第九話 硝子の島 エピローグ
その夜、珍しく翡翠は真夜中に目が覚めた。寝なおそうと思い目をつぶるが、妙に頭がさえて眠ることができない。諦めて目を開けると、月明かりのせいか部屋の中は青白い光に照らされて結構明るい。
「綺麗な月………」
部屋の窓から空を眺めると、見事な満月が浮かんでいる。かすかに聞こえる虫や風の音が、この夜に優しさを添えているように感じた。
「水でも飲もう………」
寝台からおり、台所へ向かう。水瓶から柄杓で水をすくい飲むと、ほてった体が少し冷えたように感じ心地よい。
ヒスイがそのまま部屋に戻り今度こそ寝なおそうかと思った矢先、彼女はふと庭に面した縁側に人の気配を感じた。
(こんな時間に………。誰かしら?)
そっと、縁側をのぞく。そこにいたのは、意外にもイストだった。柱にもたれかかってぼんやりと庭を眺めながら、時々思い出したようにお酒を飲んでいる。
「どうしたの?こんな時間に」
声をかけると、イストはこちらを向き苦笑した。いや、本人は苦笑しているつもりなのだろうが、ヒスイにはそうは見えなかった。
(まるで、なにか困ったような、ううん、泣くのを堪えているような………)
そんな顔だ、とヒスイは思った。イストがこんな顔をしているところを見るのは、はじめてだった。
「なにか、あったの?」
思わず、そう聞く。聞いてから「しまった」と思った。誰にだって触れられたくない、踏み込まれたくない場所がある。そこに、無遠慮に手を突っ込んでしまった気がした。謝ろうかとも思ったが、そこでイストの表情が少し変わっていることに気づく。
「イスト?」
「ああ、悪い。少し嫌な夢を見てな………」
酔っているのだろうが、イストの言葉は明瞭だった。それが逆に、酔いきれていないのだとヒスイに教える。
「………嫌な、夢?」
「そ。オレが孤児院の出身で、そこが盗賊に襲われたってことは話したよな………?」
確かに聞いた。あれは確か合成石を買いに、宝石店から紹介してもらった工房を目指していたときのことだ。
「その時の夢をな、何度も見るんだ………」
もう十年以上の付き合いだよ、とイストは笑った。いや、本人は笑ったつもりなのだろうが、うまく笑えてはいない。本当に、泣くのを堪えているようにしか見えなかった。
ヒスイが静かに腰を下ろすと、イストはぽつぽつと話し始めた。
「夢自体は、別にいいんだ」
夢を見ることは、自分の思い通りにはならない。確かに見ていい気はしないが、自分ではどうしようないことで悩んでいても、それこそ仕方がない。淡々とイストはそう語った。それが逆に痛々しくヒスイには感じられた。
「たださ、見た後にどうしようないこと考えて、そんで鬱になって酒に逃げて………」
そこまで言うとイストはヒスイから視線を逸らし、空になっていたお猪口にシラクサ酒を注ぐ。そしてそれを口元に運び、一気に飲み干した。その姿は、妙に疲れ果てているように感じた。
「なんとか、なんないもんかねぇ………」
どうしようもないではないか。イストの話を聞いて、ヒスイはまずそう思った。嫌な悪夢を見たのだ。後悔があって当然だ。悔いがあって当然だ。どうしようもないことを、どうにかできなかったのかと考えるのだって当然ではないか。気分が沈んでいるのだから鬱になったって仕方がないし、そんな気分のときにお酒が飲みたくなるのも当たり前だ。
「………仕方ないものは、仕方ないよ」
考えるより先に、言葉が出ていた。
どうしようないこと考えるのも、鬱になるのもお酒に逃げちゃうのも、みんな仕方がない。無責任で偉そうな言葉だと思いながら、しかしそれでも言葉は自然と湧き上がってくる。
「だからね。できること、しましょ?」
「………例えば?」
そういわれ、一瞬言葉に詰まった。自分はイストにどうして欲しいのか。そしてなにをしてあげたいのか。
「例えば………、そう、お月見とか」
そんな言葉が出てきたとき、流石に自分を疑った。なにを言っているのだと自分を罵倒したくなる。
ヒスイは内心で自己嫌悪にさいなまれていたが、イストのほうを見ると彼は突拍子もない彼女に意見に驚いたのか目を丸くしている。
(ああ、そうか。イストはきっと………)
イストはきっと、こんなことを考えたことはなかったのだろう。悪夢を見るたびに鬱になり酒に逃げる自分を嫌悪し、それを乗り越えられない自分をあざ笑ってきたのだろう。
(だけどそれは………)
だけどそれは、仕方のないことだとヒスイは思う。悪夢に苦しんだことのない自分が偉そうなことを言う権利はないのかもしれないが、それでもヒスイはイストにこう言いたかった。
「悪夢を乗り越えられなくたっていいじゃない」
そう、言いたかったのだ。
「だって、こんなに月が綺麗なのよ?」
ヒスイがそういうと、イストは笑った。額に手を当て、喉の奥を鳴らすようにして笑った。希薄だった彼の存在がだんだんと現実感を増してくる。それが嬉しくて、ヒスイも笑った。
「新月だったらどうすんだよ?」
「あら新月だっていいじゃない。きっと星が綺麗よ」
自信たっぷりにそういう。虚勢で半ばヤケクソ気味だが、その言葉に嘘はない。ヒスイの言葉にイストはまた笑った。
「………一杯、付き合ってくれないか?」
ひとしきり笑い終えると、イストは空になったお猪口をヒスイに差し出した。彼女がそれを受け取ると、イストはそこになみなみとシラクサ酒を注ぐ。お猪口を慎ましく両手で持つと、ヒスイは一口でそのお酒を飲み干した。
「お注ぎしますね」
空になったお猪口をイストに返し、今度は彼にお酒を注ぐ。イストもまた、それを一口で飲み干した。
「………美味いなぁ」
イストはしみじみとそういった。先ほどまでの疲れ果てた感じはもうしない。
「美人に注いでもらうと美味しいでしょ?」
「ああ、まったくだ」
言葉でじゃれあう。それからイストは空に視線を移し、「いい夜だ」とポツリと呟いた。それを聞いてから、ヒスイは静かに立ち上がる。たしか縁側の隣の部屋に胡弓が置いてあったはずだ。
月を眺め続けているイストの隣で、ゆっくりと胡弓を奏でる。いつもよりも朗々と。いつもよりも丁寧に。そして、いつもよりも優しく。
「いい夜だ、本当に」
イストのその言葉が嬉しかった。
**********
ジルドが商船団の護衛の仕事を終え大陸から帰ってきたのは、年が明けて二月になってからのことだった。帰ってきたジルドから大陸の様子、つまり教会勢力の行ったアルテンシア半島への第二次十字軍遠征とその結末について聞いたイストは、シラクサを離れて大陸へ帰ることに決めた。
「“四つの法”の解析も一通り形になった。もうシラクサでやるべきことはないな」
だから大陸へ戻る、とイストは言う。
(帰る………。イストが、大陸に帰っちゃう………)
それは決まっていたことのはずだった。もとよりイストは旅から旅への根無し草。彼にとってシラクサは旅の途中で訪れた一地方に過ぎない。居心地がよかったのとやろうと思っていたことがあったため長居したが、ずっとシラクサに居続けようという気持ちはもともとイストの中にはない。
そんなことはヒスイにも初めから分っていた。分っていたはずなのに、いきなり別れを目の前に突きつけられると心に衝撃が走った。そして自分が動揺しているということを自覚すると、また動揺した。
思えば、彼らが家に来てから色々なことがあった。
一番影響を受けたのは、本人は否定するだろうけれど多分紫翠だろう。ヒスイの目から見てそれまでの彼は、なんというかすこし傲慢だったと思う。いや、傲慢というのは言葉が違うかもしれない。ただ、彼の持っている誇りが、それを持つのは少し早いんじゃないのかな、と思うことがあった。
実際、素人のヒスイの目から見ても才能はあると思う。小さい頃から工房に出入りしていたシスイは、同じ年頃の子供たちが玩具で遊ぶようにしてガラス加工の技術を覚えていった。
決してセロンがそれを強制していたわけではない。シスイは自分から望み、そして楽しみながらその技術を吸収していったのだ。
ヒスイに不恰好なガラスの指輪を作ってくれたのは、シスイが十歳のときだった。もう指に入らなくなってしまったその指輪は、今でも大切にしまってある。時々取り出してシスイをからかうのがヒスイの密かな楽しみだ。
そうやって早いうちから職人としての道を歩み始めていたシスイに、セロンが教えることがなくなるのもまた早かった。そうやってセロンから全てを教わり、自分の作品が店頭に並ぶようになると、シスイは「自分はもう一人前だ」と思うようになった。
実際、一人前と考えてもいいのだろう。ガラス職人として、人前に出しても恥ずかしくない作品を作れるようになったのだ。一つの区切りとして、一定の段階に至ったことは確かである。
ただ父であるセロンと比べると、どうしても何かが足りないと思ってしまう。漠然としたその“何か”が少し分った気がしたのは、セロンがガラスを魔道具素材として売り出すという方針を打ち出したときに、シスイが少し不満げな顔をしたときだ。
シスイは、自分の技術に誇りや自信がありすぎる。いい物を作れば必ず売れると妄信的に信じているように感じるのだ。
だが、ヒスイに言わせればそれは幻想である。いい物を作っても必ずしも売れるわけではないということは、工房の直営店の店番をしているヒスイのほうが良く知っている。どれだけ素晴らしい傑作であっても、いつまでも売れ残っていたりするのだ。
その点、工房を経営しているセロンはそのことを良くわきまえている。だからこそ魔道具素材という新たな分野に挑戦しようと思ったのだろう。
(それが二人の差、ね………)
そう考えるとすんなりと納得できた。けれど分ったとはいえ、そのことをシスイに話すことはできなかった。
弟であるシスイは聞き分けのない人間ではない。姉であるヒスイのひいき目も混じっているのかもしれないが、素直でいい子だと思う。けれどもガラス職人としてのプライドが高い。その分野に関して自分が何を言っても聞かないだろう。
「さもしいプライドだなぁ」
そんなシスイにイストが言った言葉がこれである。シスイがやっていたサンプル作りに端を発した一連の出来事とその顛末はヒスイも聞いている。というよりもイストがシスイを挑発したその場にヒスイもいた。
「いかにもイストがやりそうなことね………」
呆れながらそう思ったものである。なにを言ってもあの場の流れは止められなかったと分っているが、しかし仮に止められたとしてもヒスイは止めなかっただろう。分野は違えども同じ職人として、シスイがもう一回り成長するためのきっかけをイストが与えてくれるのではないか。そう思ったのだ。
そして、確かにイストはきっかけをシスイに与えたのだと思う。近頃、シスイは地元の商会を通して魔道具素材関連の本を買い漁り勉強している。分らないところはイストに聞いたりしているようだ。イストのほうも「畑違いなんだけど」といいながら答えられる範囲で答えている。
またイストが近いうちに大陸に戻ることを聞くと、ガラスの魔力伝導率を上げるためのアイディアを尋ねていた。いくつか教えてもらったようで、今度試してみると話していた。
確かにシスイは変わった。少し前までの彼なら、イストを頼るような真似はしなかっただろう。彼のプライドがそれを許さなかったはずだ。最近、目の色が変わってきたことにヒスイも気づいている。
変わったのは、なにもシスイだけではない。いや、外からの視線で眺めてみれば、セロンが経営している工房「紫雲」のほうが大きく変わったように見えるだろう。
イストが教えてくれた共振結晶体のおかげで、工房「紫雲」は魔ガラスの開発に短期間で成功した。少しずつではあるが魔ガラスは市場に出始めており、その評価はこれから決まるだろう。ただ手ごたえとしては上々である。
(そして私も変わっちゃったのね………)
そのことをヒスイは淡い、淡い痛みとともに自覚した。そしてその痛みの名前を無視できるほど、ヒスイは鈍感にはなれなかった。
その痛みの名前は、きっと「恋」というのだろう。
(そっか………。私、イストのこと好きになっちゃったんだ………)
いつ好きになったのか、と問われてもはっきりとは分らない。一つ屋根の下で暮らすうちに、いつの間にか惹かれていったのだろう。
(あ、でもたぶん、あの時………)
あの時。泣きそうなイストの顔を見た、あの時。ヒスイの中でイストの存在が大きくなったのはあの月夜のことかもしれない。
傍若無人で誰に対しても物怖じしないイスト。その彼の中に潜む傷と闇を、ほんの少しだろうけれども垣間見てしまったあの夜。
救ってあげると手を差し出したわけではない。癒してあげると思い上がったわけではない。支えてあげるとおせっかいを焼いたわけでもない。
ただ、自分で自分を傷つけるようなことはして欲しくなかった。今思えば、それが恋に落ちた証だったのかもしれない。
(でもこの想いは伝えられない。伝えてはいけない)
ヒスイにとって、これは初恋ではない。彼女はもう、恋に恋するような乙女チックな少女ではないのだ。
イストは近いうちに大陸に帰り、旅から旅への生活に戻る。そしてヒスイには、シラクサでの生活を捨てて彼の後を追うという無謀を冒すことはできそうにない。
「終わりはないな。旅それ自体が目的だから」
かつて「いつまで旅を続けるの?」と聞いたヒスイに、イストはそう答えた。終わりとアテのない旅に付き合えるほど、自分は強くないとヒスイは知っている。だから、その上で自分の想いを告白するということは、イストにシラクサに残ってくれと頼むことを意味している。
(困って、くれるかしら………?)
その場面を想像する。「ごめん無理」とバッサリ切り捨てられてしまった。妄想の中でさえうまくいかないことに苦笑する。それでもイストのことを想えば、胸が痛くも温かくなる。
(惚れた弱み、ね………)
触れれば痛いと分っている。けれども触れずにはいられない、甘美で廃退的な恋の痛み。その痛みを、ヒスイはまるで宝物のように撫で続けた。
**********
イストたちがシラクサから出航する日が二日後に迫った。実際に船が出るかは天候次第だが、おそらく予定通りに船を出せるだろうというと船乗りたちは予想している。
その日、セロンは自宅の庭でイストたちの送別会を開いた。庭にテーブルを出してご馳走を並べ、工房の職人たちや近所の人々も招いてささやかながら宴を催したのだ。
送別会は盛況だった。まだ日が高い時間帯だったが、特別な日ということでお酒も振舞われている。シャロンやヒスイが腕を振るい、ニーナも手伝った料理の数々は好評で、ともすれば足りなくなってしまうかもしれない。
ヒスイはまた送別会の席で胡弓を弾いたりもした。普段は一人で弾くことが多いのだが、聞いてくれる人が沢山いるところで弾くのも楽しい。なにより、彼女の演奏があると宴の席が上品になる。
送別会でちょっとした異変が起こったのは、宴が始まってから一時間ほど経ったときのことだった。空が突然曇り始めたのである。
「お~い、雨が降るぞ。料理を家の中に入れろ」
通り雨である。短時間のうちに激しく降るのが特徴で、シラクサではたびたび起こる。みんなで協力して庭に出していたテーブルや料理をあわただしく家の中に入れると、間一髪のタイミングで激しい雨が降り始めた。
「あ~あ、タイミングが悪いな」
工房で働く職人の一人がぼやく。とはいえその言葉は存外明るく、予定外のハプニングを楽しんでいるようにも感じられた。突然雨に降られることはシラクサでは良くあるし、何より宴は家の中でも十分に楽しめる。
さて飲みなおすかといって部屋に入っていく人々を尻目に、音を立てながら降る雨をヒスイは眺めていた。降り続く雨は、どこか哀愁をさそう。
寂しいのだろうか、とヒスイは思った。いや、寂しいわけではない。では悲しいのだろうか。いや、悲しいわけでもない。
ただただ、空虚で空漠だ。突然空っぽになってしまったように思える心の奥で、ただ恋の痛みだけが声高に自己主張をしている。
「イスト、踊ろう」
「はい?」
酔っているのか、イストが間抜けな声を出す。かまわず彼の手を取ってヒスイは雨の降る庭に飛び出した。
イストを振り回すようにしてヒスイは踊る。イストも最初は驚いていたようだったが、それでも苦笑しながらヒスイに合わせて踊ってくれた。
雨に濡れながら二人は踊る。ヒスイは思う。今自分は泣いているのだろうか、それとも笑っているのだろうか。泣いていてもイストは気づかないだろう。涙は雨に混じってしまうから。
空っぽの心を雨で満たそうとして、ヒスイは雨に濡れ続けた。その奥底にある恋心を沈めてしまうために。
二日後、予定通りイストたちは大陸に向けて出航した。もう一度会うことは恐らくないのだろう。見送る笑顔の下で、ヒスイはそう覚悟している。けれども二人は再び出合うことになるのだが、それはまた別のお話。
―第九話 完―
というわけで第九話硝子の島、どうだったでしょうか。
少し短かったような気もしますが、新月的には上手くまとめる事ができたと思っています。
この第九話までで、大体必要なピースは揃えたつもりです。次の話ではそのピースを組み合わせていきたいと思います。
ところでちょっと悩みが。
次の話を「最終話」にするか「第十話」にするか、ちょっと悩んでいます。
さて、どっちにしようかな。