第九話 硝子の島⑩
「お前なんぞ及びもつかないガラス加工の技術を見せてやるよ」
高笑いしながら、イストは紫翠に対してそう宣言した。ただ、イストは魔道具職人でありガラス職人ではない。だから彼の言う「ガラス加工の技術」とは魔道具を用いたものであり、その魔道具をイストはつくることになる。シスイを挑発したその日から、イストは魔道具の製作に取り掛かった。
共振結晶体のレポートを提出した後、イストは個々の“四つの法”の解読と四つの術式の相互関係性の解明に全力を挙げていた。しかし、個々の解読はともかくとしてもその関係性を探るのは難航していた。イスト曰く「頭がゆだる」ほどに煮詰まっていたところに降って湧いたのが今回の騒動である。
行き詰っていたイストは「息抜きを兼ねて」と言い訳してこれに飛び乗った。そして嬉々としながら、いやともすれば少し暴走気味に魔道具の作成に取り掛かったのである。彼の頭脳はそれにストップをかけることなく、むしろ積極的に同調して思いつきのアイディアを論理立った術式にしていく。シスイほどではないにしろ、イストとて成果の上がらない作業に嫌気が差し始めていたのだ。自重する気などなかった。
「ガラス欲しいんだけど、いい?」
軽い調子でそう言いながらイストが工房「紫雲」にやってきたのは、彼がシスイとやりあってから四日後のことであった。共振結晶体のこともあり何度か工房に出入りしているイストは、すでに「紫雲」の職人たちとは顔見知りである。すぐに何人かの職人が気づいて、中に入ってこいと手招きした。
「何やら面白いことをやってるらしいな」
工房の職人たちはイストがシスイにけしかけた勝負(?)のことはもちろん知っている。もしもイストがガラス職人であったならば彼の言葉に少なからず反感を覚えたのだろうが、彼は魔道具職人である。今は彼が言うところの、自分たちが「及びもつかない」技術というのがどんなものなのか、それに対する興味のほうが強かった。
職人としての、そういう器量の大きい態度はイストも嫌いではない。自分の技術を馬鹿にされて腹を立てない職人はいないだろうが、それでも相手の技術に興味を持つのは大切だろう。そういう職人は、きっと年齢なんて関係なく成長できる。少なくともイスト・ヴァーレという職人はそう思っている。
「まあね。近いうちに驚かせてやれると思うよ」
少し冗談めかしてそう言う。それを聞いた「紫雲」の職人は「期待している」といいながらイストの背中をバンバンと叩き大笑いした。
「それで、どんなガラスが欲しいんだ?」
「透明な板状のガラスってある?」
「大きさは?」
「手のひら二つ分くらい」
できれば二つもらえると嬉しい、とイストがいうとその職人は「少し待ってろ」と言って工房の奥へ探しに行った。手持ち無沙汰になったイストが工房内を見渡していると、隅で黙々と仕事をしているシスイを見つけた。
イストにボロクソに言われたあの日以来、シスイは文句を言わずにサンプル作りを続けている。あの時以降、イストとシスイはお互いに言葉を交わしていない。どちらかというとシスイが一方的にイストを避けているような状況で、シャロンや翡翠がたしなめているらしいが今のところ状況は改善していない。もっともイストの図太い神経はその程度のことでは傷つかず、むしろ弟子であるニーナのほうが胃の痛い思いをしていた。
ただ、イストという人間の存在は気に入らないが、イストの言葉には少し考えるところがあったらしく、こうして黙々とサンプルを作っているわけである。
(目の色変えちゃってまぁ………)
内心でイストは生温かく笑った。どういう経緯にしろサンプルを作る目的が分ったのだ。自分で気づけなかった不甲斐なさの克服も兼ねて、シスイはサンプルを作りそのデータをまとめる作業に没頭していた。
ただ、シスイの歩む道のりは長く険しいだろう。例えば三種類の海藻灰のうち二種類を用い、その比率を十段階で区切って変えていったとして、作るサンプルの数は二七個にもなる(10:0の比率は除外してある)。
これがさらに三種類の海藻灰全てを用い、その比率を変えていくとなるとちょっとすぐには計算できないくらいの数になる。
しかもそれで終わりではないのだ。こうして魔力伝導率が高くなる配合比率を見つけたら、今度はさらに比率を細かくして詳細なデータを取っていくことになるだろう。そしてそれが終わったならば伝導率を上げるための、また別の方法を考えなければならない。きっとガラス職人としての歩みを止めるその時まで、シスイは頭を悩ませ続けていくのだろう。
その上、伝導率の高いガラスの開発というのは、それこそ何百年にもわたって研究者たちが取り組んできて、それでも目立った成果の出ていない分野だ。共振結晶体があるから、伝導率を1.5以上にする必要はないが、それでも沢山の難題が待ち構えていると容易に想像がつく。
職人たちはこういう果てのない階段を上り続ける。それはなにもガラス職人に限った話ではない。イストやオーヴァも分野は違えどやはり果ての無い高みを目指して階段を昇っている。ニーナもその階段を上り始めた。刀鍛冶のレスカだって、日々腕を上げようともがいている。
(ま、がんばれ)
心の中で無責任にエールを送る。他人の成長に責任を持てる人間など誰もいない。動くのはいつだって本人だ。
シスイの意思とはまったく関係のないところで一段落つけたちょうどその時、職人の一人がイストのところに布に包まったガラスの板を二枚持ってきた。縦二十センチ、横三十センチ、厚さは一センチくらいだろうか。布から出してみると透明度も問題ない。
「ん、ありがと。いくら?」
「バ~カ、金なんかいらねぇよ」
その代わり面白いものを期待してるぞ、とその職人は豪快に笑いイストの背中を強く叩いた。わりと痛かった。
**********
イストがガラスの板を「紫雲」に求めに来た日から二日後、彼はまたふらりと工房にやってきた。気負いや興奮は無く、いつもと同じ調子だ。
「“面白いもの”、出来たぞ」
そういってイストは小包を掲げて見せた。「紫雲」の職人たちは仕事の手を止めてイストのところに集まり始める。それを止める人間はいない。何しろ工房主であるセロンが一番楽しそうにしている。事の発端を作ったシスイも、集団の一番外側にいた。
イストから小包を受け取る。どうやら布を巻かれているのはガラスの板のようだ。イストがそれを求めたことは、セロンも工房の職人から聞いている。
(さて、お手並み拝見………)
布の中から、それを取り出す。それを見た瞬間、セロンは自分の目を疑った。数瞬それを見続けて、それが目の錯覚ではないことが分ると今度は驚愕がこみ上げてくる。彼の持ついかなる技術や知識をもってしても、どうやってそれを作り上げたのかさっぱり分らないのだ。
それはガラスの板だった。ガラスの板に、白い線で港の風景が描かれている。ここまではいい。問題は、絵が描かれている位置だ。
その絵は、なんとガラスの中に描かれていた。
ガラスの表面ではない。ちょうどガラスの板の真ん中にその絵は描かれているのである。もしかしたら二枚のガラスの板を重ねているのではと思い側面を見るが、そのような痕跡は見当たらない。つまりイストは、なんらかの方法でガラスの板の内部、つまり直接には手で触れられない場所に、しかし直接加工を施したのだ。
(一体、どうやって………)
少し呆然としながら、セロンは港の風景が描かれたガラス板を他の職人たちに手渡す。すると、すぐさま彼らの間にどよめきが起こった。
未知の技術に職人たちは興奮する。イストは普通のガラス職人が「及びもつかない」技術を見せてやると豪語していたが、たしかにガラスの内部に直接加工を施すことなどここにいるガラス職人たちには不可能だ。一体どうやれば可能なのか、職人たちはアイディアを出し合うが有効そうなものは出ない。
「イスト君、そろそろ種明かしをしてくれないか?」
職人たちが興奮気味に意見を交わす様子を、得意げにニヤニヤしながら見ていたイストにセロンが苦笑気味にそういう。
「おやおや、もう降参か?」
「ああ、さっぱり分らん」
芝居がかった仕草でセロンは両手をあげた。もちろん何かしらの魔道具を使ったのだろう、ということは分る。とはいえどういう原理で、なにをどうすればこんな加工ができるのか、さっぱり見当がつかない。
「こいつを使ったのさ」
そういってイストが取り出したのは、一本の万年筆だった。ちなみにシラクサでは毛を束ねた筆が主流で、万年筆を使う人間はそう多くない。
イストが取り出した万年筆は軸胴部が光沢のある黒で、凝った細工の彫られたペン先は銀色に輝いている。合成石と思われる小さな石が軸胴部に取り付けられていて、その万年筆が魔道具であることを無言のうちに主張していた。
――――魔道具「蜃気楼の筆」
それがこの魔道具の名前だとイストは言った。ガラスの内部に直接加工を施すための、見えはするが触れることのできない絵を描くための魔道具だ。
「それで、この魔道具をどう使うんだ?」
「少し魔力を込めてみろ」
言われたとおり魔力を込めてみると、工房の床に小さな赤いシミが一つできた。万年筆を動かすと、そのシミも動く。
「見た目では分らないけど、今その魔道具からは二種類の光ができている」
波長が異なる二種類の光である。まず基本となる一つ目の光を利用してガラス板の厚さを測定する。次に、ガラス板の厚さの半分のところ、つまりガラス板の真ん中で二つの光波が重なり合って強めあうように、二つ目の光の波長を調整する。すると、強められた一点において光波の力が強くなり、そのエネルギーがガラスに傷を付けるのである。その傷が白い点として、連続していれば白い線として見えるのだ。
「とは言っても、使い方としては魔力を込めながら普通の万年筆と同じように使うだけなんだけどな」
説明を聞いても理解できているかどうか怪しい職人たちに、イストは笑いながらそういった。そして彼らにとってはそちらが重用だったようだ。
「な、なあ!使ってみていいか!?」
すでにガラスの板も用意してあり、準備のいいことである。「どうぞどうぞ」とイストが許可を出すと、職人たちは我先にとガラス板にためし描きをしていく。
「思ったよりも引っ掛からずに描けるな………」
ためし描きをしていた職人の一人が感心したようにそう漏らす。「蜃気楼の筆」のペン先は聖銀製だ。実際にインクを通すわけではないので、実際の万年筆よりもペン先は丸く、そして滑らかに仕上げてある。
「思い通りには描けるが、自動で絵を描けるわけじゃないんだな」
「そ。絵は使う人間の腕次第」
「あの港の絵はイストが自分で描いたのか?」
「いや、人に頼んで描いてもらった」
オレに絵心を期待するな、と言いながらイストが偉そうにふんぞり返ると、職人たちの間に笑いが起こった。
「………違う………」
職人たちの笑い声が響き渡る工房内で、ポツリと呟かれたはずのその言葉はしかし妙にはっきりと聞こえた。イストを含めた職人たちの視線が、自然と呟いた本人であるシスイのほうへ向かう。
「なにが違うって言うんだ?」
ニヤニヤと面白そうに笑いながら、イストはシスイに問いかける。その挑発的な視線を避けるように、シスイは顔を俯かせた。
「………こんなの、ガラス加工の技術じゃない」
たしかに「蜃気楼の筆」は魔道具としては優れているのかもしれない。けれどもガラス加工の分野で優れているとは認めたくない。現に「蜃気楼の筆」さえあれば、誰だって同じことができるではないか。
「ガラス加工ってのはもっとこう、ガラス自体を変形させて色々な形を作ったり、そういうのを言うんであって、これは違うと思う………」
最後のほうは尻すぼみになりながら、シスイはそう主張した。イストのほうは相変わらず面白そうに笑っているが、その目つきが若干鋭くなっている。
「だから?だから自分は技術力で負けてない?だから自分は間違ってない?だから自分は正しい?」
小馬鹿にしたような口調でイストは矢継ぎ早に言葉を浴びせる。シスイが何も言い返せないのを見ると、ふとイストは目つきを緩め苦笑した。
「さもしいプライドだなぁ」
「………くっ!」
逃げるようにしてシスイは自分の作業に戻っていった。それを合図にしたかのように、職人たちも自分の仕事に戻っていった。何人かの職人はイストに「面白かったぞ」と声をかけていく。
「………憎まれ役をやらせてしまって、すまなかった」
職人たちが解散し周りに誰もいなくなると、セロンがポツリとそういった。彼の視線の先ではシスイが一心不乱にサンプルを作っている。
「これであいつは職人としてもっと大きくなれる」
「オレは魔道具を作っただけ。面白かったから満足してるよ」
イストは肩をすくめてそう言った。実際、今回のことはイストの側からしてみればただの息抜きだ。だたその“息抜き”からシスイが何かを感じ取るのは勝手で、それを糧に職人として成長したというのであれば、それは全て彼自身の手柄だろう。
「それはそうと、イスト君。あの万年筆型の魔道具のことだが………」
セロンの声の調子が少し変わる。加えて目つきも子供を見守るものから商人のそれに早や変わりしている。
「ん?気に入ったんならやるよ。どうせオレが持ってても使わないし」
セロンにしてみればあの魔道具「蜃気楼の筆」は欲しかろう。この魔道具が一本あれば、魔ガラスとはまた違う新しい商品が作れるのだ。板状だから船で輸出した際に割れてしまうことも少ないだろうし、「蜃気楼の筆」がなければ同じものは作れない。イストがこの魔道具をばら撒かない限りは市場を独占できる。そしてなによりもこれは売れるとセロンの工房主としての直感が告げている。
「そうか。では後五、六本同じものを頼む」
「………やっぱりアンタはヒスイの父親だよ」
堂々と無茶な要求をするセロンに、イストは呆れたように肩をすくめる。ただ、その口元は楽しそうに笑っていた。
**********
音は、無い。無音の世界で、ただ炎だけがまるで生き物のように蠢いている。視線を下に向けると、小さな骸が幾つも転がっている。ほんの数時間前までは元気に走り回っていたというのに、あの子達が起き上がって遊び、泣いて笑うことはこの先もはや無い。
赤い、赤い炎。赤い、悪夢。
何か追われるようにして暗い森の中へ走りこむ。逃げなければ、逃げなければ逃げなければ。その気持ちだけが肥大化し恐怖を煽る。
森の中を走っていると、何かに足を取られ視界が回転した。体を起こし周りを見渡すと、小さな兄弟たちの骸が転がっている。
――――ヒッ!
漏らしたはずの声は、しかし耳には届かない。そのことに違和感を覚えるよりも前に、体は勝手に後ずさり血を流すその小さな体から離れようとする。小さな瞳に移る自分は、怯えた情けない顔をしていた。
赤い血を一筋流している小さな口が、わずかに動く。
――――助けて。
そう、言いたかったのだろうか。
思わず手を伸ばしたその矢先、小さな瞳から命の光が消えていく。
――――絶叫。
声の限りに叫ぶ。しかし音は聞こえない。喉が痛くなるほどに叫んでも、やはりこの世界に音は響かない。
そこで、目が覚めた。
体が熱い。まるで激しい運動をした後のようである。着ているものは汗を吸ったのか少し湿っぽくなっており、背中にもつめたい汗を感じる。
体を起こす。月が出ているのか、部屋の中は妙に青白い。そこでようやくイストは、自分が呼吸を乱し肩で息をしていることに気がついた。
「悪夢、か………」
油断したな、とそう思った。ここ最近見ていなかったものだから、油断していた。昼間、工房「紫雲」で新しい魔道具の「蜃気楼の筆」を披露し、みんなの反応がよかったからすこし調子に乗っていたのかもしれない。頭を振って少し自嘲気味に笑うと、ようやく気分が落ち着いてきた。
とはいえ、寝なおそうという気にはならない。
「酒でも飲むか………」
いつものことだ。悪夢を見た夜は、酒を飲みながら朝日が昇るのを待つしかない。朝が来れば、またいつもの日常が始まる。あの日の少年は朝露と一緒に消えて、魔道具職人の自分に戻れる。
だから、仕方がないのだろう。
(あの時、逃げていなければ………)
そう考えてしまうのは。もっと別の未来があったんじゃないのか、そう考えてしまうのは。
「埒もない」
分っている。そんなことは分っているのだ。分っているのに考えてしまう。だからなおのこと鬱になる。
「ああ、もう………」
早く酒を飲もう。酒を飲んで誤魔化そう。きっと美味い酒ではないのだろうけれど。
**********
庭に面した縁側で、柱にもたれかかりながらシラクサ酒を喉に流し込む。月明かりに照らされた庭は幻想的で、昼間とはまた違った趣を見せている。
(少し、明るすぎる………)
お猪口に注いだシラクサ酒を飲み干しながら、イストは心の中で愚痴る。明るい光は何もかも暴いていくかのようで鬱陶しい。情けない自分を闇の中に隠しておきたいと思うのは我侭だろうか。
(どうでもいい………)
酔いがまわってきた。鈍くなった頭は余計な思考を放棄し、イストはただぼんやりと庭を眺める。静かな夜だが、かすかな音は絶えない。それが、妙に優しく感じた。
「どうしたの?こんな時間に」
どれだけ庭を眺めていたのだろうか。声のしたほうを見ると、寝巻き姿のヒスイがいた。月の光に照らされたからなのか、真っ直ぐに伸びた綺麗な黒い髪の毛に星が散っているように見える。肌はさらに白さを増したようで、黒い髪の毛とのコントラストがひどく印象的だ。
情けないところを見られたな、と思い苦笑する。それでもどうにかしようという気にならない。体は脱力しているし、心は脱力させている。そこに力を入れようという気にはならなかった。
「なにか、あったの?」
うつろに笑うだけで答えようとしてないイストを心配そうに見つめながら、ヒスイが言葉をかけてくる。そういえば、誰かに心配されたのはいつぶりだろうか。
(ああ、現実じゃない………)
酒が入っているせいもあるのだろう。ひどく現実感が希薄だ。その希薄な現実に、むしろイストは積極的に思考を堕とした。
(現実じゃないなら、話してもいいよな………?)
そんな甘い思考が、濁った頭をよぎる。
「イスト?」
「ああ、悪い。少し嫌な夢を見てな………」
そう言ってから「しまった」と思った。しかしその一方で「どうでもいい」とも思っている。
「………嫌な、夢?」
「そ。オレが孤児院の出身で、そこが盗賊に襲われたってことは話したよな………?」
話の流れに身を任せる。頭は鈍いくせに言葉は妙にはっきりとしており、それがなんだか可笑しかった。
「その時の夢をな、何度も見るんだ………」
もう十年以上の付き合いだよ、とイストは笑った。笑ったつもりだったが、うまく笑えていたのか自信がない。ヒスイは静かに腰を下ろすと、何も言わず話を聞いてくれる。
「夢自体は、別にいいんだ」
夢を見ることは、自分の思い通りにはならない。確かに見ていい気はしないが、自分ではどうしようないことで悩んでいても、それこそ仕方がない。
「たださ、見た後にどうしようないこと考えて、そんで鬱になって酒に逃げて………」
そこまで言ったイストはヒスイから視線を逸らし、空になっていたお猪口にシラクサ酒を注ぐ。そしてそれを口元に運び、一気に飲み干す。
「なんとか、なんないもんかねぇ………」
お猪口を唇からはなし、ため息混じりにそういう。言ってから、愚痴ってしまったな、と心の中で悔やむ。すまない、と謝ろうとしたらそれより早くヒスイが口を開いた。
「………仕方ないものは、仕方ないよ」
どうしようないこと考えるのも、鬱になるのもお酒に逃げちゃうのも、みんな仕方がない。ヒスイは柔らかい口調でそういった。
「だからね。できること、しましょ?」
「………例えば?」
「例えば………、そう、お月見とか」
お月見、と言われて流石にイストも目を丸くした。その反応が嬉しかったのか、ヒスイは軽く手を叩いて微笑んだ。
「だって、こんなに月が綺麗なのよ?」
イストは、笑った。額に手を当て、喉の奥を鳴らすようにして笑った。
「新月だったらどうすんだよ?」
「あら新月だっていいじゃない。きっと星が綺麗よ」
ヒスイのその、妙に自信たっぷりな言葉に、イストはまた笑った。
なんとなく、分ったのだ。ヒスイは自分を慰めようとしているわけではない。ただ悪夢を見たというその事実に、新しい意味を与えようとしている。これまでイストが思いもしなかったような意味を、だ。
「悪夢を乗り越えられなくたっていいじゃない」
そう、言われた気がする。
「………一杯、付き合ってくれないか?」
空になったお猪口をヒスイに差し出す。ヒスイがそれを受け取ると、イストはそこになみなみとシラクサ酒を注いだ。注がれたお酒を、ヒスイは一口で飲み干した。
「お注ぎしますね」
空になったお猪口をヒスイから受け取ると、今度は彼女がシラクサ酒を注いでくれる。イストもまた、それを一口で飲み干した。
「………美味いなぁ」
自然と、そう思えた。悪夢を見た夜に酒を飲んで、美味いと思えたのは初めてかもしれない。
「美人に注いでもらうと美味しいでしょ?」
「ああ、まったくだ」
得意げに笑うヒスイに、イストは苦笑気味に答える。それから視線を空に移す。そこには見事な満月が浮かんでいた。
「………いい夜だ………」
ポツリと呟く。気づくとヒスイが胡弓を奏でていた。悠々とした川の流れのような胡弓の音を聞きながら、お猪口にシラクサ酒を注ぐ。酒の水面に月を浮かべ、それを一息で飲み干す。
「いい夜だ、本当に」
悪夢を克服したわけではない。きっとこの先も悪夢を見て跳ね起きる夜があるのだろう。だけどそのたびにこの夜のことを思い出すのだ。それはたぶん、とても幸せなことではないだろうか。