるであろう、とクロノワは見ていた。
「なんにせよ関わる価値なし」
それがクロノワの教会に対する基本姿勢であるといっていい。いや、価値なしどころか有害ですらあると彼は思っていた。
それなのに、ここへ来て御霊送りの儀式である。
御霊送りの儀式は、教会の主張するところによれば、現世に残された最後の奇跡である。その儀式が執り行われれば、確かに教会の光輝は増し信者と寄付の額は増えるかもしれない。しかし、儀式が性質的に定期的に行えるものではない以上、それは一時的な延命に過ぎない。
しかもその延命さえも遅きに逸していると言わざるを得ない。その儀式を、例えば第一次遠征が失敗した時点で行うことができ、さらに第二次遠征をしなかったならば、教会は組織としてこの先百年くらいは生き延びることができたかもしれない。
だが実際は、第二次遠征が失敗した後のこのタイミングである。衰退した教会再興の夢を人々に見させてその奮闘を楽しむかのような、そんな神々の趣味の悪い悪戯にも思えてしまう。
「まあ、神々の趣味の悪さは今に始まったことではないので横においておきましょう。目下の問題はこの招待状ですぞ、陛下」
「そうですね………」
簡単に言ってしまえば、教会とどの程度のお付き合いをするかという問題である。クロノワとしては先の見えた教会と、あまり深くは付き合いたくない。しかしだからと言って招待を安易に無視できない程度の力は、落ち目とはいえ今の教会にもある。ならば敬しはするが遠ざけておきたいところである。
「まず確認しておきますが、陛下ご自身が行かれるつもりは………」
「ありませんよ。当然じゃないですか」
皇帝であるクロノワが自ら儀式に出席するということは、それはアルジャーク帝国が教会に対して最大限友好的な姿勢をとることを意味している。しかしながらクロノワにその気はない。
「では私が行きましょうか」
「今、ラシアートに抜けられると内政が滞ります」
ラシアートは宰相位にありその上国務、外務、軍務という三大臣の職責を兼務している。無論、彼の下にはストラトスやフィリオ、アーバルクをはじめとする有能な若手が揃っている。しかし権限はラシアートに集中しているわけで、彼がいなくなれば帝国の中枢が機能不全を起こすことは容易に想像できた。
「………三大臣だけでも、早く顔ぶれを決めなければなりませんな」
ラシアートは少し苦い表情を見せてそう呟いた。たった一人の人間がいなくなっただけで機能不全を起こす組織はやはり健全とはいえない。今の状況は仕方がないこととはいえ、可能な限り早期に解消すべき、とラシアートは考えていた。
「そちらは貴方にお任せします、ラシアート」
それはともかくとして、今は誰を御霊送りの儀式に出席させるか、である。教会に反感を抱かせることなく、さりとて必要以上に深い仲にならずに済むような、そんな人選をしなければならない。
しばらく話し合った結果、クロノワとラシアートはストラトス・シュメイルを大使として儀式に出席させることとした。
ストラトスは早いうちから頭角を現し、アルジャークの大使としてモントルムに派遣されるなど外交の第一線で活躍してきた。その分野においては同僚の中でも頭一つ抜けている、というのがラシアートの評価である。将来的には外務大臣の職責に耐えうる人材としてラシアートも期待していた。
「今からですと、オムージュ領からラキサニアとサンタ・シチリアナを通ってアナトテ山に行くことになりますね」
「それが最短ルートですから、そうなるでしょうな」
御霊送りの儀式の準備はすでに始まっている。儀式に遅れたなどという間抜けなことにならないためにも、移動は最短ルートを行くのがベストであろう。
「どうかしましたか?」
「いえ、この機会ですからポルトールとオルレアンの視察もしてきてもらおうかと思いまして」
その二カ国は、最近アルジャークと同盟や通商条約を結んだ友好国である。両国はクロノワが力を入れる海上貿易の分野でも重要なパートナーであり、その関係を発展させより強固なものにするためにも、早いうちに使節団なり視察団なりだそうと思っていたのである。
「それは儀式に出席した帰りでもいいでしょう」
行きだと南に大回りをすることになるし、なによりも儀式が気になって十分な時間が取れない。ラシアートがそういうとクロノワも同意した。
「具体的な予定と計画はこちらで立てておきますので、陛下はストラトスに持っていかせる教会への親書を用意しておいてください」
「分りました。せいぜい美辞麗句を駆使して中身のない文章を仕立てておきましょう」
アルジャーク帝国とクロノワに教会と深く関わるつもりはない。しかし神聖四国をはじめとする、十字軍遠征に参加した国々はそうはいくまい。恐らくは国威発揚をかねて今回の儀式に臨んでくる。その温度差が、そのままそれぞれの国の置かれた状況を暗示しているようにクロノワには思えた。